Francesco Maria I della Rovere

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ

生没:1490年3月25日~1538年10月20日
出身:セニガッリア
没地:ペーザロ
在位:セニガッリア領主 1501年~1502年
   ウルビーノ公 1508年~1516年
1522年~1538年
父:ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレ
母:ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロ
妻:エレオノーラ・ゴンザーガ
子:グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ
  ジューリア・デッラ・ローヴェレ
  ジューリオ・デッラ・ローヴェレ
  イッポーリタ・デッラ・ローヴェレ
  エリザベッタ・デッラ・ローヴェレ

概要

 フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレはイタリアの傭兵隊長。

年表

1490年3月25日
生(1490年3月22日、1491年)。
兄弟2人が夭折したため、唯一の男子後継者となる。
1501年11月6日
ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレ、死。
1501年
母方の叔父グイドバルド・ダ・モンテフェルトロウルビーノ宮廷で養育される。
元々グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの教師であったルドヴィーコ・オダージオに教育される。
1502年4月24日
ローマ知事に任命される。
1502年6月21日
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと共に逃亡。サンターガタ・フェルトリアで別れて、2人の従者と共にバーニョ・ディ ロマーニャに向かう。
1502年
サヴォーナで父方の伯父ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿と合流。
1504年5月10日
この日頃?、ユリウス2世、すでに教会の旗手に登用していたグイドバルド・ダ・モンテフェルトロウルビーノ公として正式に承認すると共に彼の養子として自分の甥でセニガッリアの君主フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレを縁組させ、ウルビーノの公位の後継者に指名。
1508年4月11日
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ死。——その娘の子、セニガッリアの君主でユリウス2世の甥フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ウルビーノ公となる(在位1508年~1516年、1522/1523年~1538年)。
1509年
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮の教皇軍、ファエンツァを目指して布陣。
1510年7月
ユリウス2世、すでにフィレンツェの傭兵隊長の任を離れたマルカントーニオ・コロンナの指揮する陸軍をフィレンツェ領経由で送り、ヴェネツィアの水軍と協同でジェノヴァを攻撃。しかし、期待した市内での市民の反乱生じず、ルイ12世軍により撃退される。
ユリウス2世、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの指揮する自己の大軍にフェッラーラ攻撃の、スイス連邦軍にミラノ攻撃の態勢をそれぞれ整えさせる。
1510年8月9日
ユリウス2世は、アルフォンソ1世・デステを教会への反逆者として破門しその全ての領国及び地位を剥奪するとの勅書を発する。加えてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮の大軍をフェッラーラに向かわせる。
シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステは、ヴェネツィア領攻撃からミラノ及びフェッラーラ防衛に方針を転換。
1513年4月11日
レオ10世の戴冠式が、ローマで盛大に挙行される。前教皇ユリウス2世と対立してきたアルフォンソ1世・デステは主賓として出席。ユリウス2世の甥フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレも出席。
1516年3月14日
レオ10世が、前年秋の対フランソワ1世戦への参加拒否、フランソワ1世側への傾斜などにおける忠誠心の欠如を理由に、ウルビーノなど彼の教会領内の全領国を剥奪すると宣言。
1516年5月17日
レオ10世が、彼からウルビーノなど全領国を奪うべくロレンツォ・デ・メディチの指揮する軍をウルビーノに向かわせる。
1516年5月末
教皇軍の接近を前に、妻エレオノーラ・ゴンザーガ、義母エリザベッタ・ゴンザーガら家族と共にウルビーノを捨ててまずペーザロに、さらにマントヴァに逃げる。
1516年5月30日
ロレンツォ・デ・メディチが、ウルビーノに入城。
1517年1月半ば~2月初旬
逃亡先マントヴァの候フランチェスコ2世・ゴンザーガから資金援助を得、前年の各協定によって失職した各国の兵士を集めていたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、旧領地を奪還すべく小軍を率いてウルビーノに向かう。新ウルビーノロレンツォ・デ・メディチの不在を利して、1517年2月5/6日ウルビーノに入城し制圧。
ロレンツォ・デ・メディチも急ぎ大軍を擁してウルビーノに向かい、両軍の戦闘始まる。
1517年
この頃?、レオ10世からフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレのウルビーノ奪還戦を秘密裡に支援していると思われていたフランソワ1世は、レオ10世のもとに使節を送り、その事実はないと弁明すると共にボローニャ会談(1515年12月)でのモデナ、レッジョのアルフォンソ1世・デステへの返還に関する約束を履行するよう迫る。これに対しレオ10世は、7ヶ月以内に履行するとの勅書を発するが、以後も依然として履行の姿勢を示さず。
1517年9月半ば
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、教皇軍に降伏。全資産を持ってマントヴァに逃れることを認められ、ウルビーノを出る。1517年9月17日?、ロレンツォ・デ・メディチウルビーノを制圧。
1520年6月2日~1520年6月3日
レオ10世は、投獄していたジャンパオロ・バリオーニを、ウルビーノ争奪戦においてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに通じていたなどの理由を挙げて処刑(1470年頃~:在位1488年~1500年、1500年~1502年、1503年~1506年、1513年~)。ペルージアは保護していたジェンティーレ・バリオーニに統治させる形をとりながら自身の代理を派遣して直接に統治。
1521年12月上旬~下旬
レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グィッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニ(1491年~1531年)、オラーツィオ・バリオーニ(1493年頃~1528年)と共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。
1522年1月4日~1522年1月5日
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと共にペルージアに迫っていたマラテスタ・バリオーニ、、オラーツィオ・バリオーニ兄弟は、ペルージアに復帰し支配。ジェンティーレ・バリオーニは逃亡。
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは引き続きシエナに進軍し、その政体変更を迫るが、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に撃退される。フィレンツェ軍はジェンティーレ・バリオーニを伴ってペルージア奪回に向かう。
1522年9月半ば~10月半ば
