Sforza

スフォルツァ家

ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ Muzzo Attendolo Sforza

生没
1369年5月28日~1424年1月4日
出身
コティニョーラ
没地
ペスカーラ
ジョヴァンニ・アッテンドロ
アントーニア・サリンベーニ
カテリーナ・アロポ
マリーア・ダ・マルツァーノ
タミーラ・ディ・カーリ
ルチア・テルツィアーニ
マンスエート・スフォルツァ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
オネスティーナ・スフォルツァ
エリーザ・スフォルツァ
アルベリコ・スフォルツァ
アントーニア・スフォルツァ
レオーネ・スフォルツァ
ジョヴァンニ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
オルソーラ・スフォルツァ
ボジオ1世・スフォルツァ
ジョヴァンナ・スフォルツァ
レオナルド・スフォルツァ
ピエトロ・スフォルツァ
バルトロメオ・スフォルツァ
カルロ・スフォルツァ

概要

 ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 コティニョーラ伯
  次代:ボジオ1世・スフォルツァ

年表

1369年5月28日

コティニョーラにて、生。

1409年11月

モンテッキオの封建領主。

1410年~

パルマの市民。

1411年3月~

シエナの市民。

1411年10月

1万4千ドゥカートで、教皇によりコティニョーラ伯に、息子フランチェスコ1世・スフォルツァと共に封される。

1412年9月~

アックアペンデンテ、トッレ・アルフィーナ、サン・ロレンツォ領主

1412年~1412年8月

8千ドゥカートの収入で、シチリア王国のGran Connestabile。ティート、ピエトラフィッタ、サトリアーノ、ミリオーニコ、ピスティッチ、モンテッラ、カッサーノ、バニョーリ・イルピーノ、スコッラーノ領主。

1417年2月~

再び、ティート、ピエトラフィッタ、サトリアーノ、ミリオーニコ、ピスティッチ、モンテッラ、カッサーノ、バニョーリ・イルピーノ、スコッラーノ領主。加えて、トローイア伯、アーピチェ、オルサーラ、サン・バルトロメーオ・イン・ガルド、ビッカリ、トッレマッジョーレ、ベネヴェント、セッラカプリオーラ封建領主。

1424年1月4日

ペスカーラの川で溺死。

別表記

 ムツィオ・アッテンドロ、ジャーコポ、Muzio Attendolo Sforza

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『The Life of Cesare Borgia

エリーザ・スフォルツァ Elisa Sforza

生没
1402年~1476年
出身
サン・ミニアート
没地
カイアッツォ
ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ
ルチア・テルツィアーニ
レオナルド・サンセヴェリーノ
ロベルト・サンセヴェリーノ
ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ?

概要

 エリーザ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1412年

レオナルド・サンセヴェリーノと結婚。

1418年5月

ロベルト・サンセヴェリーノを出産。

別表記

 Lisa Sforza

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アレッサンドロ・スフォルツァ Alessandro Sforza



生没
1409年10月21日~1473年4月3日
出身
コティニョーラ
没地
フォッサ
ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ
ルチア・テルツィアーニ
コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
スヴェヴァ・ダ・モンテフェルトロ
バッティスタ・スフォルツァ
コスタンツォ1世・スフォルツァ
ジネヴラ・スフォルツァ

概要

 アレッサンドロ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 ペーザロ領主 1445年3月~1473年

年表

1409年10月21日

コティニョーラで生。

グレゴーリオとして洗礼されるが、父ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァの対立教皇アレクサンデル5世への親愛のため、後にアレッサンドロと改名され、僧職に就くことを期待されていた。

1415年3月

人質として、ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァからパンドルフォ・アロポに、兄弟従兄弟と共に預けられる。

1415年8月

ナポリ軍がジャック2世・ド・ブルボン軍に優勢だった時、兄弟たちと共に投獄される。

1420年

フェッラーラに住んでいたが、教皇の人質としてローマに向かう。

142?年

この頃、ミケーレ・アッテンドロの下で初の軍事経験。

1430年

ミラノ征服まで兄フランチェスコ1世・スフォルツァの全ての軍事行動に従う。

1430年8月

領主パオロ・グイニジに退陣させられたルッカの反乱者たちに人質として取られていたが、1万2千フィオリーノで兄に引き渡される。

1433年11月

フランチェスコ1世・スフォルツァに従い、アンコーナへ進軍。

1433年12月

フェルモ占領。要塞都市ジリファルコを与えられる。

1434年2月

ウンブリアのフランチェスコ1世・スフォルツァに従い、ローマ近郊に進軍。

1434年5月

軍2千を率いてセルヴィリアーノを攻撃。ヴァラーノ家に反抗するアマンドラに入り、月末にはペンナ・サン・ジョヴァンニも降伏。

1434年6月

アマンドラを突然クリストフォロ・ダ・トレンティーノに6百騎で攻撃され、急ぎ退却を余儀なくされる。町は略奪される。

1434年12月

冬、対ニッコロ・フォルテブラッチョの教皇軍として、ヴィテルボに1百50騎を率いる。

1435年

80騎を与えて、ヤコポ・ディ・ヴィーコがヴェトラッラに戻ることを許す。

1435年4月

モンテフィアスコーネ占領に参加。

1435年7月

アルチェーヴィアのコントラーダ要塞に待機。

1435年8月

モンテファルコでニッコロ・フォルテブラッチョに捕らえてしまった兄弟レオーネ・スフォルツァ救出のため、フランチェスコ1世・スフォルツァより副官に任じられ、アンコーナの総督に信任される。それに関与するタリアーノ・フルラーノとマンノ・バリーレがアルチェーヴィアにいるため、セッラ・デイ・コンティへ進軍して敵の襲撃からカメリーノを守り、フィオルディモンテで敵の傭兵隊長と対峙。荷馬車と略奪品を奪い取る。

1435年9月

タリアーノ・フルラーノがレオーネ・スフォルツァを捕らえている要塞のあるアッシジへ向かう。

1435年10月

アッシジは市民たちにより連合から解放され、アンコーナからサン・ジュストに属す。

1435年10月

サン・ジネージオ。

1435年11月

モンテ・サン・ピエトランジェリ。

1435年12月

サン・セヴェリーノ・マルケ。

1436年3月

フランチェスコ1世・スフォルツァ不在時のフェルモ総督に任命される。

1436年4月

オージモにて、マルケを通過するフェッラーラニッコロ3世・デステを表敬。

1436年8月

フランチェスコ・ピッチニーノがアスコリ・ピチェーノに進軍したため、急ぎ町を出発しフェルモに戻る。

1436年10月

教皇軍として、フランチェスコ1世・スフォルツァシジスモンド・マラテスタと共にボローニャに駐屯。

1436年11月

ファブリアーノ。

1437年2月

2か月フェルモに滞在。

1437年5月

オージモ。

1437年6月~1437年9月

フランチェスコ・ピッチニーノを支援するマルケの亡命者たちと戦う。亡命者たちにアブルッツィを急襲され、アスコリ・ピチェーノを攻撃される。アスコリ・ピチェーノに立てこもる間、敵の傭兵隊長がファブリアーノとフェルモの領内を出て、マルケから弓兵と槍歩兵を募集した後、ウルビザーリアとトレンティーノ方面に向かっているとの情報を得る。サン・セヴェリーノ・マルケ到着。ファブリアーノに兄弟ジョヴァンニ・スフォルツァとニッコロ・ダ・ピサを残し、フェルモに戻る。ここからアブルッツィに反撃し、チヴィテッラ・デル・トロントを占領。9月、フランチェスコ・ピッチニーノに包囲されていたアスコリ・ピチェーノを、ジョヴァンニ・スフォルツァとニッコロ・ダ・ピサと共に解放。敵をアブルッツィまで押し戻す。

1437年12月

アッピニャーノにて、15日間の休戦協定をジョージア・アクァヴィーヴァ、アルディッツォーネ・ダ・カッラーラと結ぶ。マルケでは降誕祭の時期で、フェルモに入るや、副官及び地方総督である彼に習慣的な贈り物をされる。

1438年1月

フランチェスコ1世・スフォルツァはタリアーノ・フルラーノを捕らえるため彼宛てに手紙を書くが、その手紙はタリアーノ・フルラーノが妨害し、そのため逃亡に成功する。この状況の推移を近くで監視するため、フェルモを離れサン・セヴェリーノ・マルケ到着。

1438年2月~1438年3月

フランチェスコ・ピッチニーノとタリアーノ・フルラーノがアスコリ・ピチェーノを脅かす。サルマーノに急進するが、フランチェスコ1世・スフォルツァミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの間で結ばれた和平の知らせにより、すぐさま戦闘行為停止。マチェラータとサン・セヴェリーノ・マルケに向かい、フランチェスコ1世・スフォルツァと共にトレンティーノを訪れ、タリアーノ・フルラーノがいるところへとフランチェスコ・ピッチニーノがいるところへの道であるサルナーノを遮断。

1438年6月

ミラノ軍の教皇軍として、サン・セヴェリーノ・マルケを離れ、フォッサート・ディ・ヴィーコ、シジッロ(ノチェーラ・ウンブラ)とグアルド・タディーノの間に到着すると、ジョヴァンニ・スフォルツァをフォッサート・ディ・ヴィーコに残して、サンタ・マリア・デリ・アンジェリとピアネッロを経てグッビオのブランカに到着。

1438年7月

包囲してノルチャを降伏させる。

1439年11月

ミラノ軍のヴェネツィア軍として、フランチェスコ1世・スフォルツァのヴェローナ奪還を補佐、3日間占領。ガッタメラータと共にゴンザーガの騎兵に守備されていたオリエッロ門を占拠し、ヴェスコヴォ門を守備していたヴェローナ人を降伏させる。

1439年12月

歩兵2千を率いアンコーナ地方の海に到着。まだミケーレ・アッテンドロの代わりに、副官及び地方総督に任命されている。

1440年3月

まずリーミニへ、続いてマルチェラータ、フェルモ。スフォルツァ軍視察のため各地へ赴く。

1440年4月

ミラノ軍のフィレンツェ軍として、トレンティーノ、サン・セヴェリーノ・マルケからアッシジへ。フランチェスコ・ピッチニーノの騎兵に対抗するため、すぐさまトスカーナへ向かう。

1440年5月

オージモ。マルケの守護を固めため、オージモ人ゴッツォーネ・ゴッツォーニをサン・セヴェリーノ・マルケのポデスタとして据える。

1440年6月~1440年7月

ファブリアーノ。

1440年8月~1440年9月

対アラゴーナ軍のスフォルツァ軍として、アブルッツィでジョージア・アクァヴィーヴァ、ライモンド・ディ・カルドーナ、リッチョ・ダ・モンテキアーロと戦闘。敵が唯一占拠する要塞のあるチェッリーノ・アッタナージオとモンテセッコ攻略の準備のため、フォルチェッラに野営。領内を選ぶ代わりに、マチェラータ人にデナーロ銀貨での部下に支払う金を要求。スフォルツァの重装騎兵がマルケで冬越しするのに十分な藁と干し草を集める。

1441年1月

サン・セヴェリーノ・マルケに移動。マルケ民から重税と兵士の食糧を要求。

1441年7月

マルケから騎兵1千5百でアントーニオ・カルドーラの支配するロレート・アプルティーノを襲撃。ペスカーラでの協定に加入し、オルトーナで勝利し、ジョージア・アックアヴィーヴァとリッチョ・ダ・モンテキアーロを退却させる。騎兵5百と共にライモンド・カルドーラを捕らえ、騎兵5百はジリファルコで拘束。名誉ある待遇をし、8千スクードの支払いで解放。モンテ・コルヴィーノで野営。知らなかったものの、勝利に乗じて敵に回復の時間を与えてしまう。チッタ・サンタンジェロでアントーニオ・カルドーラと対峙し、退却する。

1441年11月

シジスモンド・マラテスタフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの紛争の仲介を務める。

1441年12月

モンテルッビアーノ。

1442年1月~1442年5月

モンテルッビアーノに戻る。フェルモとモンテルッビアーノの間で住まいを移っても、より多くのまた新しい税の取り立ては止めず。

1442年5月31日

フィレンツェ軍として、幾つかの部隊をフォルリの守備に回す。

1442年6月

フェルモで兄弟とその妻を歓迎。その機会に、サン・マルティーノ広場を整備。

1442年7月

モンテ・サン・マルティーノでフランチェスコ1世・スフォルツァに合流。

1442年8月

アマンドラの戦いに参加。

1442年11月

ニッコロ・ピッチニーノからアッシジを守り切れず。襲撃は月のない夜で激しい雨の降る中に行われる。ブラッチェスキ家の者たちが略奪のために道を占領。騎兵8百でカルロ・フォルテブラッチが襲撃し、最も富裕な市民たちは要塞に避難。

1442年12月1日

夜、グイド・ダ・スキーファと共に出撃。マチェラータとサン・セヴェリーノ・マルケを回復。

1443年3月

モンテッキオ(トレイア)。

1443年6月

マチェラータのモリーネでフランチェスコ1世・スフォルツァと共に野営。疲弊したエザナトーリア攻略に参加。

1443年7月

トレンティーノを包囲し、征服して守備隊を残す。

1443年8月~1443年9月

キエンティの谷とマチェラータ近郊であるサンロッキアーノで留まり、騎兵の食糧を徴発。そこから歩兵と騎兵併せて3千でフェルモ境界に向かう。市壁は内と外に堀と土手を築いている。いつでも守備を固めることができるように、広場の中央には櫓を備えている。フェルモで1万のアラゴン軍を攻撃。彼に対する陰謀を嗅ぎ取り、多くの市民を逮捕。ジリファルコの幾人かの囚人を釈放することになり、その他はファーノ及びアスコリ・ピチェーノとオッフィダの要塞へ送られる。敵の後衛を攻撃し、急ぎフェルモに退却させる。

1444年12月8日

コスタンツァ・ダ・ヴァラーノと結婚(1440年12月)。

1445年3月

フランチェスコ1世・スフォルツァからペーザロを与えられる。

1447年

ペーザロを教皇から封土される。

1448年1月9日

スヴェヴァ・ダ・モンテフェルトロと代理結婚。

1450年3月25日

フランチェスコ1世・スフォルツァミラノ入城に伴う。

1460年7月22日

この日頃、ウルビーノ・モンフェッラート伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと共にフェッランテ・ダラゴーナ軍を指揮し、傭兵隊長ヤコポ・ピッチニーノ指揮のジャン・ダンジュー軍と、ナポリ領北部アブルッツォのジュリアノーヴァ近郊サン・ファブリアーノで激戦を交わす。勝敗の決着着かぬまま、フェッランテ・ダラゴーナ軍退却(1460年7月27日)。

間もなく、ジャン・ダンジュー軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは教会領攻撃に向かい、ローマ近郊リエティに到着。ローマに不安、募る。

1461年7月2日

フェッランテ・ダラゴーナ軍、シジスモンド・マラテスタ指揮の軍とジャン・ダンジュー軍に敗れる。

この後も劣勢が続くフェッランテ・ダラゴーナ軍に、援軍を指揮し、到着。

1462年8月18日

フェッランテ・ダラゴーナと共に軍を指揮し、フォッジャ近郊トローイアでジャン・ダンジュー軍を撃破。

1467年5月10日

バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍に加わり、この日ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。アニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティの陰謀の首謀者たちもこれに従う。

1469年5月28日

ロベルト・マラテスタフェッランテ・ダラゴーナの密謀が明らかとなって驚愕したパウルス2世とヴェネツィアが攻守同盟を結び、その軍の最高指揮官に任じられる。

1469年7月

教皇軍・ヴェネツィア軍を指揮し、リーミニ周辺に進撃。

これに対し、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロガレアッツォ・マリーア・スフォルツァフェッランテ・ダラゴーナ及びフィレンツェ、ロベルト・マラテスタに援軍を送る。

1469年8月下旬

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ率いるロベルト・マラテスタ陣営軍に、リーミニ近郊で教皇軍・ヴェネツィア軍敗退。

1473年4月3日

フォッサで死。

関連項目

 1467年1月4日の同盟
 リーミニ攻囲戦

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

ボジオ1世・スフォルツァ Bosio I Sforza

生没
1411年~1476年3月
出身
モンテジオーヴェ
没地
パルマ
ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ
アントーニア・サリンベーニ
チェチーリア・アルドブランデスキ
Griseide di Capua
アナスタージア・スフォルツァ
グイド・スフォルツァ
コスタンツァ・スフォルツァ
フランチェスコ・スフォルツァ
カッサンドラ・スフォルツァ
ピウベッラ・スフォルツァ

概要

 ボジオ1世・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 サンタ・フィオーラ伯 1439年~1486年

外部リンク

 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

トリスターノ・スフォルツァ Tristano Sforza

生没
1424年~1477年7月11日
出身
ジェノヴァ
没地
ミラノ公国ミラノ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ベアトリーチェ・デステ
エリザベッタ・スフォルツァ

概要

 トリスターノ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1424年

ジェノヴァで誕生。

1454年10月28日

ベアトリーチェ・デステと結婚。

1477年

ミラノで死。

外部リンク

 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ポリッセーナ・スフォルツァ Polissena Sforza

生没
1428年~1449年
フランチェスコ1世・スフォルツァ
シジスモンド・マラテスタ
ガレオット・マラテスタ
ジョヴァンナ・マラテスタ

概要

 ポリッセーナ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

スフォルツァ・セコンド・スフォルツァ Sforza Secondo Sforza

生没
1433年~1501年以後
出身
グロッタンマーレ
没地
ピアチェンツァ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
アントーニア・ダル・ヴェルメ
ジョヴァンナ・スフォルツァ
フランチェスコ・スフォルツァ
ポリッセーナ・スフォルツァ
ルクレツィア・スフォルツァ
レオーネ・スフォルツァ
ヤコペット・スフォルツァ

概要

 スフォルツァ・セコンド・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1451年

アントーニア・ダル・ヴェルメと結婚。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ドルシアーナ・スフォルツァ Drusiana Sforza

生没
1437年9月30日~1474年6月29日
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ジャーノ・フレゴーゾ
ヤコポ・ピッチニーノ

概要

 ドルシアーナ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1464年8月12日

ヤコポ・ピッチニーノと結婚。

1465年6月24日

フェッランテ・ダラゴーナ軍の総指揮官に任じられ(1463年)ながらもその意図に不安と恐れを抱いて、1464年ミラノに入り、フランチェスコ1世・スフォルツァに保護を求め、その庶出の娘ドルシアーナ・スフォルツァ(1437年~1474年)を得ていた(1464年8月14日~)ヤコポ・ピッチニーノは、彼の勧めに従って1465年5月ナポリに帰りフェッランテ・ダラゴーナの大歓迎を受けていたが、この日、カステル・ヌオーヴォで扼殺される。フェッランテ・ダラゴーナフランチェスコ1世・スフォルツァによる謀殺と広く信じられる。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ Galeazzo Maria Sforza

Galeazzo Maria Sforza

生没
1442年1月24日~1476年12月26日
出身
フェルモ
没地
ミラノ公国ミラノ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
ボーナ・ディ・サヴォイア
ルクレツィア・ランドリアーニ
ルチア・マルリアーニ
カルロ・スフォルツァ
カテリーナ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
キアラ・スフォルツァ
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
エルメス・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・スフォルツァ
オッタヴィアーノ・スフォルツァ
アンナ・マリーア・スフォルツァ
ガレアッツォ・スフォルツァ

概要

 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、15世紀のミラノの男性。

在位

 第5代ミラノ公 1466年~1476年

容姿

 痩せ型で色白。

性格

 虚栄心が強く、残忍、気まぐれ、好色。

幼少時

 父フランチェスコ1世・スフォルツァから、悪に走るのを防ぐためにしばしばこっぴどく叩かれていた。

年表

1442年1月24日

フェルモにて、生。

1450年3月25日

フランチェスコ1世・スフォルツァ、妻ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ、子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ及び弟、ペーザロの君主アレッサンドロ・スフォルツァを伴い、改めてミラノに入城。市民の大歓声の中、正式にミラノ公位に就く(在位~1466年)。

この就任式典に、フランチェスコ1世・スフォルツァを支援してきたフィレンツェを初め、ヴェネツィアとアルフォンソ5世・デ・アラゴンを除くイタリアの主な都市、君侯の祝賀使節が参列。

ヴェネツィア・フィレンツェ同盟、事実上、破れ(1425年~)、両国は同盟関係の全面的転換を図る。

1459年4月25日

マントヴァに向かうピウス2世、フィレンツェ市内に入り、富を尽くした大歓迎を受ける。

滞在中、リーミニのシジスモンド・マラテスタら諸君主にまじりフランチェスコ1世・スフォルツァの長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが騎兵350を率いて表敬に現われ、以後マントヴァまでピウス2世を先導。

1459年

フィレンツェ訪問。

1459年4月17日

フィレンツェでフランチェスコ1世・スフォルツァ宛書簡をしたためる。内容はフィレンツェ訪問について。

1466年3月8日

フランチェスコ1世・スフォルツァ、没。

1466年3月8日

フランチェスコ1世・スフォルツァ、死(1401年~1466年:在位1450年~1466年)——長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ミラノ公となる(在位1466年~1476年)。

1466年8月27日

ピッティ陰謀事件

1466年8月

ルカ・ピッティの陰謀:新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、父、故フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めに応じようとするピエロ・イル・ゴットーソと対立したのを契機にメディチ支配の一掃を企図するようになったルカ・ピッティを中心とするアニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニニッコロ・ソデリーニら、病弱なピエロ・イル・ゴットーソの行動力の欠如と彼の強大な支援者フランチェスコ1世・スフォルツァの死を利して一気にピエロ・イル・ゴットーソを殺害しメディチ支配を打倒することを狙う。このためボルソ・デステに密かに支援を求める。

1466年9月末

ピエロ・イル・ゴットーソ、陰謀、反乱の平定を告知するためヴェネツィア、ミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオナポリフェッランテ・ダラゴーナに使節を派遣。この後ボローニャにはマッテオ・パルミエリを派遣し、反乱をいち早く通報してくれたことへの謝意をも表明。

1467年1月4日

フィレンツェ共和国、ナポリ王国と25年間の対ヴェネツィア防衛同盟を結ぶ。

1467年1月4日

バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍のフィレンツェ攻撃態勢を支援し続けるヴェネツィアに対し、フィレンツェ、ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナ及びミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、25年間の防衛同盟を結ぶ。

間もなくこの防衛同盟は、最高指揮官にフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロを据える。以後、フェッランテ・ダラゴーナは援軍を送り、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは自ら軍を率いて戦陣に加わる。

1467年7月23日

バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮のフィレンツェ・フェッランテ・ダラゴーナ・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ同盟軍は、イーモラ領モリネッラの近郊で激戦を交わすが決着せず。以後、両軍の戦闘、断続的に続く(1467年~68年)。

1468年7月6日

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、アメーデオ9世・ディ・サヴォイア及びルイ11世の妻カルロッタ・ディ・サヴォイア(1441年~1483年)の妹ボーナ・ディ・サヴォイア(1449年~1503年)と結婚。

1468年10月19日

マリニャーノ到着。母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティを見舞う。

1469年7月

アレッサンドロ・スフォルツァ指揮の教皇軍・ヴェネツィア軍、リーミニ周辺に進撃。

これに対し、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、フェッランテ・ダラゴーナ及びフィレンツェ、ロベルト・マラテスタに援軍を送る。

1469年8月29/30日

リーミニ攻囲戦

1470年12月22日

対オスマン・トルコ共同防衛同盟を結ぶ。

1470年12月22日

1470年8月以降、繰り返しイタリア内の和平と一致した反オスマン・トルコ行動とを説いてきたパウルス2世の主導の下、ようやく、ナポリフェッランテ・ダラゴーナミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、モデナ・レッジョ・フェッラーラのボルソ・デステ及びフィレンツェ、ローディの和・イタリア同盟(1454年~1455年)を基にした対オスマン・トルコ共同防衛同盟を締結。

1471年3月13日

四旬節の時期、メディチ家との誓約の確認という名目の下に、妻ボーナ・ディ・サヴォイア、娘カテリーナ・スフォルツァアンナ・マリーア・スフォルツァや、2人の弟ルドヴィーコ・イル・モーロスフォルツァ・マリーア・スフォルツァらを率いて絢爛豪華な隊列をなしてフィレンツェを訪問。費用は2万ドゥカート、お付きは2千名。ロレンツォ・イル・マニーフィコジュリアーノ・デ・メディチ兄弟主導の豪奢で壮麗な大歓迎、接遇を受けてその邸宅メディチ宮殿に逗留。

1471年5月27日

フェッラーラ公ボルソ・デステが没する。

1471年

後継問題を協議し、わけてもヴェネツィア側の候補である故人の弟エルコーレ1世・デステに反対するため、ゴンザーガ家に招かれてマントヴァに駆けつける。

1471年8月20日

エルコーレ1世・デステがフェッラーラ公位に就く。

1471年10月末

天然痘に罹患。

1472年6月12日

パヴィアにて、ジョヴァンニ・アルチンボルディ宛てに手紙をしたためる。

1472年9月26日

長男ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァイザベッラ・ダラゴーナの結婚の協定を、代理人を通じて取り決める。

1472年11月16日(月)

ガッリアーテにて、ヴィジェヴァーノスフォルツェスコ城城主宛に手紙をしたためる。次の月曜日にジローラモ・リアリオが到着することを知らせる。

1472年11月19日(木)

ガッリアーテにて、財務官アントーニオ・アングイッソーラ宛てに手紙をしたためる。ジローラモ・リアリオミラノに3、4日間滞在する費用を自分持ちにするよう指示。

1473年1月13日

ジローラモ・リアリオに持参金1万ドゥカートカテリーナ・スフォルツァとの結婚を約束。

1473年1月17日

パヴィアにて、ジョヴァンニ・アルチンボルディ宛てに手紙をしたためる。ジローラモ・リアリオカテリーナ・スフォルツァと床入りしたこと。「実を言えば、ガブリエッラ・ゴンザーガ様は野蛮で変わっておられるように思う。彼女が女性であるからということと、女性の性質を考慮するに、口論したくはない」

パヴィアにて、ピエトロ・リアリオ枢機卿宛てに手紙をしたためる。

1473年1月18日

パヴィアにて、ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ジローラモ・リアリオカテリーナ・スフォルツァと結婚したこと。

1473年1月23日

パヴィアにて、ローマの外交官宛に手紙をしたためる。ジローラモ・リアリオはもう1度妻カテリーナ・スフォルツァと床を共にし、今朝出立したこと。

1473年5月5日

タッデオ・マンフレディからトルトーナと引き換えにイーモラを購入。

1473年10月23日

ミラノに来訪しているピエトロ・リアリオ枢機卿とイーモラを4万ドゥカートジローラモ・リアリオに売却することを決定。

1473年10月28日

イーモラを、特定の条件下で義理の息子ジローラモ・リアリオに売却。

1474年4月13日

ミラノ公国の代表者たちで構成される9百人評議会を召集。肉やパンや葡萄酒など主食に追加される税インクイントなど、ほとんどが金銭に関する一連の公布令を修正なしで批准させる。

1474年6月初め~半ば

フィレンツェ領に接した小市チッタ・ディ・カステッロを自分の叙任なく支配している(1460年~)ニッコロ・ヴィテッリ(1414年~1486年)を排しようと企図して甥・枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ配下の軍を向けたシクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコやガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらのニッコロ・ヴィテッリ支援にあい、企図の実現に難渋。

1474年8月21日

ロレンツォ・イル・マニーフィコやガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらへの対抗策を模索するシクストゥス4世、この日ウルビーノ伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロを公に叙任し、2日後ニッコロ・ヴィテッリ排除の軍の指揮官に任命。

1474年11月2日

ヴェネツィアとフィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコとガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、25年間の共同防衛同盟を締結。教皇シクストゥス4世ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナ、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステに加盟を呼びかける。しかし前二者はこれに警戒心を強め、エルコーレ1世・デステのみが加盟に同意した。

1474年11月2日

ヴェネツィア、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコおよびミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、25年間の共同防衛同盟を締結し、シクストゥス4世ナポリフェッランテ・ダラゴーナ及びフェッラーラのエルコーレ1世・デステに加盟を呼びかける。しかし前二者はこれに警戒心を強め、エルコーレ1世・デステのみが加盟に同意。

1475年

フェッラーラ公エルコーレ1世・デステに、当時貴重だった22袋の米を贈る。ガレアッツォは米の栽培を導入していた。

1476年3月9日

ヴェネツィア駐在大使レオナルド・ボッタ宛てに手紙をしたためる。アントネッロ・ダ・メッシーナの作品について「自然から掘り出されたような人物」と評す。

1476年7月11日

ミラノロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。自分のお抱えの鷹匠のうち最も優秀な、ピラートという男を譲る。

1476年12月

パヴィアでペスト流行。

1476年12月26日(木)

サント・ステファノの日。ミラノの聖ステファノ教会のミサに列席中、ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニカルロ・ヴィスコンティジローラモ・オルジアーティの3人に襲撃され、短刀に刺されて即死。

1476年12月

ミラノ大聖堂に埋葬される。

15??年

ミラノ大司教カルロ・ボッロメオの命により、墓が移され、行方不明。

肖像

関連項目

 ピッティ陰謀事件
 1467年1月4日の同盟
 リーミニ攻囲戦
 対オスマン・トルコ共同防衛同盟

別表記

 ガレアッツォ・マリア

外部リンク

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 世界帝王事典
 歴史データベース
 Famille de Carné
 Find A Grave
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 Google Books - A Renaissance Court: Milan under Galleazzo Maria Sforza
 Google Books - Caterina Sforza
 Internet Archive - Archivio storico lombardo
 JDA's Family Tree
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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Assassin's Creed Wiki
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの歴史』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood
 『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

イッポーリタ・スフォルツァ Ippolita Sforza

生没
1445年3月18日~1484年8月19日
出身
イェージ
没地
ナポリ王国ナポリ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
アルフォンソ2世・ダラゴーナ
フェッランディーノ・ダラゴーナ
イザベッラ・ダラゴーナ
ピエトロ・ダラゴーナ

概要

 イッポーリタ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの女性。

教養

 アントーニオ・コルナツァーノに舞踊を習う。
 コンスタンティーノ・ラスカリスにギリシア語を習う。

年表

1445年3月18日

イェージにて、生(1446年4月18日ペーザロ)。

1465年5月16日

ミラノにて、代理人を立てた結婚式が行われる。

1465年6月

ナポリへの途上、シエナのトンマーゾ・ペッチ宮殿に滞在。市を挙げて歓迎され、総額2万4千フィオリーノもの費用が費やされたという。

1465年10月10日

アルフォンソ2世・ダラゴーナと結婚。

1469年8月26日

フェッランディーノ・ダラゴーナを出産。

1470年10月2日

イザベッラ・ダラゴーナを出産。

1472年3月31日

ピエトロ・ダラゴーナを出産。

1484年8月19日

ナポリにて、死。

肖像

別表記

 イッポリータ・マリーア、Ippolita Maria Sforza

外部リンク

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参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『イタリア史』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

フィリッポ・マリーア・スフォルツァ Filippo Maria Sforza

生没
1449年12月22日~1492年
出身
パヴィア
没地
ミラノ公国ミラノ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
コスタンツァ・スフォルツァ
ボーナ・スフォルツァ

概要

 フィリッポ・マリーア・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 コルシカ伯
 パヴィア伯
  先代:フランチェスコ1世・スフォルツァ

年表

1449年12月22日

パヴィアにて、生(1448年クレモーナ)。

1472年1月13日

コルシカ伯。

外部リンク

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参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

スフォルツァ・マリーア・スフォルツァ Sforza Maria Sforza

生没
1451年4月18日~1479年7月29日
出身
パヴィア
没地
ヴァレーゼ・リーグレ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ

概要

 スフォルツァ・マリーア・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 バーリ公 1464年~1479年
 モドゥーニョ領主 1464年~1479年
 パーロ・デル・コッレ領主 1464年~1479年

年表

1451年4月18日

パヴィアで生(1449年、1451年8月18日ヴィジェヴァーノ)。

1456年

フェッランテ・ダラゴーナの娘エレオノーラ・ダラゴーナと結婚?。これにより父フランチェスコ1世・スフォルツァは、ナポリ王国との連携を強める。

1471年3月上旬

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァフィレンツェ訪問に同行。

1475年1月

ヴェネツィアにいる。

1475年

ヴェネツィア滞在中にアントネッロ・ダ・メッシーナの作品を入手。特定はされていないが、画中に1475年と記載のある「傭兵隊長の肖像」ではないかと言われている。

1476年12月21日

ルドヴィーコ・イル・モーロと共に、フランスのトゥール到着。

1476年12月26日(木)

サント・ステファノの日。兄ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが暗殺される。

1477年1月下旬

フランスからミラノに到着する。弟ルドヴィーコ・イル・モーロとは別々に城門に到着。

兄の未亡人ボーナ・ディ・サヴォイアと書記官チッコ・シモネッタの統治下では、弟たちはスフォルツァ家の相続人として扱われていず、スフォルツェスコ城に入るためには誰であれ書記官の捺印がある許可証が必要で、しかも民間人の廷臣としてでなければ入れないようになっていた。橋の手前で馬から降り、側近を城外に残して、1人で武器を持たずに歩いて入城せざるを得ない。

1477年

ルドヴィーコ・イル・モーロと共に、ロベルト・サンセヴェリーノと直ちに手を組み、チッコ・シモネッタを公爵の部屋から書記局の執務室へと速やかに追い出す。

1477年2月初旬

3人の共犯者たちはエットーレ・ヴィメルカーティという名の男を雇い、城内のチッコ・シモネッタの部屋に忍び込ませ、暗殺しようとした。しかし、露見しており、エットーレ・ヴィメルカーティは捕らえられる。

1477年5月25日

チッコ・シモネッタが兵士を派遣して、ドナート・デル・コンテの家を包囲させ、モンツァの土牢に拘留。ロベルト・サンセヴェリーノが通りで民衆を煽動し、その間にチッコ・シモネッタを殺してスフォルツェスコ城を奪おうと計画していたことを自白。

夜、共謀者全員が揃った夕食の席にドナート・デル・コンテ拘留の知らせが届く。

1477年5月26日朝

ルドヴィーコ・イル・モーロアスカーニオ・マリーア・スフォルツァオッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァと共に、摂政ボーナ・ディ・サヴォイアに対し、ドナート・デル・コンテを即座に釈放するよう要求。署名した協定に背き、武装した姿で現れたことは詫びた。

1477年6月1日

バーリへの追放処分が決定される。

1479年1月12日

ナポリフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。

1479年1月

フェッランテ・ダラゴーナから提供された数隻のガリオン船で、ミラノへ向けナポリを出発。

1479年夏

病に倒れる。

1479年7月

ヴァレーゼ・リーグレで没(1479年7月27日、1479年7月29日)。信じがたいほどの肥満により亡くなったとされる。

1479年7月24日

ボルゴ・ヴァル・ディ・ターロにて、ジローラモ・スタンガがミラノ公宛に手紙をしたため、バーリ公の死を伝える。

外部リンク

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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ Ascanio Maria Sforza

生没
1455年3月3日~1505年5月27日
出身
クレモーナ
没地
ローマ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ

概要

 アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 パヴィア教区長 1479年9月17日~1505年5月27日
 サンティ・ヴィート・エ・モデスト・イン・マルチェッロ・マルティルム助祭枢機卿(任命した教皇シクストゥス4世) 1484年3月17日~1492年8月26日
 ノヴァーラ教区長 1484年10月25日~1485年
 クレモーナ教区長 1486年7月28日~1505年5月27日
 ペーザロ教区長 1487年~1491年5月
 教皇庁副尚書院長 1492年8月27日~1505年5月27日
 エゲル(ハンガリー)教区長 1492年8月31日~1497年6月
 エルナ教区長 1494年1月~1495年5月
 サンティ・ヴィート・エ・モデスト・イン・マルチェッロ・マルティルム助祭枢機卿 1495年1月31日~1505年5月27日  ノヴァーラ教区長 1505年5月~1505年5月27日

年表

1477年5月25日

ミラノスフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロ及びアスカーニオ・マリーア・スフォルツァによる、幼公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと摂政ボーナ・ディ・サヴォイアを排してスフォルツァ・マリーア・スフォルツァミラノ公とする企み露見。

3者はそれぞれの地に追放される。

1492年8月10/11日

すでに大きな財を貯え複数の女婿との間で複数の子をなすなど世俗的頽廃を一身に備える名うての枢機卿ロドリゴ・ボルジア空前絶後と言われる激しい贈収賄と聖職売買により、ほとんどの者の予測を超えて教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗って8月26日、戴冠(教皇在位1492年~1503年)。

この過程でアレクサンデル6世選出の主動因の役を果たした枢機卿でルドヴィーコ・イル・モーロの弟アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは、以後、教皇庁内部で教皇に匹敵する力を持ち続ける。

1492年8月11日

ロドリゴ・ボルジアが教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗る。

1492年8月27日

アレクサンデル6世の教皇即位への大きな功績により、教皇庁副尚書院長に任命された他、ネピとボルジア宮殿(現スフォルツァ・チェザリーニ宮殿)をもらう。

1493年4月25日

アレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。

間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。

1493年6月12日

ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァヴァティカン宮殿での結婚式に参列。カップ、大小様々の皿、深皿と水差し、ジャム入れ、杯2つからなる、どっしりした銀嶺の全て精巧な細工の食卓用具一式を贈呈。

1493年8月

教皇アレクサンデル6世と表立って反目し、ヴァティカン宮殿を去る。

1493年9月28日

ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。

1494年6月24日

ローマ出発。

1494年6月28日

従者たちを連れてローマを離れ、フラスカーティへ向かう。

1494年7月初め

ジェナッツァーノに行き、コロンナ家に身を寄せる。

1494年8月

アレクサンデル6世が、不在の全枢機卿にローマに戻るよう要請。

1494年9月22日

ローマに戻る。

1494年11月初め

この頃、シャルル8世から離れて王に対するアレクサンデル6世の抵抗を支持すると伝えるため、ルドヴィーコ・イル・モーロにより教皇のもとに送られる。

1494年11月2日

フランス王シャルル8世に逆らわないように、アレクサンデル6世を説得しようとするが無駄に終わる。

1494年11月3日

枢機卿会議にてアレクサンデル6世により、シャルル8世と会うためフィレンツェに向かう役に指名される。

夜、マリーノへ向かう。

1494年12月2日

20人の高位聖職者と大勢の随行員と共にローマに戻る。

1494年12月9日

ヴィテルボに向けて出発しようとしていた時、ヴァティカン宮殿に召喚され、傭兵隊長プロスペロ・コロンナベルナルディーノ・ルナーティ枢機卿、フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿と共に捕らえられ、ヴァティカン宮殿の上階に勾留される(1494年12月10日)。

1494年12月

釈放される。

1494年12月31日

シャルル8世ローマ入城に同行。

1495年1月1日

アレクサンデル6世により、ネピの知事に任命される。

1497年6月14日(水)

フアン・ボルジアが暗殺される。

1497年

ローマから逃亡し、グロッタフェッラータへ。

ローマへの召喚を拒否するが、アレクサンデル6世より自身が容疑者ではないことを知らされる。

1497年9月6日(水)

朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂ナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。

1498年12月3日

枢機卿会議にて、教皇アレクサンデル6世と口論。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは教皇がイタリアの破滅を招いていると非難し、教皇はミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの例に倣っただけだと言い返す。

1499年7月13日

フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿と共にローマを出発し、ジェナッツァーノに向かう(1499年7月14日、1499年7月末)。

1499年

ジェノヴァに到着。

1500年1月

軍を率い、コモ到着。

コモ湖畔のベッラージョとトルノがアスカーニオ・マリーア・スフォルツァに降伏。

フェデリーコ・サンセヴェリーノがヴァルテッリーナからコモに到着し、合流。

リニー伯シャルル・ド・ブルボンとムゾッコ伯ジャンニッコロ・トリヴルツィオは騎兵2千でコモを掌握していたが、民衆の反感を認識していたため、2名の枢機卿が接近すると、撤退。

コモ入城。

ミラノを目指す。

1500年2月3日(月)

ミラノに入り、市民の歓迎を受ける。フランス軍の追撃を試みるも、馬が足りず。

1500年2月

籠城していたフランス軍の降伏後、スフォルツェスコ城に居住。

ピエール・テライユと会う。

1500年

エルメス・スフォルツァと共にミラノから逃亡するが、ピアチェンツァ近郊のリヴォルタ城でヴェネツィア人に捕らえられる。

1500年5月15日

他の捕虜と共に、ヴェネツィアからミラノへ連行される。

1500年

スフォルツェスコ城に軟禁される。

1500年6月15日

フランスのブールジュに連行、幽閉される。

1502年1月3日

ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿の尽力により、許可なくフランスから出ないことを条件に釈放される。

1503年

コンクラーヴェに参加するため、ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿と共に、ローマに帰る。

1505年3月

この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、ミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家オルシーニ家パンドルフォ・ペトルッチフィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家ジョヴァンニ・デ・メディチジュリアーノ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。

1505年5月28日

ペストにより急死。しかしその反フィレンツェ策動は、パンドルフォ・ペトルッチジャンパオロ・バリオーニバルトロメオ・ダルヴィアーノが継承。

埋葬地

 サンタ・マリア・デル・ポポロ教会

関連項目

 The Borgias: 101, 104, 105, 106, 107, 108, 109, 201

別表記

 アスカーニオ・スフォルツァ、アスカーニオ枢機卿、アスカニオ、cardinal AscanioAscanius

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 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
 THE BORGIAS wiki
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『メディチ家』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『At the Court of the Borgia
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

オッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァ Ottaviano Maria Sforza

生没
1458年4月30日~1477年5月25日
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ

概要

 オッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

フィオルデリーザ・スフォルツァ Fiordelisa Sforza

生没
1453年~1529年
出身
クレモーナ
没地
ミラノ公国ミラノ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
グイダッチョ・マンフレディ

概要

 フィオルデリーザ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、庶子。

1473年

ミラノにて、グイダッチョ・マンフレディと結婚。

1529年

ミラノにて、死(1522年)。

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 世界帝王事典
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バッティスタ・スフォルツァ Battista Sforza

生没
1446年1月~1472年7月7日
出身
教皇領ペーザロ
没地
ウルビーノ公国グッビオ
アレッサンドロ・スフォルツァ
コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ
コスタンツァ・ダ・モンテフェルトロ
アウラ・ダ・モンテフェルトロ
ジローラマ・ダ・モンテフェルトロ
ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロ
エリザベッタ・ダ・モンテフェルトロ
コスタンツァ・ダ・モンテフェルトロ
ヴィオランテ・ダ・モンテフェルトロ
キアラ・ダ・モンテフェルトロ
アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロ
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ

概要

 バッティスタ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの女性。14歳でフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと結婚し、1男9女をもうけた。享年26歳。

年表

1446年1月

ペーザロにて、生。

1460年2月10日

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと結婚(1460年2月8日ペーザロ)。

1460年12月

コスタンツァ・ダ・モンテフェルトロを出産。

1461年2月

娘コスタンツァ・ダ・モンテフェルトロ、死。

1462年

ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロを出産(1463年)。

1464年頃

エリザベッタ・ダ・モンテフェルトロを出産。

1466年

コスタンツァ・ダ・モンテフェルトロを出産。

146?年

ヴィオランテ・ダ・モンテフェルトロを出産。

146?年

キアラ・ダ・モンテフェルトロを出産。

1470年

アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロを出産。

1472年1月17日

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロを出産。

1472年7月7日

グッビオ公宮殿にて、おそらく急性肺炎で死。

肖像

埋葬地

 フランシスコ会の第三修道会員であったため、ウルビーノのサンタ・キアラ修道院の修道女の共同墓地に簡素なフランシスコ会修道衣を身に着けて埋葬されることを望んだ。現在まで、実際の埋葬場所は不明。

別表記

 バティスタ

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 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 Geni.com
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

コスタンツォ1世・スフォルツァ Costanzo I Sforza

生没
1446年~1483年
アレッサンドロ・スフォルツァ
コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
カミッラ・ダ・マルツァーノ
ジョヴァンニ・スフォルツァ
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ

概要

 コスタンツォ1世・スフォルツァはイタリアの傭兵隊長。

在位

 ペーザロの領主 1473年~1483年

別表記

 コンスタンツォ・スフォルツァ、ゴスタンツォ・ディ・ペーザロ、Constanzo SforzaGostanzo di Pesaro

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

ジネヴラ・スフォルツァ Ginevra Sforza


生没
1440年~1507年5月17日
出身
アンコーナ
没地
ボローニャ
アレッサンドロ・スフォルツァ
サンテ・ベンティヴォーリオ
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
コスタンツァ・ベンティヴォーリオ
エルコーレ・ベンティヴォーリオ
カミッラ・ベンティヴォーリオ
ビアンカ・ベンティヴォーリオ
フランチェスカ・ベンティヴォーリオ
アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオ
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ
ラウラ・ベンティヴォーリオ
アントーニオ・ガレアッツォ・ベンティヴォーリオ
イゾッタ・ベンティヴォーリオ
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
エルメス・ベンティヴォーリオ
エレオノーラ・ベンティヴォーリオ

概要

 ジネヴラ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1440年

ジネヴラ・スフォルツァ、生。

1454年

ボローニャにて、サンテ・ベンティヴォーリオと結婚。

1458年

コスタンツァ・ベンティヴォーリオを出産。

1459年5月15日

エルコーレ・ベンティヴォーリオを出産。

1463年10月1日

サンテ・ベンティヴォーリオ、死。

1464年

ボローニャにて、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオと結婚。

146?年

カミッラ・ベンティヴォーリオを出産。

146?年

ビアンカ・ベンティヴォーリオを出産。

1468年2月18日

フランチェスカ・ベンティヴォーリオを出産。

1469年

アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオを出産。

14??年

ヴィオランテ・ベンティヴォーリオを出産。

14??年

ラウラ・ベンティヴォーリオを出産。

1472年

アントーニオ・ガレアッツォ・ベンティヴォーリオを出産。

14??年

イゾッタ・ベンティヴォーリオを出産。

1474年

アレッサンドロ・ベンティヴォーリオを出産。

1475年

エルメス・ベンティヴォーリオを出産。

14??年

エレオノーラ・ベンティヴォーリオを出産。

1507年5月17日

ジネヴラ・スフォルツァ、死。

肖像

外部リンク

 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

アナスタージア・スフォルツァ Anastasia Sforza

ボジオ1世・スフォルツァ
ブラッチョ・バリオーニ

年表

1462年6月

ブラッチョ・バリオーニと結婚。

グイド・スフォルツァ Guido Sforza

生没
1445年~1508年頃
ボジオ1世・スフォルツァ
チェチーリア・アルドブランデスキ
フランチェスカ・ファルネーゼ
フェデリーコ1世・スフォルツァ
チェチーリア・スフォルツァ
ジューリア・スフォルツァ
マルツィア・スフォルツァ
アウレリア・スフォルツァ
ゼノービア・スフォルツァ

概要

 グイド・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 サンタ・フィオーラ伯 1476年~1508年

外部リンク

 Famille de Carné
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

エリザベッタ・スフォルツァ Elisabetta Sforza

生没
14??年~15??年
トリスターノ・スフォルツァ
ベアトリーチェ・デステ
ガレアッツォ1世・パッラヴィチーニ
ラウラ・パッラヴィチーニ
ジローラモ・パッラヴィチーニ
アダルベルト・パッラヴィチーニ

概要

 エリザベッタ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

別表記

 Isabella

外部リンク

 JDA's Family Tree
 IISS Ettore Majorana

カルロ・スフォルツァ Carlo Sforza

生没
1461年~1483年5月9日
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ルクレツィア・ランドリアーニ
ビアンカ・シモネッタ
アンジオーラ・スフォルツァ
イッポーリタ・スフォルツァ

概要

 カルロ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 マジェンタ伯

年表

1461年

生(1458年)。

1483年5月9日

死。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 GeneaNet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

アレッサンドロ・スフォルツァ Alessandro Sforza

生没
1465年~1523年9月29日
出身
パヴィア
没地
ミラノ公国ミラノ
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ルクレツィア・ランドリアーニ
バルバーラ・バルビアーニ
カミッラ・スフォルツァ

概要

 アレッサンドロ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 フランカヴィッラ領主

年表

1490年頃

バルバーラ・バルビアーニと結婚。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica
 『The Life of Cesare Borgia

キアラ・スフォルツァ Chiara Sforza

生没
1467年~1531年
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ルクレツィア・ランドリアーニ
ピエトロ・ダル・ヴェルメ
フレゴシーノ・フレゴーソ

概要

 キアラ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1480年

ピエトロ・ダル・ヴェルメと結婚。

1487年7月

フレゴシーノ・フレゴーソと結婚。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『イタリア史』

ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ Gian Galeazzo Sforza

生没
1469年6月20日~1494年10月21日
出身
アッビアーテグラッソ
没地
パヴィア
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ボーナ・ディ・サヴォイア
イザベッラ・ダラゴーナ
フランチェスコ・スフォルツァ
イッポーリタ・マリーア・スフォルツァ
ボーナ・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・スフォルツァ

概要

 ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性、ミラノ公

在位


 第6代ミラノ公 1476年~1494年

年表

1469年6月20日

アッビアーテグラッソにて、生。

1469年7月25日

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にて、洗礼を受ける。代父はロレンツォ・イル・マニーフィコフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

1472年9月26日

ナポリにて、イザベッラ・ダラゴーナと婚約。

1476年12月26日

父、ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが殺害される。

ミラノ公となり、母ボーナ・ディ・サヴォイアが摂政となる。しかし、以後フランチェスコ1世・スフォルツァ以来の忠臣でボーナ・ディ・サヴォイアの顧問チッコ・シモネッタが実権を握る。

1477年5月21日

ミラノにて、ローマの外交官宛に手紙をしたためる。ジローラモ・リアリオに慰めの言葉を伝えるよう。

1477年5月31日

ミラノにて、ジェノヴァ総督プロスペロ・アドルノ宛てに手紙をしたためる。

1478年4月22日

カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。

1479年9月16日

カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。長男の誕生を祝う。

1480年11月3日

叔父ルドヴィーコ・イル・モーロを後見人とする。

1483年

当時の診断で腸感染症に罹患。

1485年12月19日

スフォルツァ家の旗をヴィルジーニオ・オルシーニに手渡す。

1488年5月2日

ヴィジェヴァーノにて、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。カテリーナ・スフォルツァへの支援が成功したこと。

1488年5月5日

ヴィジェヴァーノにて、ハンガリー王マティアス・コルヴィヌス宛てに手紙をしたためる。カテリーナ・スフォルツァが妊娠しているという記述がある。

1488年5月31日

パヴィアにて、トルトーナ司教ヤコポ・ボッタ宛てに手紙をしたためる。教皇インノケンティウス8世カテリーナ・スフォルツァへ示した気遣いに感謝を伝えるよう指示。

1489年2月17日

イザベッラ・ダラゴーナとの結婚が決まり、この日、イザベッラ・ダラゴーナナポリから海路ジェノヴァに到着。間もなくミラノに向かう。

1491年1月17日(月)

パヴィアのヴィスコンティ城にてルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステの結婚式が挙げられるが、新婚を歓迎する準備のためとしてジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと妻イザベッラ・ダラゴーナミラノを動かず。

1492年5月2日

モンフェッラート侯妃がマントヴァ駐在モンフェッラート大使宛てに手紙をしたためる。「ここでは新しいことは何もありません。ミラノ公が奥方を殴ったこと以外には。」

1494年10月14日

フランス王シャルル8世パヴィアに到着。

1494年10月

病床に就くジャン・ガレアッツォ・スフォルツァをシャルル8世が見舞う。

1494年10月21日

パヴィアのヴィスコンティ城にて、死(1494年10月22日)。

1494年10月

遺体はサンテウストルジョ教会に移され、その後ミラノ大聖堂に安置される。

1494年10月27日

葬儀が行われる。

夜、ミラノ大聖堂に埋葬される。

15??年

ミラノ大司教カルロ・ボッロメオの命により、墓が移され、行方不明。

肖像

埋葬地

別表記

 ジャンガレアッツォ、ジョヴァン・ガレアッツォ、ジョヴァンニ・ガレアッツォ、ジャン・ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ、Gian Galeazzo Maria Sforza

関連項目

 The Borgias: 105

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

エルメス・スフォルツァ Ermes Sforza

生没
1470年5月10日~1503年
出身
パヴィア
没地
インスブルック
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ボーナ・ディ・サヴォイア

概要

 エルメス・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 トルトーナ侯

年表

1470年5月10日

パヴィアにて、生。

1480年

叔父ルドヴィーコ・イル・モーロミラノ公国を掌握してから、彼の養育保護下に入る。地位は保障されていたものの、行動は制限される。

1488年

ルドヴィーコ・イル・モーロの命により、ナポリへ派遣される。

1488年12月22日

ナポリにて、兄ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの代理として、イザベッラ・ダラゴーナと婚約。

1500年4月

ノヴァーラの戦いにてフランス軍に敗れ、叔父アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿と共にカルロ・オルシーニに捕らえられ、フランスに占領されたノヴァーラ城に監禁される。

1502年

ビアンカ・マリーア・スフォルツァの懇願により釈放され、マクシミリアン1世の保護の下、ティロルに亡命。

1502年2月

マクシミリアン1世の特使の一員としてフィレンツェ訪問。マクシミリアン1世が戴冠式のためローマに南下する際は支援することなどについてフィレンツェ共和国と約定。

1503年

インスブルックにて、死。

別表記

 ヘルメス、Hermes

外部リンク

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参考文献

 『フィレンツェ史』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ビアンカ・マリーア・スフォルツァ Bianca Maria Sforza

生没
1472年4月5日~1510年12月31日
出身
パヴィア
没地
インスブルック
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ボーナ・ディ・サヴォイア
フィリベルト1世・ディ・サヴォイア
マクシミリアン1世

概要

 ビアンカ・マリーア・スフォルツァは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1472年4月5日

パヴィアにて、生。

1491年1月22日(土)

ミラノにて、新婚のルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステを迎える。

1492年9月15日

ミラノに到着したイザベッラ・デステを、スフォルツェスコ城の彼女が宿泊する部屋にて、母ボーナ・ディ・サヴォイアと貴婦人たちと共に迎える。

1493年11月30日

ミラノ大聖堂にて、マクシミリアン1世と結婚式を挙げる(1493年12月1日)。

1493年12月3日

ミラノ出発。随行員はマクシミリアン1世の大使たち、兄エルメス・スフォルツァ、従兄弟フランチェスコ・スフォルツァ、ミラノ大司教グイダントーニオ・アルチンボルディ、詩人ガスパーレ・アンブロージョ・ヴィスコンティ、ジアゾーネ・デル・マイーノ、エラスモ・ブラスカ、画家ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディスエレオノーラ・ダ・コッレッジョ

1493年12月

ボーナ・ディ・サヴォイア、兄ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ、義姉イザベッラ・ダラゴーナ、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロ、義叔母ベアトリーチェ・デステコモまで見送られる。

トルノから船で出発。

ベッラージョのマルケジーノ・スタンガの城に宿泊。

船で出発するが嵐でベッラージョに戻る。

1493年12月8日

馬で山を越える。

1493年12月23日

インスブルック到着。

1510年12月31日

インスブルックにて、死。

別表記

 ビアンカ・マリア・スフォルツァ

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『傭兵の二千年史』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia

オッタヴィアーノ・スフォルツァ Ottaviano Sforza

生没
1475年~1545年
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ローマ
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ルチア・マルリアーニ
ルクレツィア・スフォルツァ

概要

 オッタヴィアーノ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、庶子、聖職者。

在位

 ローディ司教 1497年10月27日~1499年、1512年~1519年、
        1527年~1533年
 アレッツォ司教 1522年~1527年

年表

1475年

ミラノにて、生(1477年)。

1476年

パヴィアで洗礼を受ける。代父はジョヴァンニ・アルチンボルディ枢機卿。

1512年6月20日

教皇代理としてミラノに入る。

1545年

ローマにて、死(1541年頃)。

別表記

 Ottaviano Maria Sforza

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アンナ・マリーア・スフォルツァ Anna Maria Sforza

生没
1476年7月21日~1497年11月30日
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
フェッラーラ
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ボーナ・ディ・サヴォイア
アルフォンソ1世・デステ

概要

 アンナ・マリーア・スフォルツァは、15世紀のイタリアの女性、ミラノ公女。16歳でアルフォンソ1世・デステと結婚するが、死産した上、自身も死ぬ。享年21歳。

年表

1476年7月21日

ミラノで生(1473年パヴィア)。

1491年1月22日(土)

ミラノにて、新婚のルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステを迎える。

1491年1月23日(日)

ミラノにて、アルフォンソ1世・デステと婚約(1491年1月12日、1491年1月21日)。

1491年1月24日(月)

ミラノにて、盛大な結婚祝賀会。

1491年2月

フェッラーラで盛大な結婚祝賀行事が繰り広げられ、プラウトゥスの「メナエクムス兄弟」と「アンフィトルオ」、テレンティウスの喜劇が上演される。アルフォンソ1世・デステと床入り。

1491年10月9日(日)

フェッラーラ大聖堂にて行われたエルコーレ・デイ・フェデーリらユダヤ人3名の改宗洗礼式で、代母を務める。

1492年

エレオノーラに恋したイッポーリト・ブォンデルモンテの役を男に扮して演じ、大成功を博する。

1493年5月18日

フェッラーラに到着したルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステマッシミリアーノ・スフォルツァを、夫アルフォンソ1世・デステと共に馬で出迎える。

1497年11月30日

フェッラーラにて、死産し死(1497年12月2日)。

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参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

ガレアッツォ・スフォルツァ Galeazzo Sforza

生没
1476年?~1515年
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
パヴィア
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ルチア・マルリアーニ
カミッラ・スフォルツァ

概要

 ガレアッツォ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、庶子。

在位

 メルツォ伯 1493年~

別表記

 Count of Melzi

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ビアンカ・スフォルツァ Bianca Sforza

生没
1482年~1496年11月23日
出身
ローディ
没地
ミラノ公国ミラノ
ルドヴィーコ・イル・モーロ
ベルナルディーナ・デ・コッラディス
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ

概要

 ビアンカ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの女性、庶子。

年表

1482年

生。

1489年12月31日

パヴィアのヴィスコンティ城にて、ガレアッツォ・サンセヴェリーノと結婚。

1496年6月20日

ガレアッツォ・サンセヴェリーノと床入り。

1496年11月23日

ミラノにて、死(1496年11月22日ヴィジェヴァーノ)。

別表記

 ビアンカ・ジョヴァンナ、Bianca Francesca Sforza

外部リンク

 Genealogy.EU
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

チェーザレ・スフォルツァ Cesare Sforza

生没
1491年5月3日~1514年1月4日
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ミラノ公国ミラノ
ルドヴィーコ・イル・モーロ
チェチーリア・ガッレラーニ

概要

 チェーザレ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、庶子。
 母チェチーリア・ガッレラーニが1492年に結婚した時にはミラノ宮廷に引き取られており、聖職者になるべく養育される。

外部リンク

 Wikipedia

マッシミリアーノ・スフォルツァ Massimiliano Sforza

生没
1493年1月25日~1530年6月4日
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
パリ
ルドヴィーコ・イル・モーロ
ベアトリーチェ・デステ

概要

 マッシミリアーノ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 第8代ミラノ公 1512年~1515年

年表

1493年1月25日

4刻、ミラノスフォルツェスコ城にて、生。祖父エルコーレ1世・デステの名をとってエルコーレと名付けられる。

1493年11月30日

いとこビアンカ・マリーア・スフォルツァマクシミリアン1世と結婚。

1496年9月

マクシミリアン1世ヴィジェヴァーノスフォルツェスコ城に滞在。

エルコーレではなくマッシミリアーノと呼ばれるようになる。

1512年8月12日

この日?、神聖同盟諸国の代表がマントヴァで会合。ミラノ公としてマッシミリアーノ・スフォルツァをスイス連邦の後見の下に立てることを決める。

1512年12月15日

マクシミリアン1世の宮廷で逃亡生活を送っていたマッシミリアーノ・スフォルツァは、神聖同盟陣営の枢機卿、司教、軍指揮官など多数に守られて華々しくミラノに入城し、市民の大歓迎を受ける。

1512年12月29日

マッシミリアーノ・スフォルツァ、正式にミラノ公に即位(在位1512年~1515年)。

1513年2月20~21日

数日前から病床についていたユリウス2世、死。

フェルナンド2世・デ・アラゴンマクシミリアン1世は、前年8月のマントヴァ会議でユリウス2世がパルマ、ピアチェンツァをも得たことに不満を抱いていたが、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督でミラノに陣を敷いていたライモンド・ディ・カルドーナが、ユリウス2世の死を機として軍を率いて両市を襲い、ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァへの服従を誓わせる。

アルフォンソ1世・デステユリウス2世に奪われたチェント、ルーゴ、バニャカヴァッロなど自領を奪回し、レッジョをも奪回しようとするが内部に自分を迎える動き生じず、撤退。

1513年

この頃?、レオ10世ルイ12世とヴェネツィアのブロワ協定及びそれによって釈放されたバルトロメオ・ダルヴィアーノを指揮官とするヴェネツィア軍の強化などを挙げてマッシミリアーノ・スフォルツァを脅かし、ライモンド・ディ・カルドーナが彼に服従させたパルマ、ピアチェンツァを取り上げる。

1513年5月

ルイ2世・ド・ラ・トレモイユジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍は、ミラノを奪回すべくイタリアに侵攻し、アレッサンドリアなどを難なく制圧。

ジェノヴァもルイ12世軍に服し、Antoniotto Adorno(1479年頃~1530年)がルイ12世の総督になる。

バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍も出陣し、ヴァレッジョ、ペスキエーラを占領してクレモーナに入る。ベルガモ、ブレッシャもヴェネツィアに服し、マッシミリアーノ・スフォルツァ軍の入城を拒絶。

1515年2月7日

マクシミリアン1世フェルナンド2世・デ・アラゴン、マッシミリアーノ・スフォルツァ、スイス連邦及びフィレンツェは、レオ10世の暗黙の加担の下、対オスマン・トルコ同盟の名目でミラノ防衛のための対フランソワ1世、対フランス同盟を結成。

1515年9月13~14日

マリニャーノの戦いフランソワ1世軍は、バルトロメオ・ダルヴィアーノの精鋭部隊も加えて、ミラノ軍、スイス連邦軍をミラノ近郊マリニャーノで撃破。

マッシミリアーノ・スフォルツァは、フランソワ1世のもとに使節を送ってミラノの鍵と大金の提供を約束するが、城塞はなお自ら確保。そのためフランソワ1世は、ミラノに入城せず城塞の攻撃を開始。

スイス連邦軍は、マリニャーノの敗北を機にイタリアから撤退し帰国。以後、独立した軍としてはイタリア戦争から姿を消す。

1515年10月4日

マッシミリアーノ・スフォルツァ、フランソワ1世に全面的に降伏し、フランスの地で終身年金を得ることを条件にミラノ公位を委譲。

1515年10月5日

ミラノを出てフランスに向かう。

1530年6月4日

パリにて、死。

1530年6月10日

パリで葬儀が行われ、12人のカルメル会士によってカルミニ教会に運ばれる。

肖像

別表記

 マッシミアーノ、エルコーレ・マッシミリアーノ、Ercole Massimiliano I

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『ルネサンスの女たち』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ Francesco Maria Sforza

生没
1495年2月4日~1535年11月2日
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ヴィジェヴァーノ
ルドヴィーコ・イル・モーロ
ベアトリーチェ・デステ
クリスティーヌ・ド・ダヌマルク

概要

 フランチェスコ・マリーア・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 ミラノ公 1521年~1524年、1525年、1529年~1535年

年表

1495年2月4日

ミラノにて、生(1492年)。

1521年5月8日

レオ10世フランソワ1世との1月末の協定に対する批准が遅れる間にその意図に不信を強め、一転してカール5世と、そのナポリ領有を改めて認めること、メディチ家のトスカーナにおける支配領を含めて相互に領国を防衛し合うこと、フランソワ1世からパルマ、ピアチェンツァを奪還して教会領に併合し、同じくミラノを奪還してルドヴィーコ・イル・モーロの子フランチェスコ・マリーア・スフォルツァに統合させること、自身のフェッラーラ攻撃、奪還及びナポリ領内の一部領地のアレッサンドロ・デ・メディチへの封与をカール5世が支持すること、などにつき秘密裡に協定し、1521年5月28/29日批准。

1521年11月19日

プロスペロ・コロンナやペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらに指揮され、教皇特使ジューリオ・デ・メディチを加えた同盟軍の進撃を前に、ミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍及びTeodoro Trivulzio(1474年~1551年)ら指揮のヴェネツィア軍は、城塞に守備隊を残してミラノを撤退。同盟軍は、ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの名でミラノを制圧。

以後、同盟軍は、ナヴァーラ、アスティ、アレッサンドリア、パヴィア、ローディ、クレモーナ、パルマ、ピアチェンツァを相次いで占領し、パルマ、ピアチェンツァを教会領に併合。

1523年7月29日

この頃、1523年4月頃以来カール5世から使節ジローラモ・アドルノを、その死後は同じくMarino Caracciolo(1469年~1538年)を送られ、協定を求められてきた上に1523年7月半ばからはハドリアヌス6世からも強く促されていたヴェネツィアは、求めに応じてカール5世フェルディナンド及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとミラノ防衛の協定を結ぶ。カール5世によるフランソワ1世の孤立化、そのイタリア侵攻阻止の態勢、さらに強まる。しかしフランソワ1世はイタリア侵攻の意を弱めず軍を強化。

1523年8月3日

イタリアにおける戦闘の終息及びオスマン・トルコの攻撃に対するキリスト教世界の防衛を期するハドリアヌス6世、イタリア侵攻、ミラノ奪還の意図を捨てようとしないフランソワ1世に対抗すべく、カール5世ヘンリー8世フェルディナンド、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、フィレンツェ、シエナ、ジェノヴァなどと同盟を締結。

1523年

狩りの最中、ボニファチオ・ヴィスコンティに短剣で襲われ、かろうじて逃れる。

1525年4月1日

クレメンス7世Charles de Lannoyは、クレメンス7世カール5世は共にミラノをフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに与えてこれの防衛に当たり、クレメンス7世Charles de Lannoyに軍資金を与え、Charles de Lannoyは教会領、フィレンツェ及びメディチ家を保護することなどを秘密裡に協定。5月1日または10日、ローマで公表される。この過程で、クレメンス7世の命に従いフィレンツェはペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに、ルッカとシエナはCharles de Lannoyに軍資金を支払う。

1525年7~8月

この頃カール5世、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァに、ミラノを正式に封与条件として巨額の金を要求。

1525年7~8月

フランソワ1世のスペイン護送などを巡ってCharles de Lannoyフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスなどとの間に生じた不和を利用してカール5世陣営を分断し、その支配から免れようと企むフランチェスコ・マリーア・スフォルツァの副王Girolamo Morone(1470年~1529年)、密かにルイーザ・ディ・サヴォイアクレメンス7世及びヴェネツィアの支持・参加を得て反カール5世同盟を結成。フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに同盟軍の最高指揮官ともナポリ王ともするとの条件を示して彼を陰謀・同盟に引き入れる。

1525年11月12日

カール5世軍は、ミラノを再制圧。フランチェスコ・マリーア・スフォルツァは城塞に閉じ込められる。

1526年5月22日

コニャック同盟:クレメンス7世、ヴェネツィア、フランソワ1世及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァは、共にカール5世と戦うこと、ミラノ、ジェノヴァ、ナポリなどカール5世の配下の地を攻撃・奪還すること、ミラノはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに、ジェノヴァとナポリはフランソワ1世に与えることなどについて合意し、フランス・アングレームのコニャックで秘密裡に同盟を締結。直ちに同盟軍を起こす。

1526年7月24日

フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カール5世軍の包囲に耐え切れずミラノの城塞を明け渡し、ロディに撤退。ロディでコニャック同盟に自ら正式に署名。

1526年9月22/23日

コニャック同盟軍は、クレモーナを占領し、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの配下に置く。しかし情勢の変化を招くには至らず。

1527年5月15日

イタリアをカール5世の配下に放置したくないフランソワ1世、ヴェネツィアと、共同でスイス人傭兵を雇うこと、自軍をイタリアに派遣すること、ヴェネツィアはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと共に兵を調達することを協定。

1529年11月5日

ボローニャ会談:カール5世クレメンス7世の待つボローニャに着き、両者、直ちに会談を始める。以後、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟、(2)アルフォンソ1世・デステの支配するフェッラーラ、モデナ、レッジョに対するクレメンス7世の要求権、(3)カール5世とフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ及びヴェネツィアとの和解などにつき断続的に会見を繰り返す。

この会見の帰趨次第で自己の運命が決まることを察知したイタリア諸国の君侯ないしはその使節たち、続々とボローニャに参集し、自国に有利な取り成しを得るべく画策。

1529年11月23日

フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、クレメンス7世に呼ばれてボローニャに着く。

1529年11月29日

フィリベール・ド・シャロンは、フィレンツェ攻略に必要として求めたものの内、資金はクレメンス7世から継続的に与えるとの約束を得、軍はこの時すでにヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと和解することを決意したカール5世からそれによって不要となるロンバルディア駐在の軍を与えるとの約束を得、ボローニャからフィレンツェ市外の戦線に帰着。

1529年12月23日

スペインで予測していたよりもイタリアの、とりわけミラノやフィレンツェの軍事制圧が困難であることを認識したカール5世、軍事制圧に必要な巨額の費用、ドイツの宗教改革の波動、弟フェルディナンドの支配するオーストリアへのオスマン・トルコの再攻撃の危険などなどを考慮し、クレメンス7世の勧奨も受けて初めの方針を変更し、ヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと協定。ヴェネツィアはクレメンス7世にラヴェンナ及びチェルヴィアを、カール5世にナポリ領内のPugliaの占領地をそれぞれ返還すること。カール5世はフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに巨額の金でミラノを封与すること。

1529年12月23日

永久同盟:クレメンス7世カール5世フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ3世・ディ・サヴォイアフェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。

これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。

1532年12月15~20日

クレメンス7世カール5世、ボローニャで断続的に会見。カール5世は、(19ドイツの宗教上の対立を解決する唯一の策としての公会議の即時開催、(2)ジェノヴァ及びミラノをフランソワ1世から防衛するためのイタリア同盟の締結、(3)ミラノ防衛のためのカトリーヌ・ド・メディシスとフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとの結婚を提案。

クレメンス7世は、(1)についてはキリスト教君主、諸侯、都市の事前の了解が必要との口実で回答を引き延ばし、(3)についてはフランソワ1世との合意を盾に回答を渋るなど、会見はカール5世の意を満たさぬ状態を続ける。但しカール5世は、3についてはフランソワ1世メディチ家などとの婚姻を重視することはあるまいと楽観。

1533年2月24日

クレメンス7世カール5世フェルディナンド、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステフェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。

1534年4月

カール5世、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァを自分の姪で前デンマーク王・ノルウェイ王・スウェーデン王Christian II(1481年~1559年:デンマーク王・ノルウェイ王在位1513年~1523年、スウェーデン王在位1520年~1523年)の娘Christina(1518年~1590年)と結婚させる。ミラノ市内で盛大な祝賀行事が行われる。

1535年11月2日

1日から2日にかけての夜、ミラノポルタ・ジョヴィア城にて、後継者を残さず悪性熱で死(1535年10月24日ヴィジェヴァーノ、1535年11月1日)。

1535年11月19日

葬儀。城からミラノ大聖堂に運ばれる。

別表記

 Francesco II Sforza

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Google Books
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Medici Archive Project
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

ジャンパオロ1世・スフォルツァ Giampaolo I Sforza

生没
1497年3月~1535年12月13日
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ナポリ王国ナポリ
ルドヴィーコ・イル・モーロ
ルクレツィア・クリヴェッリ
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ
ルドヴィーカ・スフォルツァ
ムツィオ1世・スフォルツァ

概要

 ジャンパオロ1世・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 第1代カラヴァッジョ侯 1532年~1535年

年表

1497年3月

ミラノにて、生(1497年5月)。

別表記

 Gianpaolo

外部リンク

 Wikipedia

ジョヴァンニ・スフォルツァ Giovanni Sforza

生没
1466年7月5日~1510年7月27日
出身
教皇領ペーザロ
没地
グラダーラ
コスタンツォ1世・スフォルツァ
フィオーラ・ボーニ
マッダレーナ・ゴンザーガ
ルクレツィア・ボルジア
ジネヴラ・ティエポロ
イザベッラ・スフォルツァ
ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァ

概要

 ジョヴァンニ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 ペーザロ領主 1483年~1500年、1503年~1510年

年表

1489年10月27日

マッダレーナ・ゴンザーガと結婚。

1489年11月

義理の母、摂政カミッラ・ダ・マルツァーノから、ペーザロの統治を全面的に委譲される。彼女はパルマ近くの城に居住。

教皇代理として教皇領を治めているため、教会に年7百50ドゥカートを収める義務がある。

1490年8月8日

マッダレーナ・ゴンザーガが出産時に死。

1492年10月31日

ネピの城に数日滞在後、この日、ローマに到着(1492年10月半ば)。チェーザレ・ボルジアペニテンツィエリ宮殿に滞在。用心深く身を隠し、夜のみ外出。

1493年2月2日

ヴァティカン宮殿ルクレツィア・ボルジアと婚約。ペーザロに帰っていたジョヴァンニ・スフォルツァの代理人は、ニッコロ・デ・サヴァーノ。ミラノ大使、教皇アレクサンデル6世の友人、部下、フアン・ロペス、フアン・カザノヴァ、ペドロ・カランツァ、フアン・マラデスが出席。公証人の前でニッコロ・デ・サヴァーノが花嫁に結婚指輪をつける。持参金は3万1千ドゥカートの他、1万ドゥカート相当の衣服と宝石と家具が、花嫁の兄フアン・ボルジアによって届けられる。1年以内に花嫁を連れて帰る。

この知らせがペーザロに届いた時、宮殿で豪華な祝宴を開く。大広間で踊り、恋人たちは手に手を取って城を出、教皇の全権大使スカルテスに率いられて、人々は歓喜に浸って何時間も街道で踊り明かした。

1493年6月9日(日)

騎兵2百80を率いローマ入城。ポポロ門で、ルクレツィア・ボルジアの兄弟たちや、各国の大使に出迎えられる。サン・マルコの館の前を通り、カンポ・デ・フィオーリ広場を抜けて、サンタンジェロ橋からボルゴまでは、隊列は、新婦の館の窓下を通るために僅かに斜めに進む。サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿の柱廊でヴァティカン宮殿に向かう一行を眺めていた花嫁に馬上から慇懃に挨拶し、彼女はそれに答えた。アレクサンデル6世が5人の枢機卿に囲まれて待つヴァティカン宮殿に入ると、前に進み出て跪き、短いラテン語の言葉でもってその一身と国とを捧げる。公式の儀式が終わると、新郎と従者たちは、宿泊の場と決められている、サンタンジェロ城近くの故アルディチーノ・デッラ・ポルタの館に赴く。

1493年6月12日

ルクレツィア・ボルジアとの結婚式。この日、ヴァティカン宮殿アレクサンデル6世や枢機卿たちの出席のもとで、レオネッロ・キエリカートが司式し、豪奢な式典を挙げる。夜を徹して享楽の宴が繰り広げられる。

高僧の一群に迎えられて、「伯爵領全部と共に」ヴァティカン宮殿へ向かう。服装は、金の浮き出し模様のついたラシャ地仕立ての「フランス風チュニック」を着て、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガから借りてきた首飾りを胸に下げる。この首飾りはマントヴァの大使に見破られ、失笑を買う。

アレクサンデル6世ミラノ公国から年金をもらって、ローマで暮らす。

1493年6月16日

妻の兄フアン・ボルジアと共に、宝石で煌めく高価な服を着て、スペイン大使に会うために馬に乗っている姿が目撃される。

1493年8月2日

この夏ローマで猛威を振るっていたペストを口実にして、ペーザロへ帰る許可をアレクサンデル6世に願い出、その許可が与えられる。ルクレツィア・ボルジアサンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿に残して、この日、ローマ出発(1493年8月3日)。

1493年9月初め

ペーザロにて、アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。結婚準備に要した出費やりくりのためとして、5千ドゥカートの前払いを求める。

1493年9月

アレクサンデル6世から、ジョヴァンニ・スフォルツァの要求の上、3万ドゥカートの持参金の約束を得る。

1493年11月10日

ローマ到着。

1493年12月

降誕祭後にペーザロに戻る。

1494年1月末

サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿ルクレツィア・ボルジアと居住。

1494年4月

ローマにて再従兄弟ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。

 昨日アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿がいる中、聖下は私に「それで、ジョヴァンニ・スフォルツァ、何か言いたいことがあるのかね」と仰いました。私はそれに答えて、「教皇、ミラノ公国の敵であるナポリ王と聖下が合意したとローマ中の人々が信じております。もしそうなら、聖下に年金をいただきながら、ミラノ公国からもいただいているのですから、私は困った立場に立たされます。この状態が続くなら、どちらか一方と仲違いしたり害したりせずに、どうやって一方に貢献できるのか分かりかねます。血の繋がった親類の敵にならず、聖下と輝かしいミラノ公国との合意により生じた義理に反しないように行動できるように、私の立場を明確にしていただけないでしょうか」。それに対し、教皇の活動に多大な関心を払い過ぎで、契約に従ったどちらの年金を受け取るのか選ばなければならないとおっしゃいました。そして、枢機卿に閣下に手紙を書くようお命じになられ、その内容については閣下ご自身でお読みになるでしょう。閣下、もしどんな立場に立たされるのかを私が予期していたなら、それに合意するよりも早く足元の藁を食べたでしょう(My lord, if I had foreseen in what a position I was to be placed I would sooner have eaten the straw under my body than have entered into such an agreement.)。私は閣下の腕に身を投じます。お願いですから、見捨てないでいただきたい。閣下に忠実であり続けられるように、この困難な状況を打破するための助け、援助と助言を期待します。私の地位と、ミラノの慈悲のおかげで祖先が遺してくれた僅かばかりの領土を守ってくださいましたなら、私と配下の軍人は閣下に忠義を尽くす所存です。

1494年5月31日

ルクレツィア・ボルジアジューリア・ファルネーゼヴァノッツァ・デイ・カッタネイ、ルクレツィア・ロペス、フアナ・デ・モンカーダを伴い、ローマを出発。ウンブリアマルケ、フォッソンブローネを経て、ペーザロに向かう。

1494年6月8日

ルクレツィア・ボルジアと共にペーザロ入城。雨の中、妻の歓迎式典が行われる。

1494年6月9日

ペーザロにて、アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。ペーザロ着を報じ、「昨夜は、身を乾かす以外のことは何もできませんでした」。

1494年8月2日

ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。スフォルツァ家の使節ライモンド・デ・ライモンディにロマーニャにおけるカラブリア公フェッランディーノ・ダラゴーナの軍隊の動きを詳細に伝えた。それら通報事項のほんの一部でも発覚すれば、自分の立場は、とりわけ教皇に金で雇われている現在は、極めて危険なものになる。

1495年6月16日

ペルージアにいるアレクサンデル6世に召喚され、この日、ルクレツィア・ボルジアと共に到着。4日間滞在後ペーザロに戻る。

1496年春

歩兵3百と重騎兵1百を率い、ナポリへ向けてペーザロを出発。

1496年3月26日

ローマ到着。

1496年4月15日

ローマを出発。

1496年5月4日

フォンディ到着。

1497年1月15日

自分の手でウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ宛に手紙を書く。「猊下をこれ以上立腹させないために」

変装してペーザロを出発しローマへ向かう。

1497年2月2日

聖燭祭アレクサンデル6世の執り行う儀式に列席。

1497年3月19日(日)

枝の主日サン・ピエトロ大聖堂での行事に参加。チェーザレ・ボルジアフアン・ボルジアのそばに立ち、フアン・ボルジアの次にアレクサンデル6世から聖小枝を受け取る。

1497年3月24日(金)

聖金曜日。早い時刻に起床。ルクレツィア・ボルジアのところへ挨拶に行って少し雑談をした後、この厳粛な日にちなんでトラステヴェレのサン・クリゾストモか、ジャニコロ丘のサン・トノフリオで告白をし、その後7つの教会へ贖罪の参詣をしに行くと告げる。しかし、馬に跨り、ごく少数の供を連れてローマ平原に出、アペニン山脈を越えて、ジョヴァンニ・スフォルツァ自身の表現によれば「あまりの早駆けのためにくたくたになって」ペーザロに辿り着く。

1497年3月26日(日)

復活祭

1497年11月18日

コスタンツァ要塞で、博士や神学者たちと会合。

1497年12月22日

アレクサンデル6世により、ルクレツィア・ボルジアとの婚姻を無効と宣言される。

1500年1月

チェーザレ・ボルジア軍がペーザロに向け進軍。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに兵を借りていたものの、財産をよそに運び逃亡の準備をしていた。しかし、ルドヴィーコ・イル・モーロミラノ奪還に立ち上がったため、チェーザレ・ボルジア配下の兵が呼び戻され、逃亡の必要はなくなる。

1500年8月8日

アレクサンデル6世に破門される。

1500年9月1日

亡き妻マッダレーナ・ゴンザーガの兄フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。チェーザレ・ボルジアペーザロ攻撃の意図と、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の注意を喚起する努力をしてくれるよう頼む。

1500年9月26日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。切迫した助けを求める。

フランチェスコ2世・ゴンザーガはアルバニア人ジャコモ率いる兵1百を送る。

1500年10月11日(日)

朝、ペーザロ市民が武力蜂起したため、兵3百でコスタンツァ要塞に籠城。夜、軍の指揮を異母弟ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァに預け、アルバニア人ジャコモと共に、ラヴェンナへ向かい船でペーザロを逃亡。(1500年10月12日)。

1500年10月

ボローニャ到着。フランスの保護がありながらも不安なジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに支援を求める。

1500年10月17日(土)

ボローニャにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 高名な閣下、誉れある義理の兄上様へ。当然ご存知かと思いますが、先週の日曜日の朝、4人の悪党に駆り立てられペーザロの民が武器を手に立ち上がり、少数の忠実でいた者たちと共に私は籠城しました。敵が接近してくるのを、リーミニ近郊にいたエルコーレ・ベンティヴォーリオが前進するのを見た時、包囲されまいとして夜城から抜け出しました。これはアルバニア人ジャコモの助言と助けによるものです。荒れた道と障害にもかかわらず、逃亡しました。これはまずジャコモを寄こしてくださった閣下に、次に安全に抜け出させてくれたジャコモに対して、感謝すべきでしょう。今何をなすべきなのか分かりませんが、4日以内に閣下のもとへ辿り着けない時には、ジャコモを送り返すので、全てがどのようにして起こったか、また私の計画を、伝えるでしょう。その間、私が安全であること、閣下を頼りにしていることをご承知いただきたい。

1500年10月19日

ボローニャにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ラヴェンナに向かい、そこから勇敢にも持ちこたえているペーザロに戻るつもりでいる。3百の兵を送って欲しい。

1500年10月21日

エルコーレ・ベンティヴォーリオが30~40騎でリーミニからペーザロ到着。ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァコスタンツァ要塞を明け渡す(1500年10月15日、1500年10月22日)。弁務官の評価に見合う大砲と弾薬分の支払いを受けることで合意し、合意に達しなかった分についてはラヴェンナへ船で輸送されることになる。ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァは側近と共に、母とジョヴァンニ・スフォルツァの娘をウルビーノに伴う。

1500年10月27日

チェーザレ・ボルジアペーザロ入城(1500年10月23日)。

1500年11月2日

ヴェネツィア到着。

1501年9月

この頃、マントヴァに亡命。

1503年8月25日

マントヴァにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 閣下、兄君へ。特にチェーザレ・ボルジアの病状に関して、閣下が手紙で書き送ってくださいました良いお知らせについて感謝いたします。私の不運が今終わりを迎えているため、喜びは大きいのです。国に帰れば、閣下に忠義立て、閣下のためになら何でもいたします。もしチェーザレ・ボルジアに関して何か、特に彼の死に関して知ったならば、お知らせくださいますようお願い申し上げます。そうすれば私はとても喜びます。いつでもあなたに忠実です。

