François I

フランソワ1世

生没
1494年9月12日~1547年3月31日
出身
フランス王国コニャック
没地
フランス王国ランブイエ
シャルル2世・ダングレーム
ルイーザ・ディ・サヴォイア
クロード・ド・フランス
レオノール・デ・アウストリア
ルイーズ・ド・ヴァロワ
シャルロット・ド・ヴァロワ
フランソワ・ド・ヴァロワ
アンリ2世
マドレーヌ・ド・ヴァロワ
シャルル・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ヴァロワ

概要

 フランソワ・ダングレームは、15世紀から16世紀のフランスの男性、フランス王フランソワ1世。

在位

 フランス王 1515年~1547年
 ミラノ公 1515年~1521年

年表

1506年5月21日

クロード・ド・フランスと婚約。

1514年5月18日

サン=ジェルマン=アン=レーにて、クロード・ド・フランスと結婚。

1515年1月1日

従伯父で義父のルイ12世、死。

フランス王に即位し、フランソワ1世を名乗る。

新フランス王フランソワ1世は、即位後直ちに自らをミラノ公と宣言し、イタリア侵攻、ミラノ奪還態勢の整備に着手。

1515年2月7日

マクシミリアン1世フェルナンド2世・デ・アラゴンマッシミリアーノ・スフォルツァ、スイス連邦及びフィレンツェは、レオ10世の暗黙の加担の下、対オスマン・トルコ同盟の名目でミラノ防衛のための対フランソワ1世、対フランス同盟を結成。

1515年

この頃?、レオ10世の強い支持を得て対フランス同盟側についていたジェノヴァのドージェ・オッタヴィアーノ・フレゴーソ、フランソワ1世によるイタリア侵攻軍の目覚しい強化、結集に怯えて彼と秘密裡に協定を結ぶが、すぐ露見。

傭兵隊長プロスペロ・コロンナ(1460年頃?~1523年)指揮のミラノ軍が、スイス連邦軍と共にジェノヴァ攻撃に向かうが、オッタヴィアーノ・フレゴーソの訴えを受け入れたレオ10世に制止される。

1515年6月27日

フランソワ1世、故ルイ12世とヴェネツィアのブロワ協定の更新をヴェネツィアと確認し、イタリア侵攻、ミラノ奪回の態勢をさらに固める。

1515年7月17日

レオ10世は、対フランス同盟に正式に加盟すると共にこの同盟を公表。しかしナポリをフェルナンド2世・デ・アラゴンから奪って弟ジュリアーノ・デ・メディチに支配させようとの意図を密かに抱くレオ10世は、なお秘密裡にフランソワ1世とも接触を取り続ける。

この頃?、ロレンツォ・デ・メディチの指揮するフィレンツェ軍が、対フランス同盟陣営に加わるべくピアチェンツァに到着。教皇軍の小部隊もヴェローナに到着。ロレンツォ・デ・メディチは病床のジュリアーノ・デ・メディチに代わって教会軍総司令官を務める。

1515年8月

フランソワ1世、大軍を率いてCol d'Argentièreからアルプスを越えイタリアに侵攻。サヴォーナを海から攻めて制圧し、ジェノヴァを押さえ、トルトーナ、アレッサンドリア、アスティなどを占領。

オッタヴィアーノ・フレゴーソは、彼に忠誠を誓い、その総督としてジェノヴァを統治。

フランソワ1世軍の侵攻と同時にバルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍もロンバルディアに出撃。マントヴァ、クレモーナを制圧しフランソワ1世の名で占領。

1515年8月12日

フランソワ1世軍は、ミラノ軍、スイス連邦軍をヴィッラフランカで撃破し、その指揮官プロスペロ・コロンナを捕虜とする。後、カルロ・ディ・サヴォイアの盛大な歓迎を受けてトリノに軍を結集。

1515年9月13~14日

マリニャーノの戦い:フランソワ1世軍は、バルトロメオ・ダルヴィアーノの精鋭部隊も加えて、ミラノ軍、スイス連邦軍をミラノ近郊マリニャーノで撃破。

マッシミリアーノ・スフォルツァは、フランソワ1世のもとに使節を送ってミラノの鍵と大金の提供を約束するが、城塞はなお自ら確保。そのためフランソワ1世は、ミラノに入城せず城塞の攻撃を開始。

スイス連邦軍は、マリニャーノの敗北を機にイタリアから撤退し帰国。以後、独立した軍としてはイタリア戦争から姿を消す。

1515年10月4日

マッシミリアーノ・スフォルツァ、フランソワ1世に全面的に降伏し、フランスの地で終身年金を得ることを条件にミラノ公位を委譲。

1515年10月11日

ミラノに入城。

1515年12月11日~1515年12月14日

レオ10世とフランソワ1世、ボローニャで政教協約などにつき会談。この年10月の協定を共に確認した上、モデナ、レッジョのアルフォンソ1世・デステへの返還を求めるフランソワ1世に対し、両地を2ヶ月以内に割譲すると約束。しかし、アルフォンソ1世・デステから所定の金を得ながら期限後も両地を手放さず。

1515年末

フランソワ1世、ボローニャからミラノに帰着。

1516年1月初旬

フランソワ1世、フランスに戻る。

1516年3月14日

レオ10世は、前年秋の対フランソワ1世戦への参加拒否、フランソワ1世側への傾斜などにおける忠誠心の欠如を理由に、ウルビーノなどフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの教会領内の全領国を剥奪すると宣言。

1516年3月17日

ジュリアーノ・デ・メディチ死。妻フィリベルタ・ディ・サヴォイアは間もなくその母(すなわちフランソワ1世の母)ルイズ・ド・サヴォワのもとに帰る。これによりメディチ家とフランス王室の婚姻関係消滅。

1516年春~10月半ば

ヴェローナ、ブレッシャを巡ってフランソワ1世軍及びヴェネツィア軍、とりわけヴェローナ奪回を急ぐヴェネツィア軍と、マルカントーニオ・コロンナ指揮のマクシミリアン1世軍及びカルロス1世軍との間に戦闘続く。

1516年8月13日

ノワイヨン協定:スペイン王カルロス1世とフランソワ1世は、フランス・ノワイヨンで、カルロス1世はフランソワ1世のミラノ領有を承認すること、カルロス1世の祖父マクシミリアン1世が制しているブレッシャとヴェローナを彼が手放せばヴェネツィアに返還し、その代金をフランソワ1世とヴェネツィアが支払うこと、フランソワ1世は娘Louiseと共にその持参領としてナポリをカルロス1世に与え、以後ナポリ継承権を主張しないことを協定。

1516年8月18日

レオ10世、1515年12月ボローニャの会見でフランソワ1世より提起された政教協約を承認し、署名。これによりブールジュの国事詔書(1438年)は廃止されるが、フランソワ1世の王国内における実質上の聖職者任命権が承認され、ガリカニズムはむしろ確立される。

1516年秋/年末

レオナルド・ダ・ヴィンチ、フランソワ1世の招きに応じてイタリアを去りフランスに向かう。

1516年11月29日

フランソワ1世。自分に向けられた1516年10月19日の協定に対抗すべくスイス連邦とスイス・フリブールで永久平和協定を締結し、スイス連邦における傭兵募集権を得る代償にスイス連邦に対して年金を支給し続けることを約定。

1516年12月3/4日

ブリュッセル協定:フランソワ1世とマクシミリアン1世、ブリュッセルで、マクシミリアン1世は1516年8月のノワイヨン協定を承認し、ヴェローナなどをヴェネツィアに割譲することを協定。

1516年に締結された一連の協定、協約により第一次イタリア戦争終了し、イタリアにようやく平和が戻る。

1516年以降

レオ10世から、1516年制作の祝福された剣を拝受。

1517年3月11日

マクシミリアン1世カルロス1世、及びフランソワ1世は、カンブレーでイタリア分割及び相互安全保障を約定。

1517年

この頃?、レオ10世からフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレのウルビーノ奪還戦を秘密裡に支援していると思われていたフランソワ1世は、レオ10世のもとに使節を送り、その事実はないと弁明すると共にボローニャ会談(1515年12月)でのモデナ、レッジョのアルフォンソ1世・デステへの返還に関する約束を履行するよう迫る。これに対しレオ10世は、7ヶ月以内に履行するとの勅書を発するが、以後も依然として履行の姿勢を示さず。

1517年10月8日

フランソワ1世とヴェネツィア、ブロワ協定(1515年3月)を再び2年間更新。

1518年1月28日

ロレンツォ・デ・メディチ、フランソワ1世の一統に連なるブローニュ・オーヴェルニュ伯ジャン・ド・ラ・トゥールの娘マドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ(1501年~1519年)と婚約。これによりメディチ家とフランス王室との婚姻関係また生ずる。

1518年3月6日

オスマン・トルコのスルタンセリム1世の目覚しい軍備強化の動きを知ってそのキリスト教世界への侵攻を恐れるレオ10世、フランソワ1世、マクシミリアン1世カルロス1世ヘンリー8世などキリスト教諸国、諸権力者に勅書を送り、相互の一切の対立、紛争を5年間急死し、共に対トルコ防衛体制をとるよう訴える。

しかしヴェネツィアを初めとする諸国、諸権力者は、教皇の狙いはメディチ家の権勢拡大だとの不信と各自の権勢、権益の維持、拡大の野心とから、教皇の訴えを聞きながらそれぞれの策を進める。

1518年4月半ば

レオ10世、対オスマン・トルコ十字軍結成を訴えるべく、自分が取り立てた枢機卿たちベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナエジーディオ・ダ・ヴィテルボをそれぞれ、1518年4月13日フランソワ1世のもとへ、1518年4月16日カルロス1世のもとへ特使として派遣。

1518年4月28日

フランス・アンボワーズでロレンツォ・デ・メディチマドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュとの結婚式が盛大に行われ、華やかに祝賀される。

この結婚によりフランソワ1世はメディチ家の中に自らの手先同然の者を得たと広く見なされる。

1518年8月

マクシミリアン1世ヴェネツィア、フランソワ1世の仲介により5年間の休戦を協定。

1518年10月2日

ロンドン協定:1518年8月のフランソワ1世主導の協定を見たイングランドの大法官・枢機卿トマス・ウルジーヘンリー8世とフランソワ1世の間に平和協定を成立させ、ヘンリー8世の幼い娘メアリー1世(1516年~1558年:イングランド王1553年~1558年)とフランソワ1世の王太子フランソワ(1518年~1536年)の結婚を取り決めると共に、この協定へのマクシミリアン1世カール5世の加入の道を開く。これによりトマス・ウルジーは、レオ10世主導ではないヘンリー8世ないし自分主導のキリスト教諸国、諸権力者糾合をも視野に置く。

1518年11月14日

モデナ・レッジョの返還に関する1517年の勅書の履行を求めてきたアルフォンソ1世・デステレオ10世にその意のないことを確認させられ、フランソワ1世に助力を求めるべく自らパリへ赴くことを決意。

しかし、パリでは再三の懇願にも拘らず、すでにレオ10世との協調を最重視していたフランソワ1世から誠意ある回答を得られず、1519年2月帰国。

1518年12月

フランソワ1世、レオ10世の特使ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナを介して交渉を進め、自己の利益を引き出し確保しつつレオ10世との協調を深める。

1518年

フランソワ1世とカルロス1世は、ノワイヨン協定で定めたカルロス1世とフランソワ1世の長女Louiseの婚約が彼女の死亡(1517年)によって解消したため、この種の事態が生じた場合はカルロス1世はフランソワ1世の次女シャルロッテ(1516年~1524年)と婚約するとの同協定の条項を再確認。

1519年1月12日

マクシミリアン1世死。

神聖ローマ皇帝位をめぐるフランソワ1世(ヴァロワ家)とカルロス1世ハプスブルク家)の対立、闘争強まり、第二次イタリア戦争の兆し芽生える。

神聖ローマ皇帝選挙戦で争う両者それぞれと接触を保っていたレオ10世は、強者のイタリアにおける覇権確立を阻むべく、やや弱体なフランソワ1世を密かに支持。

1519年1月20日

レオ10世とフランソワ1世、相互防衛協定を締結。この9日後、レオ10世、フランソワ1世の大使に神聖ローマ皇帝選での支持を表明。

1519年3月

レオ10世神聖ローマ皇帝選でのフランソワ1世支持を公表し各方面に工作を行う。

1519年5月末~6月初旬

レオ10世神聖ローマ皇帝選でのフランソワ1世の勝利は不可能と知り、カルロス1世に対抗し得る第三の候補としてザクセン選帝侯フリードリヒ3世を考える。

1519年6月28日

カルロス1世は、南ドイツの諸都市、諸侯の支持、フッガー家などから得た巨額の資金による選帝侯の買収などによってフランソワ1世を圧倒し、フランクフルトにおける選帝侯会議で選帝侯7名全員一致の支持により帝位を得、Karl Vを名乗る(在位1519年~1556年)。但し、カール5世は選出されるに当たりフリードリヒ3世の起草した帝権制約のための選挙協定を進んで受容。

1519年10月22日

レオ10世とフランソワ1世、イタリアにおける相互の領国(メディチ家の支配領を含む)の安全保障協定を極秘裏に結ぶ。これによりフランソワ1世にナポリ王位を認めてカール5世に認めないこと、フランソワ1世はレオ10世によるフェッラーラの奪回を認めることを実質上、合意。

しかしマルティン・ルター及びルター派に対処する上でカール5世の協力を欠かせないレオ10世、この協定を知らずなおレオ10世の支持を信ずるカール5世とも裏面での折衝を続ける。

1520年6月7日~1520年6月24日

フランソワ1世、カール5世に対抗する同盟者を得るべく、Calais近郊Ardresの豪華な装飾を施した陣屋(「金襴の陣屋」)に参議会員トマス・モアらを従えたヘンリー8世を招いて会見し、盟約を求めるが合意に達せずに終わる。

1520年7月10日~1520年7月14日

フランソワ1世から対カール5世同盟を求められていたヘンリー8世、スペインからネーデルラントへの帰途上のカール5世Calais近郊Gravelinesに訪ねて会見し、対フランソワ1世同盟を秘密裡に協定。

1521年1月末

前年12月のカール5世との誓約を秘したままのレオ10世とこの誓約を知らぬフランソワ1世、フランソワ1世の提案により、フランソワ1世はナポリ領有を求めず第三者による領有を認め、かつレオ10世にフェッラーラ及びナポリ領の海岸線の領有を認める協定を、ヴェネツィアがこれを認めることを条件として締結。

1521年5月8日

レオ10世、フランソワ1世との1月末の協定に対する批准が遅れる間にその意図に不信を強め、一転してカール5世と、そのナポリ領有を改めて認めること、メディチ家のトスカーナにおける支配領を含めて相互に領国を防衛し合うこと、フランソワ1世からパルマ、ピアチェンツァを奪還して教会領に併合し、同じくミラノを奪還してルドヴィーコ・イル・モーロの子フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ(1495年~1535年:ミラノ公在位1521年~1524年、1525年、1529年~1535年)に統合させること、自身のフェッラーラ攻撃、奪還及びナポリ領内の一部領地のアレッサンドロ・デ・メディチ(1511年~1537年:メディチ家当主1529年~1537年:フィレンツェ元首1531年~1532年:フィレンツェ公1532年~1537年)への封与をカール5世が支持すること、などにつき秘密裡に協定し、1521年5月28/29日批准。

1521年春~夏

フランドル及びNavarraで、これらの地でのカール5世の支配を覆そうと狙うフランソワ1世の密かな支援を受けた者たちの、カール5世支配への反抗ないし攻撃が活発化すると共に、フランソワ1世軍も両地に侵攻。

1521年5月20日

フランソワ1世のNavarra攻撃に対してPampelona城塞を守備していたイグナティウス・デ・ロヨラが負傷。その療養中、回心し、「神の騎士」となることを期する。

この頃?、レオ10世は、フランソワ1世のジェノヴァ支配を打倒すべく、ジェノヴァから追放されているアドルノ家などにカール5世から借りた軍を与えてジェノヴァを攻撃させるが、攻撃を察知して防備を固めていたオッタヴィアーノ・フレゴーソ指揮の軍に撃退される。

1521年6月23~24日

ミラノのフランソワ1世軍の一部が、教会領に侵攻し、レッジョを攻撃。しかし教皇総督フランチェスコ・グイッチャルディーニの周到な警戒の前に攻略できずに終わる。

1521年6月29日

フランソワ1世軍の教会領レッジョ攻撃を口実に反フランソワ1世及び彼の軍のイタリアからの駆逐を宣言し、5月の同盟を公表。

1521年6月末

Navarraに侵攻したフランソワ1世軍は、Pampelonaの南でカール5世のスペイン軍に敗退。

1521年8月1日

第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グイッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世とカール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。

1521年8月25日

カール5世ヘンリー8世Brugesカール5世ヘンリー8世の娘メアリー1世と結婚すること、1523年3月に共にフランソワ1世に宣戦を布告すること、を盟約。

1521年8月29日~9月2日

プロスペロ・コロンナ総指揮の同盟軍(教会軍、フィレンツェ軍、カール5世軍)は、パルマを攻撃し一時、支配するが、新たにフェッラーラ軍の支援を受けたミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍を前にして後退。

1521年9月4日

レオ10世、フランソワ1世とその軍指揮官たちに対し、教会への数々の不正、裏切り、パルマ、ピアチェンツァの不当な占領、フィレンツェ商人への迫害などを理由に、15日以内に武器を置いてパルマ、ピアチェンツァを教会に返還しなければ破門すると警告。

1521年11月19日

プロスペロ・コロンナやペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらに指揮され、教皇特使ジューリオ・デ・メディチを加えた同盟軍の進撃を前に、ミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍及びTeodoro Trivulzio(1474年~1551年)ら指揮のヴェネツィア軍は、城塞に守備隊を残してミラノを撤退。同盟軍は、ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの名でミラノを制圧。

以後、同盟軍は、ナヴァーラ、アスティ、アレッサンドリア、パヴィア、ローディ、クレモーナ、パルマ、ピアチェンツァを相次いで占領し、パルマ、ピアチェンツァを教会領に併合。

1521年12月1日

同盟軍によるミラノ攻略の報を受けて歓喜した後病床に臥したレオ10世、パルマ攻略の報を受けたこの日、死。

フランソワ1世の教唆によってレオ10世を毒殺したとの嫌疑で、レオ10世の侍従官Bernabò Malaspinaが逮捕・投獄されるが間もなく釈放される。

1521年12月

枢機卿フランチェスコ・ソデリーニ、フランソワ1世の支援を得てシエナ領内にLorenzo Orsini(1475年~1536年)を指揮者とする傭兵軍を結成し、フィレンツェ攻撃、メディチ政権転覆を狙うが失敗。

1522年3月初旬

本国から援軍を得たロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、ヴェネツィア軍をも加えて、ミラノを奪還すべくロンバルディアに出撃。プロスペロ・コロンナ総指揮の同盟軍(主力はカール5世軍)と各地で激戦を展開。

1522年春

フランチェスコ・ソデリーニ、再びフィレンツェ攻撃、メディチ政権転覆を試みるが、フランソワ1世からの援軍がロンバルディアでの戦闘に向かったため失敗に終わる。

1522年4月27日

同盟軍は、スイス傭兵軍を含むフランソワ1世をミラノ近郊Bicoccaに破る。

1522年5月25/26日

同盟軍は、クレモーナを攻撃。守備していたフランソワ1世軍はやむなく同盟軍指揮官プロスペロ・コロンナと協定を結び、クレモーナ、ミラノ、ノヴァーラの3市の城塞を保持する他はロンバルディアから全面的に撤退することを約束。プロスペロ・コロンナはフランソワ1世軍の帰国の安全を保証。

1522年6月6日

この日?、フランソワ1世軍は、保持する城塞の守備隊を残してロンバルディアから撤退。

1522年6月19日

カール5世ヘンリー8世Windsorで協定を結び、前年8月の協定を改めて確認。これに従いヘンリー8世は、フランソワ1世に宣戦布告。

1522年11月29日

フランソワ1世を孤立させ、その新たなイタリア侵攻を阻止することを狙うカール5世、使節ジローラモ・アドルノをアルフォンソ1世・デステのもとへ送って折衝し、彼の領国支配の商人及びモデナ・レッジョの彼への返還を約束する代償に彼から巨額の軍資金を得ることを協定。

1523年4月14日

イタリアでミラノの城塞とクレモーナの城塞を制するだけとなっていたフランソワ1世軍は、同盟軍にミラノの城塞を奪われる。

1523年4月27日

フランチェスコ・ソデリーニ、フランソワ1世に艦隊で教皇領シチリアを攻撃してカール5世のロンバルディア駐在軍をそこにひきつけながらフランソワ1世自身が速やかに北部イタリアに侵攻するよう勧めたとされ、ハドリアヌス6世の命により深夜、逮捕されてサンタンジェロ城に幽閉される。この処置に、ハドリアヌス6世と親密でその施策に影響を与えることの多いジューリオ・デ・メディチの反ソデリーニ家の意図と周到な工作が強く働く。以後ジューリオ・デ・メディチ教皇庁内での力、とみに強まる。

1523年7月29日

この頃、1523年4月頃以来カール5世から使節ジローラモ・アドルノを、その死後は同じくMarino Caracciolo(1469年~1538年)を送られ、協定を求められてきた上に1523年7月半ばからはハドリアヌス6世からも強く促されていたヴェネツィアは、求めに応じてカール5世フェルディナンド及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとミラノ防衛の協定を結ぶ。カール5世によるフランソワ1世の孤立化、そのイタリア侵攻阻止の態勢、さらに強まる。しかしフランソワ1世はイタリア侵攻の意を弱めず軍を強化。

1523年8月3日

イタリアにおける戦闘の終息及びオスマン・トルコの攻撃に対するキリスト教世界の防衛を期するハドリアヌス6世、イタリア侵攻、ミラノ奪還の意図を捨てようとしないフランソワ1世に対抗すべく、カール5世ヘンリー8世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、フィレンツェ、シエナ、ジェノヴァなどと同盟を締結。

1523年8月上旬~9月下旬

フランソワ1世、母后ルイーザ・ディ・サヴォイア(1476年~1531年)を摂政に任命し、強大な軍を結集して自らイタリアに侵攻する態勢を整える。

1523年9月11日

1521年死亡した妻シュザンヌ・ド・ボージューの遺領をフランソワ1世とその母后ルイーザ・ディ・サヴォイアから要求されて両者と対立していたブルボン公シャルル・ド・ブルボン(1490年~1527年)は、カール5世陣営に投じ、両者と決定的に敵対。

これによりフランソワ1世は、軍を指揮して自らイタリアに侵攻することを断念し、指揮を提督Guillaume de Bonnivetに委ねる。

1523年9月上旬~中旬

Guillaume de Bonnivet指揮のフランソワ1世軍は、アルプスを経てアスティ、アレッサンドリア、ノヴァーラを占領した後、1523年9月半ば、ロンバルディアに進軍してミラノに迫る。病身のプロスペロ・コロンナが指揮する同盟軍が、急ぎミラノ防衛態勢をとる。

1524年1~2月

この頃?、教皇クレメンス7世、フランソワ1世などキリスト教君主間の戦いには介入しないと言明しながら秘密裡にカール5世に多額の軍資金を送り、フィレンツェに対してもカール5世を支援するよう指令。

1524年3~4月

Guillaume de Bonnivet指揮のフランソワ1世軍と、Charles de Lannoy指揮のカール5世軍を主力としてシャルル・ド・ブルボン軍、フェルディナンド軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ総指揮のヴェネツィア軍、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍を結集した同盟軍が、ミラノ攻防を巡って激戦。フランソワ1世軍の敗色濃厚となる。

1524年4月10日

カール5世のイタリアにおける覇権確立を恐れたクレメンス7世、フランソワ1世のイタリア侵攻、ミラノ攻撃に敵対する方針を変更することを内心密かに決め、この日フランソワ1世の使節に自分は決してカール5世に与するものではないと言明。

1524年5月

フランソワ1世軍は、ミラノ攻防戦に決定的に敗北し、撤退。カール5世は、ミラノを制圧。

1524年9月29日

マルセイユを包囲していたシャルル・ド・ブルボン指揮の軍は、フランソワ1世がアヴィニョンに大軍を結集との報に包囲を解き、ミラノを防衛すべく急ぎイタリアに戻る。

1524年10月26日

フランソワ1世軍は、ミラノを攻略。続いて1524年10月27/28日パヴィアを包囲。

1524年11月9日

クレメンス7世、フランソワ1世のもとに使節Gian Matteo Gibertoを送り、この日、彼のミラノ及びパヴィア攻撃に反対しないことを伝える。

1524年12月初旬

この頃までにクレメンス7世カール5世陣営にあったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレに対して、アルフォンソ1世・デステからフランソワ1世陣営への物資輸送の安全を期すよう指令。1524年12月10日物資はジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの保護の下、輸送される。

1524年12月12日

クレメンス7世、フランソワ1世と、自分は彼に敵対する者に軍を与えず、彼のミラノ領有を認め、彼は教会領及びメディチ家の支配するフィレンツェを防衛することを秘密裡に協定。

1524年

フランソワ1世の妻クロード・ド・フランス死。

1525年2月24日

Charles de Lannoy総指揮のカール5世軍(=ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス指揮の軍とシャルル・ド・ブルボン指揮の軍)は、前年10月以来パヴィア包囲していたフランソワ1世軍を破る。フランソワ1世は負傷して捕虜となり、クレモーナ近郊Pizzighettoneに幽閉される。彼の将軍ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ(1460年~)、Guillaume de Bonnivet(1488年?~)らは戦死。カール5世軍の指揮官ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらは負傷。

1525年2月26日

パヴィアにおけるフランソワ1世の敗北、捕囚の報をローマで得たクレメンス7世、夢にも思わなかった事態に呆然。イタリアの諸権力者、諸国もカール5世のイタリアにおける覇権の脅威に脅え始める。

1525年3月7日~半ば頃

パヴィアでの敗戦、フランソワ1世の捕囚の報が伝えられたフランス王宮は、シャルル・ド・ブルボン軍とヘンリー8世軍の侵入の恐れも覚えて混乱。母后、摂政ルイーザ・ディ・サヴォイアカール5世のもとに使節を送ってミラノ及びナポリ継承請求権の放棄、ブルボン公領の返還、カール5世のブルゴーニュ公就任の承認などを伝えると共に、クレメンス7世とヴェネツィアにも使節を送ってフランソワ1世の身柄の安全を懇願。

1525年3月

パヴィアでのカール5世軍の勝利を見て彼に対抗すればロマーニャの教会領をことごとく失いかねないばかりかフィレンツェでのメディチ支配も危うくなると感じたクレメンス7世と、自軍の兵士への報酬やフランソワ1世の身柄の取り扱いについてクレメンス7世との折衝を望むCharles de Lannoyは、秘密裡に折衝。クレメンス7世はヴェネツィアを折衝に引き入れようと試みるが、カール5世の覇権を嫌うヴェネツィアはCharles de Lannoyの求める金の支払いも嫌ってこの試みに乗らず。

1525年6月7日

Charles de Lannoyは、カール5世陣営の指揮官ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスシャルル・ド・ブルボンにもイタリアの君主たちにも知らせず、彼らの意図に反して独断でフランソワ1世をジェノヴァからカール5世のいるスペインに向けて海路、護送させる。陣営内でのCharles de Lannoyへの反発、強まる。

フランソワ1世のスペイン護送を知ったクレメンス7世らイタリアの諸権力者、諸国の間に、カール5世とフランソワ1世の間でイタリア分割支配を条件として和が図られるのではとの不安、生ずる。

1525年7~8月

フランソワ1世のスペイン護送などを巡ってCharles de Lannoyフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスなどとの間に生じた不和を利用してカール5世陣営を分断し、その支配から免れようと企むフランチェスコ・マリーア・スフォルツァの副王Girolamo Morone(1470年~1529年)、密かにルイーザ・ディ・サヴォイアクレメンス7世及びヴェネツィアの支持・参加を得て反カール5世同盟を結成。フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに同盟軍の最高指揮官ともナポリ王ともするとの条件を示して彼を陰謀・同盟に引き入れる。

1525年8月10日

この頃?、フランソワ1世、マドリードの城塞に軟禁される。

1525年8月30日

ルイーザ・ディ・サヴォイア、フランソワ1世の名でヘンリー8世と対カール5世協定を結ぶことに成功し、フランスの支配領はたとえフランソワ1世の救出・解放のためでもカール5世に委譲しないことを条件として、ヘンリー8世からフランソワ1世の救出・解放に尽力するとの約束を得る。

1525年11月12日

フランソワ1世、マドリードの軟禁先からパリ高等法院にこの日付の書簡を送り、J. Lefèvre d'Etaplesらグループの追及を直ちに中止するよう命令。

1525年12月

ルイーザ・ディ・サヴォイアスレイマン1世のもとに特使を送り、自筆の書簡で息子フランソワ1世の救出・解放に助力するよう懇請。

1526年1月14日

マドリード協定:カール5世とフランソワ1世は、カール5世はイングランドとフランスの提携、自分のイタリアにおける支配力の強化を恐れるイタリアの諸権力者、諸国のフランスへの傾斜を見て、フランスとの対立を回避するのを得策と考え、フランソワ1世は自分の身柄の解放を何よりも望んで、子息フランソワとアンリ(1519年~1559年:フランス王在位1547年~1559年)を人質として釈放されること、ミラノ、ナポリ、ジェノヴァ、フランドル、アルトワ、Tournai、ブルゴーニュなどの支配権ないしはその要求権をカール5世に委譲すること、カール5世の姉で前ポルトガル王故Manoel Iの後室レオノール・デ・アウストリア(1498年~1558年)と結婚することなどを協定。

カール5世のイタリア人重臣、法務卿Mercurino Arborio di Gattinaraはフランソワ1世が自由の身となった時にこれを遵守するはずがなく、これはフランソワ1世をより恐るべき敵とするだけだとしてこれに署名することを拒否し、カール5世は1526年2月11日自らこれに署名。

この協定の報が伝わるに連れ、自由の身になればフランソワ1世はこの協定を守るはずがないと広く、とりわけイタリア各地で広く信じられる。

1526年2月

ルイーザ・ディ・サヴォイアが1525年12月スレイマン1世のもとに送った特使、フランソワ1世の救出・解放を援助するとのスレイマン1世の書簡を持って帰る。

1526年3月17日

フランソワ1世、マドリード協定(1526年1月)により2人子息フランソワ、アンリを人質として残して釈放され、帰国。

1526年3月末~4月初旬

クレメンス7世及びヴェネツィア、それぞれフランソワ1世のもとに使節を送り、マドリード協定は強制的に締結させられたもので無効であると伝えると共に、彼の協定についての真意を確認しながら協同でカール5世に反抗するよう勧奨。フランソワ1世は協定に拘束される意志のないことを伝える。

加えてクレメンス7世、戦争は不可避と見、フィレンツェの防備を固めるべくスペイン人軍事技術者Pedro Navarraをフィレンツェに派遣。

1526年4月20日

クレメンス7世は、フィレンツェ人ロベルト・アッチャイウオリをフランソワ1世の宮廷駐在大使に任命し、フランソワ1世との関係の緊密化を図る。

1526年5月22日

コニャック同盟:クレメンス7世、ヴェネツィア、フランソワ1世及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァは、共にカール5世と戦うこと、ミラノ、ジェノヴァ、ナポリなどカール5世の配下の地を攻撃・奪還すること、ミラノはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに、ジェノヴァとナポリはフランソワ1世に与えることなどについて合意し、フランス・アングレームのコニャックで秘密裡に同盟を締結。直ちに同盟軍を起こす。

1526年6月14~23日

エラスムス、直接フランソワ1世、パリ高等法院及びパリ大学神学部に書簡を送り、思想検察に慎重を期すよう勧奨。

1526年7月19日

全く行動を起こさないフランソワ1世にヴェネツィア、フィレンツェなどコニャック同盟諸国が苛立つ中、クレメンス7世、フランソワ1世のもとに特使を送り、同盟の義務に従って軍を派遣するよう求める。しかし約束を得ただけで無駄に終わる。

1526年

この頃までにクレメンス7世、自分のコニャック同盟軍結成以来何の行動も起こさないフランソワ1世に書簡を送り特使を送って支援を求める。しかし言葉以外何の反応も得られず、クレメンス7世及びフィレンツェなどイタリア諸国の孤立感、深まる。

1527年2~3月

クレメンス7世R. di Ceriら指揮の陸軍に引き続きアクイラTagliacozzoなどコロンナ家領を攻撃させると共に、アンジュー家のナポリ継承請求権を継承するVaudémontRégnier指揮の艦隊(教皇軍、ヴェネツィア軍、フランソワ1世軍)にCastellammare di StabiaTorre del GrecoSorrentoなどナポリ湾岸各地を、さらにサレルノを攻撃、占領させる。

1527年4月25日

クレメンス7世は、フランソワ1世及びヴェネツィアと新たに協定を結び、コニャック同盟に再加入。

1527年4月25~26日

シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、フィレンツェ南方30キロのサン・ジョヴァンニ至る。

コニャック同盟軍(サルッツォ侯ミケーレ・アントーニオ(?~1528年:在位1504年~1528年)ら指揮のフランソワ1世軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮のヴェネツィア軍、グイド・ランゴーニ指揮の教皇軍)は、フィレンツェ北方10数キロのバルベリーノに結集し、カール5世軍に対するフィレンツェ防衛策を協議。協議後、フィレンツェとカール5世軍の布陣するサン・ジョヴァンニとの中間地点Incisaに向かってフィレンツェ郊外に近づく。

1527年4月30日

この日?、ヘンリー8世とフランソワ1世、娘メアリーとフランソワ1世ないしはフランソワ1世の第二子アンリとの結婚、ヘンリー8世のコニャック同盟及びフランソワ1世が7月に予定している対カール5世戦への加入、カール5世に対するフランソワ1世の子息の釈放要求などをロンドン・ウェストミンスターで協定。

1527年5月15日

イタリアをカール5世の配下に放置したくないフランソワ1世、ヴェネツィアと、共同でスイス人傭兵を雇うこと、自軍をイタリアに派遣すること、ヴェネツィアはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと共に兵を調達することを協定。

1527年5月18日

ヘンリー8世とフランソワ1世は、クレメンス7世の救出、解放を目指すことで合意し、ヘンリー8世は以後6ヶ月間フランソワ1世に軍資金を提供することを約定。フランソワ1世は間もなくオデ・ド・フォワ指揮の大軍(フランス人、スイス人、イタリア人兵)をアスティに結集。

1527年6月末/7月

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍が、イタリアに侵攻。

1527年8月3~18日

ヘンリー8世の代理トマス・ウルジーと自ら登場してきたフランソワ1世は、フランス・ピカルディのAmiensで、フランソワ1世の2名の子息の釈放、クレメンス7世の釈放、教会領の保全、イタリア諸国の旧状復帰などを条件とする和解をカール5世に要求することを協定。しかしカール5世にこの要求を拒絶され、1527年8月18日に協定を公表すると共に、クレメンス7世の釈放、対カール5世戦争の完遂を改めて約定。

1527年8月19日~下旬

この日頃から?、オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍、陸からチェーザレ・フレゴーソ(1502年?~1541年)らが、海からジェノヴァの海将アンドレア・ドーリア(1466年~1560年)がジェノヴァを攻撃し占領。アントニオット・アドルノはドージェの座を追われ(在位1522年~)、代わってTeodoro Trivulzioオデ・ド・フォワにより総督に任命されてジェノヴァはまたフランスの配下に陥る(~1528年)。

1527年8~9月

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、アレッサンドリア、ノヴァーラなどを攻撃し制圧。

1527年9月末~10月初頭

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、パヴィアを攻撃し占領。全市に渡って略奪の限りを尽くす。

