Galeazzo Maria Sforza

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ

Galeazzo Maria Sforza
生没:1442年1月24日~1476年12月26日
出身:フェルモ
在位:第5代ミラノ公 1466年~1476年
父:フランチェスコ1世・スフォルツァ
母:ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
妻:ドロテア・ゴンザーガ
  ボーナ・ディ・サヴォイア
女:ルクレツィア・ランドリアーニ
  ルチア・マルリアーニ
子:カルロ・スフォルツァ
  カテリーナ・スフォルツァ
  アレッサンドロ・ディ・ガレアッツォ・スフォルツァ
  キアラ・スフォルツァ
  ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
  エルメス・スフォルツァ
  ビアンカ・マリーア・スフォルツァ
  アンナ・マリーア・スフォルツァ
  ガレアッツォ・スフォルツァ
  オッタヴィアーノ・スフォルツァ

概要

 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、15世紀のミラノの男性。

容姿

 痩せ型で色白。

性格

 虚栄心が強く、残忍、気まぐれ、好色。

幼少時

 父フランチェスコ1世・スフォルツァから、悪に走るのを防ぐためにしばしばこっぴどく叩かれていた。

年表

1442年1月24日
フェルモにて、生。
1450年3月25日
フランチェスコ1世・スフォルツァ、妻ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ、子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ及び弟、ペーザロの君主アレッサンドロ・スフォルツァを伴い、改めてミラノに入城。市民の大歓声の中、正式にミラノ公位に就く(在位~1466年)。
この就任式典に、フランチェスコ1世・スフォルツァを支援してきたフィレンツェを初め、ヴェネツィアとアルフォンソ5世・ダラゴーナを除くイタリアの主な都市、君侯の祝賀使節が参列。
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟、事実上、破れ(1425年~)、両国は同盟関係の全面的転換を図る。
1459年4月25日
マントヴァに向かうピウス2世、フィレンツェ市内に入り、富を尽くした大歓迎を受ける。
滞在中、リーミニのシギスモンド・マラテスタら諸君主にまじりフランチェスコ1世・スフォルツァの長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが騎兵350を率いて表敬に現われ、以後マントヴァまでピウス2世を先導。
1459年
フィレンツェ訪問。
1459年4月17日
フィレンツェでフランチェスコ1世・スフォルツァ宛書簡をしたためる。内容はフィレンツェ訪問について。
1466年3月8日
フランチェスコ1世・スフォルツァ、没。
1466年3月8日
フランチェスコ1世・スフォルツァ、死(1401年~1466年:在位1450年~1466年)——長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ミラノ公となる(在位1466年~1476年)。
1466年8月27日
ピッティ陰謀事件
1466年8月
ルカ・ピッティの陰謀:新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、父、故フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めに応じようとするピエロ・イル・ゴットーソと対立したのを契機にメディチ支配の一掃を企図するようになったルカ・ピッティを中心とするアニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニニッコロ・ソデリーニら、病弱なピエロ・イル・ゴットーソの行動力の欠如と彼の強大な支援者フランチェスコ1世・スフォルツァの死を利して一気にピエロ・イル・ゴットーソを殺害しメディチ支配を打倒することを狙う。このためボルソ・デステに密かに支援を求める。
1466年9月末
ピエロ・イル・ゴットーソ、陰謀、反乱の平定を告知するためヴェネツィア、ミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオナポリフェッランテ・ダラゴーナに使節を派遣。この後ボローニャにはマッテオ・パルミエリを派遣し、反乱をいち早く通報してくれたことへの謝意をも表明。
1467年1月4日
フィレンツェ共和国、ナポリ王国と25年間の対ヴェネツィア防衛同盟を結ぶ。
1467年1月4日
バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍のフィレンツェ攻撃態勢を支援し続けるヴェネツィアに対し、フィレンツェ、ナポリフェッランテ・ダラゴーナ及びミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、25年間の防衛同盟を結ぶ。
間もなくこの防衛同盟は、最高指揮官にフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロを据える。以後、フェッランテ・ダラゴーナは援軍を送り、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは自ら軍を率いて戦陣に加わる。
1467年7月23日
バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮のフィレンツェ・フェッランテ・ダラゴーナ・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ同盟軍は、イーモラ領モリネッラの近郊で激戦を交わすが決着せず。以後、両軍の戦闘、断続的に続く(1467年~68年)。
1468年7月6日
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、アメーデオ9世・ディ・サヴォイア及びルイ11世の妻カルロッタ・ディ・サヴォイア(1441年~1483年)の妹ボーナ・ディ・サヴォイア(1449年~1503年)と結婚。
1469年7月
アレッサンドロ・スフォルツァ指揮の教皇軍・ヴェネツィア軍、リーミニ周辺に進撃。
これに対し、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、フェッランテ・ダラゴーナ及びフィレンツェ、ロベルト・マラテスタに援軍を送る。
1469年8月29/30日
リーミニの戦い
1470年12月22日
対オスマン・トルコ共同防衛同盟を結ぶ。
1470年12月22日
