Innocentius VIII

インノケンティウス8世

生没:1432年~1492年7月25日
在位:枢機卿 1473年5月7日~
       任命した教皇:シクストゥス4世
   第213代教皇 1484年~1492年
    先代:シクストゥス4世
    次代:アレクサンデル6世
父:アラーノ・チーボ
母:テオドリーナ・デ・マリ
子:フランチェスケット・チーボ
  テオドリーナ・チーボ

概要

 ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。第213代教皇インノケンティウス8世。

年表

1484年8月29日
贈収賄やさまざまの策謀の渦巻く中の教皇選出枢機卿会議で、故シクストゥス4世の甥ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の尽力により、教皇に即位し、インノケンティウス8世を名乗る。
1484年11月21日
イタリア及びヨーロッパの諸国、諸権力者に対し、対オスマン・トルコ問題に関する全権大使をローマに送るよう勅書を発する。
しかしすでにフェッランテ・ダラゴーナ及びアルフォンソ2世・ダラゴーナとの対立が深まり始め、教皇はこのナポリ問題に最大の関心を払い始める。
1484年12月5日
ドイツの異端審問官に、その任務を公認しこれまでの魔女裁判、処刑の方法を追認する教書、魔女教書(Summis desiderantes)を発する。
1484年
ヴェネツィアでペスト大蔓延。
1485年2月28日
1484年秋以降フェッランテ・ダラゴーナ及びアルフォンソ2世・ダラゴーナとの関係が悪化し、彼らに対抗する同盟相手を求めてきた教皇は、前教皇シクストゥス4世によるヴェネツィアの聖務禁止処分(1483年)を解くとの勅書を発す。ヴェネツィアもこれを歓迎し、教皇に恭順の意を表する使節団を派遣。
1485年11月
この頃、前年に続いてヴェネツィアでペスト大流行。
1486年5月27日
オスマン・トルコのもたらす危機を訴え反オスマン・トルコ十字軍の結成を呼びかける勅書を発する。しかし成果は挙げ得ずに終わる。
1486年8月9日
スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェのそれぞれの使節を承認として、フェッランテ・ダラゴーナとの和を締結(1486年8月11日)。フェッランテ・ダラゴーナは、アクイラで教会支配への反乱を生じさせ、軍をローマに迫らせるなど戦闘で優位に立ちながら、一方では密かに教皇との和を策してきたため、アクイラの統合はその住民の選ぶ方式に従うこと、フェッランテ・ダラゴーナは至高の存在たる教皇に服すること、フェッランテ・ダラゴーナに反抗した諸侯は再び彼に服すれば罪を問われないこと、など教皇に全面的に有利な内容。
1487年2月下旬
フェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手を求めて1486年からヴェネツィアと折衝してきた教皇、同盟の締結に成功。
1487年2月20日
ジョヴァンニ・ピコの公開討論会を中止させる。
1487年2月25日
ヴェネツィアに加えてフィレンツェをフェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手としようと、教皇の権威を利用して自家の権威を増大させようと狙うロレンツォ・イル・マニーフィコとの間で、教皇の長子で40歳近いフランチェスケット・チーボと、ロレンツォ・イル・マニーフィコの14歳の次女マッダレーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチの結婚を取り決める。
1489年3月9/10日
自分の兄弟マウリツィオ・チーボの庶出の子ロレンツォ・ディ・マウリツィオ・チーボら5名を新たに枢機卿に叙任し、ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男で13歳のジョヴァンニ・デ・メディチら3名を叙任予定者とすると公表。
これに対して強い不満を覚えたロレンツォ・イル・マニーフィコの強力な働きかけを受け、正式の就任は3年後とするとの条件つきでジョヴァンニ・デ・メディチを枢機卿に叙任。
1489年6月30日
フェッランテ・ダラゴーナに対し、滞納している貢税を納入しなければ破門すると宣言。しかしフェッランテ・ダラゴーナに無視される。
1489年9月11日
フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ親子の反教会的言動、とりわけフェッランテ・ダラゴーナの貢税納入拒否を理由に、両名からナポリ領を没収し境界の直轄領とすると宣言。しかし両名はさらに反教皇の姿勢を強める。
1491年9月12日
枢機卿ロドリゴ・ボルジアの庶子チェーザレ・ボルジアをスペイン北部ナヴァーラの州都パンプローナの司教に任命する。
1492年1月27日
フェッランテ・ダラゴーナとの間に、ロレンツォ・イル・マニーフィコの仲介により和が成立したことがこの日の枢機卿会議で公表される。
この和でフェッランテ・ダラゴーナから、貢税と軍事協力、先に捕縛した反乱諸侯の釈放などを約されたが、ナポリ王としての正式叙任は与えず。
1492年3月23日
ジョヴァンニ・デ・メディチを正式に枢機卿に叙任。
1492年春
ローマに派遣されてきたシャルル8世の特使Perron de Baschiから、ナポリ王への叙任を求められるが却ける。
1492年6月4日
フェッランテ・ダラゴーナをナポリ王に叙任しその子アルフォンソ2世・ダラゴーナを王位継承権者と認める勅書を、シャルル8世のローマ教皇庁駐在大使に反論の機会を与えずに発する。
1492年7月25日
深更、死(1492年7月26日)。

任命した枢機卿

1489年3月9日 ロレンツォ・ディ・マウリツィオ・チーボ
アルディチーノ・デッラ・ポルタ
アントーニオ・ジェンティーレ・パッラヴィチーノ
André d'Espinay
マッフェオ・ゲラルディ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
フェデリーコ・サンセヴェリーノ

関連項目

 The Borgias: 101, 102

本名

 ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボ、Giovanni Battista Cibo

別表記

 インノチェンツォ8世、ジョヴァンニ・バチスタ、ジャンバッティスタ、ジャンバティスタ・チボー、Giovanni Battista Cybo

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 歴史データベース
 Famille de Carné
 Find A Grave
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2006年10月12日以前