Giovanni Salviati

ジョヴァンニ・サルヴィアーティ

生没:1490年~1553年10月28日
出身:フィレンツェ
没地:ラヴェンナ
在位:枢機卿 1517年7月1日~1553年
       任命した教皇:レオ10世
父:ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティ
母:ルクレツィア・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ

概要

 ジョヴァンニ・サルヴィアーティは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

年表

1517年7月1日
レオ10世、ウルビーノ争奪戦の費用などを調達すると共に教皇庁内における自己の立場を固めるため、自らの甥ジョヴァンニ・サルヴィアーティ(1490年~1553年:枢機卿在位1517年~1553年)、ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィ(1501年~1550年:枢機卿在位1517年~1550年)及び高名な人士ないし学者ロレンツォ・カンペッジオ(1474年~1539年)、J. Cajetanusエジーディオ・ダ・ヴィテルボF. Ximénez de Cisnerosらを含む31名の枢機卿を任命し、かつ多くの聖職を新たに設けて競売に付す。これにより巨額の資金を得る。
1525年5月5日
この頃?、クレメンス7世、1525年4月1日協定の一部条項の批准を躊躇うカール5世のもとに、その真意を探ると共に協定の全面的批准を促すべく使節として枢機卿ジョヴァンニ・サルヴィアーティを派遣することに決める。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディFilippo ParentiGaleotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1537年1月
フィレンツェ出身の3名の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティIacopo Gaddiローマ滞在亡命者たち、兵を集めて軍の編成を開始。
情報の収集に努めながら対策を論じていたボローニャ滞在の亡命者たち、コジモ1世・デ・メディチ擁立の報を得て挙兵・反抗の意を固め、ボローニャとミランドラで募兵を開始。ロレンツィーノ・デ・メディチはミランドラでこの動きに加わる。
1537年1月中旬
コジモ1世・デ・メディチ、外交活動を次々に展開し、支配の安定を図る。——パウルス3世には特使Alessandro Strozziを送ってローマ教会への恭順の意を表し、編成したばかりの軍を率いて北上していた3名の枢機卿らには書簡を、その内自身の伯父ジョヴァンニ・サルヴィアーティには特使Alessandro del Cacciaも送って彼らの厚遇を示唆しながら、軍を解いたうえで彼らだけで市内に入って協定を結ぶよう説得し、カール5世には特使ベルナルド・デ・メディチを送って政変と自身の支配の承認、アレッサンドロ・ヴィテッリの占拠しているフォルテッツァ・ダ・バッソの返還、などを懇請。

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 The Medici Archive Project
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前