1503年9月3日

ペーザロに復帰。

ペーザロにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ペーザロに入城したこと。

1503年

ユリウス2世により勅書で、教会代理としてペーザロの所属を認められる。

1504年

ジネヴラ・ティエポロと結婚(1502年)。

1505年11月4日

息子ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァが誕生。

ペーザロにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァが誕生したこと。

1510年7月24日

遺言書を作成。

1510年7月27日

グラダーラ城で死。

肖像

関連項目

 The Borgias: 103, 104, 105, 106, 107, 108, 109

別表記

 ジョヴァンニ・スフォルツァ・ディ・ペーザロ

外部リンク

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 Condottieri di ventura
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 THE BORGIAS wiki
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界悪女大全』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ Gian Galeazzo Sforza

生没
1470年~1515年4月14日
没地
ミラノ公国ミラノ
コスタンツォ1世・スフォルツァ
ジネヴラ・ベンティヴォーリオ

概要

 ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、庶子。

在位

 ペーザロ領主 1512年8月5日~1512年11月2日

年表

1510年7月27日

異母兄ジョヴァンニ・スフォルツァが死す。

ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァがまだ幼年のため、ペーザロの摂政となる。

1512年8月5日

ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァが死す。

1512年10月30日

教皇特使と協定に同意。ペーザロは教皇ユリウス2世に取り上げられ、ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの手に渡って、ウルビーノ公国に吸収される。

1515年3月23日

遺言書を作成し、マッシミリアーノ・スフォルツァを後継者に指名。

1515年

ミラノで死(1519年)。

別表記

 ジョヴァンニ・ガレアッツォ、Galeazzo Attendolo da Cotignola

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参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フェデリーコ1世・スフォルツァ Federico I Sforza

生没
14??年~1535年頃
グイド・スフォルツァ
フランチェスカ・ファルネーゼ
バルトロメア・オルシーニ
ボジオ2世・スフォルツァ
アルフォンソ・スフォルツァ
イッポーリタ・スフォルツァ
アスカーニオ・スフォルツァ
エレーナ・スフォルツァ

概要

 フェデリーコ1世・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 サンタ・フィオーラ伯 1508年~1517年

年表

1484年

バルトロメア・オルシーニと結婚。

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マルツィア・スフォルツァ Marzia Sforza

生没
14??年~
グイド・スフォルツァ
フランチェスカ・ファルネーゼ
ピエトロ・ルチェッライ
ジャン・ジョルジョ・チェザリーニ
ペンテシレア・チェザリーニ

概要

 マルツィア・スフォルツァは、15世紀頃のイタリアの女性。

年表

1487年

ピエトロ・ルチェッライと結婚。

別表記

 Maria

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ゼノービア・スフォルツァ Zenobia Sforza

グイド・スフォルツァ
フランチェスカ・ファルネーゼ
グリフォネット・バリオーニ

概要

 ゼノービア・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

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参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

アンジオーラ・スフォルツァ Angiola Sforza

生没
1479年~1497年
カルロ・スフォルツァ
ビアンカ・シモネッタ
エルコーレ・デステ

概要

 アンジオーラ・スフォルツァは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1479年

生。

1491年

エルコーレ・デステと結婚。

1497年

死。

別表記

 アンジェラ、AgnolaAngela Sforza

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参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

イッポーリタ・スフォルツァ Ippolita Sforza

生没
1481年~1520年
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ミラノ公国ミラノ
カルロ・スフォルツァ
ビアンカ・シモネッタ
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
スフォルツァ・ベンティヴォーリオ
ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ
ジネヴラ・ベンティヴォーリオ
アレッサンドラ・ベンティヴォーリオ
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ
イッポーリタ・ベンティヴォーリオ

概要

 イッポーリタ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

別表記

 イッポーリタ・ベンティヴォーリオ

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参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

フランチェスコ・スフォルツァ Francesco Sforza

生没
1491年1月30日~1512年
出身
パヴィア
没地
アングレーム
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
イザベッラ・ダラゴーナ

概要

 フランチェスコ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1491年1月30日

パヴィアにて、生。

1499年11月7日

ルイ12世ミラノを出発し、フランチェスコ・スフォルツァもフランスへ連れていかれる。

1512年

アングレームにて、落馬で首の骨を折り、死。

別表記

 ジョヴァンニ・フランチェスコ

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参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

イッポーリタ・マリーア・スフォルツァ Ippolita Maria Sforza

生没
1493年1月26日~1501年
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
イスキア
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
イザベッラ・ダラゴーナ

概要

 イッポーリタ・マリーア・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1493年1月26日

ミラノで生(1494年2月13日)。

1501年

イスキアまたはバーリで死。

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ボーナ・スフォルツァ Bona Sforza

生没
1494年2月2日~1557年11月19日
出身
ヴィジェヴァーノ
没地
バーリ
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
イザベッラ・ダラゴーナ
ジグムント1世・ヤギェウォ

概要

 ボーナ・スフォルツァは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1518年

ナポリにて、ジグムント1世・ヤギェウォと結婚誓約。

1518年2月3日

プロスペロ・コロンナに護衛され、マンフレドーニア出発。

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 ウィキペディア
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 JDA's Family Tree
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 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ムツィオ1世・スフォルツァ Muzio I Sforza

生没
1531年~1553年11月23日
没地
神聖ローマ帝国シュトラースブルク
ジャンパオロ1世・スフォルツァ
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ
ファウスティーナ・スフォルツァ
イッポーリタ・スフォルツァ
フランチェスコ1世・スフォルツァ

概要

 ムツィオ1世・スフォルツァは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 第2代カラヴァッジョ侯 1535年~1553年

年表

1545年7月19日

ピアチェンツァにて、ファウスティーナ・スフォルツァと結婚。

外部リンク

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イザベッラ・スフォルツァ Isabella Sforza

生没
1503年~1561年
出身
教皇領ペーザロ
没地
フィレンツェ
ジョヴァンニ・スフォルツァ
セルニージ・キプリアーノ・デル・ネロ

概要

 イザベッラ・スフォルツァは、16世紀のイタリアの女性。

年表

1520年9月29日

ペーザロにて、セルニージ・キプリアーノ・デル・ネロとの結婚契約書が交わされる。

備考

 ラテラーノ大聖堂の通路の壁の石に碑文が刻まれている。「Isabellas Sfortiae Joannis Pisaurensium P. Feminae Sui Temporis Prudentia Ac Pietate Insigni Exec. Test. P. Vix. Ann LVII. M. VII. D. III Obiit Ann. MDLXI. XI Kal. Febr. Consensu Nobilium De Mutis De Papazurris.」 その上には大理石に略歴がある。

外部リンク

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参考文献

 『Lucretia Borgia

ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァ Giuseppe Maria Sforza

生没
1510年2月24日~1512年8月5日
出身
グラダーラ
没地
教皇領ペーザロ
ジョヴァンニ・スフォルツァ
ジネヴラ・ティエポロ

概要

 ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 ペーザロの領主 1510年~1512年

年表

1510年2月24日

グラダーラにて、生(1505年11月4日ペーザロ)。

別表記

 Giovanni Maria SforzaCostanzo II

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参考文献

 『Lucretia Borgia

ボジオ2世・スフォルツァ Bosio II Sforza

生没
~1538年8月より少し後
没地
ローマ
フェデリーコ1世・スフォルツァ
バルトロメア・オルシーニ
コスタンツァ・ファルネーゼ
グイド・アスカーニオ・スフォルツァ
スフォルツァ・スフォルツァ
フランチェスカ・スフォルツァ
カルロ・スフォルツァ
ファウスティーナ・スフォルツァ
ジューリア・スフォルツァ
カミッラ・スフォルツァ
マリオ・スフォルツァ
ジュスティーナ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
パオロ・スフォルツァ

概要

 ボジオ2世・スフォルツァは、16世紀頃のイタリアの男性。

在位

 サンタ・フィオーラ伯 1517年~1535年

年表

1515年1月

コスタンツァ・ファルネーゼと結婚(1515年2月)。

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イッポーリタ・スフォルツァ Ippolita Sforza

生没
~1543年
没地
カニーノ
フェデリーコ1世・スフォルツァ
バルトロメア・オルシーニ
フェデリーコ・ファルネーゼ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
マッシミリアーノ・ゴンザーガ

概要

 イッポーリタ・スフォルツァは、16世紀頃のイタリアの女性。

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フランチェスコ1世・スフォルツァ Francesco I Sforza di Caravaggio

生没
15??年~1576年以降
ムツィオ1世・スフォルツァ
ファウスティーナ・スフォルツァ
コスタンツァ・コロンナ
ファウスティーナ・スフォルツァ
ムツィオ2世・スフォルツァ
ルドヴィーコ・スフォルツァ
ファブリツィオ・スフォルツァ
ヴィオランテ・スフォルツァ
ジョヴァンナ・スフォルツァ

概要

 フランチェスコ1世・スフォルツァは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 第3代カラヴァッジョ侯 1553年~1576年以降

年表

1566年

ローマにて、コスタンツァ・コロンナと結婚。

外部リンク

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グイド・アスカーニオ・スフォルツァ Guido Ascanio Sforza

生没
1518年11月26日~1564年10月6日
出身
ローマ
没地
ヴィッラ・カネード
ボジオ2世・スフォルツァ
コスタンツァ・ファルネーゼ

概要

 グイド・アスカーニオ・スフォルツァは、16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 枢機卿 1534年~1564年
 教皇代行 1537年~?

年表

1555年8月10日

カール5世陣営に与するサンタ・フィオーラのスフォルツァ家が、謀ってアンリ2世軍のガレー船2隻をチヴィタヴェッキアで奪い、ナポリに向けて出港させたのに対し、カール5世陣営の貴族の跳梁を抑制しようと企図していたパウルス4世、この日、甥の枢機卿Carlo Carafaを通じて、スフォルツァ家の当主・教皇代行枢機卿グイド・アスカーニオ・スフォルツァに、奪った船を3日以内にチヴィタヴェッキアに戻さなければ訴追すると通告。

これに対しグイド・アスカーニオ・スフォルツァ、夜、自宅にコロンナ家などカール5世陣営の貴族を集め、反パウルス4世を叫んで気勢を上げる。Marcantonio Colonna(1535年~1584年)は、すぐにも反パウルス4世暴動に決起する用意があると決意を表明。

1555年8月31日

パウルス4世、ガレー船の返還に応じないグイド・アスカーニオ・スフォルツァをサンタンジェロ城に連行させる。

1555年9月15日

スフォルツァ家に奪われたアンリ2世水軍のガレー船、チヴィタヴェッキアに帰還。4日後パウルス4世、グイド・アスカーニオ・スフォルツァを巨額の保釈金などと引き換えに釈放。

しかし教会領の南の境界で大規模な徴兵を続けるカール5世軍(スペイン軍)と、北の境界でアンリ2世軍の一掃を狙うカール5世陣営のコジモ1世・デ・メディチ軍とに囲まれたパウルス4世、恐怖を覚えつつスペイン=ハプスブルク帝国への反発・敵意を募らせる。

1556年5月4日

パウルス4世、グイド・アスカーニオ・スフォルツァ及びMarcantonio Colonnaのコロンナ親子に破門及び財産没収の処分を下す。

別表記

 カメルレンゴ・アスカーニオ・スフォルツァ

外部リンク

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参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フランチェスカ・スフォルツァ Francesca Sforza

生没
15??年~1546年6月11日以降
ボジオ2世・スフォルツァ
コスタンツァ・ファルネーゼ
ジローラモ・オルシーニ
レーリオ・デッラングイッラーラ
フェリーチェ・オルシーニ
パオロ・ジョルダーノ・オルシーニ
オラツィオ・オルシーニ
ヴィルジーニオ・オルシーニ

概要

 フランチェスカ・スフォルツァは、16世紀頃のイタリアの女性。

年表

1541年

ブラッチャーノにて、パオロ・ジョルダーノ・オルシーニを出産。

1545年頃

ジローラモ・オルシーニ、死。

1546年6月11日

この日より少し後、レーリオ・デッラングイッラーラと結婚。

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ファウスティーナ・スフォルツァ Faustina Sforza

生没
15??年~
ボジオ2世・スフォルツァ
コスタンツァ・ファルネーゼ
ムツィオ1世・スフォルツァ
イッポーリタ・スフォルツァ
フランチェスコ1世・スフォルツァ

概要

 ファウスティーナ・スフォルツァは、16世紀頃のイタリアの女性。

年表

1545年7月19日

ピアチェンツァにて、ムツィオ1世・スフォルツァと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2023年4月25日