1527年

フランソワ1世、シャルル・ド・ブルボンの所領の大部分を没収し、ルイーザ・ディ・サヴォイアに与える。

1528年1月21日

スペイン・Burgosに滞在するカール5世のもとにそれぞれ特使を送り、フランソワ1世の2人の子息の釈放、返還、フランソワ1世軍のイタリアからの撤退などについて折衝していたフランソワ1世と彼は、解答を引き延ばすカール5世に対して正式に宣戦を布告。

ボローニャまで進撃していたフランソワ1世軍は、ナポリを目指してマルケ経由で南進。

1528年2月10日

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、トロント河に着き、ナポリ領アブルッツォに入る。Chietiアクイラなど各地を次々に占領、略奪しながら進撃。

1528年3月半ば

この頃、Lucera近くでフィレンツェ軍を配下に加えるなど威勢を増したオデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、トロイアでフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍と対峙。後者は前者の威力を見て戦わずに退却。

1528年3月下旬~4月

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、分隊を派遣して各地を占領するなど目覚しい進撃を続け、Puglia及びカラブリアの大部分を制圧。ウク・デ・モンカーダ指揮のカール5世軍はナポリ城下まで撤退し、ナポリ防衛を図らざるを得なくなる。

1528年4月末~5月初旬

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、ナポリに接近、市街直前ポッジョ・レアーレに布陣し包囲態勢を取り始める。フィレンツェ軍、マントヴァ軍、フェッラーラ軍は共に小軍ながら包囲陣に加わる。

1528年6月10日

ヴェネツィアの艦隊は、ナポリ湾に着き、包囲に加わる。しかし、フランソワ1世による処遇に不満を抱いていたアンドレア・ドーリアの密命を受けた甥フィリッポ・ドーリアがすでに湾の封鎖を緩和していたため、スペインからの補給輸送船は入港できるようになる。

1528年6月下旬

フランソワ1世による自身の処遇、艦隊の維持費不払い、ジェノヴァへのサヴォーナ返還問題などに強い不満を抱くアンドレア・ドーリア、6月末の傭兵契約期限終了を前に、フランソワ1世の説得を振り切って契約更新を拒否。

1528年8月末

すでにそのナポリ包囲態勢が大きく崩れていたMichele Antonio指揮のフランソワ1世軍、市の前から近郊Aversaに撤退。これをフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍が追撃し、Aversaを急襲。フランソワ1世軍、ほとんど壊滅し降伏。フランソワ1世主導によるナポリ奪還戦、完敗に終わる。

1528年9月9日

アンドレア・ドーリアカール5世の支持の下、ペストの蔓延によってフランソワ1世の総督Teodoro Trivulzioの守備態勢が弱化しているジェノヴァを海上から包囲。

1528年9月12/13日

アンドレア・ドーリア、少数の軍を率いてジェノヴァに入り、反乱を起こした市民と共にTeodoro Trivulzioを破る。ジェノヴァはフランソワ1世の支配を脱しカール5世の保護の下で「自由」を得る。

1528年9月14~19日

François I de Bourbon指揮のフランソワ1世軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮のヴェネツィア軍と共にパヴィアを包囲し占領。凄まじい略奪・破壊を行なう。

1528年10月6日

クレメンス7世、ヴィテルボを発ち、略奪、破壊とペストによって甚だしく荒廃し人口も半減したローマに戻る。

以後、クレメンス7世アルフォンソ1世・デステへの復讐、フェッラーラ、モデナ、レッジョの奪還を策すと共に、フランソワ1世に対してイタリアで圧倒的な優位を占めつつあるカール5世との和解の方途を探り始める。

1528年10月23日

サポヤイ・ヤーノシュ、フランソワ1世、サポヤイ・ヤーノシュフェルディナンドに対抗するためフランソワ1世から支援を得ることを、フランソワ1世はサポヤイ・ヤーノシュにハプスブルク家を牽制させることを狙い、協定。

1528年10月27日

ジェノヴァは、フランソワ1世によって分離されていたサヴォーナに軍を送り奪還。

1528年

クレメンス7世側近との文通によってクレメンス7世カール5世の接近の動きを知ったニッコロ・カッポーニ、両者の同盟がフィレンツェに極めて大きな危険をもたらすと深く憂慮し、クレメンス7世自身と和解できないまでも彼が同盟しようとしているカール5世とは和解すべしとプラティカなどで力説するが受け入れられず、依然フランソワ1世との同盟策が大勢の支持を得る。ニッコロ・カッポーニ、落胆。

1528年12月初旬

ニッコロ・カッポーニ、画策して最大の政敵Baldassarre Carducciをフランソワ1世宮廷駐在大使に棚上げし、言わば国外に追放。

1529年7月初旬

この頃までフランソワ1世及びその側近、フランソワ1世自身やその2人の子息の生命に賭けても同盟国を守る、フィレンツェはフランソワ1世の結ぶあらゆる和平に加えられると繰り返し言明。

1529年7月

フランソワ1世宮廷駐在副大使Bartolomeo Cavalcanti(1503年~)、カンブレーに行き両貴婦人の交渉を見守る。

1529年7月7日

この日頃、カール5世の叔母、かつての後見人マルグリット・ドートリッシュ(1480年~1530年:ネーデルラント総督在位1507年~1515年、1519年~1530年)とフランソワ1世の母ルイーザ・ディ・サヴォイア、それぞれカンブレーに着き、直ちに和平交渉に入る。

1529年7月12日

フィレンツェに、カンブレーにおけるカール5世、フランソワ1世両陣営の和平交渉の報が届き、脅威の念をもって受け取られる。トンマーゾ・ソデリーニは再びプラティカカール5世のもとに使節を派遣するよう主張するが、フランソワ1世を信じるとの多数意見にまた退けられる。

1529年7月19日

アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィ(1486年~1537年)は、カール5世と戦うことは無防備のフィレンツェにとっては自殺行為に等しいとプラティカで力説するが、フランソワ1世の意図に関するより正確な情報を待つとの意見が多数を占める。

1529年8月3日

フランソワ1世、フィレンツェ大使Baldassarre Carducciに、フィレンツェの同意なしには何事も決めずと公言。

1529年8月5日

カンブレーの和(貴婦人の和):マルグリット・ドートリッシュルイーザ・ディ・サヴォイアは、カール5世はフランソワ1世から巨額の身代金を得てその2人の子息を釈放すること、フランソワ1世はナポリ、ミラノ、アスティなどイタリア各地への継承請求権及びフランドル、アルトワ、TournayArrasへの継承請求権を放棄すること、カール5世はブルゴーニュを要求しないこと、フランソワ1世の同盟国ヴェネツィア、フィレンツェ、アルフォンソ1世・デステは4ヶ月以内にカール5世と和解すればこの和平に加えられること、フランソワ1世はカール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚することなどを協定。

これにより、イタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。

1529年8月

フランソワ1世の再三の公約を信じてきたフィレンツェは、それに反するカンブレーの和によりイタリア内外で孤立。

1529年8月17日

プラティカは、ジェノヴァのカール5世のもとに使節団、前正義の旗手で親カール5世派のニッコロ・カッポーニ、親フランソワ1世派のトンマーゾ・ソデリーニラッファエーレ・ジローラミ、マッテオ・ストロッツィを送ることを決める。

1529年12月23日

永久同盟:クレメンス7世カール5世フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァカルロ3世・ディ・サヴォイアフェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。

これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。

1530年3月24日

フランソワ1世、G. Budé人文主義者の勧告をいれ、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の学者6名からなる「王立教授団」(Lecteurs royaulx)をパリに設置。以後これはこの世紀を通じてパリ大学神学部に対抗する人文主義者の牙城となる。さらに変遷を経て19世紀に王政が復古した際Gollége de France(フランス学院)となり、現代に至る。

1530年5月5日

この頃フランソワ1世、支援を、ことに財政的支援を繰り返し求めるフィレンツェ大使Baldassarre Carducciに、自身の2人の子息が釈放されたら援軍を送ると、同じく繰り返し約束。孤立したフィレンツェは依然としてフランソワ1世の言葉にすがり続ける。

1530年6月14日

フランソワ1世の2人の子息が釈放され帰国したらしいとの報が届き、自由な行動が可能となったフランソワ1世の支援が得られるとの希望が強まると共にしないに歓喜の波、一気に広がる。

1530年6月21日

フィレンツェの十人委員会の委員Iacopo GherardiAndrea Tebaldiらが参画しているクレメンス7世毒殺の陰謀を聞き知ったマラテスタ・バリオーニカール5世軍陣営に通報。

ペルージアを追われてフィレンツェ軍指揮官に留まった後もフィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世に使者を送って接触を持ち続けると共に、この年4月からはフランソワ1世の宮廷にも使者を送って彼にはその言葉に反してフィレンツェ支援の意図がないことを感得していたマラテスタ・バリオーニは、自身のペルージア復辟の意図を実現するにはカール5世クレメンス7世側につくのが有利と判断していたが、この陰謀の通報により、フィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世の信頼を得始める。

1530年6月下旬

クレメンス7世を自陣に引き入れてカール5世に対抗させたいフランソワ1世、子息が釈放されたから約束のフィレンツェ支援をと催促するBaldassarre Carducciに、カール5世の全ヨーロッパ制覇を防ぐために自分とクレメンス7世ヘンリー8世フィレンツェの同盟が必要だと説き、これを実現するためフィレンツェクレメンス7世と和解せよと指示。

1530年7月7日

フランソワ1世、マドリード協定(1526年)及びカンブレーの和により、カール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚。

1530年8月

フランソワ1世の支援への期待が虚しいことを感得しつつあった市民の希望を繋ぐ唯一の存在Francesco Ferrucciの死と共に、活路を開く最後の切り札的な決死の試み、壊滅。

1530年8月6日

フランソワ1世に支援を求め続けてきたBaldassarre Carducci、もはやフィレンツェに展望はないことを痛感しながらアングレームで客死(1456年~)。

1531年1月5日

フェルディナンド、帝国内外の諸問題、宗教改革、オスマン・トルコの進出、フランソワ1世との角逐に対処するためドイツにおける可能な限り強力な代理人を必要とするカール5世の命を受けたアウグスブルク帝国議会により、金印勅書(Goldene Bulle (Bulla Aurea):1356年)の規定に反してローマ人の王に選出される。1531年1月11日アーヘンで戴冠。

1531年4月25日

クレメンス7世、前年に繰り返して公会議開催を求めてきたカール5世に対し、フランソワ1世の反対の続く限り応じられないと書面で回答。

1531年5月

メディチ家を神聖ローマ皇室のみならずフランス王室の一統にも連ねてアレッサンドロ・デ・メディチによるフィレンツェ支配体制を固めたいクレメンス7世と、カール5世に対抗してミラノ、ジェノヴァを始めイタリア各地を再び制圧したいフランソワ1世の特使、枢機卿Gabriel de Gramont(1480年頃~1534年:在位1530年~1534年)は、ローマでカトリーヌ・メディシスとフランソワ1世の第二子アンリ・ド・ヴァロワとの結婚について秘密裡に合意。

1532年8月13日

フランソワ1世、Nantesでフランスとブルターニュの併合の勅令を発し、王権の下にブルターニュを正式に統合。

1532年10月20日~10月29日

アン・ブーリン(1507年頃~1536年)やトマス・クロムウェルを伴ったヘンリー8世とフランソワ1世は、ブーローニュとCalaisで会見。カール5世に対する防衛同盟を確認しクレメンス7世をそれに引き入れることで合意すると共にヘンリー8世の婚姻無効問題について協議。

1532年12月15~20日

クレメンス7世カール5世、ボローニャで断続的に会見。カール5世は、(19ドイツの宗教上の対立を解決する唯一の策としての公会議の即時開催、(2)ジェノヴァ及びミラノをフランソワ1世から防衛するためのイタリア同盟の締結、(3)ミラノ防衛のためのカトリーヌ・ド・メディシスフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとの結婚を提案。

クレメンス7世は、(1)についてはキリスト教君主、諸侯、都市の事前の了解が必要との口実で回答を引き延ばし、(3)についてはフランソワ1世との合意を盾に回答を渋るなど、会見はカール5世の意を満たさぬ状態を続ける。但しカール5世は、3についてはフランソワ1世がメディチ家などとの婚姻を重視することはあるまいと楽観。

1532年12月

ブルターニュ地方三部会、フランソワ1世のブルターニュ併合の勅令を承認。

1533年1月初旬

カール5世の予想に反して第二子アンリ・ド・ヴァロワカトリーヌ・メディシスとの結婚を急ぐフランソワ1世の2名の全権使節、枢機卿François de Tournon(1489年~1562年:在位1530年~1562年)とG. de Gramont、ボローニャに着き、クレメンス7世と協議。

1533年5月3日

クレメンス7世とフランソワ1世の2名の全権使節François de TournonG. de Gramontアンリ・ド・ヴァロワカトリーヌ・ド・メディシスとの結婚及びクレメンス7世とフランソワ1世のニースにおける会見について正式に合意。

1533年9月26日

クレメンス7世、フランソワ1世の使節の勧めに従い、ヘンリー8世破門の発行を1ヶ月延期。

1533年10月11日

カルロ・ディ・サヴォイアがカール5世の圧力を受けてクレメンス7世・フランソワ1世会談の自領ニースでの開催を断ってきたためにその会談の場とされたマルセイユに、この日クレメンス7世、リヴォルノから海路到着し、1533年10月12日14名の枢機卿と60名余の高位聖職者を伴って市外に入る。

1533年10月13日

フランソワ1世、王妃レオノール・デ・アウストリアと2名の王子を初め200名に上る上級貴族を伴ってマルセイユに着く。

以後、クレメンス7世とフランソワ1世、この地で秘密裡に会見を繰り返す。クレメンス7世はフランソワ1世にミラノへの進出を認め、フランソワ1世はクレメンス7世に自国での異端の撲滅を約束か?

1533年10月27日

クレメンス7世とフランソワ1世は、カトリーヌ・メディシスアンリ・ド・ヴァロワとの結婚契約に調印。1533年10月28日盛大に結婚式が行われる。これによりクレメンス7世メディチ家をフランス王室の一統に連ねる目的を達成。

1533年10月31日

クレメンス7世、フランソワ1世の要請を容れ、ヘンリー8世破門の発行をさらに1ヶ月延期。

1533年11月7日

クレメンス7世、フランソワ1世の強い要請の下、カール5世陣営の枢機卿の反対を押し切ってフランソワ1世の推す4名を枢機卿に任命。

1534年7月24日

スイスの支援を期待できなくなったフランソワ1世、王令によってノルマンディー、ブルターニュ、ピカルディ、ブルゴーニュ、シャンパーニュなど7地方に各6千名の市民からなる常備の歩兵軍団を編成するよう命じ、近代フランス国民軍の基礎を据える。

1534年10月17日~10月18日

カール5世への対抗上、教皇とシュマルカルデン同盟諸侯の双方に宥和策をとるフランソワ1世に新教徒側内部でも幻想的な期待が生じていたフランスで、ローマ教会のミサを罵倒し、教皇との妥協に傾くルター派を叱咤し、新教の信仰原理を真正面から対置する激越なビラがパリ、ブロワ、ルーアンなど各都市で、深夜、一斉に貼り付け・撒布され、アンボワーズ城のフランソワ1世の寝室の前にまで置かれる。(檄文事件)

パリ高等法院、パリ大学神学部及びフランソワ1世、直ちに異端撲滅に動き出し、異端容疑者を次々に検挙。

1534年10月31日

アルフォンソ1世・デステ死。——その子エルコーレ2世・デステ(1508年~1559年)、フェッラーラ、モデナ、レッジョ公となる(在位1534年~1559年)。

1534年11月13日

檄文事件に関連するフランスの異端弾圧で最初の火刑、執行される。以後、数日中に検挙者2百名余、火刑者20名余にのぼる。

1535年1月13日

フランソワ1世、この日、一切の印刷・出版禁止の勅令を発布。

1535年2月1日

1534年の檄文事件後の新教徒弾圧によってドイツ新教徒側諸侯との和解がはた売ることを恐れた、G. du Bellay、フランソワ1世に進言し、これら諸侯に対して、新教徒弾圧は宗教上の理由によるものではなく弾圧されているのは政治的反乱を目指した革命家・謀反人だけであると弁明する自筆の文書を、フランソワ1世の名で送る。

1535年6月23日

フランソワ1世、G. du Bellay、の進言をいれてMelanchthonに公式招請状を送り、宗教統一と教会の再建についてフランスの神学者と議論して欲しいと懇請。

1535年7月16日

フランソワ1世、新教徒に好意的なAntoine du Bourg(1490年以前~1538年)を大法官に任命(在位~1538年)。さらに、異端容疑者追及を停止し6ヶ月の期限付きで改悛者の帰国と押収財産の返還を認めるCoucy王令を発するが、実効を挙げ得ずに終わる。

1535年

亡命者たち、ナポリカール5世のもとに行きアレッサンドロ・デ・メディチの暴政を訴えるが、共和政とその下での自由を標榜する共和制派と、貴族寡頭政とその下での自らの地位・特権の保全を目指す貴族・枢機卿の主張の対立が顕著になる。

彼らをフランソワ1世のもとに走らせたくないカール5世、彼らを留めながらアレッサンドロ・デ・メディチを通しての自身によるフィレンツェ支配を強化する方途を探る。

1535年

ルドヴィーコ・イル・モーロの庶子、カラヴァッジョ侯、CalliateGiampaolo Sforzaスフォルツァ家の嫡流が絶えたことを理由にミラノ公位の継承を望み、それをカール5世に承認させてくれるようパウルス3世に懇願すべくローマに向かうが、途中フィレンツェで急死(1497年~)。

フランソワ1世、ミラノ継承請求権を主張し、息子アンリ・ド・ヴァロワにミラノを与えるよう要求。

1535年

この年から翌1536年2月にかけてフランソワ1世、使節Jean de La Forêtをイスタンブール(コンスタンティノープル)に派遣してスレイマン1世と交渉。

1536年2月

フランソワ1世、ミラノ継承請求権及び領土継承権を主張して軍をサヴォイアに進攻させ、カール5世の側に立つ公カルロ3世・ディ・サヴォイアを追放。さらに軍をピエモンテに進攻させる(第3次カール5世・フランソワ1世戦争(~1538年))。

1536年2月

この頃までにフランソワ1世の使節Jean de La Forêt、イスタンブール(コンスタンティノープル)でスレイマン1世Capitulation(和平通商協定)に署名か?

1536年4月17日

カール5世パウルス3世初め枢機卿及びフランソワ1世の大使を含む君主の駐教皇庁大使たちが居並ぶ前で演説し、フランソワ1世を、長年にわたって違約を続け、好戦的野望を満たそうとしていると激しく非難。

1536年5月11日

フランソワ1世、自分に対するカール5世の非難演説(1536年4月)への反論をパウルス3世に送る。1536年5月25日、反論は枢機卿及び教皇庁駐在大使たちの前で読み上げられる。

1536年7月25日

この日頃カール5世、フランソワ1世に反撃すべく大軍を3隊に分け三方からプロヴァンスに入り各地を攻撃させるが、折からの暑さ、フランソワ1世の総督アンヌ・ド・モンモランシー(1493年~1567年)の焦土化作戦による食糧調達の困難化、ペストの発生、などにより進軍に難渋し停滞。

1536年9月5日

フランソワ1世、カール5世との戦闘が続いている現状ではフランスの聖職者をマントヴァに送ることはできないと言明し、パウルス3世マントヴァ公会議開催の勅令(1536年6月)を拒絶。

1537年1月8日

午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グイッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。

インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。

午後、フランチェスコ・グイッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。

夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グイッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリフランチェスコ・グイッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。

深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。

1537年4月24日

ロレンツィーノ・デ・メディチを叛徒とみなし、この逮捕者ないし殺害者に賞金を与えると布告される。

ロレンツィーノ・デ・メディチは現フィレンツェ体制打倒への支援を求めながらミランドラからイスタンブール(コンスタンティノープル)へ、さらにフランスのフランソワ1世宮廷へと逃亡を続ける。

1538年5月17日

公会議の早期開催とオスマン・トルコの脅威への対策についてキリスト教諸国の和解・同盟を実現すべくニースでのカール5世とフランソワ1世の会見を提案してきたパウルス3世、1538年3月23日ローマを発ち、この日ニース郊外に到着。以後、カール5世と1538年5月19日、1538年5月21日、1538年6月3日、1538年6月9日の4回、フランソワ1世と1538年6月2日、1538年6月13日、1538年6月17日の3回、個別に会談。

しかし、カール5世とフランソワ1世の直接の会談はついに実現できないままに終わる。

1538年7月14日~7月16日

カール5世とフランソワ1世、フランス南部エーグ=モルトで会見し、オスマン・トルコ、ルター派及びイングランドに共に対決することで合意。ニースの和議に続く両者の協調により、ヨーロッパに平和の気運、強まる。

1539年1月12日

カール5世とフランソワ1世、相互の同意なしに他者と新しい同盟を締結しないことなどをトレドで協定(トレド協定)。

1539年12月

この月?、ヴェネツィアとオスマン・トルコとの和平を知ったカール5世とフランソワ1世、それぞれ特使をヴェネツィアに送って和平破棄を勧奨。ヴェネツィアはこれを丁重に無視し、さらに和平を求める方針を固める。

1540年1月1日

ネーデルラントのゲントで生じた暴動を鎮圧すべくその地に向かっていたカール5世、旅程を早めるためフランス領内を通行するようにとのフランソワ1世の申し出に応じてこの日パリに入り、フランソワ1世自身の盛大な歓迎を受ける。

1540年1月6日

ヘンリー8世、和解した(1538年6月)フランソワ1世とカール5世が共に自領イングランドに侵攻態勢をとることを恐れ、これに抗するべくThomas Cromwellの戦略に従ってやむを得ず、西方ドイツ・プロテスタントのリーダーでカール5世の南北支配領(イタリア、南ドイツ、ネーデルラント)を結ぶ通行路を跨ぐ北西ドイツに強力な領邦を築きつつあったクレーフェ公・ゲルデルン(ヘルダーラント)公Wilhelm V (von Kleve)(1516年~1592年:クレーフェ公在位1539年~1544年・ゲルデルン公在位1538年~1543年)との同盟を求め、その姉Anna von Kleve(1515年~1557年)と、1539年10月4日の婚約に従い、この日、結婚。

しかしAnnaHans Holbein der (Jüngere)の絵でしか見ていなかったヘンリー8世、その容姿に著しく落胆・反発。

1540年4月17日

Thomas Cromwellヘンリー8世によりエセックス伯に列せられる。

しかしすでにこの時、フランソワ1世とカール5世の関係の冷却化及びカール5世とプロテスタント(シュマルカルデン同盟)の休戦・対話が明確化すると共に、ヘンリー8世とドイツ・プロテスタントとの同盟の不要無益性・ヘンリー8世Anna von Kleveとの結婚の不要無益性も明確化し、後者を推し進めたThomas Cromwellに対するヘンリー8世と保守派貴族・政治家の反発、急速に強まり顕在化する。

1540年4月18日

オスマン・トルコの脅威の増大、対フランソワ1世関係の緊迫化、プロテスタント勢力の強大化、などの事態を前にカール5世、公会議よりも自領内部での宗教討議によって信仰上の対立を収拾・調停し、それによってプロテスタント(シュマルカルデン同盟)とフランソワ1世の結合を阻止し、対オスマン・トルコ態勢にプロテスタントの支援を獲得すべく、1540年シュパイエルで、まず1540年5月23日カトリック諸侯会議を開催して意思統一を図り、続いて1540年6月6日カトリック・プロテスタント両派の宗教討議を開催することを、この日、決意。

1540年10月20日

この日?、ヴェネツィア、単独でオスマン・トルコと講和。1539年来の交渉の過程で、キリスト教諸国の支援を得られず講和せざるを得ない内部窮状を、自国に駐在するフランソワ1世のスペイン人大使Antonio Rinconeの通報によりオスマン・トルコに知悉されたヴェネツィア、主張されるままに多額の賠報償金を支払い、エーゲ海諸島、Moreaペロポネソス)の2拠点及びダルマシアの諸拠点を委譲するなど、屈辱的に譲歩。オスマン・トルコの地中海制圧、さらに強まる。

1541年5月26日

コロンナ家ペドロ・デ・トレドにも支援を求めたものの、パウルス3世をフランソワ1世側に追いやることは避けたいカール5世側の思惑からここでも聞き入れられず、この日、最後の拠点パリアーノの城塞も制圧され、全面的に敗北。

統領Ascanio Colonnaを初め一族はナポリに亡命し、所領は全てパウルス3世に没収される。

1541年7月2/3日

フランソワ1世のスレイマン1世への使節Antonio Rincone(?~)とCesare Fregoso(1502年?~)、ミラノパヴィア近郊ティチーノのポー河口で何者かに暗殺される。

フランソワ1世、この暗殺はカール5世とそのミラノ総督・ペスカーラ侯・ヴァスト侯アルフォンソ3世・ダヴァーロス(1502年~:総督在位1538年~:侯在位1525年~)の指示によるものだと激怒し、これによってカール5世との和(1538年6月7日)は破られたと主張。

1541年9月13日~9月18日

パウルス3世カール5世ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。

フランソワ1世、ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。

フェッラーラエルコーレ2世・デステフィレンツェコジモ1世・デ・メディチなど、ルッカに入りカール5世に表敬。

1541年10月下旬

カール5世ルッカ会見におけるパウルス3世の忠言やアンドレア・ドーリアなど自軍首脳揃っての諌止を聞き入れず、アンドレア・ドーリア指揮の大艦隊を率いてBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェを攻撃。しかし、突然襲来した激しいハリケーンとそれに乗じての現地Barbaria人軍団の反撃にあって壊滅的打撃を受け、カール5世自身も危機に陥る。以後、オスマン・トルコ水軍、フランソワ1世水軍との提携の下、北アフリカのスペイン拠点を次々と攻略。

1542年4月26日

ドイツにおけるカトリック・プロテスタント両派の宗教討議の失敗を受けてパウルス3世、帝国都市トレント(トリエント)で1542年11月1日公会議を開催することを、フランソワ1世側の反対を抑えて枢機卿会議で決める。1542年5月22日、勅書を発して公表。

これに対してフランソワ1世、激しく反発し司教の派遣を拒否。

1542年7月10/12日

カール5世による子フェリペ2世へのミラノ封与(1540年)及び自身の2名の使節のミラノ領における暗殺(1541年)などからカール5世に不満を強め、オスマン・トルコと提携を図るなど戦争態勢を整えてきたフランソワ1世、この日、カール5世に対して宣戦を布告し、ピエモンテで攻勢に出る(第4次カール5世・フランソワ1世戦争(~1544年)。

1542年夏~秋

カール5世ミラノ総督アルフォンソ3世・ダヴァーロス、ピエモンテに出撃し、全戦線にわたってフランソワ1世軍を撃退。

1542年秋

フランソワ1世、イスタンブール(コンスタンティノープル)のスレイマン1世のもとに使節を送り、自身の水軍とBarbarossa指揮下の水軍との統一行動、スレイマン1世軍によるハンガリー占領の継続、などを協定。

