Giovanni II Bentivoglio

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ




生没:1443年2月15日~1508年2月16日
出身:ボローニャ
没地:ミラノ
在位:ボローニャ領主 1463年~1506年
    先代:サンテ・ベンティヴォーリオ
父:アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオ
母:ドンニーナ・ディ・ランチェッロット・ヴィスコンティ
妻:ジネヴラ・スフォルツァ
子:カミッラ・ベンティヴォーリオ
  ビアンカ・ベンティヴォーリオ
  フランチェスカ・ベンティヴォーリオ
  アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオ
  ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ
  ラウラ・ベンティヴォーリオ
  アントーニオ・ガレアッツォ・ベンティヴォーリオ
  イゾッタ・ベンティヴォーリオ
  アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
  エルメス・ベンティヴォーリオ
  エレオノーラ・ベンティヴォーリオ
  ルチア・ベンティヴォーリオ

概要

 ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、ボローニャの領主。

年表

1443年2月15日
ボローニャにて、生(1443年2月12日)。
1463年10月1日
ボローニャの君主サンテ・ベンティヴォーリオ、死。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、君主となる。
1466年8月27日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから反乱とエステ軍の領内侵入を通報する書状を受けたピエロ・イル・ゴットーソ、療養中だったカレッジの別荘から急ぎフィレンツェ市内に向かう。
市内に入ったピエロ・イル・ゴットーソ、直ちにメディチ派を集め、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの書状を示して反乱と外敵の侵入を告げ、さらに書状をシニョーリアに運ばせ直ちに防衛体制を取らせる。
自らも兵を集めながらもピエロ・イル・ゴットーソルカ・ピッティに交渉を呼びかける。反乱の早期の発覚と予想に反してのピエロ・イル・ゴットーソの迅速果敢な対応に機先を制された首謀者たち、呼びかけに応じざるを得なくなる。
交渉に現われた老ルカ・ピッティは、ピエロ・イル・ゴットーソと和解。しかし帰宅後ニッコロ・ソデリーニら陰謀仲間に説得され、すぐ翻心。
1466年9月末
ピエロ・イル・ゴットーソ、陰謀、反乱の平定を告知するためヴェネツィア、ミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ナポリフェッランテ・ダラゴーナに使節を派遣。この後ボローニャにはマッテオ・パルミエリを派遣し、反乱をいち早く通報してくれたことへの謝意をも表明。
1478年9月8日
フィレンツェ陣営の最高指揮官として雇い入れたフェッランテ・ダラゴーナの女婿エルコーレ1世・デステが到着。直ちに軍を整えて出陣。
この頃?、さらにリーミニの君主ロベルト・マラテスタボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びサルッツォ候ルドヴィーコ2世(?~1504年:在位1475年~1504年)が、それぞれ小軍を率いて陣営に加わる。
しかしこれら小軍によっては教皇軍、フェッランテ・ダラゴーナ軍に十分対抗することはできず、フィレンツェ陣営の劣勢は続く。
1482年5月3日
ヴェネツィアがフェッラーラに宣戦。ヴェネツィアにシクストゥス4世、リーミニのロベルト・マラテスタ、ジェノヴァなどが、フェッラーラにナポリフェッランテ・ダラゴーナ、ミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びフィレンツェが加勢し、ほぼイタリア全土に戦線が拡大する。
1488年5月31日
ファエンツァの君主ガレオット・マンフレディは、妻フランチェスカ・ベンティヴォーリオの主導により謀殺される。フランチェスカ・ベンティヴォーリオの父、ボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、フランチェスカ・ベンティヴォーリオを支援しファエンツァを支配しようと急ぎファエンツァに入る。
しかしファエンツァの民衆は、ガレオット・マンフレディの幼子アストッレ3世・マンフレディを擁してフィレンツェに支援を求め、間もなくフィレンツェ軍がファエンツァを制圧。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、フランチェスカ・ベンティヴォーリオ父娘はボローニャに逃げ、ファエンツァを事実上、配下に入れたフィレンツェは自領の境界を固める。
1488年11月末
ボローニャで、ベンティヴォーリオ家の年来の宿敵マルヴェッツィ家による反ベンティヴォーリオの陰謀発覚し、多数が処刑、投獄、追放される。
1500年
フランス王ルイ12世の対ルドヴィーコ・イル・モーロ戦での義務を怠るも、チェーザレ・ボルジアの脅威を前に、4万ドゥカートでフランスの保護を取り付ける。
1500年8月
フィレンツェ領内ピストイアでのパンチァティキ、カンチェリエーリ両派の対立、内乱にまで発展。パンチァティキはメディチ家ヴィテッリ家らの、カンチェリエーリはジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの支援を受けて激しい闘争を続ける。
1500年10月半ば
グイド・トレッラをファエンツァに派遣し、人員と金での支援を申し出る。
また、孫アストッレ3世・マンフレディヴェネツィアに亡命させるよう提案するが、ファエンツァ評議会は民衆の降伏を誘引するとしてこれを拒絶。
1500年10月24日
教皇アレクサンデル6世の使節が小勅書を携えて到着し、ファエンツァに関して干渉すれば聖務停止、破門すると言い渡される。
1500年10月25日
到着後ファエンツァへ向かうよう指示を与えて、歩兵6百をカステル・ボロニェーゼに送る。これで総勢1千になる。
1500年12月
チェーザレ・ボルジアファエンツァに苦戦しているのは悪天候のせいではなく、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの支援によるものとして、アレクサンデル6世ルイ12世に苦情を述べる。フランスの保護を危うくしたことを恐れ、チェーザレ・ボルジアが冬営に入ったすぐ後、軍隊を引き上げる。
1500年12月
アレクサンデル6世が苦言を呈するのをやめず、ルイ12世はジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに使節を派遣し、ファエンツァに介入したことに対する非難を表明。アレクサンデル6世ボローニャが教会領に帰することを望んでいることを伝え、教会の敵との同盟を避けること、ボローニャを保持するため和解を結ぶことを勧める。
1500年12月初旬
ファエンツァカステル・ボロニェーゼに送った歩兵を引き上げる。
1501年2月
チェーザレ・ボルジアから使節が送られ、カステル・ボロニェーゼに軍を冬営させるよう要求される。食糧と宿泊施設、大砲などの提供を申し出、カステル・ボロニェーゼは譲歩せず。
1501年2月
アガメンノーネ・マレスコッティ、ジアゾーネ・マレスコッティ、アゲジラーオ・マレスコッティ、ルドヴィーコ・マレスコッティを拘留。
1501年4月26日
チェーザレ・ボルジアからカステル・ボロニェーゼ譲渡を要求するための使節である修道士が送られ、ボローニャ到着。
1501年4月
ジョヴァンニ・マルシーリとアンジェロ・ラヌッツィを派遣しイーモラに向かわせるが、カステル・サン・ピエトロ・テルメはすでにヴィテロッツォ・ヴィテッリの軍に占領されていた。
1501年4月27日
カステル・サン・ピエトロ・テルメの他、カザルフィウマネーゼ、カステル・グエルフォ・ディ・ボローニャ、メディチーナ占領の知らせがボローニャにもたらされる。
1501年4月27日
Sedici del Reggimento召集。チェーザレ・ボルジア軍にいるマルヴェッツィと通じているのを恐れて、アガメンノーネ・マレスコッティ、ジアゾーネ・マレスコッティ、アゲジラーオ・マレスコッティ、ルドヴィーコ・マレスコッティをベンティヴォーリオ宮殿に拘留。
1501年4月28日
Sedici del Reggimento召集。チェーザレ・ボルジアと協定を結ぶため、フランチェスコ・アルドロヴァンディとアレッサンドロ・ブトリガーリを大使を任命。
1501年4月
フランチェスコ・アルドロヴァンディとアレッサンドロ・ブトリガーリはカステル・サン・ピエトロ・テルメに向かうが、チェーザレ・ボルジアはメディチーナのヴィッラ・フォンターナにいた。
1501年4月29日
パオロ・オルシーニボローニャに到着。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは市門からベンティヴォーリオ宮殿まで兵1万2千を配置し、軍事力を誇示。
1501年4月30日
チェーザレ・ボルジアの代理パオロ・オルシーニと協定を結ぶ。カステル・ボロニェーゼチェーザレ・ボルジアに割譲し、1騎につき3名の年俸3年分、フランス王を除くどの君主と対峙している場合でも全面的な援助をする義務を1年間負うことに、Sedici del Reggimentoは同意。
1501年5月2日
チェーザレ・ボルジアとの協定締結を公表。
1502年9月
教皇代理官がアレクサンデル6世の1502年9月2日付小勅書を持参し、ボローニャ到着。
1502年9月14日
フランス大使クロード・ド・セセルがボローニャ到着。Sedici del Reggimentoに対し、ルイ12世は約束通りベンティヴォーリオを庇護する意思があるが、教会並びに教皇に反目するわけにはいかないと伝える。
クロード・ド・セセルにボローニャが団結していることを見せるため、広場に1千人超の市民が武器を手に集結したという。
1502年9月17日
15日後のこの日、Sedici del Reggimentoに対し教皇小勅書が再び読み上げられるが、武装した市民がジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオのみならず彼の息子たちのローマ召喚に激しく反対。
1502年9月末~10月9日
息子エルメス・ベンティヴォーリオを代理として、マジョーネの会合に送る。
1502年10月9日
法律家フロリアーノ・ドルフィが、ボローニャのサン・ドメニコ教会の説教壇でポルタ・プロキューラ地区の住民に対し、アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアの猛攻から領主を守ることを奨励する演説をふるう。
