Francesco II Gonzaga

フランチェスコ2世・ゴンザーガ

生没:1466年8月10日~1519年3月29日
在位:第4代マントヴァ侯 1484年~1519年
    先代:フェデリーコ1世・ゴンザーガ
    次代:フェデリーコ2世・ゴンザーガ
父:フェデリーコ1世・ゴンザーガ
母:マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
妻:アネーゼ・ヴィスコンティ
  イザベッラ・デステ
子:エレオノーラ・ゴンザーガ
  マルゲリータ・ゴンザーガ
  フェデリーコ2世・ゴンザーガ
  リヴィア・ゴンザーガ
  イッポーリタ・ゴンザーガ
  エルコーレ・ゴンザーガ
  フェッランテ・ゴンザーガ
  パオラ・ゴンザーガ
  テオドーラ・ゴンザーガ

概要

 フランチェスコ2世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

年表

1466年8月10日
生。
1480年
6歳のイザベッラ・デステと婚約。
1484年7月15日
フェデリーコ1世・ゴンザーガ死。フランチェスコ2世・ゴンザーガ、マントヴァ侯となる。
1490年2月11日
マントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガ、10年前の婚約を実現し、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステの長女イザベッラ・デステフェッラーラで盛大華麗な結婚式を挙げる。
1490年2月11日
イザベッラ・デステとフェッラーラで盛大華麗な結婚式を挙げる。
1493年4月25日
アレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステマントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1495年7月6日
帰国途上のシャルル8世軍は、フォルノーヴォでフランチェスコ2世・ゴンザーガ指揮の対フランス神聖同盟軍に攻撃され、軍の大半を失いながらも辛うじて勝利を得て帰路を開く。
1495年
対フランス同盟総司令官になる。
1499年
ヴェネツィア共和国総司令官を解任される。
1499年10月6日
ミラノに入城したフランス王ルイ12世へ、戦勝の祝いのため伺候。
1501年12月9日
この日付のポルツァーノ発のマッテオ・マルティーノ・ダ・ブセットからの手紙を受け取る。教皇がフランス及びヴェネツィアと密かに同盟を結び、エステ家の祝宴の折に、チェーザレ・ボルジアの軍隊でもってフェッラーラに襲い掛かって国の主だった者たちを一網打尽にし、国土を占領し、財産を横領し同盟者間で山分けするという計画が立てられている、という内容。
1503年8月初旬~9月初旬
ルイ12世軍に参加し、フィレンツェを経由してナポリに向かう。
1503年9月22日
イゾラ・ファルネーゼにて、妻イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 淑女様、親愛なる妻へ。アレクサンデル6世の最期の事情に通じていらっしゃるかもしれませんので、下記の事項について述べます。教皇が病に伏した時、何を考えているか分からない者には彼が彷徨っているのだと思うような話し方で話し始めました。しかし、自分が何を言っているのか、完璧に自覚があったのです。「私は来る、その通り、少し待ってくれ」というのがその言葉でした。秘密を知る者は、インノケンティウス8世死後のコンクラーヴェで、彼が悪魔と契約を交わし、魂の代価と引き換えに教皇位を購入したのだという。その契約には、12年間聖座を占めることを認められており、これを4日間延長したのです。彼の部屋で見られたことのある7人の悪魔に、その時魂を売り渡したのだと確信する者たちがいます。死後直ちに腐り始め、火の上のやかんのように口から泡を吹き出し、それは地上にある間続いたのです。死体は膨張して、人の形を失いました。長さと同じほどの横幅でした。簡素な儀式と共に墓に運ばれていきましたが、運搬人が寝台から引きずり出し、誰も触れたがらなかったので、足に紐を結び付けて埋葬場まで引きずったのです。惨めな埋葬で、あれに比べれば、マントヴァの不具の矮人の妻の方がまだ厳かというほどでした。彼についての中傷的な風刺詩が、毎日発行されています。
1505年5月4日
フィレンツェは、マントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガを傭兵隊長に雇うべく候のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣して交渉するが失敗に終わる。
この頃?、ロベルト・アッチャイウオリ(1467年~1547年)をナポリのゴンザロ・デ・コルドバのもとに派遣してバルトロメオ・ダルヴィアーノを支援せぬよう工作し了承を得るが、彼からピサ攻撃を中止するよう求められる。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世ルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォフェッラーラアルフォンソ1世・デステマントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1509年4月15日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ、ヴェネツィアを攻撃し、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍に撃退される。
1509年8月8日
ヴェネツィア共和国軍の奇襲で捕らわれる。
1512年6月下旬
ルイ12世軍の敗退で孤立したアルフォンソ1世・デステ、姉イザベッラ・デステの夫フランチェスコ2世・ゴンザーガや自分が捕らえていたファブリツィオ・コロンナらの仲介でユリウス2世から自身及び領国の安全を保証されローマに向かう。
1517年1月半ば~2月初旬
逃亡先マントヴァの候フランチェスコ2世・ゴンザーガから資金援助を得、前年の各協定によって失職した各国の兵士を集めていたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、旧領地を奪還すべく小軍を率いてウルビーノに向かう。新ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチの不在を利して、1517年2月5/6日ウルビーノに入城し制圧。
ロレンツォ・デ・メディチも急ぎ大軍を擁してウルビーノに向かい、両軍の戦闘始まる。
1519年3月29日
死(1519年2月20日)。

持病

 梅毒

別表記

 ジャンフランチェスコ2世、ダ・ゴンツァーガ

外部リンク

 ウィキペディア
 ラインの王族
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 Google Books
 Google Books
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 THE BORGIAS wiki

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前