Francesco de' Pazzi

フランチェスコ・デ・パッツィ

生没年:1444年1月28日~1478年4月26日
父:アントーニオ・デ・パッツィ
母:ニコローサ・デリ・アレッサンドリ

概要

 フランチェスコ・デ・パッツィは、15世紀のフィレンツェの男性。パッツィ銀行ローマ支店長。

容姿

 身長が低かった。

性格

 極めて野心的。

年表

1444年1月28日
生(1445年)。
1473年7~8月初め
この頃シクストゥス4世、フィレンツェのフランチェスコ・デ・パッツィ(1444年~1478年)から得た資金を基にガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからイーモラを購入し、間もなく甥ジローラモ・リアリオに封与。シクストゥス4世によるイーモラ獲得を資金面で阻み、自らこれを獲得してロマーニャへの影響力を拡大、強化しようと企画していたロレンツォ・イル・マニーフィコは、反シクストゥス4世、反パッツィ家の姿勢を強める。
1478年
1478年初めからシクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコの関係がますます緊迫する中、ジローラモ・リアリオは、メディチ家の最大の敵手と化したパッツィ家の銀行のローマ支店で教皇庁の財務管理に当たっているフランチェスコ・デ・パッツィおよびロレンツォ・イル・マニーフィコに進路を妨害されてきた(1474年~)ピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティら、ローマでメディチ家打倒、ロレンツォ・イル・マニーフィコジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ兄弟殺害の陰謀を企み謀議を重ねる。パッツィ家の当主ヤコポ・デ・パッツィ(?~1478年)も参加するが同家のレナート・デ・パッツィメディチ家の倒産、没落は近いと判断し、参加せず。
1478年4月26日
パッツィ家の陰謀決起:
シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?~1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチは殺され(1453年~)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。
間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。

舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

別表記

 フランチェスキーノ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Assassin's Creed Wiki
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

記載日

 2006年10月27日以前
パッツィ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで