Federico II Gonzaga

フェデリーコ2世・ゴンザーガ

生没:1500年5月17日~1540年8月28日
父:フランチェスコ2世・ゴンザーガ
母:イザベッラ・デステ
妻:マルゲリータ・パレオロガ
女:イザベッラ・ボスケッティ
子:アレッサンドロ・ディ・フェデリーコ・ゴンザーガ
  フランチェスコ3世・ゴンザーガ
  グリエルモ・ゴンザーガ
  イザベッラ・ゴンザーガ
  ルドヴィーコ・ディ・フェデリーコ・ゴンザーガ
  フェデリゴ・ゴンザーガ
  ルイジ・ゴンザーガ

概要

 フェデリーコ2世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

在位

 教会の旗手 1510年9月30日~?
 第5代マントヴァ候 1519年~1530年
  先代:フランチェスコ2世・ゴンザーガ
 第1代マントヴァ公 1530年~1540年
  次代:フランチェスコ3世・ゴンザーガ
 モンフェッラート候 1536年~1540年
  先代:ジャン・ジョルジョ・パレオロゴ
  次代:フランチェスコ3世・ゴンザーガ

年表

1519年3月29日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ死。——フェデリーコ2世・ゴンザーガ(1500年~1540年:マントヴァ候在位1519年~1530年:マントヴァ公在位1530年~1540年:モンフェラート候在位:1536年~1540年)、マントヴァ候となる(在位1519年~1540年)。
1521年8月1日
第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ候フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グィッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世カール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。
1527年12月7日
フェデリーコ2世・ゴンザーガオデ・ド・フォワの勧奨に従い、カール5世陣営を離れてコニャック同盟陣営に加わる。
1529年9月
フェデリーコ2世・ゴンザーガカール5世よりその軍の指揮官に任用される。
1529年11月末
フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ボローニャに着きカール5世から歓迎を受ける。
1529年12月23日
永久同盟:クレメンス7世カール5世フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァCarlo II (il Buono)フェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。
これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。
1530年3月25日
マントヴァに着いたカール5世は、マントヴァを公国に、フェデリーコ2世・ゴンザーガをその公に昇格(在位1530年~1540年)。1530年4月8日、大聖堂前の壮麗な式典でカール5世は、これを宣言。
1530年8月6日
マラテスタ・バリオーニ、フィリベルト・デ・シャロンの後を継いだフィレンツェ包囲カール5世軍指揮官・(フェデリーコ2世・ゴンザーガの弟)フェッランテ・ゴンザーガ(1507年~1557年:グアスタッラ伯在位:1539年~1557年)に使者を送ってフィレンツェとの和議の条件、フィレンツェの自由の保障、メディチ家の完全復辟を聞き出し、フィレンツェのシニョーリアに伝えると共にその受容、和議を勧奨。シニョーリアはこれを拒絶し、逆にマラテスタ・バリオーニに包囲軍の全面的攻撃を命令。マラテスタ・バリオーニはこれを拒否。
1533年2月24日
クレメンス7世カール5世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステフェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。
1536年11月29日
マルゲリータ・パレオロガ(?~1566年)の叔父でモンフェッラート侯ジョヴァンニ・ジョルジョ・パレオロゴ(?~在位1530年~)が後継者を残さず死亡した(1533年)ため、その領土を1536年11月3日にカール5世の裁定により妻に封与されたばかりのマントヴァフェデリーコ2世・ゴンザーガ、同じくカール5世によりモンフェッラート侯位の継承を承認される。
ゴンザーガ家と同様モンフェッラートの継承権を主張して争ってきたサヴォイア公Carlo II (il Buono)カール5世のこの裁定・承認に強い不満を抱きながら沈黙。
1537年4月20日
パウルス3世マントヴァでの公会議開催にあたって警護の兵1千6百を教皇の負担で整えるようにとの公フェデリーコ2世・ゴンザーガの要求を拒否し同地での公会議開催を延期することを、枢機卿会議で決める。
1540年6月28日
マントヴァ公・モンフェッラート候フェデリーコ2世・ゴンザーガ死(1500年~:マントヴァ候・公在位1519年~1530年・1530年~:モンフェッラート候在位1536年~)——フランチェスコ3世・ゴンザーガ(1533年~)、マントヴァ公・モンフェッラート候となるが、幼少の公・候の摂政として故人の妻マルゲリータ・パレオロガ(?~1566年)と弟・枢機卿エルコーレ・ゴンザーガ(1505年~1563年:在位1527年~1563年)が両領国を支配。

肖像

 アテナイの学堂

外部リンク

 ウィキペディア
 エステ大辞典
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Medici Archive Project
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前