1502年10月17日
Sedici del Reggimentoルイ12世宛に手紙をしたためる。ルイ12世からの手紙に対する返信。チェーザレ・ボルジアとの和議には将来町が脅かされないことが約束されており、1502年1月10日にアレクサンデル6世がそれを承認していると、Sedici del Reggimentoベンティヴォーリオ家の主張を説く。
1502年10月22日
アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオエルメス・ベンティヴォーリオを騎兵5百と歩兵2千でカステル・サン・ピエトロ・テルメに向かわせ、小隊をドッチアに向かわせる。
1502年10月
しかし、協定の交渉を再開するためすぐに彼らを留まらせ、チェーザレ・ボルジアの命令通り「裁量によりオルシーニから離れる」準備を整えていることを明瞭にする。
1502年11月
書記官フランチェスコ・プラートを、教皇従者ミゲル・デ・レモリンスと共にローマに派遣。
1502年11月22日
Sedici del Reggimentoがミーノ・デイ・ロッシとフィリッポ・バルドゥイーノを代理としてイーモラにいるチェーザレ・ボルジアと交渉させる。
1502年11月23日
ヴァティカン宮殿にて、ボルジア家との協定が結ばれる。孫コスタンツォ・ベンティヴォーリオとエルナ司教フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスの妹との結婚すること。両家が防衛同盟を結び、フィレンツェ共和国、フェッラーラエルコーレ1世・デステがその後見をフランス王ルイ12世に約束すること。チェーザレ・ボルジアに「年間1、2回の軍事行動につき」重騎兵100、軽騎兵200を提供すること。ボローニャチェーザレ・ボルジアに1百人分のコンドッタを更新すること。
フランソワ・トローシェ、ミゲル・デ・レモリンスが出席。ボローニャ外交官カルロ・グラーティとフランチェスコ・プラートが署名。
ウルビーノカメリーノのことがあるため、この協定は3か月間秘密にされる。
1502年11月末
ミーノ・デイ・ロッシとフィリッポ・バルドゥイーノに同盟批准の権限が与えられる。
1502年12月2日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、チェーザレ・ボルジアと単独で和睦。
1506年10月3日
1506年10月2日チェゼーナに着いたユリウス2世、駆けつけたボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの使者たちの服従の意を拒絶。
1506年10月10日
ユリウス2世、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオを破門しかつ9日以内に市民が自分に従わなければボローニャでの聖務を禁止するとの勅書を発する。翌11日公表。
1506年10月20日
ユリウス2世がイーモラに到着。直ちにジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ明け渡しをさらに強く要求。
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、ルイ12世の支援を期待し、防衛態勢を整える。
すでにルイ12世から軍を率いてユリウス2世を支援するよう指令を受けていたミラノ総督シャルル・ダンボワーズは、ユリウス2世の軍(マントヴァ、フェッラーラ、ウルビーノ、フィレンツェなどからの援軍を含む)と反対側からボローニャに迫る。ヴェネツィアはユリウス2世の援軍派遣の要求に応じず、中立を守る。
1506年10月20日
この頃までにユリウス2世のもとに小部隊の援軍100名を送る。しかしユリウス2世ジャンパオロ・バリオーニ、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ放逐の目標達成により、間もなく援軍は送り返される。
1506年10月25日
シャルル・ダンボワーズ、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ放棄を督促。
1506年11月1/2日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ボローニャを逃亡(在位1463年~)。シャルル・ダンボワーズから身の安全を保障されミラノに亡命。
1508年2月16日
ミラノにて、病死(1508年2月15日)。

チェーザレ・ボルジア数

 子アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオ→妻ルクレツィア・ディ・エルコーレ1世・デステ→きょうだいアルフォンソ1世・デステ→妻ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

肖像

 ベンティヴォーリオ祭壇画

関連項目

 ピッティ陰謀事件

別表記

 ジョヴァンニ2世、老ジョヴァンニ、ベンティヴォーリョ、Zuane BentivogliZuane Bentivoglio

外部リンク

 Geneanet
 kleio.org
 Treccani.it
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前