1542年11月1日

この日トレントで開催予定の公会議、パウルス3世は特使・枢機卿Reginald PoleGiovanni MoronePietro Paolo Parisio(1473年~1545年:在位1539年~1545年)を派遣したものの、フランソワ1世は司教を派遣せず、カール5世も大法官Nicolas Perrenot de Granvelleを派遣しながら司教をしないなど、参集者が少なく、開催できず。

1543年2月11日

カール5世ヘンリー8世カール5世は自身の対戦相手である、ヘンリー8世は自身が併合を目指すスコットランドの背後にあるフランソワ1世に共に対抗する秘密同盟を締結。

この同盟についてカール5世パウルス3世に使者を送り、対フランソワ1世戦ないしは対フランソワ1世同盟国(オスマン・トルコ)戦のためのものであり、イングランド教会を支持してローマ教会・パウルス3世に対抗するものではないどころか、ヘンリー8世を正道に引き戻すためのものであると弁明。

1543年6月12日

対フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロスピエル・ルイジ・ファルネーゼフランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。

1543年6月22/23~24/25日

パウルス3世カール5世パウルス3世の申し込みによりパルマ近郊ブッセートで会見し、(1)ミラノ領有問題、(2)トレント公会議開催問題、などについて討議。しかし(1)についてはパウルス3世は自家ファルネーゼ家の威勢拡大を企図しながら自身の孫・カール5世の娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへの封与を提案し、カール5世は自身の子フェリペ2世による領有の現状維持を目論み、カール5世(2)についてパウルス3世カール5世・フランソワ1世戦の終結までの延期を図り、カール5世は自身とフランソワ1世の間で中立を装うパウルス3世に不満を抱きながら自派の枢機卿の増員・トレントでの早期開催を主張するなど、懸案のいずれについても合意できずに終わる。

1543年6月末~7月

スレイマン1世の命によりマルセイユに向かって出陣したBarbarossa指揮の大艦隊、プーリア、ルカーニア及びカラブリアの沿岸各地で略奪・破壊・放火を続け、テヴェレ川口に現れて全ローマを震撼させるなどを所業を重ねた後、フランソワ1世水軍の盛大な歓迎を受けてリオン湾に入る。

1543年7月6日

パウルス3世カール5世・フランソワ1世戦争及びオスマン・トルコによるキリスト教諸国侵攻という状況に鑑み、公会議の開催を適切な時期まで延期することを枢機卿会議で決め、直ちに勅書を発して公表。

1543年8月10日~1543年8月22日

フランソワ1世水軍とBarbarossa指揮の艦隊、ニースを攻撃。激しい抵抗を受けながらも市街を占領し略奪・破壊・砲火を行うが、領主カルロ3世・ディ・サヴォイアの要請によりアルフォンソ3世・ダヴァーロス指揮のカール5世軍進撃との報に、城塞は攻略できないまま撤退。

1544年春

フランソワ1世、戦闘に専心せず各地で略奪・破壊・砲火を続けるなど統制のきかないBarbarossa艦隊を、ボスポラス海峡に入るまで兵士の糧食・給与を負担すると約束した上、イスタンブール(コンスタンティノープル)に帰還させる。

1544年4月13日~1544年4月14日

フランソワ1世のピエモンテ総督・アンギャン公François de Bourbon(1519年~1546年:総督在位1543年~1546年)指揮の軍、チェレゾーレでカール5世軍を指揮官アルフォンソ3世・ダヴァーロスに負傷を負わせるなど撃破し、ピエモンテの戦況を逆転させるが、自身も少なからぬ損害を被る。

1544年9月18日

クレピーの和:カール5世ヘンリー8世両軍によるパリ攻撃・占領の危険を感ずるフランソワ1世と、前進・撤退いずれの策も自軍の大損害を招くと見たカール5世、クレピーで和約し、(1)フランソワ1世の第三子OrléansCharlesd'Orléans:1522年~:在位1536年~)はカール5世の娘マリア・デ・アブスブルゴ(1528年~1603年)と結婚し婚資としてネーデルラントを得るか、フェルディナンドの娘Annavon Österreich:1528年~1590年)と結婚し婚資としてミラノを得る、(2)フランソワ1世はミラノナポリ及びフランドル、アルトワへの継承請求権を放棄する、(3)カール5世はピエモンテ、サヴォイアを、フランソワ1世はブーローニュをそれぞれ返還する、(4)両者は共にオスマン・トルコに対抗する、(5)宗教の再統合のために公会議の開催を促進し、カール5世はドイツ・プロテスタントといかなる同盟も結ばない、ことを約定(第4次カール5世・フランソワ1世戦争終結(1542年~))。

ヘンリー8世、この和約を受容しながらも、約定の前に占領したことを理由にブーローニュ占領を解かず、フランソワ1世軍に対する戦闘を続行。

しかしこの和により、カール5世は西ヨーロッパで圧倒的な優位を、とりわけイタリアで決定的優位を占め、領内ドイツでのプロテスタントとの対決に専心可能となり、フランソワ1世はドイツ・プロテスタント諸侯との同盟の必要性から解放されたことに伴い、パウルス3世はこの両者から協力を得られることになってトレント公会議開催の主たる障害から解放される。

1544年9月

クレピーの和の報を得たコジモ1世・デ・メディチ、フランソワ1世宮廷に特使を送って祝意を表させ、カトリーヌ・ド・メディシスにも表敬させるが、特使は冷遇されてすぐ帰国。

1544年11月末/12月

ルッカにおける貴族寡頭支配の打倒、シエナピサの共和主義者の協力を得てのメディチ家ハプスブルク家専制支配の打倒、トスカーナにおける共和政諸都市の自由連合と信教の自由、を希求していた(1543年頃?~)ルッカの貴族・政治家Francesco Burlamacchi(1498年~)、メディチ家の宿敵ストロッツィ家との提携を図り、フランソワ1世の下で対カール5世戦に従軍していたピエロ・ストロッツィ(1510年頃~)・Leone Strozzi(1515年~)兄弟(故フィリッポ・ストロッツィの子)のもと(マルセイユ及びパリ)に使者・靴職人Bastiano Carletti(1400年代末~?)を派遣。Leone Strozziから計画への賛同・協力及び早期決起のための武器収集などの約束を得る。

しかし、フランソワ1世軍の対ヘンリー8世軍戦闘のため、決起は17か月後とされる。

1545年9月9日

フランソワ1世の第三子OrléansCharles d'Orléans死。これによりクレピーの和(1544年9月)における、婚資としてCharles d'Orléansミラノないしネーデルラントを授与するという約定が敗れ、ミラノを引き続き支配することになったカール5世のイタリアでの優位、さらに決定的となる。

1546年6月7日

ブーローニュ占領に復讐すべくイングランド侵攻を企図しながらも軍資金不足で果たせないフランソワ1世と、ブーローニュ保持のための軍費負担の重さを痛感していたヘンリー8世、この日カレー近郊アルドルで、フランソワ1世は(1)スコットランドとの同盟関係を破棄し、(2)ヘンリー8世に以後8年間賠報償金を支払ってブーローニュの返還を受ける、との和平協定を締結。

1546年

ニッコロ・マキアヴェッリArte della guerraIehan Charrierにより、おそらく1540年Aldo兄弟版を底本とし1529年Philippo di Giunta版を参照しながらフランス語に翻訳されると共に各篇を複数の章に分割され、分割についての訳者の弁明と国王フランソワ1世への訳者の献辞とを付されて、国王の允許の下パリのIehã Barbé書房より刊。

1547年1月2日~1月3日

ジェノヴァの貴族Gian Luigi Fieschi (il Giovane)(1522年~)とその兄弟Gerolamo FieschiOttobono Fieschi(?~1555年)、カール5世を背景にジェノヴァを事実上専制的に支配するアンドレア・ドーリア一族の放逐とフランソワ1世の庇護下でのBarnaba Adorno(?~1558年)による統治を目指し、市内の親フランス派貴族と結んで、武装蜂起。

市の城門を閉め、港に停泊中のアンドレア・ドーリア艦船を捕獲し、彼の後継者Giannettino Doriaを殺害するなど目的完遂かと思われたが、アンドレア・ドーリア自身には逃げられた上、Gian Luigi Fieschi (il Giovane)が艦船を乗り移る最中に海に落ちて溺死し、それと共に仲間が逃亡し、蜂起は失敗に終わる。

市内に戻ったアンドレア・ドーリアGerolamo Fieschi(?~)らを処刑するなど、蜂起勢力を厳しく処罰。

カール5世ジェノヴァの蜂起にはピエル・ルイジ・ファルネーゼパウルス3世が関与しているとしてパウルス3世の使節に抗議するが、否定され斥けられる。

1547年3月31日

死。

1547年5月23日

サン=ドニ大聖堂に埋葬される。

肖像

異名

 樫(かし)王

別表記

 フランソア1世、フランソワ・ダングレーム(François d'Angoulême)、フランチェスコ

外部リンク

 ウィキペディア
 歴史データベース
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 kleio.org

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『君主論』
 『性病の世界史』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『中世の食卓から』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『ハプスブルク家』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンス舞踊紀行』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2024年11月28日