Giovanni Sforza

ジョヴァンニ・スフォルツァ

生没:1466年7月5日~1510年7月27日
出身:ペーザロ
没地:グラダーラ
在位:ペーザロの領主 1483年~1500年
    先代:コスタンツォ1世・スフォルツァ
    次代:チェーザレ・ボルジア
   ペーザロの領主 1503年~1510年
父:コスタンツォ1世・スフォルツァ
母:フィオーラ・ボーニ
妻:マッダレーナ・ゴンザーガ
  ルクレツィア・ボルジア
  ジネヴラ・ティエポロ
子:イザベッラ・スフォルツァ
  ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァ

概要

 ジョヴァンニ・スフォルツァは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1489年10月27日
マッダレーナ・ゴンザーガと結婚。
1489年11月
義理の母、摂政カミッラ・ダ・マルツァーノから、ペーザロの統治を全面的に委譲される。彼女はパルマ近くの城に居住。
教皇代理として教皇領を治めているため、教会に年7百50ドゥカートを収める義務がある。
1490年8月8日
マッダレーナ・ゴンザーガが出産時に死。
1492年10月31日
ネピの城に数日滞在後、この日、ローマに到着(1492年10月半ば)。チェーザレ・ボルジアペニテンツィエリ宮殿に滞在。用心深く身を隠し、夜のみ外出。
1493年2月2日
ヴァティカン宮殿ルクレツィア・ボルジアと婚約。ペーザロに帰っていたジョヴァンニ・スフォルツァの代理人は、ニッコロ・デ・サヴァーノ。ミラノ大使、教皇アレクサンデル6世の友人、部下、フアン・ロペス、フアン・カザノヴァ、ペドロ・カランツァ、フアン・マラデスが出席。公証人の前でニッコロ・デ・サヴァーノが花嫁に結婚指輪をつける。持参金は3万1千ドゥカートの他、1万ドゥカート相当の衣服と宝石と家具が、花嫁の兄フアン・ボルジアによって届けられる。1年以内に花嫁を連れて帰る。
この知らせがペーザロに届いた時、宮殿で豪華な祝宴を開く。大広間で踊り、恋人たちは手に手を取って城を出、教皇の全権大使スカルテスに率いられて、人々は歓喜に浸って何時間も街道で踊り明かした。
1493年6月9日(日)
騎兵2百80を率いローマ入城。ポポロ門で、ルクレツィア・ボルジアの兄弟たちや、各国の大使に出迎えられる。サン・マルコの館の前を通り、カンポ・ディ・フィオーリ広場を抜けて、サンタンジェロ橋からボルゴまでは、隊列は、新婦の館の窓下を通るために僅かに斜めに進む。サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿の柱廊でヴァティカン宮殿に向かう一行を眺めていた花嫁に馬上から慇懃に挨拶し、彼女はそれに答えた。アレクサンデル6世が5人の枢機卿に囲まれて待つヴァティカン宮殿に入ると、前に進み出て跪き、短いラテン語の言葉でもってその一身と国とを捧げる。公式の儀式が終わると、新郎と従者たちは、宿泊の場と決められている、サンタンジェロ城近くの故アルディチーノ・デッラ・ポルタの館に赴く。
1493年6月12日
ルクレツィア・ボルジアとの結婚式。この日、ヴァティカン宮殿アレクサンデル6世や枢機卿たちの出席のもとで、レオネッロ・キエリカートが司式し、豪奢な式典を挙げる。夜を徹して享楽の宴が繰り広げられる。
高僧の一群に迎えられて、「伯爵領全部と共に」ヴァティカン宮殿へ向かう。服装は、金の浮き出し模様のついたラシャ地仕立ての「フランス風チュニック」を着て、マントヴァフランチェスコ2世・ゴンザーガから借りてきた首飾りを胸に下げる。この首飾りはマントヴァの大使に見破られ、失笑を買う。
アレクサンデル6世ミラノ公国から年金をもらって、ローマで暮らす。
1493年6月16日
妻の兄フアン・ボルジアと共に、宝石で煌めく高価な服を着て、スペイン大使に会うために馬に乗っている姿が目撃される。
1493年8月2日
この夏ローマで猛威を振るっていたペストを口実にして、ペーザロへ帰る許可をアレクサンデル6世に願い出、その許可が与えられる。ルクレツィア・ボルジアサンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿に残して、この日、ローマ出発(1493年8月3日)。
1493年9月初め
ペーザロにて、アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。結婚準備に要した出費やりくりのためとして、5千ドゥカートの前払いを求める。
1493年9月
アレクサンデル6世から、ジョヴァンニ・スフォルツァの要求の上、3万ドゥカートの持参金の約束を得る。
1493年11月10日
ローマ到着。
1493年12月
降誕祭後にペーザロに戻る。
1494年1月末
サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿ルクレツィア・ボルジアと居住。
1494年4月
ローマにて再従兄弟ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。

 昨日アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿がいる中、聖下は私に「それで、ジョヴァンニ・スフォルツァ、何か言いたいことがあるのかね」と仰いました。私はそれに答えて、「教皇、ミラノ公国の敵であるナポリ王と聖下が合意したとローマ中の人々が信じております。もしそうなら、聖下に年金をいただきながら、ミラノ公国からもいただいているのですから、私は困った立場に立たされます。この状態が続くなら、どちらか一方と仲違いしたり害したりせずに、どうやって一方に貢献できるのか分かりかねます。血の繋がった親類の敵にならず、聖下と輝かしいミラノ公国との合意により生じた義理に反しないように行動できるように、私の立場を明確にしていただけないでしょうか」。それに対し、教皇の活動に多大な関心を払い過ぎで、契約に従ったどちらの年金を受け取るのか選ばなければならないとおっしゃいました。そして、枢機卿に閣下に手紙を書くようお命じになられ、その内容については閣下ご自身でお読みになるでしょう。閣下、もしどんな立場に立たされるのかを私が予期していたなら、それに合意するよりも早く足元の藁を食べたでしょう(My lord, if I had foreseen in what a position I was to be placed I would sooner have eaten the straw under my body than have entered into such an agreement.)。私は閣下の腕に身を投じます。お願いですから、見捨てないでいただきたい。閣下に忠実であり続けられるように、この困難な状況を打破するための助け、援助と助言を期待します。私の地位と、ミラノの慈悲のおかげで祖先が遺してくれた僅かばかりの領土を守ってくださいましたなら、私と配下の軍人は閣下に忠義を尽くす所存です。
1494年5月31日
ルクレツィア・ボルジアジューリア・ファルネーゼヴァノッツァ・デイ・カッタネイ、ルクレツィア・ロペス、フアナ・デ・モンカーダを伴い、ローマを出発。ウンブリアマルケ、フォッソンブローネを経て、ペーザロに向かう。
1494年6月8日
ルクレツィア・ボルジアと共にペーザロ入城。雨の中、妻の歓迎式典が行われる。
1494年6月9日
ペーザロにて、アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。ペーザロ着を報じ、「昨夜は、身を乾かす以外のことは何もできませんでした」。
1494年8月2日
ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。スフォルツァ家の使節ライモンド・デ・ライモンディにロマーニャにおけるカラブリア公フェッランディーノ・ダラゴーナの軍隊の動きを詳細に伝えた。それら通報事項のほんの一部でも発覚すれば、自分の立場は、とりわけ教皇に金で雇われている現在は、極めて危険なものになる。
1495年6月16日
ペルージアにいるアレクサンデル6世に召喚され、この日、ルクレツィア・ボルジアと共に到着。4日間滞在後ペーザロに戻る。
1496年春
歩兵3百と重騎兵1百を率い、ナポリへ向けてペーザロを出発。
1496年3月26日
ローマ到着。
1496年4月15日
ローマを出発。
1496年5月4日
フォンディ到着。
1497年1月15日
自分の手でウルビーノグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ宛に手紙を書く。「猊下をこれ以上立腹させないために」
変装してペーザロを出発しローマへ向かう。
1497年2月2日
聖燭祭アレクサンデル6世の執り行う儀式に列席。
1497年3月19日(日)
枝の主日サン・ピエトロ大聖堂での行事に参加。チェーザレ・ボルジアフアン・ボルジアのそばに立ち、フアン・ボルジアの次にアレクサンデル6世から聖小枝を受け取る。
1497年3月24日(金)
聖金曜日。早い時刻に起床。ルクレツィア・ボルジアのところへ挨拶に行って少し雑談をした後、この厳粛な日にちなんでトラステヴェレのサン・クリゾストモか、ジャニコロ丘のサン・トノフリオで告白をし、その後7つの教会へ贖罪の参詣をしに行くと告げる。しかし、馬に跨り、ごく少数の供を連れてローマ平原に出、アペニン山脈を越えて、ジョヴァンニ・スフォルツァ自身の表現によれば「あまりの早駆けのためにくたくたになって」ペーザロに辿り着く。
1497年3月26日(日)
復活祭
1497年11月18日
コスタンツァ要塞で、博士や神学者たちと会合。
1497年12月22日
アレクサンデル6世により、ルクレツィア・ボルジアとの婚姻を無効と宣言される。
1500年1月
チェーザレ・ボルジア軍がペーザロに向け進軍。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに兵を借りていたものの、財産をよそに運び逃亡の準備をしていた。しかし、ルドヴィーコ・イル・モーロミラノ奪還に立ち上がったため、チェーザレ・ボルジア配下の兵が呼び戻され、逃亡の必要はなくなる。
1500年8月8日
アレクサンデル6世に破門される。
1500年9月1日
亡き妻マッダレーナ・ゴンザーガの兄フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。チェーザレ・ボルジアペーザロ攻撃の意図と、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の注意を喚起する努力をしてくれるよう頼む。
1500年9月26日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。切迫した助けを求める。
フランチェスコ2世・ゴンザーガはアルバニア人ジャコモ率いる兵1百を送る。
1500年10月11日(日)
朝、ペーザロ市民が武力蜂起したため、兵3百でコスタンツァ要塞に籠城。夜、軍の指揮を異母弟ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァに預け、アルバニア人ジャコモと共に、ラヴェンナへ向かい船でペーザロを逃亡。(1500年10月12日)。
1500年10月
ボローニャ到着。フランスの保護がありながらも不安なジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに支援を求める。
1500年10月17日(土)
ボローニャにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 高名な閣下、誉れある義理の兄上様へ。当然ご存知かと思いますが、先週の日曜日の朝、4人の悪党に駆り立てられペーザロの民が武器を手に立ち上がり、少数の忠実でいた者たちと共に私は籠城しました。敵が接近してくるのを、リーミニ近郊にいたエルコーレ・ベンティヴォーリオが前進するのを見た時、包囲されまいとして夜城から抜け出しました。これはアルバニア人ジャコモの助言と助けによるものです。荒れた道と障害にもかかわらず、逃亡しました。これはまずジャコモを寄こしてくださった閣下に、次に安全に抜け出させてくれたジャコモに対して、感謝すべきでしょう。今何をなすべきなのか分かりませんが、4日以内に閣下のもとへ辿り着けない時には、ジャコモを送り返すので、全てがどのようにして起こったか、また私の計画を、伝えるでしょう。その間、私が安全であること、閣下を頼りにしていることをご承知いただきたい。
1500年10月19日
ボローニャにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ラヴェンナに向かい、そこから勇敢にも持ちこたえているペーザロに戻るつもりでいる。3百の兵を送って欲しい。
1500年10月21日
エルコーレ・ベンティヴォーリオが30~40騎でリーミニからペーザロ到着。ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァコスタンツァ要塞を明け渡す(1500年10月15日、1500年10月22日)。弁務官の評価に見合う大砲と弾薬分の支払いを受けることで合意し、合意に達しなかった分についてはラヴェンナへ船で輸送されることになる。ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァは側近と共に、母とジョヴァンニ・スフォルツァの娘をウルビーノに伴う。
1500年10月27日
チェーザレ・ボルジアペーザロ入城(1500年10月23日)。
1500年11月2日
ヴェネツィア到着。
1501年9月
この頃、マントヴァに亡命。
1503年8月25日
マントヴァにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 閣下、兄君へ。特にチェーザレ・ボルジアの病状に関して、閣下が手紙で書き送ってくださいました良いお知らせについて感謝いたします。私の不運が今終わりを迎えているため、喜びは大きいのです。国に帰れば、閣下に忠義立て、閣下のためになら何でもいたします。もしチェーザレ・ボルジアに関して何か、特に彼の死に関して知ったならば、お知らせくださいますようお願い申し上げます。そうすれば私はとても喜びます。いつでもあなたに忠実です。
1503年9月3日
ペーザロに復帰。
ペーザロにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ペーザロに入城したこと。
1503年
ユリウス2世により勅書で、教会代理としてペーザロの所属を認められる。
1504年
ジネヴラ・ティエポロと結婚(1502年)。
1505年11月4日
息子ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァが誕生。
ペーザロにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ジュゼッペ・マリーア・スフォルツァが誕生したこと。
1510年7月24日
遺言書を作成。
1510年7月27日
グラダーラ城で死。

肖像

 ジョヴァンニ・スフォルツァのメダル

関連項目

 The Borgias: 103, 104, 105, 106, 107, 108, 109

チェーザレ・ボルジア数

 妻ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 ジョヴァンニ・スフォルツァ・ディ・ペーザロ

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 mcsearch.info
 mcsearch.info
 mcsearch.info
 mcsearch.info
 mcsearch.info
 mcsearch.info
 THE BORGIAS wiki
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界悪女大全』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前