- 生没
- 1448年~1514年
- 父
- ルイジ・リドルフィ
- 子
- マッダレーナ・リドルフィ
概要
ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家、外交官。
在職
正義の旗手 1499年11月~12月、1512年9月~10月
年表
1499年11月1日
サン・マルコに追放されていた修道士たちが復帰し始め、市内でジローラモ・サヴォナローラ派、徐々に復活。
1500年6月10日
ピサは、Charles de Beaumontに対し、25~30日後にフランスに対して降伏するとの降伏条件を提示。Charles de Beaumontはこれを受諾する意向を示すがルカ・デリ・アルビッツィは拒否。
1501年1月13日
シニョーリアは、プラティカに集まった貴族に実行力ある統治体制を確立する必要性を訴え、その具体的対策を諮問。
貴族はこぞってコンシーリオ・マッジョーレの広範な権限、とりわけ財政、税制に関するあらゆる権限を非難。ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィら12名は財政、税制に関する権限をコンシーリオ・マッジョーレからコンシーリオ・デリ・オッタンタに移すよう提案。しかし具体的な統治制度改革に展開せずに終わる。
1503年8月22日
この日付の軍事八人委員会からの手紙で、チェーザレ・ボルジアは生きており、依然としてフランスの保護下にあるため、この時カストロカーロのコッミッサーリオであったジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィは、敵対行動をとらないよう警告される。
1506年12月6日
市民軍の創設がコンシーリオ・マッジョーレで正式に承認され、Nove Ufficiali dell' Ordinanza(フィレンツェ市民軍九人委員会)、通称Nove Ufficiali di Miliziaが設置される。
1507年4月
1507年6月27日
イタリア侵略の意図を顕わにし始めたマクシミリアン1世の実力、実態を把握するため、彼のもとにフランチェスコ・ヴェットーリを派遣。
1512年9月8日
とジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ、コンシーリオ・マッジョーレで1年任期の新正義の旗手に選出される。(但し任期は臨時的に14ヶ月とされる)。
1512年9月16日
午後、ジョヴァンニ・デ・メディチを中心とする完全武装のメディチ派、コンシーリオ・デリ・オッタンタが新たな政体改革を議論していたヴェッキオ宮殿に乱入し、これを占拠すると共に新正義の旗手のジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィにパルラメントの即時召集を強要。
1512年10月末
この頃?、1512年9月8日に14ヶ月任期の正義の旗手に選出されたばかりのジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ、メディチ派に半強制的に辞任させられる。
1513年3月
ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィ、Giovanni Tornabuoni、ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ、ベルナルド・ルチェッライ、フィリッポ・ブォンデルモンティ、ベネデット・デ・ネルリ、ピエロ・グィッチャルディーニ、ロレンツォ・モレッリ、ネリ・カッポーニ(1452年~1519年)、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファの12名が選出される。
別表記
ジョヴァン・バティスタ、Giovann Battista、Giovambattista、Giovanbattista di Luigi di messer Lorenzo Ridolfi
外部リンク
Google Books
Google Books
Treccani
参考文献
『君主論』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2005年5月29日以前