Hadrianus VI

ハドリアヌス6世

生没:1459年3月2日~1523年9月14日
在位:スペイン総督 1520年~1522年
   異端審問長官 1518年~1522年
   枢機卿 1515年12月14日~1522年
       任命した教皇:レオ10世
   第218代教皇 1522年~1523年
    先代:レオ10世
    次代:クレメンス7世

概要

 アドリアン・フロリス・ボイエンスは、15世紀~16世紀の男性、聖職者、第218代教皇ハドリアヌス6世。

年表

1522年1月9日
カール5世のかつての教師、助言者で現スペイン総督(在位1520年~1522年)、異端審問長官(在位1518年~1522年)、枢機卿(在位1517年~1522年)、ネーデルラント人Adrian Florensz Boeyens(1459年~1523年)、教皇に即位し、ハドリアヌス6世を名乗る(在位1522年~1523年)。
この新教皇選出、自らもこの位を狙いながらもなおその実現は不可能と見たジューリオ・デ・メディチの判断と決断に大きく影響される。
枢機卿会議、スペイン・Vascoにあってまだイタリアを訪れたことのない新教皇ハドリアヌス6世が着任するまで教会領の現状を凍結、維持すべく、ペルージアに迫ったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に教会領より撤退するよう要求。フィレンツェ軍、撤退。
1522年8月29日
ハドリアヌス6世、ペストが猖獗を極めるローマにようやく到着し、1522年8月31日戴冠。
1522年9月半ば~10月半ば
ハドリアヌス6世、恭順の意を表し忠誠を誓ってきたアルフォンソ1世・デステフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに対し、アルフォンソ1世・デステにはフェッラーラの支配を認めると共にモデナ、レッジョの返還を約束し、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレにはウルビーノの支配を認める(翌1523年3月27日、正式に叙任)。
1522年12月1日
自分のかつての神学講義の聴講生エラスムスから、自分の教皇即位後に、彼のカトリック信仰を証言する書簡を受け取っていたハドリアヌス6世、この日、彼にその学識をマルティン・ルターに向けるよう要請する書簡を送る。
1522年12月23日
エラスムス、この日付の書簡をハドリアヌス6世に送り、ルター派への対応について、自分の態度は語らず、教会の不名誉となるような弾圧はしないよう要望。
1523年1月23日
ハドリアヌス6世エラスムスに再び書簡を送り、彼をローマに招くと共にマルティン・ルターを論駁するよう重ねて要請。
1523年3月22日
エラスムスハドリアヌス6世に書簡を送り、一派に与して争いに加わるよりは死を選ぶとマルティン・ルター論駁を冷たく断る。
1523年4月27日
フランチェスコ・ソデリーニフランソワ1世に艦隊で教皇領シチリアを攻撃してカール5世のロンバルディア駐在軍をそこにひきつけながらフランソワ1世自身が速やかに北部イタリアに侵攻するよう勧めたとされ、ハドリアヌス6世の命により深夜、逮捕されてサンタンジェロ城に幽閉される。この処置に、ハドリアヌス6世と親密でその施策に影響を与えることの多いジューリオ・デ・メディチの反ソデリーニ家の意図と周到な工作が強く働く。以後ジューリオ・デ・メディチ教皇庁内での力、とみに強まる。
1523年4月30日
ハドリアヌス6世、勅書を発してキリスト教世界における3年間の休戦を命じ、従わなければ破門、聖務禁止に処すと警告。
1523年7月29日
この頃、1523年4月頃以来カール5世から使節ジローラモ・アドルノを、その死後は同じくMarino Caracciolo(1469年~1538年)を送られ、協定を求められてきた上に1523年7月半ばからはハドリアヌス6世からも強く促されていたヴェネツィアは、求めに応じてカール5世フェルディナンド及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとミラノ防衛の協定を結ぶ。カール5世によるフランソワ1世の孤立化、そのイタリア侵攻阻止の態勢、さらに強まる。しかしフランソワ1世はイタリア侵攻の意を弱めず軍を強化。
1523年8月3日
イタリアにおける戦闘の終息及びオスマン・トルコの攻撃に対するキリスト教世界の防衛を期するハドリアヌス6世、イタリア侵攻、ミラノ奪還の意図を捨てようとしないフランソワ1世に対抗すべく、カール5世ヘンリー8世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、フィレンツェ、シエナ、ジェノヴァなどと同盟を締結。
1523年9月14日
ハドリアヌス6世、死。
1523年9月29日
ハドリアヌス6世からモデナ、レッジョの返還を約されていたアルフォンソ1世・デステ、彼の死により約束の実現の望みが断たれたことを知り、レッジョを急襲し占領、奪還。
1524年4月14日
クレメンス7世カール5世から出された前年8月の前教皇ハドリアヌス6世との同盟の更新の要求に対し、オスマン・トルコに対して団結すべきキリスト教世界の父としてキリスト教君主間の戦いには中立を保つと改めて宣言し、間接的に拒絶の姿勢を示す。

本名

 Adriaan Florenszoon Boeyens

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前