Francesco Bussone

フランチェスコ・ブッソーネ

生没:1380年~1432年5月5日
出身:カルマニョーラ
在位:ヴェネツィア軍総指揮官 1426年2月9日~1432年
    後任:ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
妻:アントーニア・ディ・フィリッポ・ヴィスコンティ
子:マルゲリータ・ブッソーネ
  エリザベッタ・ブッソーネ
  ルキナ・ブッソーネ
  アントーニア・ブッソーネ

概要

 フランチェスコ・ブッソーネはイタリアの傭兵隊長。

年表

1380年
カルマニョーラに農民の子として誕生。(1382年、1385年)
139?年
12歳でファチーノ・カーネの下で傭兵としての経歴を始める。
1422年
アルベドの戦い:スイス軍は軍勢の一部である4千名(槍兵の3分の1、斧槍兵の3分の2)で戦った。イタリアの重装騎兵の突撃が槍に効果がなかったとき、ミラノの傭兵隊長である彼は、弩兵と共にスイス軍の側面に回り込み、下馬させた装甲騎兵を深い隊形に編制。この後に壮烈な戦いが続き、スイス軍が今にも破れそうになったとき、別のスイス勢がイタリア軍の側面に現れた。残りのスイス軍が襲ってくると考えた彼は後退したが、スイスの軽装部隊は大きな損害を被った。
この戦いの後のスイス軍は、短い斧槍では騎士たちに近づかれてしまい、優勢な武器を使われてしまうために、隊列に組み入れる槍兵の数を増強した。
1425年2月23日
妻子を置いてミラノを離れ、この日ヴェネツィアに着く。以後ヴェネツィアで反ミラノ、反ヴィスコンティ感情の醸成に力を尽くす。
1426年2月9日
ヴェネツィアの軍総指揮官に任じられる。(1426年2月11日)
1426年3月17日
ロンバルディア地方でフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とヴェネツィア軍の戦闘激化し、この日、ヴェネツィア軍を指揮しブレッシャを制圧。続いてクレモーナ領でもヴィスコンティ軍を破る。
1428年4月18/19日
苦戦を強いられているフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと、戦費の負担にあえぐヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営、(1)前者はベルガモ、ブレッシャなどを後者に譲り、(2)トスカーナで奪った城塞をフィレンツェに返して以後トスカーナに介入せず、(3)前自軍総指揮官・現ヴェネツィア軍総指揮官フランチェスコ・ブッソーネの家族と全財産を彼に返す、など前者が全面的に譲歩する和を、フェッラーラ候ニッコロ3世・デステと教皇マルティヌス5世の使節・枢機卿Niccolò Albergatiの仲介により、フェッラーラで結ぶ。
1431年1月
ヴェネツィア共和国とフィレンツェ共和国は共に戦争態勢を整え、フランチェスコ・ブッソーネが同盟軍の最高指揮官となる。
1431年5月22日~23日
クレモーナ近郊のポー川で、フランチェスコ1世・スフォルツァニッコロ・ピッチニーノら指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とヴェネツィア軍、大激戦。ヴェネツィア軍、未曾有の惨敗。
近くに陣を敷いていながらこの戦闘に駆けつけず、ヴェネツィアで、フランチェスコ1世・スフォルツァと通謀しているのではないかとの疑念と不信広まる。
1432年4月8日
忠誠を疑われ、ヴェネツィア共和国から死刑を宣告される。
1432年5月5日
ヴェネツィアのサン・マルコ広場で斬首され、その全財産を没収される。

別表記

 カルマニョラ、カルマニョーラ、カラマニョーラ伯、カラマニューラ伯、フランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラ、フランチェスコ・バルバヴァーラ、Francesco Barbavarail Carmagnola

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『マキアヴェリ』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』

記載日

 2006年10月12日以前