Ippolito de' Medici

イッポーリト・デ・メディチ

生没:1511年~1535年
在位:枢機卿 1529年1月10日~1535年
       任命した教皇:クレメンス7世
父:ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ
母:パシフィカ・ブランディーニ
子:アスドルバーレ

概要

 イッポーリト・デ・メディチは、16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

年表

1524年7月30日
クレメンス7世は、前ヌムール公故ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチの庶子イッポーリト・デ・メディチにフィレンツェの統治に関する全権を与えた上、シルヴィオ・パッセリーニの保護と指導の下で統治の任に当たらせるべく彼をローマからフィレンツェに送る。貴族たちの不満強まる。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グィッチャルディーニの兄ルイジ・グィッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グィッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グィッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1527年5月17日
メディチ家支配体制再崩壊:クレメンス7世より預けられたイッポーリト・デ・メディチアレッサンドロ・デ・メディチを伴い、安全を保障されてフィレンツェを退出しシエナ方面に向かう。メディチ家支配、また崩壊(1513年~)。
1527年
同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。
1527年10月30日
カール5世の総督ウーゴ・デ・モンカーダは、ローマクレメンス7世と、クレメンス7世カール5世に、ナポリ及びミラノ問題に関して敵対しないこと、ナポリ及びカール5世の全領地における十分の一税を与えること、巨額の軍資金を与えること、人質としてイッポーリト・デ・メディチアレッサンドロ・デ・メディチを渡すことなどと共にクレメンス7世を1527年12月9日に釈放することを協定。
1529年1月10日
重病のクレメンス7世イッポーリト・デ・メディチを枢機卿に任命。メディチ家の当主にはアレッサンドロ・デ・メディチを当てると共に、この頃、彼のフィレンツェ復辟を託する書簡をカール5世に送る。
1529年8月23日
フィレンツェ使節団は、イッポーリト・デ・メディチを含むクレメンス7世の使節団を初めイタリア諸国のほとんどの使節団がすでに滞在しているジェノヴァにようやく到着。
1532年6月21日
クレメンス7世、枢機卿会議において、イッポーリト・デ・メディチを軍及び巨額の軍資金と共にカール5世フェルディナンド陣営に派遣することを決める。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディFilippo ParentiGaleotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1535年3~5月半ば
亡命者たち(貴族・枢機卿と共和政派)、アレッサンドロ・デ・メディチに代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立することで一致し、使者を次々とバルセロナのカール5世のもとに派遣。アレッサンドロ・デ・メディチは「降伏協定」(1530年)を遵守せず、パルラメントを悪用して「自由」を抑圧し専横を欲しいままにしている。このような「暴政」は支持するに値しないとそれぞれカール5世ないしその側近に訴える。
1534年バルバロッサに奪われたチュニスの攻略問題に専心しているカール5世は、フィレンツェ問題については亡命者たちの訴えを聞きおくに留める一方、アレッサンドロ・デ・メディチに後日ナポリに来て亡命者たちの主張について自分に直接、弁明せよとの指示を送る。
アレッサンドロ・デ・メディチは、亡命貴族(ストロッツィ家サルヴィアーティ家)やロレンツォ・リドルフィ(1503年~1576年)などを次々に反逆者と宣告しその財産の没収を宣言。
1535年8月10日
亡命者たちがイッポーリト・デ・メディチ自身をチュニスのカール5世のもとに送ってアレッサンドロ・デ・メディチの専横を訴えイッポーリト・デ・メディチ擁立を支持するよう求めることに決めたのに従い、カール5世のもとに旅立とうとしていたイッポーリト・デ・メディチ、この日、ラツィオのフォンディ近在Itriジューリア・ゴンザーガのもとで死(1511年~)。アレッサンドロ・デ・メディチの指示による毒殺との噂が流れる。

肖像

 イッポーリト・デ・メディチの肖像

別表記

 イッポリート、イッポリト、イッポーリット、イッポーリト・メーディチ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 そらのお城
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『ルネッサンス夜話』
 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前