Georgios Gemistos Plethon

ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン

生没:1355年?~1450年?

概要

 ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンは、14世紀~15世紀の男性。

年表

1438年3月4日
ビザンティン皇帝ヨハネス8世・パレオロゴス、トレビゾント生まれの人文主義者・神学者ヨハネス・ベッサリオン(1403年~)、コンスタンティノポリス生まれの哲学者、人文主義者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン(1355年頃~1450/52年)ら、会議が開催されていたフェッラーラに到着。4日後コンスタンティノポリス総主教Iosephフェッラーラに到着。東西両教会の合同の討議を行なう(~1439年)。
1439年7月6日
フィレンツェ公会議で、オスマン・トルコに対抗するための西ヨーロッパからの支援を約束されたギリシア正教会側の妥協により、前日、東西両教会の合同案に署名がなされ、この日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂前で公表される。
この公会議に出席したヨハネス・ベッサリオンゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらギリシアの聖職者や学者たち、ギリシア語・ギリシア古典についてイタリア人に教示し、古典復活に大きく貢献。この後こうしたギリシアの学者・文人のイタリア移住、始まる。
1440年
コジモ・イル・ヴェッキオや彼を囲む文人、学者ら、前年のフィレンツェ公会議終了後もこの地に留まったゲオルギオス・ゲミストス・プレトンやその弟子・枢機卿ヨハネス・ベッサリオン(在位1439年12月~1472年)からプラトン哲学を知るなど強い刺激を受ける。コジモ・イル・ヴェッキオは以後プラトン学園の設立を構想。
1450年
この年頃、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンペロポネソス半島Mistraで死(1355頃年~)。
この地に埋葬された遺骨は間もなく信奉者シギスモンド・マラテスタによって掘り出され、リーミニのマラテスタ家の墓所に再埋葬される。

別表記

 プリソン

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』

記載日

 2005年5月29日以前