Cibo

チーボ家

ロレンツォ・チーボ Lorenzo Cibo

生没
1450年~1503年12月21日
マウリツィオ・チーボ

概要

 ロレンツォ・チーボは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1489年3月9日~
     任命した教皇:インノケンティウス8世

年表

1450年

生(1451年)。

1503年12月21日

死。

別表記

 Lorenzo Cibo de' MariCardinal of Benevento

外部リンク

 Genealogy.EU
 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『The Life of Cesare Borgia

フランチェスケット・チーボ Franceschetto Cibo

生没
1449年~1519年7月25日
出身
ナポリ王国ナポリ
没地
ローマ
インノケンティウス8世
マッダレーナ・デ・メディチ
ルクレツィア・チーボ
クラリーチェ・チーボ
インノチェンツォ・チーボ
ロレンツォ・チーボ
カテリーナ・チーボ
イッポーリタ・チーボ
ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボ

概要

 フランチェスケット・チーボは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 スポレート 1503年~1519年

年表

1449年

ナポリで生(1450年頃)。

1488年1月20日

マッダレーナ・デ・メディチとの結婚式が、ヴァティカン宮殿で行われる。

1492年7月25日

深更、父インノケンティウス8世死。

1492年

フィレンツェの義兄ピエロ・イル・ファトゥオのもとに身を寄せる。

1492年9月3日

インノケンティウス8世から与えられた教会領の戦略上の拠点ローマ近郊AnguillaraCervetriを、ピエロ・イル・ファトゥオフェッランテ・ダラゴーナの仲介と尽力により、フェッランテ・ダラゴーナの隊長でローマの反アレクサンデル6世勢力の中心であるオルシーニ一族のヴィルジーニオ・オルシーニに売却。この費用を受け持ったフェッランテ・ダラゴーナは教会領の拠点を押さえ、自分への包囲網を敷かれたと感じたアレクサンデル6世は強く警戒。

この後、ピエロ・イル・ファトゥオは、父ロレンツォ・イル・マニーフィコの方針(=フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子とスフォルツァ家を仲介し両者の均衡を保持する)を転換し、オルシーニ家を介してフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子の側に立つ。これに対しルドヴィーコ・イル・モーロは、一掃シャルル8世に期待し傾斜。

1519年7月25日

ローマで死。

別表記

 フランチェスコ・チボー(Francesco Cibo)、チボ

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

アラーノ・チーボ Arano Cibo

生没
1375年頃~1455年頃
マウリツィオ・チーボ
サラチーナ・マロチェッリ
テオドリーナ・デ・マリ
マウリツィオ・チーボ
インノケンティウス8世
ビアンカ・チーボ

概要

 アラーノ・チーボは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

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マウリツィオ・チーボ Maurizio Cibo

アラーノ・チーボ
テオドリーナ・デ・マリ
ロレンツォ・チーボ

外部リンク

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インノケンティウス8世 Innocentius VIII

生没
1432年~1492年7月25日
アラーノ・チーボ
テオドリーナ・デ・マリ
フランチェスケット・チーボ
テオドリーナ・チーボ

概要

 ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。第213代教皇インノケンティウス8世。

在位

 枢機卿 1473年5月7日~
     任命した教皇:シクストゥス4世
 第213代教皇 1484年~1492年

年表

1484年8月29日

贈収賄やさまざまの策謀の渦巻く中の教皇選出枢機卿会議で、故シクストゥス4世の甥ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の尽力により、教皇に即位し、インノケンティウス8世を名乗る。

1484年

フランチェスコ・ダラゴーナ に祝福された剣を授与。

1484年以降

フェルナンド2世・デ・アラゴンに、1484年から1492年に制作された祝福された剣を授与。

1484年11月21日

イタリア及びヨーロッパの諸国、諸権力者に対し、対オスマン・トルコ問題に関する全権大使をローマに送るよう勅書を発する。

しかしすでにフェッランテ・ダラゴーナ及びアルフォンソ2世・ダラゴーナとの対立が深まり始め、教皇はこのナポリ問題に最大の関心を払い始める。

1484年12月5日

ドイツの異端審問官に、その任務を公認しこれまでの魔女裁判、処刑の方法を追認する教書、魔女教書(Summis desiderantes)を発する。

1484年

ヴェネツィアでペスト大蔓延。

1485年2月28日

1484年秋以降フェッランテ・ダラゴーナ及びアルフォンソ2世・ダラゴーナとの関係が悪化し、彼らに対抗する同盟相手を求めてきた教皇は、前教皇シクストゥス4世によるヴェネツィアの聖務禁止処分(1483年)を解くとの勅書を発す。ヴェネツィアもこれを歓迎し、教皇に恭順の意を表する使節団を派遣。

