Isabella d'Este

イザベッラ・デステ

生没
1474年5月17日~1539年2月13日
出身
フェッラーラ
没地
マントヴァ
エルコーレ1世・デステ
エレオノーラ・ダラゴーナ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
リヴィア・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
フェッランテ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ

概要

 イザベッラ・デステは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、フェッラーラ公爵令嬢。15歳でフランチェスコ2世・ゴンザーガと結婚し、3男5女をもうけた。享年64歳。

教養

 グァリーノ・ダ・ヴェローナの息子バッティスタ・ダ・ヴェローナに古典を習う。

性格

 大胆な計画を思いついてそれを国家の名において主張することのできる統治能力を持ち、極めて聡明であり、卑劣さの少しもない野心家であり、支配するために生まれ、女臭い装身具などでごまかされないと言ってのける女丈夫。

装いの先駆者

 洗練された芸術庇護者であるエルコーレ1世・デステエレオノーラ・ダラゴーナの娘であるイザベッラ・デステは、鋭い素養を幼い頃からから身につけ、芸術支援を通じて、有能な政治指導者としての評判を作り上げることに熱心だった。しかし、資金不足により、壮大な建築的偉業を打ち立てることは叶わず。代わりに、流行の装身具を通じて、富、道徳的善良さ、芸術的鑑賞力を示すことで威信を高めようとした。
 複雑な意味を引き立たせ、革新的な意匠を好むことで知られるイザベッラ・デステの服飾や髪飾り及び装身具へのこうした情熱は、イタリア戦争時代の軍事的地理的情勢がかなり不安定な時期において、フランチェスコ2世・ゴンザーガとの共同統治を強化しようとする上で政治的に重要な役割を果たしていたのである。

ルクレツィア・ボルジアとの関係

 ルクレツィア・ボルジアを出自の低い者として軽蔑。
 フェッラーラに居を構える際、イザベッラ・デステの元使用人数人を雇用したことに憤る。
 芸術、音楽、文学の後援だけでなく、服飾や宝飾品においても好敵手であった。

年表

1474年5月17日

フェッラーラにて、生(1474年5月14日、1474年5月18日)。

1476年2月

エレオノーラ・ダラゴーナと共にヴェネツィア謝肉祭を過ごす。

1476年2月27日

告解火曜日

1477年5月

この月から半年間、ナポリに滞在。

1480年5月28日

フェッラーラにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガとの結婚証書が署名される。持参金は2万5千ドゥカート

1480年6月末

マントヴァへ行き、初めてフランチェスコ2世・ゴンザーガと会う。

1490年2月11日

フランチェスコ2世・ゴンザーガとフェッラーラで盛大華麗な結婚式を挙げる。10年前の婚約を実現。

1490年2月15日

マントヴァ入城。

1490年3月24日

エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。

 エルコーレ・デイ・フェデーリは20日以上前にマントヴァを出発していますので、もう到着しているものと思います。

1490年12月29日(水)

午前中、イザベッラ・デステの行列がマントヴァ出発。

1491年1月17日(月)

パヴィアのヴィスコンティ城での妹ベアトリーチェ・デステルドヴィーコ・イル・モーロの結婚式に参列。

1491年1月

ミラノにて、結婚式に出席しなかった義弟ジョヴァンニ・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 あなたもおいでになるべきでした。・・・・祝賀の中でも、ご覧になった演劇的表現の最上の3つに入るものでしょう。さらに羨ましがらせるでしょうことに、ミラノからあなたがまだ訪れたことのないジェノヴァの栄光の街に行く予定なのです。帰国するまでにどれほど多くの新しい場所、新しい土地を見ることになるのかばかり考えてしまいます。あなたに幸多かれと願っているものの、あまり効果がないかもしれません。垂涎の的でしょう。

