- 生没
- ~1517年
- 父
- ロレンツォ・オルシーニ
- 母
- クラリーチェ・オルシーニ
- 妻
- マルゲリータ・コンティ
- 子
- ヤコパ・オルシーニ
マルツィオ・オルシーニ
パオラ・オルシーニ
パオロ・エミリオ・オルシーニ
ヤコポ・オルシーニ
ルクレツィア・オルシーニ
エミリア・オルシーニ
ヴァレリオ・オルシーニ
フルヴィオ・オルシーニ
概要
ジューリオ・オルシーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1493年6月12日
1494年9月3日
1494年9月5日
スイス傭兵とナポリ軍の間で小競り合いが始まるが、スイス傭兵は地形のせいで方陣を組めず。戦闘の大部分はナポリ歩兵とジェノヴァ・ミラノ隊との間で行われる。フランス艦隊による砲撃のためナポリ軍は敗走。降伏するナポリ兵をスイス傭兵は虐殺し、ジューリオ・オルシーニとフレゴシーノ・フレゴーソは捕らえられる。
戦闘後、スイス傭兵は負傷兵を殺し、ラパッロを略奪。
1502年9月24日
兄弟ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿の部下トローツォとヤコポ・サンタクローチェが、朝枢機卿から派遣されてくる。
23刻頃、2人に挟まれてジューリオ・オルシーニが歩いているところを、アントーニオ・ジュスティニアーニに目撃される。
1502年9月25日
1502年10月10日
この頃、マジョーネの会合が開かれている。
昼食後、アレクサンデル6世に謁見。協定を結ぶ。
1502年12月
チェーザレ・ボルジア及びアレクサンデル6世と協定を結ぶ。
パロンバーラ・サビーナを占領し、クレトーネ、スタッツァーノ、ガッリカーノ・ネル・ラーツィオ、モッリオーネなどの城を回復しようとするサヴェッリ家に対抗。
1503年1月4日頃
アレクサンデル6世が派遣した騎兵に、ポンテ・ノメンターノで捕らえられそうになるが、逃れる。
1503年1月
パロンバーラ・サビーナに行き、モンテロトンドに到着した時兄弟ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿が逮捕された知らせを受ける。
騎兵2百を率い、ジャン・ジョルダーノ・オルシーニの領地タリアコッツォ到着。
1503年1月7日頃
1503年1月12日頃
1503年1月18日頃
しかしすぐに取り戻される。
1503年2月22日頃
チェーリ出発。強固で物資も豊富なチチリアーノに到着。
1503年3月24日頃
アレクサンデル6世は、再び軍事行動を決意。
1503年4月6日頃
チェーリ、降伏。ジューリオ・オルシーニは、チェーザレ・ボルジアに服従。
1517年
死(1513年、1515年)。
在位
モンテロトンド共同領主
サン・ポロ共同領主
スティミリアーノ共同領主
コッレヴェッキオ共同領主
アスコリ公 1485年10月15日~後没収
フォリーノ領主 1485年10月15日~後没収
フォンタナフォラ領主 1485年10月15日~後没収
カステルヌオーヴォ領主 1485年10月15日~後没収
コッレガート領主 1485年10月15日~後没収
ポッジョ・ダブルッツォ領主 1485年10月15日~後没収
チェーザレ・ボルジア数
母クラリーチェ・オルシーニ→きょうだいエレーナ・オルシーニ→子ルドヴィーコ・ミリオラーティ→妻アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア
別表記
Julius Orsini、Iulio Orsino
外部リンク
Condottieri di ventura
Geneanet
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
Wikipedia - Battle of Rapallo
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2019年11月4日