Giovanni Pico

ジョヴァンニ・ピコ

生没年:1463年2月24日~1494年11月17日
父:ジャンフランチェスコ・ピコ
母:ジューリア・ボイアルド

概要

 ジョヴァンニ・ピコは、15世紀の男性、人文主義者ジローラモ・サヴォナローラ評価者。

著作

 『人間の尊厳について
 『ヘプタプルス
 『存在と一者について
 『占星術駁論
 『全集

年表

1463年2月24日
フェッラーラ近郊ミランドラに生。
1469年
ジョヴァンニ・ピコの甥ジャンフランチェスコ・ピコ生(~1533年)。
1482年4月28日
この日からレッジョで始まったドミニコ会ロンバルディア地方支部集会でジローラモ・サヴォナローラフィレンツェサン・マルコ修道院の聖書講解師に任命される。
この集会に、神学者たちの討論を聴くべく留学先のパドヴァから参加した神童ジョヴァンニ・ピコと、参加者から学識を評価されつつあったジローラモ・サヴォナローラ、相互に評価しあい、友情を取り結ぶ。
1484年春
この頃ジョヴァンニ・ピコ、フィレンツェに入る。
20歳のこの時までにフェッラーラ、パドヴァ、パヴィアでの勉学によってラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、アラビア語をマスターしていた彼は、その学識、雄弁、美貌など稀有な天賦の資質と才により、間もなくロレンツォ・イル・マニーフィコを囲む学者・文人の中心的存在の一人となり、プラトン・アカデミーの有力メンバーとなる。
1486年12月7日
キリスト・ユダヤ・イスラム各教のプラトン的調和を目指すジョヴァンニ・ピコは、Conclusiones sive Theses dcccc(900の提題)をローマで刊行し、公開討論会の開催を計画。その開会演説のための草稿Oratio de hominis degnitate(人間の尊厳についての演説)を用意。
1487年8月5日
1487年2月20日、インノケンティウス8世により公開討論会を中止させられたジョヴァンニ・ピコ、急ぎ1487年3月Apologia(弁明)を刊行したものの、この日、異端審問によって1486年刊行の全提題を有罪とされる。
1489年4月20日
ジョヴァンニ・ピコの依頼と勧奨に応じてロレンツォ・イル・マニーフィコ、この頃までに、ジローラモ・サヴォナローラサン・マルコ修道院に帰任させるよう求める手紙をドミニコ会に送る。
1489年
ジョヴァンニ・ピコ、『ヘプタプルス』をフィレンツェで刊行。
1490年1月
この月?、ミケランジェロロレンツォ・イル・マニーフィコに招かれてメディチ宮殿に住み(1490年~1492年)、Bertoldo di Giovanniに彫刻を学び始める。以後ここでマルシリオ・フィチーノアンジェロ・ポリツィアーノジョヴァンニ・ピコらと交流。
1492年
ジョヴァンニ・ピコ、『存在と一者について』を刊行。
1494年11月17日
ジョヴァンニ・ピコフィレンツェで死(1463年~)。ドミニコ会の修道服を纏ってフィレンツェサン・マルコ修道院に葬られる。
1496年
ジョヴァンニ・ピコの遺作『占星術駁論』、他の作品及び甥ジャンフランチェスコ・ピコの書いたVita(ピーコ・デッラ・ミランドラの生涯)と共に、Commentationes(論集)のタイトルの下にボローニャで刊行。(以後1498年ヴェネツィアで、1504年ストラスブルクで、1517年パリで版を重ねる。)

肖像

 ピコ・デッラ・ミランドラのメダル
 ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラの肖像

別表記

 ミランドラの小ピーコ、ピーコ・デラ・ミランドラ、ピコ・デラ・ミランドラ、デッラ・ミランドラ、della Mirandola

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』

記載日

 2005年5月29日以前
ピコ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで