Giuliano di Lorenzo de' Medici

ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ

生没:1479年3月12日~1516年3月17日
在位:教会の旗手 1513年8月~1516年
   ヌムール公 1515年~1516年
    先代:ガストン・ド・フォワ
    次代:ロレンツォ・デ・メディチ
父:ロレンツォ・イル・マニーフィコ
母:クラリーチェ・ディ・ヤコポ・オルシーニ
妻:フィリベルタ・ディ・サヴォイア
子:イッポーリト・デ・メディチ

概要

 ジュリアーノ・デ・メディチは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1498年10月末
バルトロメオ・ダルヴィアーノグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの指揮するヴェネツィア軍は、カゼンティーノ地区のビッビエーナを占領。この軍にピエロ・イル・ファトゥオ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟が従う。
1501年4月
この時にはボローニャにいる。
1501年5月
チェーザレ・ボルジア軍に参加するべくボローニャを出発するが、ロイアーノチェーザレ・ボルジアに止められる。
1505年3月
この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァはミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家オルシーニ家パンドルフォ・ペトルッチ、フィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家ジョヴァンニ・デ・メディチ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。
1511年1月3日
Ottoメディチ家ジョヴァンニ・デ・メディチ・ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟と交流する者を全て反逆者とみなすと布告。
1512年8月下旬
ボローニャに結集していたライモンド・ディ・カルドーナ指揮のスペイン軍は、ジョヴァンニ・デ・メディチ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟らを伴って南下。市民軍の結集していたフィオレンツオーラを避け、1512年8月21日バルベリーノ・ディ・ムジェッロに到着。
1512年9月1日
ピエロ・ソデリーニの解任が公式に告示されると共に、夕刻、ジュリアーノ・デ・メディチが市内に入り、メディチ家の18年ぶりの復帰始まる。
1513年2月18日
反メディチ陰謀発覚:ジュリアーノ・デ・メディチとその兄ピエロ・イル・ファトゥオの子ロレンツォ・デ・メディチ(1492年~1519年:ウルビーノ公在位1516年~1519年)を襲撃する陰謀がピエトロ・パオロ・ボスコリ(1478年~1513年)とアゴスティーノ・カッポーニ(1471年~1513年)を中心とする若者20名ほどによって企まれていたことが、ソデリーニ家と親戚に当たるレンツィ家で発見されたピエトロ・パオロ・ボスコリの手になる参画者リストから発覚したとオットー・ディ・バーリアに報告され、中心の両名を初めとするリスト上の人物が逮捕、拘留され、拷問による取調べを受ける。1513年2月22~23日深夜、両名は処刑される。
1513年3月
ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィGiovanni Tornabuoniジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィベルナルド・ルチェッライフィリッポ・ブォンデルモンティベネデット・デ・ネルリピエロ・ディ・ヤコポ・ディ・ピエロ・グィッチャルディーニロレンツォ・モレッリネリ・カッポーニ(1452年~1519年)、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファの12名が選出される。
1513年8月13日
レオ10世教会の旗手としてローマに滞在することになったジュリアーノ・デ・メディチに代えて甥ロレンツォ・デ・メディチをフィレンツェの統治者とする。
1513年8月
この頃レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチを教会の旗手に任命。かつ彼をカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイア(1498年~1524年)と結婚させることに決める。
1513年12月
レオナルド・ダ・ヴィンチローマに着き、ジュリアーノ・デ・メディチに仕える(~1516年末)。
1514年6月半ば
レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。しかしその2日後、1510年8月にユリウス2世が制圧して、1511年1月にマクシミリアン1世に封与したアルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを買収することをマクシミリアン1世の閣僚と約束するなど、かねてから抱いていたモデナ、レッジョ、パルマ、ピアチェンツァ一帯をメディチ家の領国と化して甥ロレンツォ・デ・メディチに統治させようとの野望実現に向けて歩を踏み出す。
さらにこの頃、レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチのためナポリをも領有しようと企んでルイ12世と秘密裡に折衝していると広く信じられる。
ただしレオ10世、三大権力者(ルイ12世フェルナンド2世・デ・アラゴンマクシミリアン1世)間の、ないしこの内の二者間の関係強化も、いずれの一者によるイタリア支配も防いで自己の権力強化とメディチ家の勢力伸長、安泰を図るべく、三者への対応について揺らぎ続ける。
1515年1月
レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、フランス王フランソワ1世の即位祝賀使節としてフランスに行き、その叔母でカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイアと結婚し、ヌムール公の称号を受ける。これによりメディチ家とフランス王室との婚姻関係生ずる。
1515年6月29日
レオ10世は、弟ジュリアーノ・デ・メディチを教会軍総司令官に任命。しかし病身の彼は実質上、任務を果たせず。
1515年7月17日
レオ10世は、対フランス同盟に正式に加盟すると共にこの同盟を公表。しかしナポリをフェルナンド2世・デ・アラゴンから奪って弟ジュリアーノ・デ・メディチに支配させようとの意図を密かに抱くレオ10世は、なお秘密裡にフランソワ1世とも接触を取り続ける。
この頃?、ロレンツォ・デ・メディチの指揮するフィレンツェ軍が、対フランス同盟陣営に加わるべくピアチェンツァに到着。教皇軍の小部隊もヴェローナに到着。ロレンツォ・デ・メディチは病床のジュリアーノ・デ・メディチに代わって教会軍総司令官を務める。
1516年3月17日
ジュリアーノ・デ・メディチ死。妻フィリベルタ・ディ・サヴォイアは間もなくその母(すなわちフランソワ1世の母)ルイズ・ド・サヴォワのもとに帰る。これによりメディチ家とフランス王室の婚姻関係消滅。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『イコノロジー研究
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンス夜話』
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前