Vitelli

ヴィテッリ家

アレッサンドロ・ヴィテッリ Alessandro Vitelli

生没
1500年~1554年5月
出身
チッタ・ディ・カステッロ
没地
チテルナ
パオロ・ヴィテッリ
ジローラマ・オルシーニ
アンジェラ・デ・ロッシ
ヴィテロッツォ・ヴィテッリ
アルフォンソ・ヴィテッリ
ヴィンチェンツォ・ヴィテッリ
ジューリオ・ヴィテッリ
ヤコポ・ヴィテッリ
チェーザレ・ヴィテッリ
ドラリーチェ・ヴィテッリ
アンテア・ヴィテッリ
ベアトリーチェ・ヴィテッリ
概要

 アレッサンドロ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。

在職

 フィレンツェ軍総司令官

年表

1537年1月7日
チッタ・ディ・カステッロにあった自身が指揮するスペイン軍守備隊に、インノチェンツォ・チーボから急ぎフィレンツェ市内に戻るよう指示を受ける。
1537年1月8日
スペイン軍守備隊がフィレンツェ市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。
1537年1月10日
フォルテッツァ・ダ・バッソを占拠し、メディチ宮殿から奪った財宝を持ってインノチェンツォ・チーボ及びアレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマらと籠る。
1537年8月1日
午前2時フィレンツェを発ち未明にプラートに到着したスペイン軍、直ちにモンテムルロに向かい、亡命者たちの軍を急襲して壊滅させ、フィリッポ・ストロッツィバッチオ・ヴァローリ両父子、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィLudovico Rucellaiら指揮者をことごとく捕虜とする。
正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。
夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。
1537年8月3~4日
捕虜の内Ludovico Rucellaiら7名、衆人の前で斬首ないし絞首される。
フィリッポ・ストロッツィをフォルテッツァ・ダ・バッソに幽閉。カール5世の配下に入り、コジモ1世・デ・メディチの手を離れる。
1540年5月8日
ピエル・ルイジ・ファルネーゼジローラモ・オルシーニらと共に指揮するパウルス3世教皇軍、ペルージア守備軍との衝突、戦闘、始まる。
1547年9月16日
この日までに、パウルス3世の命で軍をパルマに急派。
1554年5月
チテルナにて、死(1566年)。

チェーザレ・ボルジア数

 母ジローラマ・オルシーニ→父ロベルト・オルシーニ→きょうだいエレーナ・オルシーニ→子ルドヴィーコ・ミリオラーティ→妻アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジューリオ・ヴィテッリ Giulio Vitelli

生没
1458年?~1530年
出身
チッタ・ディ・カステッロ
没地
チッタ・ディ・カステッロ
ニッコロ・ヴィテッリ
ペンテジーレア・アッボッカテッリ
概要

 ジューリオ・ヴィテッリは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、庶子、聖職者、傭兵隊長。

在位

 チッタ・ディ・カステッロ司教 1499年~1503年

年表

1491年
チッタ・ディ・カステッロ大聖堂参事会長に指名される。
1499年4月17日
教皇アレクサンデル6世により、チッタ・ディ・カステッロ司教に任命される。
1502年
アレッツォ反乱時、アレクサンデル6世により派遣され、きょうだいヴィテロッツォ・ヴィテッリと共に歩兵隊を指揮。
マジョーネの陰謀の間、ヴィテロッツォ・ヴィテッリと行動を共にする。
1503年1月
1503年
1503年8月4日
チッタ・ディ・カステッロ司教の地位を剥奪される。
1503年
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロのモントーネ攻囲に参加するが、ジャンパオロ・バリオーニ干渉後中断を余儀なくされる。
フィレンツェ共和国に雇用されるのを拒絶し、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロのもとを離れず、ディオニジ・ナルディと共にファエンツァを攻囲。

別表記

 ジュリオ

在位

 チッタ・ディ・カステッロ司教 1499年4月17日~1503年8月4日
  次代:アントーニオ・チョッキ・デル・モンテ

外部リンク

 Condottieri di ventura
 GCatholic.org
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『The Life of Cesare Borgia

ニッコロ・ヴィテッリ Niccolò Vitelli

生没
1414年~1486年
ジョヴァンニ・ヴィテッリ
マッダレーナ
ペンテジーレア・アッボッカテッリ
ジョヴァンニ・ヴィテッリ
ヴィテロッツォ・ヴィテッリ
ジューリオ・ヴィテッリ
カミッロ・ヴィテッリ
パオロ・ヴィテッリ
エリーザ・ヴィテッリ
マッダレーナ・ヴィテッリ
アンナ・ヴィテッリ
概要

 ニッコロ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。

年表

1474年6月初め~半ば
フィレンツェ領に接した小市チッタ・ディ・カステッロを自分の叙任なく支配している(1460年~)ニッコロ・ヴィテッリ(1414年~1486年)を排しようと企図して甥・枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ配下の軍を向けたシクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらのニッコロ・ヴィテッリ支援にあい、企図の実現に難渋。
1474年8月21日
1474年8月末

