Giulio Orsini

ジューリオ・オルシーニ

生没年:~1517年
父:ロレンツォ・オルシーニ
母:クラリーチェ・ディ・カルロ・オルシーニ
妻:マルゲリータ・コンティ
子:ヤコパ・オルシーニ
  マルツィオ・オルシーニ
  パオラ・オルシーニ
  パオロ・エミリオ・オルシーニ
  ヤコポ・オルシーニ
  ルクレツィア・オルシーニ
  エミリア・オルシーニ
  ヴァレリオ・オルシーニ
  フルヴィオ・オルシーニ

概要

 ジューリオ・オルシーニはイタリアの傭兵隊長。

年表

1493年6月12日
ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァヴァティカン宮殿での結婚式に参列。
1502年9月24日
兄弟ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿の部下トローツォとヤコポ・サンタクローチェが、朝枢機卿から派遣されてくる。
23刻頃、2人に挟まれてジューリオ・オルシーニが歩いているところを、アントーニオ・ジュスティニアーニに目撃される。
1502年9月25日
教皇アレクサンデル6世に謁見。教皇からボローニャに対する軍事行動に参加を要求されるが、これを拒絶。
1502年10月10日
この頃、マジョーネの会合が開かれている。
昼食後、アレクサンデル6世に謁見。協定を結ぶ。
1502年12月
チェーザレ・ボルジア及びアレクサンデル6世と協定を結ぶ。
パロンバーラ・サビーナを占領し、クレトーネ、スタッツァーノ、ガッリカーノ・ネル・ラーツィオ、モッリオーネなどの城を回復しようとするサヴェッリ家に対抗。
セニガッリアの罠の時、ジューリオ・オルシーニはローマにいる。
1503年1月4日頃
アレクサンデル6世が派遣した騎兵に、ポンテ・ノメンターノで捕らえられそうになるが、逃れる。
1503年1月
パロンバーラ・サビーナに行き、モンテロトンドに到着した時兄弟ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿が逮捕された知らせを受ける。
騎兵2百を率い、ジャン・ジョルダーノ・オルシーニの領地タリアコッツォ到着。
1503年1月7日頃
騎兵3百を率い、ブラッチャーノ到着。ピティリアーノ、シエナに向かう。
1503年1月12日頃
騎兵3百、歩兵4百を率い、チェーリ到着。ファビオ・オルシーニと合流。コロンナ家の支援を求める。
1503年1月18日頃
チェーリから出撃し、夜、ローマの物資供給を絶つため、ポンテ・ノメンターノ占領。
しかしすぐに取り戻される。
1503年2月22日頃
チェーリ出発。強固で物資も豊富なチチリアーノに到着。
1503年3月24日頃
アレクサンデル6世から、ジューリオ・オルシーニ及びチェーリにいる者たちに、2万ドゥカートと安全保障を提案されるが、これを拒絶。
アレクサンデル6世は、再び軍事行動を決意。
1503年4月6日頃
チェーリ、降伏。ジューリオ・オルシーニは、チェーザレ・ボルジアに服従。
1517年
死(1513年)。

在位

 モンテロトンド共同領主
 サン・ポロ共同領主
 スティミリアーノ共同領主
 コッレヴェッキオ共同領主
 アスコリ公 1485年10月15日~後没収
 フォリーノ領主 1485年10月15日~後没収
 フォンタナフォラ領主 1485年10月15日~後没収
 カステルヌオーヴォ領主 1485年10月15日~後没収
 コッレガート領主 1485年10月15日~後没収
 ポッジョ・ダブルッツォ領主 1485年10月15日~後没収

チェーザレ・ボルジア数

 母クラリーチェ・ディ・カルロ・オルシーニ→きょうだいエレーナ・オルシーニ→子ルドヴィーコ・ミリオラーティ→妻アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイザベッラ・デ・ボルハ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

別表記

 Julius OrsiniIulio Orsino

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geneanet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

記載日

 2005年5月29日以前
オルシーニ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで