Giampaolo Baglioni

ジャンパオロ・バリオーニ

生没:1470年頃~1520年6月11日
出身:ペルージア
没地:ローマ
在位:ペルージア領主
父:リドルフォ1世・バリオーニ
母:フランチェスカ・バリオーニ
妻:イッポーリタ・コンティ
子:レオーネ・バリオーニ
  マラテスタ・バリオーニ
  オラーツィオ・バリオーニ
  ラウラ・バリオーニ
  エリザベッタ・バリオーニ
  コンスタンティーノ・バリオーニ
  スフォルツィーノ・バリオーニ

概要

 ジャンパオロ・バリオーニはイタリアの傭兵隊長。

年表

1500年4月末
チェーザレ・ボルジアローマにおいて、チッタ・ディ・カステッロの君主で前フィレンツェの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ペルージアの君主ジャンパオロ・バリオーニ、オルシーニ一族を代表するパオロ・オルシーニなど、イタリアの最も強力な傭兵隊長たちのほとんどを雇い入れ、自分の傭兵軍を自軍の主力とする態勢を整え始める。
1501年6月末
チェーザレ・ボルジアの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを完全に包囲。
1501年9月3日
チェーザレ・ボルジアの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを占領。君主ヤコポ4世・ダッピアーノはフランスへ逃亡。
1502年6月4日
アレッツォで、「マルツォッコ」「メディチ」を叫び、フィレンツェ共和国に対する暴動、反乱発生。
1502年6月7日
ヴィテロッツォ・ヴィテッリジューリオ・ヴィテッリアレッツォ占領。
1502年6月
チェーザレ・ボルジア宛に手紙をしたためる。自分もヴィテロッツォ・ヴィテッリの軍事行動に参加するよう命令を出すよう要望。
しかしチェーザレ・ボルジアからフィレンツェ共和国との同盟のためできないと謝絶される。
1502年6月14日
ジャンパオロ・バリオーニもこれに参画。
1502年6月
数日の内にヴァル・ディ・キアーナ全域を制圧。
1502年7月29日
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、アレッツォをルイ12世軍に手渡して撤退。
1502年9月末
マジョーネの会合に出席。
1502年10月9日
マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。
1502年10月12日
歩兵隊を指揮し、カーリに進軍(1502年10月10日)。
しかし、マジョーネ同盟は反乱している領民に対して、彼らを攻撃するつもりも防衛するつもりもないと告げる。
1502年10月
敵としてではなくチェーザレ・ボルジアの部下として、ファーノ周辺に進軍。
1502年12月
オリヴェロット・エウッフレドゥッチが、チェーザレ・ボルジアの名においてセニガッリアに入る。
ヴィテロッツォ・ヴィテッリと甥、パオロ・オルシーニと息子ファビオ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニもそれぞれの軍を率いてセニガッリアに集結。
ペルージアにいるジャンパオロ・バリオーニは病気を理由にチェーザレ・ボルジアの招集を拒絶。
1503年1月4日(水)
ファビオ・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリの甥、ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノと共に、全軍を率いペルージア出発。シエナパンドルフォ・ペトルッチのもとへ向かう。
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロペルージアから逃亡し、ピティリアーノへ向かう。
1503年8月
フィレンツェ共和国の支援を受け、マジョーネを占領。
1503年8月
ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノカメリーノ復帰に助勢。
1503年9月16日
ペルージアにて、ジャンパオロ・バリオーニとバルトロメオ・ダルヴィアーノを代表として、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロパンドルフォ4世・マラテスタフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレジョヴァンニ・スフォルツァジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノジューリオ・ヴィテッリが反ボルジア同盟を締結。
1503年10月
ローマ到着。
1503年11月末頃
ロマーニャ進軍中のミケーレ・ダ・コレーリア指揮のチェーザレ・ボルジア軍、トスカーナでジャンパオロ・バリオーニ指揮のフィレンツェ軍に敗退し、ミケーレ・ダ・コレーリアは捕らえられる。
1504年5月
ジャンパオロ・バリオーニ、ヤコポ・サヴェッリらを傭兵隊長として雇い、Antonio Giacomini Tebalducciを前線の全権委員に任命してピサ攻撃態勢を整える。
1505年3月
この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァはミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家オルシーニ家パンドルフォ・ペトルッチ、フィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家ジョヴァンニ・デ・メディチジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。
1505年4月8日
フィレンツェ、ジャンパオロ・バリオーニから傭兵隊長契約を解約するとの通告を受け、直ちに彼のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣。
1505年5月28日
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ、ペストにより急死。しかしその反フィレンツェ策動は、パンドルフォ・ペトルッチ、ジャンパオロ・バリオーニ、バルトロメオ・ダルヴィアーノが継承。
1506年9月8日
ペルージアの君主ジャンパオロ・バリオーニは、ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの勧奨に従い、オルヴィエートに駆けつけてユリウス2世に、ペルージアとその要塞の明け渡し、子どもの人質としての提出、ボローニャ制圧への参陣などを約して全面的に屈服。
1506年10月20日
この頃までにユリウス2世のもとに小部隊の援軍100名を送る。しかしユリウス2世のジャンパオロ・バリオーニ、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ放逐の目標達成により、間もなく援軍は送り返される。
1513年10月7日
ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍が、ヴィチェンツァ近郊Olmoでバルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍を大激戦の末、破る。ヴェネツィア軍総指揮官ジャンパオロ・バリオーニなど捕虜となる。
ライモンド・ディ・カルドーナはなおパドヴァを攻撃し続け、ヴェネツィアは戦闘態勢を再整備。
1520年3月16日
ペルージア制圧も目指すレオ10世は、君主ジャンパオロ・バリオーニを、その同門の政敵ジェンティーレ・バリオーニを追放した廉で巧みにローマに召還し、サンタンジェロ城に招いて捕らえ、投獄。
1520年6月2日~1520年6月3日
レオ10世は、投獄していたジャンパオロ・バリオーニを、ウルビーノ争奪戦においてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに通じていたなどの理由を挙げて処刑。ペルージアは保護していたジェンティーレ・バリオーニに統治させる形をとりながら自身の代理を派遣して直接に統治。
1521年12月上旬~下旬
レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グィッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニオラーツィオ・バリオーニと共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。

在位

 ペルージア領主 1488年~1500年、1500年~1502年、1503年~1506年、1513年~1520年

別表記

 ジャンパーオロ、ジョヴァンニ・パオロ、Gianpaolo Baglioni

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geni.com
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史Ⅴ』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルネサンスの歴史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2006年10月27日以前
バリオーニ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで