Hugo de Moncada

ウーゴ・デ・モンカーダ

生没:1476年頃~1528年5月28日
父:ペドロ・ラモン・デ・モンカーダ

概要

 ウーゴ・デ・モンカーダは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1526年8月20日
クレメンス7世と、ローマにおけるその最後の強敵でカール5世と結んだコロンナ一族との抗争について、クレメンス7世ヴェスパシアーノ・コロンナ及びカール5世のナポリ総督代理ウーゴ・デ・モンカーダとの間で、クレメンス7世コロンナ家領を侵攻しないこと、コロンナ家はその軍をローマ近郊からナポリに撤退させることなどについて協定。
1526年9月20~21日
コロンナ一族は、ウーゴ・デ・モンカーダ指揮の軍と共にローマを急襲しヴァティカン宮殿を略奪。クレメンス7世サンタンジェロ城に逃亡。かねてからクレメンス7世に敵対していた枢機卿ポンペーオ・コロンナクレメンス7世を廃して教皇位を襲うための行動と広く信じられる。
1526年9月21日
やむなくウーゴ・デ・モンカーダと、4ヶ月間の休戦、ロンバルディアにある教皇軍のポー河以南への撤退、コロンナ家の赦免、カール5世軍、コロンナ家軍のローマ及び教会領からナポリへの撤退などを協定。
この後、クレメンス7世、直ちに密かに軍を集め、コロンナ家領及びナポリへの侵攻態勢を整えると共にコロンナ一族を教会に対する反逆者と宣言し、ポンペーオ・コロンナの枢機卿位を剥奪。
他方でクレメンス7世、ロンバルディアの同盟軍に書簡を送り、4ヶ月の休戦期間終了後はこれまで以上にカール5世と戦うと告げる。
1527年9月24日
Charles de Lannoyが、ペストによりガエタで死。代わってウーゴ・デ・モンカーダがカール5世によりナポリ総督に任じられると共に全イタリアにおける総督的地位を占める。
1527年10月30日
カール5世の総督ウーゴ・デ・モンカーダは、ローマクレメンス7世と、クレメンス7世カール5世に、ナポリ及びミラノ問題に関して敵対しないこと、ナポリ及びカール5世の全領地における十分の一税を与えること、巨額の軍資金を与えること、人質としてイッポーリト・デ・メディチアレッサンドロ・デ・メディチを渡すことなどと共にクレメンス7世を1527年12月9日に釈放することを協定。
1527年12月7/8日
クレメンス7世、ウーゴ・デ・モンカーダとの身柄釈放協定(1527年10月30日)を信じず、商人に変装して単身サンタンジェロ城を脱出。Luigi Gonzagaに伴われてMontefiascoへ、さらにオルヴィエートへ逃亡。
1528年3月下旬~4月
オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、分隊を派遣して各地を占領するなど目覚しい進撃を続け、Puglia及びカラブリアの大部分を制圧。ウーゴ・デ・モンカーダ指揮のカール5世軍はナポリ城下まで撤退し、ナポリ防衛を図らざるを得なくなる。
1528年4月下旬
オデ・ド・フォワ配下のアンドレア・ドーリア及びその甥Filippo (Filippino) Doria指揮のジェノヴァ艦隊は、海からナポリを包囲すると共にスペインからの補給物資輸送船のナポリ入港を阻止。これに対してウーゴ・デ・モンカーダ指揮のナポリ守備軍が出撃し激戦を交わすが、1528年4月28日、Capo d'Orsoの戦に敗れ、ウーゴ・デ・モンカーダ自身は戦死。輸送船はアンドレア・ドーリアに捕獲される。

チェーザレ・ボルジア数

 父ペドロ・ラモン・デ・モンカーダ→きょうだいフアナ・デ・モンカーダ→夫ホフレ・ランソル→母フアナ・デ・ボルハ→きょうだいアレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

別表記

 ウーゴ・モンカーダ、Ugo di Moncada

外部リンク

 GeneaNet
 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前