Isabella d'Este

イザベッラ・デステ

生没
1474年5月17日~1539年2月13日
出身
フェッラーラ
没地
マントヴァ
エルコーレ1世・デステ
エレオノーラ・ダラゴーナ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
リヴィア・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
フェッランテ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ

概要

 イザベッラ・デステは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

教養

 グァリーノ・ダ・ヴェローナの息子バッティスタの下で古典を習う。

性格

 大胆な計画を思いついてそれを国家の名において主張することのできる統治能力を持ち、極めて聡明であり、卑劣さの少しもない野心家であり、支配するために生まれ、女臭い装身具などでごまかされないと言ってのける女丈夫。

年表

1474年5月17日
フェッラーラにて、生(1474年5月14日、1474年5月18日)。
1476年2月
エレオノーラ・ダラゴーナと共にヴェネツィア謝肉祭を過ごす。
1476年2月27日
告解火曜日
1477年5月
この月から半年間、ナポリに滞在。
1480年5月28日
フェッラーラにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガとの結婚証書が署名される。持参金は2万5千ドゥカート
1480年6月末
マントヴァへ行き、初めてフランチェスコ2世・ゴンザーガと会う。
1490年2月11日
フランチェスコ2世・ゴンザーガとフェッラーラで盛大華麗な結婚式を挙げる。10年前の婚約を実現。
1490年2月15日
マントヴァ入城。
1490年12月29日(水)
午前中、イザベッラ・デステの行列がマントヴァ出発。
1491年1月17日(月)
パヴィアのヴィスコンティ城での妹ベアトリーチェ・デステルドヴィーコ・イル・モーロの結婚式に参列。
1491年1月
ミラノにて、結婚式に出席しなかった義弟ジョヴァンニ・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
 あなたもおいでになるべきでした。・・・・祝賀の中でも、ご覧になった演劇的表現の最上の3つに入るものでしょう。さらに羨ましがらせるでしょうことに、ミラノからあなたがまだ訪れたことのないジェノヴァの栄光の街に行く予定なのです。帰国するまでにどれほど多くの新しい場所、新しい土地を見ることになるのかばかり考えてしまいます。あなたに幸多かれと願っているものの、あまり効果がないかもしれません。垂涎の的でしょう。
1491年2月
フェッラーラ到着。
1491年2月23日
ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 17日のあなたからの手紙がどんなに幸せと喜びをもたらしたか、ご想像にお任せします。弟の妻で私たちの大切な義妹アンナ・マリーア・スフォルツァ様のご結婚を祝した見事な饗宴について十分に鮮やかに書いてくれたから、まるで自分もそこにいたかのような気になりました。あなたをどれほど愛しく大事に思っているか知っていてくれているから、あなたからの知らせがどれほどうれしいかきっと分かってもらえるでしょう。お別れしてから、他の何にもましてあなたからのお便りがうれしかったのです。そして、その手紙にあった野外劇と見世物は、最上の美と壮麗さにおいて異彩を放っていたに違いありません。最高の英知と完璧さでもってそれをお命じになった親愛なるお父様が、全て計画し手配なさったのですもの。私の不在はあなたを本当に悲しませ、祝宴も私がいなかったためにそれほど大きな喜びを感じなかったと信じています。私の方はというと、あなたがそばにいなくなってしまった今、とてもかわいい妹を奪われただけでなく、自分の半身を失ったかのように感じることを否めません。敬愛する夫が毎日私の楽しみのためにしてくださる新しく継続的な遊興がなければ、あなたとの再会が叶うまで悲嘆に暮れていたことでしょう。けれども、心も考えることもまだ一緒で、頻繁に文通はできるのだから、式典が終了し、約束どおり直筆で書いたお便りを通してお話しはともあれできることに満足し、共に慰めを見出しましょう。
1491年5月5日
ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を直筆で書く。狼狩りに参加できず残念。

1491年6月22日
ポルト・マントヴァーノにて、ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。「殿下の肖像を大理石に彫った、素晴らしい芸術家ジャン・クリストフォロ・ロマーノ」を数日間マントヴァに招く許可をルドヴィーコ・イル・モーロに求める。
1491年7月
ミラノ到着。
1492年5月2日
マントヴァにて、ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 最も誉れ高き、名誉ある妹へ。
 4月16日と17日に書かれたあなたからのお手紙2通、1通はガスパーレ・サンセヴェリーノの射手マラカルノの私の推薦に対する返答、もう1通はベルナルディーノ・ダ・フェルトレ師がヴェローナで演説したという話が伝わってきたという報告について、を昨日受け取ったばかりです。初めのお手紙にお答えしますと、マラカルノがそのような忌まわしい犯罪を犯すような人物と少しでも考えるならば、本来私自身がそのような行為を嫌うため、決して弁護を申し立てたりは致しませんことを保証します。けれども、彼の過ちは些細なことだと聞いており、仲裁することに私は納得しています。彼の素行の悪さを聞き及び、受ける処罰を聞いて大変満足し、旦那様の賢明さを称賛し、同時にあなたのお手紙でのとてもやさしい表現に感謝します。奇跡的に盲人の目を開かせた後聖週間で死ぬというベルナルディーノ・ダ・フェルトレ師のいわゆる預言についてですが、その報告は全く事実ではないようです。説教を行ったヴェローナでもパドヴァでもそんな話はしておらず、謙虚な師がおよそしそうにもないですし、説教に立ち会った修道僧から聞いたことです。それでもあなたの希望に応え、事実を確かめるため、よく調査した結果が上記になります。どうかあなたの誉れ高き旦那様によろしくお伝えください。
1492年7月
ルドヴィーコ・イル・モーロより、父エルコーレ1世・デステミラノに来る予定のため一緒に来てはどうかと招待を受ける。
マントヴァ宮廷に伝染病が蔓延し、イザベッラ・デステ自身は罹患しなかったもののミラノ行きを延期。
1492年8月10日
マントヴァ出発。カンネートで宿泊。ジャンフランチェスコ・ゴンザーガの妻アントーニア・デル・バルツォが2人の娘を連れて来る。「アンドレア・マンテーニャ氏自身でも描き得ないほどの美しい乙女たち」
1492年8月12日
クレモーナ到着。ルドヴィーコ・イル・モーロの従兄弟フランチェスコ・スフォルツァに迎えられ、市民の歓迎を受ける。
1492年8月
ピッツィゲットーネに到着した時、お気に入りの宝石と羽根で装飾された帽子を忘れたことに気づき、人をやって取りに戻らせる。
1492年8月15日
パヴィア到着。ルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステジャン・ガレアッツォ・スフォルツァイザベッラ・ダラゴーナにより歓待される。
1492年8月16日
夜、妹ベアトリーチェ・デステと2人きりで夕食をとる。
フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。「ここでの唯一新しい知らせは新教皇の選出で、皆喜んでおり、専らアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ猊下のおかげだと言われ、教皇庁副尚書院長に就任するとのことです。」
1492年8月19日(日)
パヴィアにて、夫フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
 私か彼らの部屋で食事を共にするいつもの習慣のとおり、今日はルドヴィーコ・イル・モーロ様と妹と夕食を彼らの部屋で共にしました。夕食後ルドヴィーコ・イル・モーロ様は、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァイザベッラ・ダラゴーナ、私と私の従者は残して後は人払いなさいまして、ローマ駐在大使からの手紙を自ら声を出してお読みになり、聖下から次のようにお言葉を頂戴したとのことです。「余の言うことを書き記せ。大方の予想に反し、実に奇跡的に、余はアスカーニオ・マリーア・スフォルツァの活躍により教皇になれたことを認めている。これまでの教皇の中で最も感謝を示す教皇になるつもりである。彼が余の椅子に座り、精神的及び一時的な財産を取り計らうことを喜ばしく思う」。その他愛情のこもったお言葉で仰られたと。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿は教皇庁副尚書院長職以外にすでに感謝の最初の証をお受け取りになっており、教皇はローマの邸宅を家具付きで、ネピ他たくさんのものをお与えになりました。また、個人的に夕食を共になさいました。