ハドリアヌス6世、恭順の意を表し忠誠を誓ってきたアルフォンソ1世・デステとフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに対し、アルフォンソ1世・デステにはフェッラーラの支配を認めると共にモデナ、レッジョの返還を約束し、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレにはウルビーノの支配を認める(翌1523年3月27日、正式に叙任)。
1524年3~4月
Guillaume de Bonnivet指揮のフランソワ1世軍と、Charles de Lannoy指揮のカール5世軍を主力としてシャルル・ド・ブルボン軍、フェルディナンド軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ総指揮のヴェネツィア軍、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍を結集した同盟軍が、ミラノ攻防を巡って激戦。フランソワ1世軍の敗色濃厚となる。
1526年7月7~8日
コニャック同盟軍は、ミラノに接近するがカール5世軍の強い反撃にあい、攻略を断念してマリニャーノに撤退。この撤退を巡って同盟軍内に、ヴェネツィア軍総指揮官で同盟軍総指揮官の地位を占めていたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレへの不満、不信が強まる。
1526年8月6日
この日?、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮のコニャック同盟軍は、クレモーナを包囲。
1526年11月下旬
ローマを目指すゲオルク・フォン・フルンズベルク指揮のカール5世軍は、ポー河を渡って進軍すべくBorgoforteに近づくが、コニャック同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレはこの地に陣を敷きながら抗戦を躊躇う。小軍をもって抗戦したフィレンツェ軍指揮官ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレは1526年11月24日負傷し、1526年11月28日死亡。同盟軍内にフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレへの不満、不信、さらに強まる。
1527年4月25~26日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、フィレンツェ南方30キロのサン・ジョヴァンニ至る。
コニャック同盟軍(サルッツォ候ミケーレ・アントーニオ(?~1528年:在位1504年~1528年)ら指揮のフランソワ1世軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮のヴェネツィア軍、グイド・ランゴーニ指揮の教皇軍)は、フィレンツェ北方10数キロのバルベリーノに結集し、カール5世軍に対するフィレンツェ防衛策を協議。協議後、フィレンツェとカール5世軍の布陣するサン・ジョヴァンニとの中間地点Incisaに向かってフィレンツェ郊外に近づく。
1527年
同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。
1527年5月16日
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、オルヴィエートに到着し、グイド・ランゴーニ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da BozzoloLuigi Pisaniらコニャック同盟軍指揮官とクレメンス7世救出策を協議。ローマ進軍、クレメンス7世救出とそれらによるフィレンツェ防衛の弱体化、フィレンツェ政体転覆の危険などについて議論紛糾し、行動は停滞。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グィッチャルディーニの兄ルイジ・グィッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グィッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グィッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1528年9月14~19日
François I de Bourbon指揮のフランソワ1世軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮のヴェネツィア軍と共にパヴィアを包囲し占領。凄まじい略奪・破壊を行なう。
1537年1月
ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの子・後継相続者グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514年~)とカメリーノの正統継承資格者の1人ジューリア・ダ・ヴァラーノ(1523年~?)、ジューリア・ダ・ヴァラーノを自分の孫オッタヴィオ・ファルネーゼ(1524年~1586年)と結婚させ、カメリーノを自家領としてウルビーノ公を押さえたいパウルス3世の妨害——(破門(1535年2月)、カメリーノでの聖務禁止(1535年3月)、カメリーノの封与(1535年5月))——に対してウルビーノ公の承認の下で結婚し、カメリーノを事実上、領有。
1538年2月8日
ヴェネツィアの各地の拠点を次々と攻略し、その領内ケルキラ島をも占領しようとするスレイマン1世軍の威勢を前に、パウルス3世ヴェネツィアカール5世及びフェルディナンドヴァティカン宮殿で対オスマン・トルコ神聖同盟を結び、同盟軍の結成(陸軍の指揮官ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、水軍の指揮官アンドレア・ドーリア)、戦費の分担(パウルス3世ヴェネツィアカール5世が1対2対3の割合)などを約定し、2日後に公示。しかし、同盟軍はこの秋になってようやく結成される。
1538年10月20/21日
ウルビーノ公・ヴェネツィア軍総指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ死(1490年~:公在位1508年~1516年、1522/1523年~:ヴェネツィア軍総指揮官在位1523年~)——グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレウルビーノ公となる(在位~1574年)。
1539年1月初旬
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと妻ジューリア・ダ・ヴァラーノ、自分たちのカメリーノ領有権を支持するコジモ1世・デ・メディチの具体的支援も、父・故フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの健在時に得てきたヴェネツィアフェッラーラの支援も共に得られず、パウルス3世の強い要求に屈してカメリーノ領有を断念・放棄。代わりに報償金と、これまで拒否されてきたパウルス3世によるグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレウルビーノ公への叙任を得る。

肖像

 アテナイの学堂
 フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの肖像

在位

 セニガッリア領主 1501年~1502年
 ウルビーノ公 1508年~1516年
  先代:グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ
  次代:ロレンツォ・デ・メディチ
 ウルビーノ公 1522/23年~1538年
  次代:グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ

別表記

 デルラ・ロヴェレ、フランチェスコ・デッラ・ロヴェーレ、フランチェスコ・マリア・デラ・ローヴェレ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 GeneAll.net
 Genealogy.EU
 Geni.com
 JDA's Family Tree
 Treccani
 Treccani
 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前