Giovanni Battista Caracciolo

ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロ

生没:1450年~1508年7月14日
父:オリヴィエーロ・カラッチオーロ
妻:ドロテア・マラテスタ
子:ヴィオラ・イザベッラ・カラッチオーロ
  バッティスタ・カラッチオーロ
  ジョヴァンニ・ベルナルディーノ・カラッチオーロ
  マルコ・オリヴィエーロ・カラッチオーロ

概要

 ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。フランス派のナポリ人。

年表

1498年12月
ウルビーノグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ指揮のヴェネツィア共和国軍に入る。年給1千ドゥカート
1499年2月
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが痛風のためビッビエーナからウルビーノに帰らなければならなくなり、ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロも同行。ビッビエーナに戻ってきた時、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロにより昇給される。マリアーノ・アーチオと共にビアンキーノ・ダ・ピサに勝利し、フィレンツェ人を捕虜にし、武器をはぎ取った後解放する。
1499年4月
バルトロメオ・ダルヴィアーノと共にビッビエーナを防衛。
1499年4月
パオロ・ヴィテッリと衝突し、この月、和解する。
1499年6月
ヴェネツィアグイドバルド・ダ・モンテフェルトロと同行。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの契約により、ヴェネツィア軍隊長から武装兵80、弓騎兵20をもらい受ける。常に年給1千ドゥカートを約束される。モンテフェルトロのProvveditoreであるピエロ・マルチェッロにより、ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロの戦果が公的に評価される。
1499年7月
部下と共にブレシア滞在。ヴェネツィアConsiglio dei Pregadiが、ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロを歩兵司令官に任命する可能性について議論。
1499年8月
ニッコロ2世・オルシーニの助言により、ヴェネツィア軍歩兵司令官に任命される。月給1百フィオリーノが追加される。ウルビーノ出発、リーミニを経て、ヴェネツィア到着。ドージェのアゴスティーノ・バルバリーゴを訪問した後、すぐさま戦地に向かう。ヴェローナにて、ラッツァーロ・グラッソと共に大砲の設営地を監督。ブレシアにて、ニッコロ2世・オルシーニにより権限を承認される。病身にもかかわらず軽装騎兵50を伴い、まずポントーリョへ次にフォンタネッラへ総司令官に従う。
1499年9月
スフォルツァ家戦で活躍し、苦戦での兵士に範を垂れる。サン・マルティーノ・デル・ラーゴとクレモーナに向かう。provveditore generaleのメルキオッレ・トレヴィザンにより称賛される。
1499年10月
クレモーナ出発、キオッジア到着。
1499年11月
ラヴェンナ駐在。
1500年1月
ルドヴィーコ・イル・モーロミラノ公国を奪還しようとしているため、ラヴェンナからロンバルディアへ。敵の騎兵に対抗する歩兵をクレモーナで募集するのは、地元の兵を信頼せず避ける。ヴェネツィア十人委員会は同調し、全員ヴェネツィア人である12名のconnestabileに共和国内で募兵させるようにする。
1500年2月
ブレシア、ポンテヴィーコ、クレモーナへ。
1500年4月
ローディ、クレーマへ。待機命令に不服を申し立てる。
1500年5月
トレヴィーリオにて三日熱に罹患し、治癒のためクレモーナへ向かう。
1500年6月
ヴェネツィアにてアゴスティーノ・バルバリーゴと会い、フリウリに移動。
1500年8月
東へ向かいトルコと戦うことを提案するが、拒否される。防衛のために新しく歩兵を募集することも、工兵1千を準備する必要はない。この結論の元、ピエロ・マルチェッロと共にグラディスカ・ディゾンツォにて、ニッコロ2世・オルシーニ及びバルトロメオ・ダルヴィアーノと会合。
1500年12月