1470年8月以降、繰り返しイタリア内の和平と一致した反オスマン・トルコ行動とを説いてきたパウルス2世の主導の下、ようやく、ナポリフェッランテ・ダラゴーナミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、モデナ・レッジョ・フェッラーラのボルソ・デステ及びフィレンツェ、ローディの和・イタリア同盟(1454年~1455年)を基にした対オスマン・トルコ共同防衛同盟を締結。
1471年3月13日
四旬節の時期、メディチ家との誓約の確認という名目の下に、妻ボーナ・ディ・サヴォイア、娘カテリーナ・スフォルツァアンナ・マリーア・スフォルツァや、2人の弟ルドヴィーコ・イル・モーロスフォルツァ・マリーア・スフォルツァらを率いて絢爛豪華な隊列をなしてフィレンツェを訪問。費用は2万ドゥカート、お付きは2千名。ロレンツォ・イル・マニーフィコジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ兄弟主導の豪奢で壮麗な大歓迎、接遇を受けてその邸宅メディチ宮殿に逗留。
1471年5月27日
フェッラーラ公ボルソ・デステが没する。
1471年
後継問題を協議し、わけてもヴェネツィア側の候補である故人の弟エルコーレ1世・デステに反対するため、ゴンザーガ家に招かれてマントヴァに駆けつける。
1471年8月20日
エルコーレ1世・デステがフェッラーラ公位に就く。
1472年5月14日
ヴォルテッラの武力鎮圧を目指すフィレンツェにシクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナ、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが支援の姿勢を取り、この日、フェッランテ・ダラゴーナの派遣したフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロをフィレンツェは鎮圧軍の指揮官に任命。
1472年9月26日
長男ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァイザベッラ・ダラゴーナの結婚の協定を、代理人を通じて取り決める。
1473年7~8月初め
この頃シクストゥス4世、フィレンツェのフランチェスコ・デ・パッツィ(1444年~1478年)から得た資金を基にガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからイーモラを購入し、間もなく甥ジローラモ・リアリオに封与。シクストゥス4世によるイーモラ獲得を資金面で阻み、自らこれを獲得してロマーニャへの影響力を拡大、強化しようと企画していたロレンツォ・イル・マニーフィコは、反シクストゥス4世、反パッツィ家の姿勢を強める。
1474年6月初め~半ば
フィレンツェ領に接した小市チッタ・ディ・カステッロを自分の叙任なく支配している(1460年~)ニッコロ・ヴィテッリ(1414年~1486年)を排しようと企図して甥・枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ配下の軍を向けたシクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコやガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらのニッコロ・ヴィテッリ支援にあい、企図の実現に難渋。
1474年8月21日
ロレンツォ・イル・マニーフィコやガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらへの対抗策を模索するシクストゥス4世、この日ウルビーノ伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロを公に叙任し、2日後ニッコロ・ヴィテッリ排除の軍の指揮官に任命。
1474年11月2日
ヴェネツィアとフィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコとガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、25年間の共同防衛同盟を締結。教皇シクストゥス4世ナポリフェッランテ・ダラゴーナ、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステに加盟を呼びかける。しかし前二者はこれに警戒心を強め、エルコーレ1世・デステのみが加盟に同意した。
1474年11月2日
ヴェネツィア、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコおよびミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、25年間の共同防衛同盟を締結し、シクストゥス4世ナポリフェッランテ・ダラゴーナ及びフェッラーラのエルコーレ1世・デステに加盟を呼びかける。しかし前二者はこれに警戒心を強め、エルコーレ1世・デステのみが加盟に同意。
1475年
フェッラーラ公エルコーレ1世・デステに、当時貴重だった22袋の米を贈る。ガレアッツォは米の栽培を導入していた。
1476年7月11日
ミラノロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。自分のお抱えの鷹匠のうち最も優秀な、ピラートという男を譲る。
1476年12月26日(木)
サント・ステファノの日。ミラノの聖ステファノ教会のミサに列席中、ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニカルロ・ヴィスコンティジローラモ・オルジアーティの3人に襲撃され、短刀に刺されて即死。

肖像

 東方三博士の旅
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの肖像

関連項目

 ピッティ陰謀事件
 1467年1月4日の同盟
 リーミニの戦い
 対オスマン・トルコ共同防衛同盟

別表記

 ガレアッツォ・マリア

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 歴史データベース
 Famille de Carné
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Assassin's Creed Wiki
 Treccani


参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの歴史』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood
 『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前
スフォルツァ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで