Francesco Salviati

フランチェスコ・サルヴィアーティ

生没:1425年~1478年4月27日
在位:ピサ大司教 1474年10月14日~1478年4月26日
    先代:フィリッポ・ディ・ヴィエーリ・デ・メディチ
    次代:ラッファエーレ・サンソーニ
父:ベルナルド・ディ・ヤコポ・ディ・アラマンノ・サルヴィアーティ
母:エリザベッタ・ボッロメア・ボッロメイ

概要

 フランチェスコ・サルヴィアーティは、15世紀の男性、聖職者。カテリーナ・ディ・ヤコポ・ディ・アラマンノ・サルヴィアーティの甥。

年表

1473年
イーモラを買い取るジローラモ・リアリオのためにパッツィ家が貸した金を、ミラノに運ぶ。
1474年1月5日
ピエトロ・リアリオ急死(1446年~1474年:枢機卿在位1471年~1474年:フィレンツェ大司教在位1471年~1474年)。
シクストゥス4世、反メディチ派のフランチェスコ・サルヴィアーティ(?~1478年)をフィレンツェ大司教に任命。しかしロレンツォ・イル・マニーフィコの妨害にあいフランチェスコ・サルヴィアーティは着任できず。やむなく後にシクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコの義兄弟リナルド・ディ・ヤコポ・オルシーニを任命。
1474年10月14日
シクストゥス4世により、ピサ大司教に任命される。しかし、ロレンツォ・イル・マニーフィコの妨害にあい、以後3年着任できず。
1475年10月
ピサ大司教に就任。年間4千ドゥカートを得る。
1476年6月20日
ピサでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ロレンツォ・イル・マニーフィコに支払うべき個人的負債の返済の一部として、腐った魚を百ポンド送り届けて、からかいの手紙を添えている。「もしこの魚が貴殿に相応しい贈り物でなく、私の望みや恩義にも相応しくない品であれば、お詫び申し上げます。魚釣りは運命の女神の娯楽で、女神は我々の強い望みを満たしてくれぬことが多いものなのです」
1477年7月11日
ローマでニッコロ・バルドヴィーニ宛書簡をしたためる。法律上のごたごたを仲裁してもらえないかと頼んできた友人に次のように答えている。「そういった司法手続きは、そのやり方を悪用できないように定められている。このような小さな法律問題に並々ならぬ努力を注ぐのは適切なこととは思えない」
1477年9月11日
ロレンツォ・イル・マニーフィコに対する正式な抗議を携えて、ローマを出発。抗議の内容は、ロレンツォ・イル・マニーフィコはモントーネの件に関与すべきではなかったというものである。
1477年9月17日
フィレンツェを経由してピサに到着。
1478年
1478年初めからシクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコの関係がますます緊迫する中、ジローラモ・リアリオは、メディチ家の最大の敵手と化したパッツィ家の銀行のローマ支店で教皇庁の財務管理に当たっているフランチェスコ・デ・パッツィおよびロレンツォ・イル・マニーフィコに進路を妨害されてきた(1474年~)ピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティら、ローマメディチ家打倒、ロレンツォ・イル・マニーフィコジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ兄弟殺害の陰謀を企み謀議を重ねる。パッツィ家の当主ヤコポ・デ・パッツィ(?~1478年)も参加するが同家のレナート・デ・パッツィメディチ家の倒産、没落は近いと判断し、参加せず。
1478年4月26日
パッツィ家の陰謀決起:
シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?~1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチは殺され(1453年~)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。
間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。
1478年4月26日日曜日
朝ヴィッラ・ラ・ロッジャを出発して馬でフィレンツェに向かった。一行はラッファエーレ・サンソーニ枢機卿、ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコヤコポ・ブラッチョリーニ
パッツィ家の陰謀

別表記

 フランチェスコ・デ・サルヴィアーティ、サルヴィアーティ大司教、Francesco Salviati Riario

外部リンク

 Europe in the Late Middle Ages - Knox
 GCatholic.com
 Google Books
 The Assassin's Creed Wiki
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

記載日

 2005年5月29日以前