1485年

ジルベール・ド・ブルボン黄金の薔薇を授与。

1485年11月

この頃、前年に続いてヴェネツィアでペスト大流行。

1486年

スコットランド王ジェームズ3世に黄金の薔薇を授与。

1486年5月27日

オスマン・トルコのもたらす危機を訴え反オスマン・トルコ十字軍の結成を呼びかける勅書を発する。しかし成果は挙げ得ずに終わる。

1486年8月9日

スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェのそれぞれの使節を承認として、フェッランテ・ダラゴーナとの和を締結(1486年8月11日)。フェッランテ・ダラゴーナは、アクイラで教会支配への反乱を生じさせ、軍をローマに迫らせるなど戦闘で優位に立ちながら、一方では密かに教皇との和を策してきたため、アクイラの統合はその住民の選ぶ方式に従うこと、フェッランテ・ダラゴーナは至高の存在たる教皇に服すること、フェッランテ・ダラゴーナに反抗した諸侯は再び彼に服すれば罪を問われないこと、など教皇に全面的に有利な内容。

1486年

イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ祝福された剣を授与。

1487年2月下旬

フェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手を求めて1486年からヴェネツィアと折衝してきた教皇、同盟の締結に成功。

1487年2月20日

ジョヴァンニ・ピコの公開討論会を中止させる。

1487年2月25日

ヴェネツィアに加えてフィレンツェをフェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手としようと、教皇の権威を利用して自家の権威を増大させようと狙うロレンツォ・イル・マニーフィコとの間で、教皇の長子で40歳近いフランチェスケット・チーボと、ロレンツォ・イル・マニーフィコの14歳の次女マッダレーナ・デ・メディチの結婚を取り決める。

1488年4月24日

フォルリ宛てに勅書を発する。ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿をフォルリの代官に任命。すぐに到着する。

1488年

ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ祝福された剣を授与。

1489年3月9/10日

自分の兄弟マウリツィオ・チーボの庶出の子ロレンツォ・チーボら5名を新たに枢機卿に叙任し、ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男で13歳のジョヴァンニ・デ・メディチら3名を叙任予定者とすると公表。

これに対して強い不満を覚えたロレンツォ・イル・マニーフィコの強力な働きかけを受け、正式の就任は3年後とするとの条件つきでジョヴァンニ・デ・メディチを枢機卿に叙任。

1489年6月30日

フェッランテ・ダラゴーナに対し、滞納している貢税を納入しなければ破門すると宣言。しかしフェッランテ・ダラゴーナに無視される。

1489年9月11日

フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ親子の反教会的言動、とりわけフェッランテ・ダラゴーナの貢税納入拒否を理由に、両名からナポリ領を没収し境界の直轄領とすると宣言。しかし両名はさらに反教皇の姿勢を強める。

1491年

スコットランド王ジェームズ4世に黄金の薔薇を授与。

1491年9月12日

枢機卿ロドリゴ・ボルジアの庶子チェーザレ・ボルジアをスペイン北部ナヴァーラの州都パンプローナの司教に任命する。

1491年

ヴィルヘルム1世・フォン・ヘッセンに祝福された剣を授与。

1492年1月27日

フェッランテ・ダラゴーナとの間に、ロレンツォ・イル・マニーフィコの仲介により和が成立したことがこの日の枢機卿会議で公表される。

この和でフェッランテ・ダラゴーナから、貢税と軍事協力、先に捕縛した反乱諸侯の釈放などを約されたが、ナポリ王としての正式叙任は与えず。

1492年3月23日

ジョヴァンニ・デ・メディチを正式に枢機卿に叙任。

1492年春

ローマに派遣されてきたシャルル8世の特使Perron de Baschiから、ナポリ王への叙任を求められるが却ける。

1492年6月4日

フェッランテ・ダラゴーナナポリ王に叙任しその子アルフォンソ2世・ダラゴーナを王位継承権者と認める勅書を、シャルル8世のローマ教皇庁駐在大使に反論の機会を与えずに発する。

1492年7月25日

深更、死(1492年7月26日)。

任命した枢機卿

1489年3月9日 ロレンツォ・チーボ
アルディチーノ・デッラ・ポルタ
アントニオット・パッラヴィチーニ
André d'Espinay
マッフェオ・ゲラルディ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
フェデリーコ・サンセヴェリーノ

関連項目

 The Borgias: 101, 102

本名

 ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボ、Giovanni Battista Cibo

別表記

 インノチェンツォ8世、ジョヴァンニ・バチスタ、ジャンバッティスタ、ジャンバティスタ・チボー、Giovanni Battista Cybo

外部リンク

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 歴史データベース
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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

テオドリーナ・チーボ Teodorina Cibo

生没
1455年頃~1508年
インノケンティウス8世
アントーニオ・ウソディマーレ
ジョヴァンニ・バッティスタ・ウソディマーレ
アラニーノ・ウソディマーレ
フランコ・ウソディマーレ
バッティスティーナ・ウソディマーレ
ペレッタ・ウソディマーレ

概要

 テオドリーナ・チーボは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1493年6月12日

ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァヴァティカン宮殿での結婚式に参列。

外部リンク

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参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

カテリーナ・チーボ Caterina Cibo

生没
1501年9月13日~1557年2月17日
出身
ポンツァーノ
没地
フィレンツェ
フランチェスケット・チーボ
マッダレーナ・デ・メディチ
ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノ
ジューリア・ダ・ヴァラーノ

概要

 カテリーナ・チーボは、16世紀のイタリアの女性。

年表

1534年

この年頃ナポリに移住したJ. de Valdésを中心として教会改革と霊的再生を求める人々の小サークルが結成される。彼の死(1541年)までにジューリア・ゴンザーガヴィットーリア・コロンナカテリーナ・チーボConstanza d'Avalosら君侯夫人・寡婦、M. A. Flaminio人文主義者G. SeripandoB. OchinoP. M. VermigliPietro Carnesecchiら聖職者が集い、イタリアにおける教会改革運動の拠点の観を呈する。後、第三者は新教を信仰し宗教改革運動に従事。

別表記

 Caterina Cybo-Valano

外部リンク

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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

インノチェンツォ・チーボ Innocenzo Cibo

生没
1491年8月25日~1550年9月23日
出身
ジェノヴァ
没地
ローマ
フランチェスケット・チーボ
マッダレーナ・デ・メディチ

概要

 インノチェンツォ・チーボは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1513年9月23日~1550年
     任命した教皇:レオ10世

年表

1513年9月23日

レオ10世、従弟ジューリオ・デ・メディチ及び甥インノチェンツォ・チーボ(1491年~1550年:枢機卿在位1513年~1550年)、同族ロレンツォ・プッチ、自分の秘書でかつての家庭教師ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナの3名を新たに枢機卿に任命。

1527年

同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニニッコロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。

1527年11月15日

アルフォンソ1世・デステオデ・ド・フォワ及び枢機卿インノチェンツォ・チーボの勧奨に従い、同盟軍による所領防衛、子エルコーレ2世・デステと故ルイ12世の娘ルネ・ド・フランス(1515年~1575年頃)との結婚など、提示された多くの名誉ある条項を受諾してカール5世陣営を離れ、同盟陣営に加わる。しかし当の条項はエルコーレ2世・デステルネ・ド・フランスの結婚以外ほとんど守られずに終わる。

1527年4月26日

「金曜日の騒乱」

午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グイッチャルディーニの兄ルイジ・グイッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。

コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。

正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。

午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。

ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。

夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グイッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。

フランチェスコ・グイッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。

シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。

1537年1月7日

早朝、ロレンツィーノ・デ・メディチと従者は、密かに市を離れボローニャに向かう。

夕刻、カール5世の代理人としてアレッサンドロ・デ・メディチの背後で事実上、支配権を握っていた枢機卿インノチェンツォ・チーボらが朝から極秘の内に行方を捜していたアレッサンドロ・デ・メディチが、遺体で発見される。

直ちにインノチェンツォ・チーボチッタ・ディ・カステッロにあったアレッサンドロ・ヴィテッリ(?~1566年)指揮のスペイン軍主義体に急ぎ市内に戻るよう指示を発すると共に、アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の遺児ジューリオ・デ・メディチ(?~1600年)を後継Ducaとして立て、その摂政として自身が支配者となる策を弄し始める。しかし、カール5世の直接かつ完全な支配化に陥ることを恐れるメディチ派、四十八人評議会主導による政体変革なき事態収拾を図る。

夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャに着き、この地に滞在する亡命者たちに事態を説明した後ヴェネツィアに向かう。

1537年1月8日

午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グイッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。

インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。

午後、フランチェスコ・グイッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。

夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グイッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリフランチェスコ・グイッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。

深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。

1537年1月10日

アレッサンドロ・ヴィテッリ、フォルテッツァ・ダ・バッソを占拠し、メディチ宮殿から奪った財宝を持ってインノチェンツォ・チーボ及びアレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマらと籠る。

1538年

コジモ1世・デ・メディチ、ニースのカール5世のもとに特使としてインノチェンツォ・チーボと自分の秘書Francesco Campana(1491年以降~1546年)を送って恭順の意を表すると共に、1537年から懇請してきた3点(マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚、領内城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分)をまたまた懇請。

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献

 『メディチ家の人々』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

ロレンツォ・チーボ Lorenzo Cibo

生没
1500年7月28日~1549年3月14日
フランチェスケット・チーボ
マッダレーナ・デ・メディチ
リッチャルダ・マラスピーナ
アルベリーコ・チーボ
エレオノーラ・チーボ
ジューリオ・チーボ
チェーザレ・チーボ
ジューリア・チーボ
オッタヴィオ・チーボ

概要

 ロレンツォ・チーボは、16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

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参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年2月23日