ニッコロ・ヴィテッリ Niccolò Vitelli
- 生没
- 1414年~1486年
- 父
- ジョヴァンニ・ヴィテッリ
- 母
- マッダレーナ
- 妻
- ペンテジーレア・アッボッカテッリ
- 子
- ジョヴァンニ・ヴィテッリ
ヴィテロッツォ・ヴィテッリ
ジューリオ・ヴィテッリ
カミッロ・ヴィテッリ
パオロ・ヴィテッリ
エリーザ・ヴィテッリ
マッダレーナ・ヴィテッリ
アンナ・ヴィテッリ
概要
ニッコロ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。
年表
1474年6月初め~半ば
フィレンツェ領に接した小市チッタ・ディ・カステッロを自分の叙任なく支配している(1460年~)ニッコロ・ヴィテッリ(1414年~1486年)を排しようと企図して甥・枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ配下の軍を向けたシクストゥス4世、ロレンツォ・イル・マニーフィコやガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらのニッコロ・ヴィテッリ支援にあい、企図の実現に難渋。
1474年8月21日
ロレンツォ・イル・マニーフィコやガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらへの対抗策を模索するシクストゥス4世、この日ウルビーノ伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロを公に叙任し、2日後ニッコロ・ヴィテッリ排除の軍の指揮官に任命。
1474年8月末
シクストゥス4世、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの令名と威勢によりニッコロ・ヴィテッリをチッタ・ディ・カステッロからようやく排除。しかしロレンツォ・イル・マニーフィコらを支援者とするニッコロ・ヴィテッリを厳罰には処せず。ニッコロ・ヴィテッリはフィレンツェに保護される。
肖像
別表記
メッセル・ニッコロ・ヴィッテッリ・ダ・カステッロ、ニッコロー・ヴィッテリ
外部リンク
Condottieri di ventura
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Genealogy
Google Books
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
ジョヴァンニ・ヴィテッリ Giovanni Vitelli
- 生没
- 1???年~1487年6月
- 父
- ニッコロ・ヴィテッリ
- 母
- ペンテジーレア・アッボッカテッリ
- 妻
- マリーア・アントーニア・ウベルティーニ
- 子
- ジョヴァンニ3世・ヴィテッリ
シモネット・ヴィテッリ
概要
ジョヴァンニ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『イタリア史』
ヴィテロッツォ・ヴィテッリ Vitellozzo Vitelli
- 生没
- 1458年頃~1502年12月31日
- 出身
- チッタ・ディ・カステッロ
- 没地
- セニガッリア
- 父
- ニッコロ・ヴィテッリ
- 母
- ペンテジーレア・アッボッカテッリ
- 妻
- ポルツィア・オルシーニ
- 子
- ニコラ・ヴィテッリ
概要
ヴィテロッツォ・ヴィテッリはチッタ・ディ・カステッロ出身の傭兵隊長。チェーザレ・ボルジアに仕えるが、反乱を企てたためセニガッリアで処刑される。
年表
1498年5月
フィレンツェ共和国、ルドヴィーコ・イル・モーロの勧めに従い、かつルイ12世の同意を得、フランスに滞在中のパオロ・ヴィテッリ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ兄弟を傭兵隊長として雇うことを決定。
1499年9月
フィレンツェ共和国、パオロ・ヴィテッリ及びヴィテロッツォ・ヴィテッリ兄弟を裏切りの廉で逮捕しようとするがヴィテロッツォ・ヴィテッリは逃亡。
1499年9月28日
フィレンツェ共和国、パオロ・ヴィテッリのみを逮捕。フィレンツェに護送。
1499年9月30日
フィレンツェ共和国、パオロ・ヴィテッリを拷問にかける。何の自白も得ず。
1499年10月1日
1500年4月末
チェーザレ・ボルジアと傭兵契約。
1500年11月7日
ラモーネ川の流れる谷を下り、ブリジゲッラ占領。
1501年4月
カステル・サン・ピエトロ・テルメ、カザルフィウマネーゼ、カステル・グエルフォ・ディ・ボローニャ、メディチーナ占領。メディチーナにて、きょうだいパオロ・ヴィテッリの復讐のためピエトロ・ダ・マルチアーノを殺害。
1501年
アレクサンデル6世が小勅書を発して、チェーザレ・ボルジアに、ローマに帰還するよう命令。ルイ12世の思惑を懸念するアレクサンデル6世は、トスカーナに入らず直接ローマに帰還するよう指示。
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとパオロ・オルシーニは、チェーザレ・ボルジアにフィレンツェ領を通過するよう嘆願。ヴィテロッツォ・ヴィテッリは、故パオロ・ヴィテッリの書記官チェルボーネ・ダ・カステッロの解放だけを要求し、メディチ家事情に関与せず、武力は用いないとして、嘆願。
