- 生没
- 1478年7月22日~1506年9月25日
- 出身
- ブルッヘ
- 没地
- ブルゴス
- 父
- マクシミリアン1世
- 母
- マリー・ド・ブルゴーニュ
- 妻
- フアナ1世・デ・トラスタマラ
- 子
- レオノール・デ・アウストリア
カール5世
フェルディナンド1世
マリア・フォン・ハプスブルク
カタリナ・デ・アブスブルゴ
概要
フェリペ1世は、ブルゴーニュ公として1496年、フアナ1世・デ・トラスタマラと結婚。1504年、妻の母イサベル1世・デ・カスティーリャの死によって、名目上妻と共にカスティーリャの共同統治者になったが、実権がフェルナンド2世・デ・アラゴンにあり、無力であった。フランドルに住み、1506年スペインに入り、3ヵ月後に死んだ。その子カール5世によってスペインは最終的に統一された。
在位
ブルゴーニュ公フィリップ4世 1482年~1506年
カスティーリャ王フェリペ1世(僭称) 1504年~1506年
年表
1496年10月21日
フアナ1世・デ・トラスタマラと結婚。
1504年9月22日
ルイ12世、マクシミリアン1世、マクシミリアン1世の子でブルゴーニュ公フェリペ1世の3者、ユリウス2世の指示の下にブロワで協定を締結。ルイ12世のミラノ支配、ルイ12世の娘クロード・ド・フランス(1499年~1524年)とフェリペ1世の長子(すなわちマクシミリアン1世の孫)カール5世の結婚、ロンバルディアやロマーニャに進出してきたヴェネツィアへの対抗などで合意。
1504年11月26日
イサベル1世・デ・カスティーリャ、死。フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャのスペイン共同統治終わる(1479年~1504年)。
両王の娘フアナ1世・デ・トラスタマラは、カスティーリア王位を継ぐが、フェルナンド2世・デ・アラゴンが摂政としてカスティーリアを統治(1504年~1506年)。これに対し、自ら摂政の位を望むフアナ1世・デ・トラスタマラの夫、ブルゴーニュ公フェリペ1世は不満を抱く。
1505年10月12日
ブロワ協定:フェルナンド2世・デ・アラゴン、ナポリをも求める女婿フェリペ1世とその父マクシミリアン1世に対抗すべくルイ12世に急速に接近し、自分は彼の姪ジェルメーヌ・ド・フォワ(1488年~1538年)と再婚し、彼はナポリに対する一切の要求を放棄することなどにつき協定。これにより、フェルナンド2世・デ・アラゴンへのカスティーリアの貴族たちの反感強まる。
1506年1月
妻フアナ1世・デ・トラスタマラと共にスペインに向かっていたが、嵐のため難破し、イギリス滞在を余儀なくする。
1506年4月28日
病弱な妻フアナ1世・デ・トラスタマラの摂政としてカスティーリャを支配しようとするフェリペ1世、その位を求めて彼女と共にカスティーリャ王国コルーニャに到着。フェルナンド2世・デ・アラゴンに反感を抱く貴族たちの支持を受ける。
1506年5月21日
1504年9月のブロワでの協定でフェリペ1世の子カール5世と結婚することになっていたルイ12世の娘クロード・ド・フランスは、ルイ12世の従兄弟フランソワ・ダングレーム(1494年~1547年:在位1515年~1547年)と婚約。
1506年6月27日
ヴィリャファフィラ協定:内乱を恐れるフェルナンド2世・デ・アラゴンはヴィジャファフィラにて、フェリペ1世はベナヴェンテにて、協定に署名。カスティーリャの摂政の位がフェリペ1世に委譲される。
1506年
妻フアナ1世・デ・トラスタマラと共に、ベナヴェンテ公アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコの邸宅に滞在。
1506年9月25日
ブルゴスにて、腸チフスにより急死(1506年7月25日、1506年9月5日、1506年9月26日)。
別表記
フィリップ美公、フィリップ1世、Philipp I der Schöne、Felipe el Hermoso
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Find A Grave
Genealogy.EU
kleio.org
RootsWeb.com
The Medici Archive Project
Wikipedia - Treaty of Villafáfila
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ハプスブルク家』
『フィレンツェ史』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス百科事典』
『Lucretia Borgia』
記載日
2005年5月29日以前