Girolamo Riario

ジローラモ・リアリオ

生没
1443年2月27日~1488年4月14日
出身
サヴォーナ
没地
フォルリ
パオロ・リアリオ
ビアンカ・デッラ・ローヴェレ
カテリーナ・スフォルツァ
スキピオーネ・リアリオ
オッタヴィアーノ・リアリオ
チェーザレ・リアリオ
ビアンカ・リアリオ
ジョヴァンニ・リヴィオ・リアリオ
ガレアッツォ・リアリオ
フランチェスコ・スフォルツィーノ・リアリオ

概要

 ジローラモ・リアリオは、15世紀のイタリアの男性。母方の伯父である教皇シクストゥス4世のおかげで権勢をふるうも、没後は領内に反乱が起き、家臣に殺される。

在位

 教会軍総司令官 1471年~1484年
 ボスコ伯 1472年6月12日~
 イーモラ領主 1473年~1488年
 フォルリ領主 1480年末~1488年

戦歴

 カンポモルトの戦い、教皇軍、勝利

容姿

 肥満。青白い肌。

性格

 臆病、残忍。

年表

1443年2月27日

サヴォーナにて、生(1438年)。

1472年5月23日

ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの従妹コスタンツァ・フォリアーニと婚約。

1472年6月12日

代理人を立てて、コスタンツァ・フォリアーニと結婚証書に署名。

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより、ボスコ伯に叙され、ヴィスコンティを名乗ることを許される。

1472年12月25日

日没から、ミラノスフォルツァ城にて、降誕祭を祝う。

1472年

11歳のコスタンツァ・フォリアーニとの初夜を要求すると、彼女の母ガブリエッラ・ゴンザーガが反対。

1473年1月17日

パヴィアカテリーナ・スフォルツァと結婚。

1473年1月23日

ローマに向け、パヴィア出発。

1473年11月5日

イーモラの領主として、教会に忠誠を誓う。

1473年11月7日

母方の伯父シクストゥス4世により、イーモラを封与される。

1473年12月6日

代官によりイーモラを所有。ジローラモ・リアリオ自身はイーモラに行かず。

1474年8月21日

サン・ピエトロ大聖堂フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの公爵叙任式に参加。

1477年5月

ジローラモ・リアリオの暗殺を計画していたとして、ローマで2人の男が捕らえられる。

教皇シクストゥス4世により、ジローラモ・リアリオの護衛としてジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコが付けられる。

1477年9月1日

ローマロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコがフィレンツェで彼の歓迎を受けたことに感謝を述べる。

1477年11月

腹心の部下であるロレンツォ・ジュスティーニをナポリに派遣。

1478年1月15日

ローマロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡2通をしたためる。ヤコポ・ブラッチョリーニの推薦状。

1478年3月27日

ヴァティカン宮殿で会合。出席者はロレンツォ・ジュスティーニ、ナポリ大使アネッロ・アルカモーネ、ウルビーノ公使アゴスティーノ・スタッコーリ及びピエロ・フェリーチ

1478年4月26日(日)

パッツィ家の陰謀:ジローラモ・リアリオはフィレンツェを占領するための軍を準備していたが、陰謀は失敗に終わる。

1478年

ローマ駐在フィレンツェ共和国大使ドナート・アッチャイウオリを逮捕。

1480年1月19日

アゴスティーノ・マッフェイからナヴォーナ広場そばの屋敷を購入。

1480年6月10日

ヴェネツィア共和国の代理人ピエトロ・フォスカリ枢機卿と傭兵契約を結ぶ。

1480年8月8日

フォルリの領主であることを宣言。

1480年8月23日

シクストゥス4世により、正式にフォルリを封与される。

1480年

ジャンフランチェスコ・ダ・トレンティーノフォルリの代官とし、自身はローマを離れず。

1480年11月11日

ローマにて、ミラノ公宛に手紙をしたためる。カテリーナ・スフォルツァが書記官をロンバルディアに送り、ジローラモ・リアリオを紹介すると伝える。

1481年6月30日

朝7刻、ジャン・ジョルダーノ・オルシーニパオロ・オルシーニ、歩兵50、弩騎兵20、並びに随行員と共にローマ出発。旅程はオルヴィエートペルージアウルビーノフォルリ

1481年7月12日

ペルージア到着。

1481年7月15日(日)

フォルリ到着。

1481年7月16日(月)

朝、妻カテリーナ・スフォルツァと共に露台から硬貨を投げる。模擬戦闘が行われ、フランチェスコ・ダ・カラヴァッジョが片目を失いながらも優勝。

午後、パオロ・オルシーニ、ジョヴァンニ・コロンナ、ジャンフランチェスコ・ダ・トレンティーノが馬上槍試合を行う。

1481年9月2日

カテリーナ・スフォルツァと共にイーモラ出発。

1481年9月8日

ヴェネツィア到着。1百15名の貴族を従えたヴェネツィア共和国元首ジョヴァンニ・モチェニーゴに迎えられる。

1481年9月

ヴェネツィアに赴き丁重な歓待を受ける中でフェッラーラの制圧を勧奨し、制圧後はフェッラーラをヴェネツィアの配下に置くことをシクストゥス4世は約束すると言明。

ヴェネツィア、内部で激論の末フェッラーラ制圧を決める。

この動きにフィレンツェミラノナポリが対抗し、イタリアは徐々に二大陣営に分かれる。

イーモラからフォルリに向かうジローラモ・リアリオとカテリーナ・スフォルツァを暗殺しようとする動きがあったが、ジャンフランチェスコ・ダ・トレンティーノがこれを未然に防ぐ。

暗殺未遂事件の翌日、武装兵3百に守られながら妻カテリーナ・スフォルツァと共にサン・メルクリアーレ修道院のミサに参列。

1481年10月14日

ローマへ向け、フォルリ出発。

1481年10月

別経路で向かっていた妻カテリーナ・スフォルツァリーミニで合流。

ローマ到着。

1482年4月3日

ジローラモ・リアリオが自分の兵士をジョルジョ・サンタクローチェに提供。この日夜、武装兵2百を率いたジョルジョ・サンタクローチェがヴァッレ宮殿を襲撃し、ジローラモ・コロンナを殺害。

1482年4月

教皇シクストゥス4世サンタクローチェ家を追放。

1482年

シクストゥス4世により教会軍総司令官としてローマ防衛を命じられ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂そばのアッピア街道の南門に歩兵を野営させる。しかし、ローマ人は反乱しないだろうと主張して城郭を出ず、アルフォンソ2世・ダラゴーナ軍と対峙しなかった。

ステファノ・インフェスーラによれば、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂の主祭壇で兵士たちとサイコロ遊びをしていたらしい。また、兵士が近隣を略奪するなど、評判を貶める。

1482年8月21日

カンポモルトの戦い:教皇軍とナポリ軍の間で激戦が繰り広げられるも、ジローラモ・リアリオは野営地を動かず。

1483年6月

フォルリへ。

1483年11月

ローマへ。

1484年5月30日

ヴィルジーニオ・オルシーニと共に兵2百を率い、ヴェネツィア広場そばにあるコロンナ邸を襲撃し、ロレンツォ・コロンナを逮捕。

1484年6月23日

ローマにて、ジョヴァンニ・ランフレディーニ宛てに手紙をしたためる。

1484年7月

パリアーノ近郊に駐屯。

1484年8月12日

教皇シクストゥス4世、死。

ローマの民衆が「コロンナ」と叫び、アルテンプス宮殿やカステル・ジュビレオの別荘を壊し、略奪。

1484年8月

枢機卿団に呼ばれ、ヴィルジーニオ・オルシーニと共に軍を率いてミルヴィオ橋に向かう。しかしコロンナ家の影響力のため、枢機卿団とジローラモ・リアリオはローマに入ることができず。

1484年8月23日

兵士の給与8千ドゥカート、失われた財産の補償、教会軍総司令官の地位、フォルリイーモラの領主を約束され、枢機卿団と合意に達する。

1484年8月24日

ローマ出発。

1484年10月22日

追放された貴族エットーレ・ザンペスキとその兄弟2名がフィレンツェ領内を通過して侵入し、フォルリ周辺の3つの領地サン・マウロ・パスコリ、ジョヴェーディオ、タラメッロを占領。

この領地はパウルス2世によりザンペスキ家に封ぜられたが、フィレンツェ共和国に雇われ教皇と敵対したため、シクストゥス4世に取り上げられ、ジローラモ・リアリオに与えられた。

1485年12月27日

40人評議会で投票され、売上税と門番義務を再び課すことが決定。

1486年3月

シニョーリア宮殿ニュンペーの間の窓の下で、アントーニオ・マリーア・オルデラッフィの手紙を携えたアントーニオ・ブトリゲッリが逮捕される。

1486年

小麦の収穫量が少ない。

1486年4月3日

アントーニオ・ブトリゲッリが死刑に処される。

1486年7月26日

フェッラーラエルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。モデナカテリーナ・スフォルツァのものが押収されてしまった件について。

1486年11月8日

ミラノ大使フランチェスコ・ヴィスコンティがビアンカ・スフォルツァの結婚式にカテリーナ・スフォルツァを招待するが、ジローラモ・リアリオはカテリーナ・スフォルツァが出席を拒んだと返答。宝石を全てボローニャラヴェンナに質入れしたため、着飾って会えないことを恥じていると説明。「装うと装うまいと彼女が喜ぶなら快く行かせるだろう。だが宝石なしでは行かないと言ったのだ」と涙ながらに大使に話す。

1487年3月

イーモラ到着。

1487年11月2日

リアリオ家フォルリ到着。

1488年

農民から土地の減税を嘆願され、所有者である町民に納税義務を負わせる。農民に媚びて貴族や職人を怒らせるのは誤りであると主張したルドヴィーコ・オルシと口論になる。シニョーリア宮殿そばの自邸に戻ったルドヴィーコ・オルシは、ジローラモ・リアリオに2百ドゥカートの借金している兄弟のチェッコ・オルシと話し合い、決別を決定。その様子を当時舞踊教師をしていたレオーネ・コベッリが目撃しており、『フォルリ年代記』に記す。

ジローラモ・リアリオがルドヴィーコ・オルシに訪問が途絶えている理由を問うが、護衛兵に恐怖を感じたルドヴィーコ・オルシはその場から逃げ出す。

給与の支払いが滞っている護衛兵のルドヴィーコ・パンセーチョとヤコポ・デル・ロンケをオルシ兄弟は抱き込み、ヤコポ・デル・ロンケの甥で小姓のガスパリーノに合図を出させるように計画。

1488年4月14日(月)

オルシの陰謀:夕刻、フォルリシニョーリア宮殿にて、アントーニオ・マリーア・オルデラッフィインノケンティウス8世ロレンツォ・イル・マニーフィコの外部支援を受けたチェッコ・オルシ、ルドヴィーコ・オルシ兄弟らの主導により殺害される(1488年4月15日)。何か所も刺され、死体は裸にされ、窓から投げ捨てられる。

肖像

注文

 アルテンプス宮殿

埋葬地

 イーモラ、サン・カッシアーノ大聖堂

別表記

 ジェロラーモ、イエロニモ・ダ・リアーリオ、ジロラーモ・デ・リアーリオ伯

外部リンク

 Google Books - The Tigress of Forlì
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界悪女大全』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンスの女たち』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood
 『At the Court of the Borgia
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年4月6日