1501年5月
チェーザレ・ボルジアの尽力により、チェルボーネ・ダ・カステッロが釈放される。
1501年5月
大勢の騎兵を従えてピサに行き、ピオンビーノ攻略のための大砲を要求。名誉をもって迎えられ、了承される。
1501年6月末
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを完全に包囲。
1501年9月3日
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを占領。君主ヤコポ4世・ダッピアーノはフランスへ逃亡。
1502年5月
アレッツォで暴動を扇動。
1502年6月4日
アレッツォで、「マルツォッコ」「メディチ」を叫び、フィレンツェ共和国に対する暴動、反乱発生。
1502年6月7日
アレッツォの求めに呼応して、歩兵を率いて到着。そのすぐ後、きょうだいジューリオ・ヴィテッリも大砲の部隊を率いて到着。アレッツォを占領。
1502年6月
アレッツォに入ってから、ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに歩兵1千を求めるが、教会の代官として教皇の許可なしにはできないとして拒絶される。
1502年6月14日
ジャンパオロ・バリオーニもこれに参画。
1502年6月
数日の内にヴァル・ディ・キアーナ全域を制圧。
1502年6月17日
アレッツォの要塞を得る。
1502年7月15日
この日までにチェーザレ・ボルジア、ヴィテロッツォ・ヴィテッリらに対しアレッツォから撤退するよう指示。ヴィテロッツォ・ヴィテッリらはこの指示に異議を唱えて撤兵せず。
チェーザレ・ボルジア、ヴィテロッツォ・ヴィテッリらに対し、アレッツォを撤退しなければ彼の領国チッタ・ディ・カステッロを占拠すると脅迫。
1502年7月29日
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、アレッツォをルイ12世軍に手渡して撤退。
1502年9月末
マジョーネの会合に出席。
1502年10月9日
マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。
1502年10月
チェーザレ・ボルジアに自分が忠実であるが、確実な安全を求めることを伝える。
1502年10月11日
槍騎兵を指揮し、カステル・デュランテに進軍。
1502年10月
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロのフォッソンブローネ、ペルゴーラ、カーリ奪還のため、歩兵と大砲を貸す。
1502年11月初め
騎乗して、「フェルトロ、ヴィテッリ」の叫びの中、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと共にウルビーノ入城。
1502年11月
パオロ・オルシーニが講和条約を持参してウルビーノ到着。しかし、チェーザレ・ボルジアとの和睦の署名を拒否。
奪還したばかりのモンテフェルトロ派、和解の不確かなベンティヴォーリオを見捨てることは恥ずべき行為である。ロマーニャ攻撃が困難であればウルビーノ公国だけでも自ら単独で守れるものと信じており、ヴィテロッツォ・ヴィテッリの隊長ジョヴァンニとヤコポ・デル・ロッセットは「全世界が敵となろうとも」冬が味方するだろうと言う。再び配下となるのに、安全保障は信頼だけである。チェーザレ・ボルジアがフィレンツェ共和国と友好関係を築いたため、故パオロ・ヴィテッリの復讐、ボルゴ・サン・セポルクロ獲得は絶望的である。以上が署名拒絶の理由。
1502年12月8日
しかし、サン・レオとマイウオーロとモンテクッコロとサン・マリーノの城にヴィテロッツォ・ヴィテッリの兵が依然占拠。自分の家に滞在しているグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの安全のため、もしくはチェーザレ・ボルジアとの交渉材料にするつもりと言われる。
1502年12月
オリヴェロット・エウッフレドゥッチが、チェーザレ・ボルジアの名においてセニガッリアに入る。
ヴィテロッツォ・ヴィテッリと甥、パオロ・オルシーニと息子ファビオ・オルシーニ、フランチェスコ2世・オルシーニもそれぞれの軍を率いてセニガッリアに集結。ジャンパオロ・バリオーニは病気を理由にチェーザレ・ボルジアの招集を拒絶。
1502年12月30日
セニガッリア到着。チェーザレ・ボルジアの命令により、オルシーニとヴィテッリは周辺の城に軍を撤退。
1502年12月31日(土)
セニガッリアの罠:ベルナルディーノ・クアルターリ邸に入ったところを、チェーザレ・ボルジアに拘束される。
1503年1月1日(日)
夜10刻(現2時52分)、セニガッリアにて、ヴィテロッツォ・ヴィテッリとオリヴェロット・エウッフレドゥッチは、チェーザレ・ボルジアにより死刑に処される。
肖像
別表記
ヴィテッロッツォ・ヴィテッリ、ヴィッテロッツォ・ヴィッテッリ、Vittelozzo Vittelli
外部リンク
ウィキペディア
Find A Grave
Condottieri di ventura
Google Books
Treccani.it
Wikipedia - Strage di Senigallia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ジューリオ・ヴィテッリ Giulio Vitelli
- 生没
- 1458年?~1530年
- 出身
- チッタ・ディ・カステッロ
- 没地
- チッタ・ディ・カステッロ
- 父
- ニッコロ・ヴィテッリ
- 母
- ペンテジーレア・アッボッカテッリ
概要
ジューリオ・ヴィテッリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、庶子、聖職者、傭兵隊長。
在位
チッタ・ディ・カステッロ司教 1499年~1503年
戦歴
ガリリャーノの戦い:スペイン王国、勝利
年表
1491年
チッタ・ディ・カステッロ大聖堂参事会長に指名される。
1499年4月17日
教皇アレクサンデル6世により、チッタ・ディ・カステッロ司教に任命される。
1502年
アレッツォ反乱時、アレクサンデル6世により派遣され、きょうだいヴィテロッツォ・ヴィテッリと共に歩兵隊を指揮。
マジョーネの陰謀の間、ヴィテロッツォ・ヴィテッリと行動を共にする。
1503年1月
チッタ・ディ・カステッロから逃亡。
1503年
ラヴェンナ到着。
ヴェネツィア到着。
1503年8月4日
チッタ・ディ・カステッロ司教の地位を剥奪される。
1503年
チッタ・ディ・カステッロに復帰。
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロのモントーネ攻囲に参加するが、ジャンパオロ・バリオーニ干渉後中断を余儀なくされる。
フィレンツェ共和国に雇用されるのを拒絶し、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロのもとを離れず、ディオニジ・ナルディと共にファエンツァを攻囲。
別表記
ジュリオ
在位
チッタ・ディ・カステッロ司教 1499年4月17日~1503年8月4日
次代:アントーニオ・チョッキ・デル・モンテ
外部リンク
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GCatholic.org
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『The Life of Cesare Borgia』
カミッロ・ヴィテッリ Camillo Vitelli
- 生没
- 1459年頃~1496年5月
- 出身
- チッタ・ディ・カステッロ
- 没地
- チルチェッロ
- 父
- ニッコロ・ヴィテッリ
- 母
- ペンテジーレア・アッボッカテッリ
- 妻
- ルクレツィア・バリオーニ
- 子
- ヴィテッロ・ヴィテッリ
ニッコロ2世・ヴィテッリ
フランチェスカ・ヴィテッリ
概要
カミッロ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。
在位
グラヴィーナ公
戦歴
肖像
外部リンク
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参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
パオロ・ヴィテッリ Paolo Vitelli
- 生没
- 1461年~1499年10月1日
- 出身
- チッタ・ディ・カステッロ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ニッコロ・ヴィテッリ
- 母
- ペンテジーレア・アッボッカテッリ
- 妻
- ジローラマ・オルシーニ
- 子
- ニッコロ・ヴィテッリ
キアッピーノ・ヴィテッリ
コルネリア・ヴィテッリ
ベアトリーチェ・ヴィテッリ
ジューリア・ヴィテッリ
アレッサンドロ・ヴィテッリ
概要
パオロ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。ピサ戦役におけるフィレンツェ軍総指揮官であったが、反逆罪によって、1499年10月1日、フィレンツェに呼び戻されて処刑された。
年表
1498年5月
フィレンツェ共和国、ルドヴィーコ・イル・モーロの勧めに従い、かつルイ12世の同意を得、フランスに滞在中のパオロ・ヴィテッリ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ兄弟を傭兵隊長として雇うことを決定。
1498年6月初め
パオロ・ヴィテッリが軍の総指揮官として着任し、シニョーリア広場で大歓迎集会が開かれる。
1498年6月6日
パオロ・ヴィテッリ、ピサ戦線に出陣。
1498年8月
パオロ・ヴィテッリ軍の戦績が期待され程に上がらず、フィレンツェ市内に彼に対する不満が生じる。
1498年
パオロ・ヴィテッリの主力軍を、ヴェネツィア軍の進撃を阻止するためカセンティーノに移動。ピサ戦線には小軍のみが残り、事実上ピサ攻撃を中断。
1499年2月半ば
この頃(?)病に陥ったヴェネツィア軍の指揮官グイドバルド・ダ・モンテフェルトロから自身と自身の軍隊の安全を保障するよう要請されたパオロ・ヴィテッリは、直ちにこれを受諾。
パオロ・ヴィテッリのこの対応が伝えられるや、フィレンツェ市内に彼に対する不満また生ずる。さらに彼がピエロ・イル・ファトゥオ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟と接触しているとの噂が広まり、彼に対する怒りが芽生える。
1499年6月26日
パオロ・ヴィテッリ指揮の傭兵軍、パオロ・ヴィテッリ自身の発案によりピサ近郊カッシーナを占領。
1499年8月1~10日
パオロ・ヴィテッリ指揮の傭兵軍、ピサを猛攻撃。
1499年8月10日
スタンパーチェ要塞を奪取。
ピサを陥落直前の追い込む。しかし状況判断を誤って兵を引き、ピサを立ち直らせる。以後、シニョーリアの督促にも拘らず戦闘を再開せず。
1499年9月14/15日
パオロ・ヴィテッリ、ピサの包囲を解いて撤兵。ピサ制圧に失敗。
1499年9月28日
兄ヴィテロッツォ・ヴィテッリは逃げたが、パオロ・ヴィテッリはフィレンツェ共和国に裏切りの廉で逮捕、フィレンツェに護送される。
1499年9月30日
拷問にかけられるも、何も自白せず。
1499年10月1日
処刑される。
別表記
パーウロ、パーゴロ、パーオロ・ヴィテリ
外部リンク
Condottieri di ventura
Find A Grave
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『The Life of Cesare Borgia』
ジューリア・ヴィテッリ Giulia Vitelli
- 生没
- 14??年~
- 父
- パオロ・ヴィテッリ
- 夫
- ジェンティーレ・バリオーニ
概要
ジューリア・ヴィテッリは、15世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
アレッサンドロ・ヴィテッリ Alessandro Vitelli
- 生没
- 1500年~1554年5月
- 出身
- チッタ・ディ・カステッロ
- 没地
- チテルナ
- 父
- パオロ・ヴィテッリ
- 母
- ジローラマ・オルシーニ
- 妻
- アンジェラ・デ・ロッシ
- 子
- ヴィテロッツォ・ヴィテッリ
アルフォンソ・ヴィテッリ
ヴィンチェンツォ・ヴィテッリ
ジューリオ・ヴィテッリ
ヤコポ・ヴィテッリ
チェーザレ・ヴィテッリ
ドラリーチェ・ヴィテッリ
アンテア・ヴィテッリ
ベアトリーチェ・ヴィテッリ
概要
アレッサンドロ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。
在職
フィレンツェ軍総司令官
年表
1537年1月7日
チッタ・ディ・カステッロにあった自身が指揮するスペイン軍守備隊に、インノチェンツォ・チーボから急ぎフィレンツェ市内に戻るよう指示を受ける。
1537年1月8日
スペイン軍守備隊がフィレンツェ市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。
1537年1月10日
フォルテッツァ・ダ・バッソを占拠し、メディチ宮殿から奪った財宝を持ってインノチェンツォ・チーボ及びアレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマらと籠る。
1537年8月1日
午前2時フィレンツェを発ち未明にプラートに到着したスペイン軍、直ちにモンテムルロに向かい、亡命者たちの軍を急襲して壊滅させ、フィリッポ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリ両父子、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィ、Ludovico Rucellaiら指揮者をことごとく捕虜とする。
正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。
夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。
1537年8月3~4日
捕虜の内Ludovico Rucellaiら7名、衆人の前で斬首ないし絞首される。
フィリッポ・ストロッツィをフォルテッツァ・ダ・バッソに幽閉。カール5世の配下に入り、コジモ1世・デ・メディチの手を離れる。
1540年5月8日
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ、ジローラモ・オルシーニらと共に指揮するパウルス3世教皇軍、ペルージア守備軍との衝突、戦闘、始まる。
1547年9月16日
1554年5月
チテルナにて、死(1566年)。
外部リンク
Condottieri di ventura
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『メディチ家の人びと』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2020年2月21日