Francesco Valori

フランチェスコ・ヴァローリ

生没:1439年~1498年4月8日
出身:フィレンツェ
没地:フィレンツェ
在位:正義の旗手 1489年1月~2月、1493年9月~10月、1497年1月~2月
父:フィリッポ・ディ・バルトロメオ・ヴァローリ
母:ピッキーナ・ディ・ピエロ・カッポーニ
妻:コスタンツァ・カニジャーニ
子:マリエッタ・ヴァローリ
  カテリーナ・ヴァローリ
  ロレータ・ヴァローリ
  ディアノーラ・ヴァローリ

概要

 フランチェスコ・ヴァローリは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

年表

1497年1~2月
正義の旗手ジローラモ・サヴォナローラ派(フラテスキ)の最有力者フランチェスコ・ヴァローリ(1439年~1498年)が選出される。
1497年2月9日
フランシスコ会の修道士ら、前日から始まったジローラモ・サヴォナローラの説教を激しく非難する説教を始めるが、正義の旗手フランチェスコ・ヴァローリに強制的に中止させられる。
1497年3~4月
フランチェスコ・ヴァローリに代わり、メディチ派(=Bigi)で反ジローラモ・サヴォナローラ感情の極めて強いベルナルド・デル・ネロ(1426年~1497年)が正義の旗手に選出される。
1497年8月21日
フラテスキの指導者フランチェスコ・ヴァローリの強硬発言によって提訴権否認、処刑にまとまり、答申。夜、首謀者5名処刑される。
この過程でフランチェスコ・ヴァローリは実質上フィレンツェの支配者だと見なされ、ジローラモ・サヴォナローラはかねて自ら訴えていた全市民の融和、団結とそのための1495年3月19日の方を自ら否定したと非難され、彼に対する一般の崇敬と信頼、大きく揺らぐ。
1498年4月8日
夕刻、ジローラモ・サヴォナローラに信従する修道士が説教すべく信徒たちに守られて大聖堂に近づくや、アッラビアーティなど反ジローラモ・サヴォナローラ派の者たち、ジローラモ・サヴォナローラ派追放を叫んで騒動を起こし、続いて民衆を扇動して武器を手にサン・マルコを包囲、襲撃。
シニョーリアは、ジローラモ・サヴォナローラに対して12時間以内にフィレンツェ領内から退去せよとの布告を出す。続いてサン・マルコの内部にいるジローラモ・サヴォナローラ派を退出させるべく、俗人は教会から退出しなければ全て反逆者と見なすとの布告を出す。
これらの布告により包囲側の気勢上がり、サン・マルコの襲撃はさらに激しくなる。
フランチェスコ・ヴァローリ、手兵を集めるべくサン・マルコを出て私宅に向かうが騒動のため進めず、ヴェッキオ宮殿に向かう。しかし庁宮内に引きずり込まれ、前年8月の彼の強硬発言にも影響されてコンシーリオ・マッジョーレへの提訴権を奪われたまま処刑されたメディチ派(=Bigi)の陰謀の指導者の遺族ヴィンチェンツォ・リドルフィとシモーネ・トルナブオーニ(1472年~1543年)に殺害される。この頃すでに彼の自宅も襲撃され、妻コスタンツァ・カニジャーニも殺害される。
サン・マルコは、ほとんど群衆に占拠される。
ジローラモ・サヴォナローラは、Domenico da Pesciaと共に死を決意して外に出、捕縛されてヴェッキオ宮殿の塔内の獄に入れられる。Domenico da Pescia及び先に捕らえられた修道士シルヴェストロも投獄される。

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前