Giovanni delle Bande Nere

ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ

生没:1498年4月6日~1526年11月30日
出身:フォルリ
没地:マントヴァ
父:ジョヴァンニ・イル・ポポラーノ
母:カテリーナ・スフォルツァ
妻:マリーア・ディ・ヤコポ・サルヴィアーティ
子:コジモ1世・デ・メディチ

概要

 ジョヴァンニ・デ・メディチは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1519年6月11/12日
ジョヴァンニ・イル・ポポラーノカテリーナ・スフォルツァの子・メディチ家随一の勇将ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの長子コジモ1世・デ・メディチ生(1519年~1574年:フィレンツェ公在位1537年~1569年:トスカーナ大公1569年~1574年)。
1520年3月
フェッラーラ奪回を目指すレオ10世は、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍を送ってまず周辺のフェルモ、Recanati、ファブリアーノなどを制圧し、直轄統治を始める。
1520年3月21日
戦闘中に右手の薬指を落とす。
1521年8月1日
第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ候フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グィッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世カール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。
1522年1月4日~1522年1月5日
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと共にペルージアに迫っていたマラテスタ・バリオーニ、、オラーツィオ・バリオーニ兄弟は、ペルージアに復帰し支配。ジェンティーレ・バリオーニは逃亡。
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは引き続きシエナに進軍し、その政体変更を迫るが、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に撃退される。フィレンツェ軍はジェンティーレ・バリオーニを伴ってペルージア奪回に向かう。
1522年1月9日
カール5世のかつての教師、助言者で現スペイン総督(在位1520年~1522年)、異端審問長官(在位1518年~1522年)、枢機卿(在位1517年~1522年)、ネーデルラント人Adrian Florensz Boeyens(1459年~1523年)、教皇に即位し、ハドリアヌス6世を名乗る(在位1522年~1523年)。
この新教皇選出、自らもこの位を狙いながらもなおその実現は不可能と見たジューリオ・デ・メディチの判断と決断に大きく影響される。
枢機卿会議、スペイン・Vascoにあってまだイタリアを訪れたことのない新教皇ハドリアヌス6世が着任するまで教会領の現状を凍結、維持すべく、ペルージアに迫ったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に教会領より撤退するよう要求。フィレンツェ軍、撤退。
1524年3~4月
Guillaume de Bonnivet指揮のフランソワ1世軍と、Charles de Lannoy指揮のカール5世軍を主力としてシャルル・ド・ブルボン軍、フェルディナンド軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ総指揮のヴェネツィア軍、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍を結集した同盟軍が、ミラノ攻防を巡って激戦。フランソワ1世軍の敗色濃厚となる。
1524年12月初旬
この頃までにクレメンス7世カール5世陣営にあったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレに対して、アルフォンソ1世・デステからフランソワ1世陣営への物資輸送の安全を期すよう指令。1524年12月10日物資はジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの保護の下、輸送される。
1526年6月7日
オットー・ディ・プラティカは、コニャック同盟への加盟を正式に承認。ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍を同盟軍に送る。
1526年10月7日
クレメンス7世、9月21日の協定に従い、自分のコニャック同盟軍内全権代理・前線総監フランチェスコ・グィッチャルディーニに命じて自軍を同盟軍から離し、ポー河以南に撤退させる。しかし、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレと共になるべく多くの兵を密かに残せとも命ずる。
1526年11月下旬
ローマを目指すゲオルク・フォン・フルンズベルク指揮のカール5世軍は、ポー河を渡って進軍すべくBorgoforteに近づくが、コニャック同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレはこの地に陣を敷きながら抗戦を躊躇う。

ゴヴェルノーロの祭壇


アロイジオ・ゴンザーガの宮殿
1526年11月25日
夕刻、ゴヴェルノーロ近郊で激戦。小軍をもってフランス軍に抗戦したフィレンツェ軍指揮官ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレは、おそらくアルフォンソ1世・デステ軍のものと推測されるファルコネット砲に、右足を撃たれ、負傷(1526年11月24日)。
1526年11月
すぐにサン・ニコロ・ポーに運ばれたが医師が見つけられず、マントヴァアロイジオ・ゴンザーガの宮殿へ移送され、2年前にかかった医師アブラモ・アリエに足を切断される。
1526年11月30日
死(1526年11月28日)。
マントヴァのサン・フランチェスコ教会に埋葬される。
1685年
メディチ家礼拝堂の、妻マリーア・ディ・ヤコポ・サルヴィアーティの隣に移される。
1857年9月18日~1857年9月25日
発掘調査が行われる。黒い鎧姿で葬られており、伝えられるように右手の薬指がなく、右足が切断された状態が確認される。死因は、右足切断の手術で化膿している部分を残してしまったので、他の部分も蝕まれたことによる。

 メディチ家礼拝堂

チェーザレ・ボルジア数

 子コジモ1世・デ・メディチ→子ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 黒隊長ジョヴァンニ、黒備えのジョヴァンニ、黒軍団のジョヴァンニ、デッレ・バンデ・ネッレ、ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレ、Giovanni del PantenellaGiovanni dalle Bande Nere

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 そらのお城
 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 RootsWeb.com
 The Medici Archive Project

参考文献

 『銀色のフィレンツェ』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネッサンス夜話』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年9月29日以前