1491年2月

フェッラーラ到着。

1491年2月23日

ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 17日のあなたからの手紙がどんなに幸せと喜びをもたらしたか、ご想像にお任せします。弟の妻で私たちの大切な義妹アンナ・マリーア・スフォルツァ様のご結婚を祝した見事な饗宴について十分に鮮やかに書いてくれたから、まるで自分もそこにいたかのような気になりました。あなたをどれほど愛しく大事に思っているか知っていてくれているから、あなたからの知らせがどれほどうれしいかきっと分かってもらえるでしょう。お別れしてから、他の何にもましてあなたからのお便りがうれしかったのです。そして、その手紙にあった野外劇と見世物は、最上の美と壮麗さにおいて異彩を放っていたに違いありません。最高の英知と完璧さでもってそれをお命じになった親愛なるお父様が、全て計画し手配なさったのですもの。私の不在はあなたを本当に悲しませ、祝宴も私がいなかったためにそれほど大きな喜びを感じなかったと信じています。私の方はというと、あなたがそばにいなくなってしまった今、とてもかわいい妹を奪われただけでなく、自分の半身を失ったかのように感じることを否めません。敬愛する夫が毎日私の楽しみのためにしてくださる新しく継続的な遊興がなければ、あなたとの再会が叶うまで悲嘆に暮れていたことでしょう。けれども、心も考えることもまだ一緒で、頻繁に文通はできるのだから、式典が終了し、約束どおり直筆で書いたお便りを通してお話しはともあれできることに満足し、共に慰めを見出しましょう。

1491年3月22日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。今朝、4日ほど前に死んだ女児の切断された遺体がピエルフランチェスコ・ベナドゥーゾ宅の門前で発見されたこと、「聖週間のユダヤ人に関する通常の布告」を発行したことを報告。マントヴァのユダヤ人居住者が家を出るのを禁じ、エルコーレ・デイ・フェデーリと彼の3名のユダヤ人の助手だけを免除。

1491年5月5日

義弟ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を直筆で書く。狼狩りに参加できず残念。

1491年5月15日

フェッラーラにて、義弟ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。3年前にミラノ公国からユダヤ人が追放されたが、母エレオノーラ・ダラゴーナの最もお気に入りの金細工師エルコーレ・デイ・フェデーリの義兄弟ダヴィデ・フィンツィがパルマ近郊フォンタネッラートに残ることを許可して欲しい。


1491年6月22日

ポルト・マントヴァーノにて、ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。「殿下の肖像を大理石に彫った、素晴らしい芸術家ジャン・クリストフォロ・ロマーノ」を数日間マントヴァに招く許可をルドヴィーコ・イル・モーロに求める。

1491年7月

ミラノ到着。

1491年9月14日

マッテオ・サッケッティ宛てに手紙をしたためる。

1491年9月15日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリ洗礼に同意した後、父エルコーレ1世・デステが「彼の魂を得るために」すでに赦免したことを指摘し、「過ちを悔い改め、善良な人間として、また善良なキリスト教徒として生きたいと願う」アンジェロ・ディ・ヴィターレにも恩赦を行使するよう懇願。

1491年9月22日

マントヴァポデスタ、エルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

1492年5月2日

マントヴァにて、ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 最も誉れ高き、名誉ある妹へ。
 4月16日と17日に書かれたあなたからのお手紙2通、1通はガスパーレ・サンセヴェリーノの射手マラカルノの私の推薦に対する返答、もう1通はベルナルディーノ・ダ・フェルトレ師がヴェローナで演説したという話が伝わってきたという報告について、を昨日受け取ったばかりです。初めのお手紙にお答えしますと、マラカルノがそのような忌まわしい犯罪を犯すような人物と少しでも考えるならば、本来私自身がそのような行為を嫌うため、決して弁護を申し立てたりは致しませんことを保証します。けれども、彼の過ちは些細なことだと聞いており、仲裁することに私は納得しています。彼の素行の悪さを聞き及び、受ける処罰を聞いて大変満足し、旦那様の賢明さを称賛し、同時にあなたのお手紙でのとてもやさしい表現に感謝します。奇跡的に盲人の目を開かせた後聖週間で死ぬというベルナルディーノ・ダ・フェルトレ師のいわゆる預言についてですが、その報告は全く事実ではないようです。説教を行ったヴェローナでもパドヴァでもそんな話はしておらず、謙虚な師がおよそしそうにもないですし、説教に立ち会った修道僧から聞いたことです。それでもあなたの希望に応え、事実を確かめるため、よく調査した結果が上記になります。どうかあなたの誉れ高き旦那様によろしくお伝えください。

1492年7月

ルドヴィーコ・イル・モーロより、父エルコーレ1世・デステミラノに来る予定のため一緒に来てはどうかと招待を受ける。

マントヴァ宮廷に伝染病が蔓延し、イザベッラ・デステ自身は罹患しなかったもののミラノ行きを延期。

1492年8月10日

マントヴァ出発。カンネートで宿泊。ジャンフランチェスコ・ゴンザーガの妻アントーニア・デル・バルツォが2人の娘を連れて来る。「アンドレア・マンテーニャ氏自身でも描き得ないほどの美しい乙女たち」

1492年8月12日

クレモーナ到着。ルドヴィーコ・イル・モーロの従兄弟フランチェスコ・スフォルツァに迎えられ、市民の歓迎を受ける。

1492年8月

ピッツィゲットーネに到着した時、お気に入りの宝石と羽根で装飾された帽子を忘れたことに気づき、人をやって取りに戻らせる。

1492年8月15日

パヴィア到着。ルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステジャン・ガレアッツォ・スフォルツァイザベッラ・ダラゴーナにより歓待される。

1492年8月16日

夜、妹ベアトリーチェ・デステと2人きりで夕食をとる。

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。「ここでの唯一新しい知らせは新教皇の選出で、皆喜んでおり、専らアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下のおかげだと言われ、教皇庁副尚書院長に就任するとのことです。」

1492年8月19日(日)

パヴィアにて、夫フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 私か彼らの部屋で食事を共にするいつもの習慣のとおり、今日はルドヴィーコ・イル・モーロ様と妹と夕食を彼らの部屋で共にしました。夕食後ルドヴィーコ・イル・モーロ様は、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァイザベッラ・ダラゴーナ、私と私の従者は残して後は人払いなさいまして、ローマ駐在大使からの手紙を自ら声を出してお読みになり、聖下から次のようにお言葉を頂戴したとのことです。「余の言うことを書き記せ。大方の予想に反し、実に奇跡的に、余はアスカーニオ・マリーア・スフォルツァの活躍により教皇になれたことを認めている。これまでの教皇の中で最も感謝を示す教皇になるつもりである。彼が余の椅子に座り、精神的及び一時的な財産を取り計らうことを喜ばしく思う」。その他愛情のこもったお言葉で仰られたと。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿は教皇庁副尚書院長職以外にすでに感謝の最初の証をお受け取りになっており、教皇はローマの邸宅を家具付きで、ネピ他たくさんのものをお与えになりました。また、個人的に夕食を共になさいました。
 この他、教皇が自らの手でアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ宛てに、半日も会っていず千年にも感じるとご不満を述べられ、取り決めるべき最重要事項をたくさん抱えているからすぐに来るよう要望をお書きになられた手紙を、ルドヴィーコ・イル・モーロ様は読んでくださいました。この会見の描写に続いて、聖下がどんなに暖かいお言葉でルドヴィーコ・イル・モーロ様のことをお話になるかを猊下は伝えられ、聖下との友好関係維持に努め、全ての場合においてご助言に沿って利益を得て、自分の椅子に座すことだけを望むと仰られました。この全てが最高の喜びの理由をここの宮廷に与え、ルドヴィーコ・イル・モーロ様との密接な関係のために私たちも受け取る喜びを言葉と身振り両方でもってお伝えしておきました。
 昨日4刻頃、これらの皆さんとご一緒に、パヴィアから4マイルほどのところにあり、いい獲物がいるサン・ピローノと呼ばれる場所へ乗馬で行きました。森の端の牧草地に白いテントが建てられ、真ん中に緑の枝の日陰棚があり、その下で公妃と私は陣取り、公爵と他の人々は騎乗でも徒歩でも他のテントを占拠しています。見つかった8頭の内の1頭の雄鹿が森から走り出て、バーリ公の犬8匹が追いかけました。ガレアッツォ・ヴィスコンティが長槍を手に追いかけ、私たちの眼前で仕留めました。明日はベルリグアルドで食事をとり、父エルコーレ1世・デステが木曜日に到着予定であるヴィジェヴァーノで夕食にします。

1492年8月20日(月)

フランチェスコ2世・ゴンザーガへの贈り物として、鹿肉のペストリー4つをマントヴァへ発送。

1492年8月22日(水)

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 ここ数日手紙を書こうとはしていましたが、常に妹やルドヴィーコ・イル・モーロ様と一緒に過ごしているので、時間が見つけられずにいました。さて、ようやく一瞬の隙をついて急ぎ、直接は無理なので心の中であなたを訪れたいと存じます。ここで楽しんでいる全ての遊興よりも、あなたが元気で幸せだという知らせの方が大きな満足でございます。

1492年8月27日

 今日、まるで景色のために作られたかのような美しい渓谷で狩りに出かけました。雄鹿は全てティチーノの緑豊かな谷に追い込まれ、川に入るか山を登らざるを得なくなるように狩人に全方位から囲まれ、そこを丘陵の斜面に設置された日陰棚と緑のテントの下で貴婦人が見ていました。犬が川を渡って追いかけた谷と山に沿って動物のあらゆる動きを見ることができました。しかし内2頭は丘を登って死角に逃げたので殺すところを見れませんでしたが、アルフォンソ様とガレアッツォ・ヴィスコンティ殿が後を追い、負傷させるのに成功しました。その後、雌犬が子犬と一緒に来ましたが、犬はついていくことを許されませんでした。猪と山羊がたくさん見つかりましたが、猪1頭だけが眼前で殺され、山羊1頭が私の取り分になりました。最後に狼がやってきて、私たちを追い越す時見事な宙返りをして楽しませました。しかし、かわいそうな獣たちにそのような芸当はできず、すぐ仲間が虐殺されました。そうして、たくさん笑い陽気に帰り、夕食で1日を終え、心の気晴らしを体と分かち合いました。

1492年9月15日

ルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステジャン・ガレアッツォ・スフォルツァイザベッラ・ダラゴーナと共に、ミラノ到着。スフォルツェスコ城ルドヴィーコ・イル・モーロが結婚の時に使用していた部屋がイザベッラ・デステが宿泊する部屋となり、そこでボーナ・ディ・サヴォイアビアンカ・マリーア・スフォルツァに迎えられる。

1492年9月20日

 昨日ルドヴィーコ・イル・モーロ様によって、ここで最も裕福な商人の家でご覧になった豪華な錦を見せるために、ミラノ公イザベッラ・ダラゴーナバーリ公妃ベアトリーチェ・デステと共に行かせて頂きました。私たちが帰ってきた時、最も素晴らしいと思ったものをお尋ねになりました。ジェノヴァの港にある灯台の2つの塔を金と銀で刺繍され、スペインの格言「Tal trabalio mes plases par tal thesauros non perder」と書かれたものを一番愛でたとお答えしました。
 (ルドヴィーコ・イル・モーロは妻ベアトリーチェ・デステにはすでに錦で衣装を作っており、同じものを15ヤード受け取ってほしいと言われる。)
 この錦は少なくとも1ヤード40ドゥカートは価値があるものです。

1492年

ミラノ出発。マルケジーノ・スタンガジローラモ・トゥッタヴィッラが随行。

ジェノヴァ到着。ルドヴィーコ・イル・モーロの義妹として、アゴスティーノ・アドルノらに歓迎される。

ミラノ到着。

1492年10月20日

マントヴァ到着。

1493年3月8日

ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。甥マッシミリアーノ・スフォルツァに会いたい。

1493年4月9日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 ルドヴィーコ・イル・モーロ様が5月にフェッラーラの訪問を決めたという知らせと、本書に同封した同行者の名簿が送られてきました。私としては信じがたいことですが、そのような宴がフェッラーラにて催されている時に、もしヴェネツィアにいるならば残念でございます。ミラノにいた時、ルドヴィーコ・イル・モーロ様はフェッラーラに行くようなことがあればマントヴァに立ち寄ると仰っていたので、当家の名誉にとって最善だと考えられることを閣下はお決めにならなければなりません。最も賢明な判断をされるに違いありませんし、お知らせくださるでしょう。私なら誤るかもしれませんが。

1493年5月4日

フェッラーラに向け、マントヴァ出発。

1493年5月11日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。妹ベアトリーチェ・デステヴェネツィア行き随行員名簿について。

1493年5月12日

ヴェネツィアへ向けフェッラーラ出発。

1493年5月13日

キオッジャ到着。ポデスタ宮殿に宿泊。

1493年5月

ヴェネツィア到着。

1493年10月11日

エレオノーラ・ダラゴーナ、死。

1493年12月31日

長女エレオノーラ・ゴンザーガ出産。

1494年1月21日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリに金鍍金の書皮を作らせるよう依頼。

1494年2月1日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。義弟ルドヴィーコ・イル・モーロのガルダ湖の魚の要求について。

 時折ミラノに魚を贈るのなら構わないのですが、毎週では困ります。まるで封建領主に対する皇帝のような態度で要求するので、強要されているとは見えないようにしなければならず、一種の貢ぎ物でした。

1494年8月23日

ルドヴィーコ・イル・モーロに招待され、パルマに到着し、彼とフランス大使に会い、ロベール・スチュアート・ドオービニイ配下のフランス軍の行進を見る。

1494年12月10日

エレオノーラ・ゴンザーガ出産時に父エルコーレ1世・デステからもらった揺り籠を、妹ベアトリーチェ・デステに贈る。義姉のモンパンシェ伯妃キアラ・ゴンザーガが来ているため手紙が短いことを弁解。

1495年1月15日

マントヴァ出発。

1495年1月19日

ミラノ到着。

1495年1月20日

ミラノにて、夫フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 大きな部屋にイザベッラ・ダラゴーナ様はいらっしゃいました。全てが黒で覆われ、息が詰まらない程度の光と空気があるだけでした。外套と黒いベールをお召しの殿下の深い哀悼は、涙を抑えられないほど哀れみを誘いました。あなたの分もお悔やみを申し上げると、弔慰を快く受け入れてくださり、お子様たちをお呼びになりました。その光景はいっそう感情を揺さぶりました。

1495年2月4日

ベアトリーチェ・デステフランチェスコ・マリーア・スフォルツァを出産。

1495年3月

謝肉祭が終わるまでミラノに滞在。

1495年7月16日

マントヴァにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を直筆で書く。

 最も誉れ高きミラノ公、親愛なる主へ。
 閣下がご親切にもお送りくださいました、フェッランディーノ・ダラゴーナ王のナポリ入城のお知らせを、ナポリ王陛下御自身のためと閣下のためにも、極めて喜ばしいことと存じます。フランスからの解放がより早くなる助けになるに違いないと思われるからでございます。ですから、私も閣下と共に祝福し、本当に大変な喜びをもたらしたいいお知らせをいただいたことに心から感謝申し上げます。ノヴァーラ回復の報告をすぐにお受け取りになることを祈っており、ご成功を逐次ご連絡くださるようお願いいたします。妹の公妃殿下にどうかよろしくお伝えください。

1495年7月24日

マントヴァにて、夫フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。フォルノーヴォの戦いの戦利品について。

 最も誉れ高き主へ。
 ミラノ公ベアトリーチェ・デステに贈呈するため、フランス王シャルル8世が所有していた垂れ幕4枚を送るよう閣下はお望みなのですね。もちろん従いますが、これら王室の戦利品はあなたの輝かしい功績の他に留めるもののない永遠の記憶の中で、当家に納まるべきものと考えますので、この件についてはとても不承不承ではあることを申しておかなければなりません。他人にやってしまうことにより、勝利の賞品と一緒に軍功も手放すように映ってしまいます。騾馬が入用なため、また例えば私にすでにあげたものなのでなどの言い訳を公爵夫人にして頂けることを願って、今日は送りません。まだ目にしていなければ、そこまで気にかけたりはしなかったでしょう。しかし、そもそも私にくださって、ご自身の命を危険に晒して勝ち取ったものですから、目に涙を浮かべて諦めましょう。それでも、申し上げたように閣下に従いますが、何らかの説明をご返信くださればと思います。もしこれらの垂れ幕に千倍の値が付けられても、他の方法で獲得されていたものなら、ご存知のように私が心から愛し尊重する妹である公爵夫人に喜んで譲ったことでしょう。ですが、このような事情で私が所有すべきであり、別れるのは大変辛いことでございます。

1496年7月13日

マルゲリータ・ゴンザーガを出産。しかし、数週間で夭折。

1496年9月

フランチェスコ2世・ゴンザーガが熱病にかかり、イザベッラ・デステはカラブリアに向かう。

フランチェスコ2世・ゴンザーガが回復するとすぐにマントヴァへ連れ帰る。

1497年1月2日(月)

ベアトリーチェ・デステ死去。

1497年1月5日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。故ベアトリーチェ・デステへの哀悼。

1497年4月3日

再びジャン・クリストフォロ・ロマーノマントヴァへ呼ぶ。

1497年6月10日

元家庭教師バッティスタ・グアリーノ宛てに手紙をしたためる。娘を侍女として雇ってほしいという要望を断ったことを謝罪。

1498年4月26日


マントヴァにて、チェチーリア・ガッレラーニ宛に手紙をしたためる。

 本日ジョヴァンニ・ベッリーニの手になる肖像画を何点か見まして、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品について話が及び、比較することができないものだろうかと考えました。そこで、あなた様を描いた絵があることを覚えております故、この手紙を持参する者にお預けいただいて、肖像画を送って頂けるようお願い申し上げます。そうしてくだされば、2人の巨匠の作品を比較することができるばかりか、あなた様のお顔を再び見る喜びをもたらすでしょう。多大なる感謝をもって絵画はお返しいたしますし、できる限りご恩に報いることを約束いたします。

1498年11月23日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1499年3月29日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1499年8月8日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1499年10月16日

ヴェネツィア特使ドナート・デ・プレティ宛てに手紙をしたためる。あるフランス人にマントヴァを「訪れ、私たちは明らかに親フランスであるのに、親スフォルツァであるかのような発言について謝罪してもらいたい。」亡き妹の夫ルドヴィーコ・イル・モーロに愛着を感じていたが、フランチェスコ2世・ゴンザーガと対立し始めると心変わりした。自分の政治的忠誠心は、良い妻として、夫と同様に親フランスであり、「全身を百合で装っている」

1499年12月4日

カルロ・カナーレ宛てに手紙をしたためる。

1499年12月5日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1500年1~2月

この頃、レオナルド・ダ・ヴィンチマントヴァに滞在して彼女の肖像を描く。

1500年3月21日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1500年5月17日

長男フェデリーコ2世・ゴンザーガ出産。

1501年

チェーザレ・ボルジアから、彼の娘ルイーズ・ボルジアと2歳のフェデリーコ2世・ゴンザーガとの婚約を申し込まれる。要求を辛うじて退ける。

リヴィア・ゴンザーガを出産。

カタルーニャ語で書かれた騎士道物語ジョアノト・マルトレユ著『ティラン・ロ・ブランク』をイタリア語に翻訳させる。

1502年1月31日

マントヴァ出発。コトローネ侯妃マルゲリータ・オルシーニ・デル・バルツォが同行。

1502年2月1日(火)

フェッラーラにて夫フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。「ルクレツィア・ボルジアの姿形については何も書きますまい。閣下は実際に見たことがおありになるのですから」

1502年2月2日(水)

フェッラーラにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。1502年2月1日のルクレツィア・ボルジアフェッラーラ入城の行進の様子。

1502年2月3日(木)

フェッラーラにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。自身の性格と随行員たちに関して、比較に耐えられ、称賛をさらうことすらできるように願っている。「実際のところ、結婚式は甚だ味気ないものでした。再びマントヴァに戻るまで、千年もかかりそうな感じがします。閣下と息子に会いたく、楽しみなど全くないこの地から早く離れたくて仕方がありません。この結婚式に出席できたことをうらやましがることはございません。とてもよそよそしく、マントヴァに残った人たちをうらやましく思います」

1502年2月5日(土)

フランス大使フィリッポ・デッラ・ロッカ・ベルティを夕食に招き、エリザベッタ・ゴンザーガとの間に彼は座る。食事後、彼の歓待のためにリュートに合わせて歌う。部屋に案内し、2人の侍女と共に1時間ほど会話し、着けていた手袋を贈る。

フェッラーラにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

1502年2月9日(水)

灰の水曜日四旬節初日。フェッラーラにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

1502年2月14日(月)

マントヴァ到着。

1502年2月18日(金)

マントヴァにて、ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。

 貴き淑女へ。あなたへの愛と、出発の時と変わらぬ健康を保っていて欲しいという気持ちは、あなたも同じように感じていらっしゃることと願います。それ故、うれしく思ってくださるといいのですが、ご報告申し上げます。最善の状態で月曜日にこの町に戻り、私の夫もまた壮健であることを知りました。実の妹のようにあなたの幸福を喜ぶ気持ちから、あなたがどうなされているか尋ねること以上に書かなければならないことなどありません。すでにあなたのものであるものを差し出すのは無用なこととは存じ上げますが、きっぱり申し上げますと、私や私の所有物はあなたの仰せのままです。私も大変お世話になっております。あなたの夫、私の弟に、私を覚えていてほしいとお伝えください。

マントヴァにて、アドリアーナ・デル・ミラ宛てに手紙をしたためる。

1503年1月9日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1503年1月10日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

1503年1月15日

チェーザレ・ボルジア宛てに手紙をしたためる。

 ヴァレンティーノ公殿へ。
 あなたと私の夫との友情がために、親しみやすいお手紙でお知らせくださるに足る好転は、私たちに陽気な喜びをもたらしました。そのため、彼と私たちの名において、あなたに訪れた幸運にお祝い申し上げます。また、お知らせくださいますこと、有益なものになることを期待するこれからのことに助言をくださることに感謝しております。あなたを敬愛しておりますことゆえ、閣下のご成功とご進展をお喜びすることができるように、ご計画についてあなたから頻繁に知らせが届くことを願います。壮大な企ての従事による興奮と疲労の後で、娯楽を楽しみたいことでしょうから、宮廷人のジョヴァンニをやって百の仮面を届けさせましょう。もちろん、閣下の偉大さと、私たちの思いに釣り合わない些細な贈り物だとは分かっておりますけれども、もしもっと価値の高く相応しいものが私たちの国にあれば、それを差し上げていただろうことを示しているのです。仮面がそれほど美しくなかったならば、それは数年間仮面を被ることを法律で禁じられ、ずっと以前に作るのを止めてしまったフェッラーラの職人のせいです。ですが、私たちの善意と愛が欠点を補ってくれますように願います。ジョルジョ・ブロニョーロを通して合意した保証条項の聖下のご決断について、閣下のお知らせがあるまで、今のところ私たちのことに関する限り何ら新しく伝えることはございません。そのため、楽しみに待ち、満足な結果になることを期待しております。あなたに忠誠を。

1503年9月17日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1503年9月21日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1503年9月25日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1503年11月1日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1503年11月13日

イッポーリタ・ゴンザーガを出産。

1503年12月29日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1504年1月2日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1504年1月28日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1504年1月

エルコーレ・デイ・フェデーリに腕輪を発注。

1504年2月5日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1504年2月9日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1504年2月16日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1504年2月28日

マントヴァにて、ジャン・ルーチド・カッタネイ宛てに手紙をしたためる。

1504年7月8日

イッポーリト・デステ宛てに手紙をしたためる。イッポーリト・デステからもエルコーレ・デイ・フェデーリに腕輪の催促をするよう頼む。「夏が来たら、腕を露出するので、今着用できなければ興味を持てなくなります」。

1504年9月25日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリに腕輪の美しさに満足している。

1504年10月7日

アルフォンソ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。

1504年10月18日

エルコーレ・デイ・フェデーリ宛てに手紙をしたためる。

 マエストロ・エルコーレ、ジロラーモ・マニャニーニ氏とあなた自身の手紙から、腕輪が現在良好な状態にあることを知りました。そのため、アルフォンソ1世・デステ卿との約束の時間に間に合うという期待が持てるようになりましたが、実を言うと、別の機会にあなたに起こったようなことがまた起こるのではないかと以前から懸念していました。 あなたが約束を守るなら、許します。なぜなら、アルフォンソ1世・デステ卿以上に命令できる人、以上に敬意を示さなければならない相手は存在しないからです。あなたの息子フェッランテ・デイ・フェデーリが仕事を始めたことを嬉しく思います。彼があなたに名誉をもたらすことを疑いません。約束通り、評判の染料ロシエーロを送ります。支払いに加えて、何か嬉しいことをしてあげますので、仕事を続けなさい。

1504年10月19日

ジロラーモ・マニャニーニ宛てに手紙をしたためる。アルフォンソ1世・デステの介入が唯一の希望であると述べ、ジロラーモ・マニャニーニの努力に感謝。

1505年1月13日

ジロラーモ・マニャニーニ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリの腕輪についてもう何を言えばいいのか分からない。腕輪を手に入れるか、もしくは金を取り戻すように。回収すべき金の量を知るジローラモ・ジリオーロに連絡し、アルフォンソ1世・デステにその実行を監督してもらうよう指示。

1505年1月24日

ジロラーモ・マニャニーニ宛てに手紙をしたためる。アルフォンソ1世・デステによって2日間拘留されたエルコーレ・デイ・フェデーリは、その恐怖から腕輪を早く仕上げることになるだろうと満足を示す。

1505年春

フェッラーラに行く。

エルコーレ・デイ・フェデーリに会い、腕輪の完成を促す。

1505年5月29日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。

1505年6月7日

アルフォンソ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。些細なことで迷惑をかけるが、エルコーレ・デイ・フェデーリの腕輪が必要。数週間前にフェッラーラで会って早期に終わらせることを約束させた。腕輪を届けることを強制するよう頼む。

1505年6月26日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリの長男アルフォンソ・デイ・フェデーリの投獄を称賛。

1505年8月21日

エルコーレ・デイ・フェデーリ制作の腕輪とその製作費の詳細な内訳が届く。

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリが腕輪の代金25ドゥカートを請求しているが、金の釦を数年間も制作していないままである。よって、10ドゥカートとまだ支払われていない金の代価2ドゥカートを支払うよう指示。

エルコーレ・デイ・フェデーリ宛てに手紙をしたためる。遅延を補うほど腕輪は美しく優美な出来である。もっと迅速に仕事をするなら、フェッラーラの疫病が収まり次第、袖に付ける金の釦を10個か12個頼むつもりである。

1505年11月23日

エルコーレ・ゴンザーガを出産。

1506年初頭

これまでにマントヴァでペスト発生。

1506年5月

金の容器の打ち合わせに来たアルフォンソ・デイ・フェデーリに腕輪を修理に出す。

このお気に入りの腕輪は現存せず。イザベッラ・デステの死後、溶解され、その金は再利用又は売却される。

1506年5月9日

口述筆記でジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリとアルフォンソ・デイ・フェデーリ父子に腕輪の修理を急がせるよう指示。

1506年7月

ペストの流行が収まらないため、子供たちと共にサッケッタに避難。

1507年1月28日

フェッランテ・ゴンザーガを出産。

1507年

フェッラーラ訪問。

1507年9月22日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。ルクレツィア・ボルジアが身に着けていたエルコーレ・デイ・フェデーリ作の金の記章を見た。妥当な期間内に仕事を完了できそうなら、同様の記章を40個注文するよう指示。

1508年8月

パオラ・ゴンザーガを出産。

1511年3月

エルコーレ・デイ・フェデーリに、別の金細工師が作った帽子用トンドを5つの修理を依頼。帽子用トンドは16世紀初頭に流行した、男性の帽子に留め針で付ける円い装身具である。ベルナルディーノ・デ・プロスペリからエルコーレ・デイ・フェデーリに委託させるよう指示を付けて、トンドをキアラ修道女ラウラ・ボイアルドに送る。

1511年5月

エルコーレ・デイ・フェデーリ制作の帽子用飾りが完成。これを人質としてローマにいる長男フェデリーコ2世・ゴンザーガに送った可能性が高い。

1512年

帽子用の金の飾り2個を、その説明を入れた手紙と共にフェデリーコ2世・ゴンザーガに送る。1つはアレクサンドロス3世がゴルディアスの結び目を斬る場面が描かれたもの、1つはプリニウスによれば蛇などの凶悪な存在を寄せ付けないというトネリコの木立の中で眠るクピドが描かれ、TUTA QUIESと刻まれているもの。

1512年5月20日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。香水入れ付き首飾りを共に送り、その金の蓋をエルコーレ・デイ・フェデーリに作らせるよう指示。

1512年

ロドリゴ・ダラゴーナの死に際して、ラウラ・ボイアルドルクレツィア・ボルジアへ哀悼の意を伝えるよう頼む。

1513年4月6日

ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。

1514年1月15日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。香水入れ付き首飾りのための蓋が完成しないので、エルコーレ・デイ・フェデーリから金を回収するよう依頼。

1515年12月12日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリに仕事をさせる方法を見つけるよう指示。

1516年3月9日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリに急がせるよう促すことを指示。

1516年8月11日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。かなり前にエルコーレ・デイ・フェデーリに依頼していた香料入れが届き、すっかり忘れていたので驚いている。

1519年3月22日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。

1519年3月29日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ、死。遺言で、19歳の息子フェデリーコ2世・ゴンザーガを後継者と宣言したが、22歳になるまで摂政としてイザベッラ・デステを指名。

1519年4月18日

ジローラモ・ジリオーロ宛てに手紙をしたためる。釦に満足している。エルコーレ・デイ・フェデーリに注文した腕輪を早く完了させるよう指示。

1539年2月13日

死。

肖像

座右の銘

 夢もなく、恐れもなく Nes spe nec metu

埋葬地

別表記

 イザベラ・ゴンツァーガ

外部リンク

 ウィキペディア
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 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
 Internet Archive - Isabella d'Este : Ady, Julia Mary Cartwright
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 THE BORGIAS wiki
 Treccani.it
 U-PAD Unimc

参考文献

 『愛の年代記』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『Lucretia Borgia
 『Nuova Antologia di Scienze, Lettere ed Arti
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2024年5月4日