フリウリへのトルコの脅威が一段落し、ヴェネツィアへ行く。ヴェネツィア共和国十人委員会に、妻ドロテア・マラテスタを連れて帰るため任地を離れてウルビーノへ行かせてほしいと嘆願するも、人を派遣してドロテア・マラテスタを来させるよう、と返答される。騎兵隊と大砲の状態及び給与遅延についての不満を申し立てる。対トルコ戦に参加を再び希望。
1501年1月
報酬150でグラディスカ・ディゾンツォに戻される。病気のため遅れる。ヴェネツィア共和国は1百ドゥカートと医師1名を派遣。
1501年1月半ば
フリウリに戻る。
1501年2月
ドロテア・マラテスタが誘拐される。すぐにヴェネツィア共和国十人委員会が、チェーザレ・ボルジアアレクサンデル6世、フランス大使に対して行動を起こす。ドロテア・マラテスタの馬車はチェゼナーティコに運ばれ、彼女自身はフォルリに監禁されている。
1501年3月16日
ヴェネツィア共和国元老院に赴き、誘拐事件を自ら解決する許可を嘆願するが、アゴスティーノ・バルバリーゴは元老院が対処すべきとして却下。グラディスカ・ディゾンツォに駐在を命じられる。
1501年3月30日
グラディスカ・ディゾンツォにて、ヴェネツィア共和国元老院宛に手紙をしたためる。ドロテア・マラテスタの居場所はフォルリの要塞だと確信している。
1501年3月
ラヴェンナチェルヴィアへの移転を催促する。部下と共にロマーニャに宿営するが、ナポリ王国の両親のもとに帰ることも可能。
1502年10月
ヴェネツィアへ行き、Collegioを定期訪問。グラディスカ・ディゾンツォに移動。マジョーネの陰謀の知らせを聞き、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに助力するためヴェネツィア共和国を離れたい旨申し出るが、無用な戦争に参加は反対として許可されず。またCollegioは3か月休暇を認めず。
1502年12月
グラディスカ・ディゾンツォ駐在。再び東へ向かいトルコと戦うことを提案。
1503年1月
ヴェネツィア共和国より100ドゥカート支払われる。グラディスカ・ディゾンツォにて、マルコ・ダ・リーミニのために干渉し、同日、解任。教皇との衝突にヴェネツィアが巻き込まれる懸念があるとの新ドージェ・レオナルド・ロレダンの主張にもかかわらず、ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロが報酬3百でラヴェンナに移転。
1503年2月
新駐在地に向かう前に、ヴェネツィアCollegioに行く。ボルジア領を侵犯しないように忠告される。ラヴェンナ駐在であり、ジャン・パオロ・マンフローネと共にバルトロメオ・ダルヴィアーノと和解する可能性がある。
1503年3月
歩兵1百、軽装騎兵50を閲兵するため、ラヴェンナ駐在。
1503年4月
ラヴェンナを離れ、アバーノ・テルメで足の怪我の治療。
1503年8月
ラヴェンナ駐在。ラヴェンナ政府はジャン・パオロ・マンフローネと和解。
1503年10月
腎疝痛に悩まされるが、回復。軍への支払いを要求。チェーザレ・ボルジアと戦うため、2か月間ローマへ行く許可を願い出るが、却下される。
1503年10月
月末、教皇の資金で地元の要塞を所有するとルッシに報告がある。
1503年11月
歩兵90、軽装騎兵50で、ファエンツァ攻囲。アントーニオ・ピオとラッツァーロ・グラッソと共に、ディオニジ・ナルディ、ヴィンチェンツォ・ナルディ、ジューリオ・ヴィテッリ、ジャン・パオロ・マンフローネら攻撃的な敵に対抗するため、慎重な作戦を提案。ファエンツァヴェネツィア共和国の手に落ち、部下に1月分の給与が支払われる。
1504年1月
ヴェネツィア大使アントーニオ・ジュスティニアーニの干渉により、妻ドロテア・マラテスタローマで解放される。ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロは誘拐事件でのチェーザレ・ボルジアの部下による損害を取り戻そうとする。解放が遅れたのは彼女が夫のもとへ戻りたい気持ちがあまりなかったからだと考えるヴェネツィア人もいた。ドロテア・マラテスタは修道院に戻ることは可能か尋ねる。元老院はジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロを召喚し、事情を開示。妻を許しているので、罪悪感を持つ必要はないと言明。妻は母親のもとへ戻る許可を願い出る。
1504年1月
1504年1月初めから翌1505年に至るまで、ドロテア・マラテスタは元老院に待遇について苦言を述べる。これ以降のことは不明。

別表記

 カラッチョロ、カラーチョロ、Gianbattista Caracciolo

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2010年10月14日