肖像

 ニッコロ・ヴィテッリの肖像

別表記

 メッセル・ニッコロ・ヴィッテッリ・ダ・カステッロ、ニッコロー・ヴィッテリ

外部リンク

 Condottieri di ventura
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 Genealogy
 Google Books
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

パオロ・ヴィテッリ Paolo Vitelli

生没
1461年~1499年10月1日
出身
チッタ・ディ・カステッロ
没地
フィレンツェ
ニッコロ・ヴィテッリ
ペンテジーレア・アッボッカテッリ
ジローラマ・オルシーニ
アレッサンドロ・ヴィテッリ
ニッコロ・ヴィテッリ
キアッピーノ・ヴィテッリ
コルネリア・ヴィテッリ
ベアトリーチェ・ヴィテッリ
ジューリア・ヴィテッリ
概要

 パオロ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。ピサ戦役におけるフィレンツェ軍総指揮官であったが、反逆罪によって、1499年10月1日、フィレンツェに呼び戻されて処刑された。

年表

1498年5月
フィレンツェ共和国、ルドヴィーコ・イル・モーロの勧めに従い、かつルイ12世の同意を得、フランスに滞在中のパオロ・ヴィテッリ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ兄弟を傭兵隊長として雇うことを決定。
1498年6月初め
パオロ・ヴィテッリが軍の総指揮官として着任し、シニョーリア広場で大歓迎集会が開かれる。
1498年6月6日
パオロ・ヴィテッリ、ピサ戦線に出陣。
1498年8月
パオロ・ヴィテッリ軍の戦績が期待され程に上がらず、フィレンツェ市内に彼に対する不満が生じる。
1498年
パオロ・ヴィテッリの主力軍を、ヴェネツィア軍の進撃を阻止するためカセンティーノに移動。ピサ戦線には小軍のみが残り、事実上ピサ攻撃を中断。
1499年2月半ば
この頃(?)病に陥ったヴェネツィア軍の指揮官グイドバルド・ダ・モンテフェルトロから自身と自身の軍隊の安全を保障するよう要請されたパオロ・ヴィテッリは、直ちにこれを受諾。
パオロ・ヴィテッリのこの対応が伝えられるや、フィレンツェ市内に彼に対する不満また生ずる。さらに彼がピエロ・イル・ファトゥオジュリアーノ・デ・メディチ兄弟と接触しているとの噂が広まり、彼に対する怒りが芽生える。
1499年6月26日
パオロ・ヴィテッリ指揮の傭兵軍、パオロ・ヴィテッリ自身の発案によりピサ近郊カッシーナを占領。
1499年8月1~10日
パオロ・ヴィテッリ指揮の傭兵軍、ピサを猛攻撃し、1499年8月10日陥落直前の追い込む。しかし状況判断を誤って兵を引き、ピサを立ち直らせる。以後、シニョーリアの督促にも拘らず戦闘を再開せず。
1499年9月14/15日
パオロ・ヴィテッリ、ピサの包囲を解いて撤兵。ピサ制圧に失敗。
1499年9月末~10月1日
パオロ・ヴィテッリ及びヴィテロッツォ・ヴィテッリ兄弟を裏切りの廉で逮捕しようとするがヴィテロッツォ・ヴィテッリは逃亡し、1499年9月28日パオロ・ヴィテッリのみを逮捕。フィレンツェに護送し、1499年9月30日拷問にかけ、何の自白も得ぬまま翌1499年10月1日処刑。

チェーザレ・ボルジア数

 妻ジローラマ・オルシーニ→父ロベルト・オルシーニ→きょうだいエレーナ・オルシーニ→子ルドヴィーコ・ミリオラーティ→妻アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

別表記

 パーウロ、パーゴロ、パーオロ・ヴィテリ

外部リンク

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 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『The Life of Cesare Borgia

ジューリア・ヴィテッリ Giulia Vitelli

パオロ・ヴィテッリ
ジェンティーレ・バリオーニ

ジョヴァンニ・ヴィテッリ Giovanni Vitelli

生没
~1487年6月
ニッコロ・ヴィテッリ
ペンテジーレア・アッボッカテッリ
マリーア・アントーニア・ウベルティーニ
ジョヴァンニ3世・ヴィテッリ
シモネット・ヴィテッリ
概要

 ジョヴァンニ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。

外部リンク

 Condottieri di ventura

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『イタリア史』

カミッロ・ヴィテッリ Camillo Vitelli

生没
1459年頃~1496年5月
出身
チッタ・ディ・カステッロ
没地
チルチェッロ
ニッコロ・ヴィテッリ
ペンテジーレア・アッボッカテッリ
ルクレツィア・バリオーニ
ヴィテッロ・ヴィテッリ
ニッコロ2世・ヴィテッリ
フランチェスカ・ヴィテッリ
概要

 カミッロ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。

在位

 グラヴィーナ公

肖像

 カミッロ・ヴィテッリの肖像

外部リンク

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 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年2月21日