 この他、教皇が自らの手でアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ宛てに、半日も会っていず千年にも感じるとご不満を述べられ、取り決めるべき最重要事項をたくさん抱えているからすぐに来るよう要望をお書きになられた手紙を、ルドヴィーコ・イル・モーロ様は読んでくださいました。この会見の描写に続いて、聖下がどんなに暖かいお言葉でルドヴィーコ・イル・モーロ様のことをお話になるかを猊下は伝えられ、聖下との友好関係維持に努め、全ての場合においてご助言に沿って利益を得て、自分の椅子に座すことだけを望むと仰られました。この全てが最高の喜びの理由をここの宮廷に与え、ルドヴィーコ・イル・モーロ様との密接な関係のために私たちも受け取る喜びを言葉と身振り両方でもってお伝えしておきました。
 昨日4刻頃、これらの皆さんとご一緒に、パヴィアから4マイルほどのところにあり、いい獲物がいるサン・ピローノと呼ばれる場所へ乗馬で行きました。森の端の牧草地に白いテントが建てられ、真ん中に緑の枝の日陰棚があり、その下で公妃と私は陣取り、公爵と他の人々は騎乗でも徒歩でも他のテントを占拠しています。見つかった8頭の内の1頭の雄鹿が森から走り出て、バーリ公の犬8匹が追いかけました。ガレアッツォ・ヴィスコンティが長槍を手に追いかけ、私たちの眼前で仕留めました。明日はベルリグアルドで食事をとり、父エルコーレ1世・デステが木曜日に到着予定であるヴィジェヴァーノで夕食にします。
1492年8月20日(月)
フランチェスコ2世・ゴンザーガへの贈り物として、鹿肉のペストリー4つをマントヴァへ発送。
1492年8月22日(水)
フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
 ここ数日手紙を書こうとはしていましたが、常に妹やルドヴィーコ・イル・モーロ様と一緒に過ごしているので、時間が見つけられずにいました。さて、ようやく一瞬の隙をついて急ぎ、直接は無理なので心の中であなたを訪れたいと存じます。ここで楽しんでいる全ての遊興よりも、あなたが元気で幸せだという知らせの方が大きな満足でございます。
1492年8月27日
 今日、まるで景色のために作られたかのような美しい渓谷で狩りに出かけました。雄鹿は全てティチーノの緑豊かな谷に追い込まれ、川に入るか山を登らざるを得なくなるように狩人に全方位から囲まれ、そこを丘陵の斜面に設置された日陰棚と緑のテントの下で貴婦人が見ていました。犬が川を渡って追いかけた谷と山に沿って動物のあらゆる動きを見ることができました。しかし内2頭は丘を登って死角に逃げたので殺すところを見れませんでしたが、アルフォンソ様とガレアッツォ・ヴィスコンティ殿が後を追い、負傷させるのに成功しました。その後、雌犬が子犬と一緒に来ましたが、犬はついていくことを許されませんでした。猪と山羊がたくさん見つかりましたが、猪1頭だけが眼前で殺され、山羊1頭が私の取り分になりました。最後に狼がやってきて、私たちを追い越す時見事な宙返りをして楽しませました。しかし、かわいそうな獣たちにそのような芸当はできず、すぐ仲間が虐殺されました。そうして、たくさん笑い陽気に帰り、夕食で1日を終え、心の気晴らしを体と分かち合いました。
1492年9月15日
ルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステジャン・ガレアッツォ・スフォルツァイザベッラ・ダラゴーナと共に、ミラノ到着。スフォルツァ城ルドヴィーコ・イル・モーロが結婚の時に使用していた部屋がイザベッラ・デステが宿泊する部屋となり、そこでボーナ・ディ・サヴォイアビアンカ・マリーア・スフォルツァに迎えられる。
1492年9月20日
 昨日ルドヴィーコ・イル・モーロ様によって、ここで最も裕福な商人の家でご覧になった豪華な錦を見せるために、ミラノ公妃イザベッラ・ダラゴーナバーリ公妃ベアトリーチェ・デステと共に行かせて頂きました。私たちが帰ってきた時、最も素晴らしいと思ったものをお尋ねになりました。ジェノヴァの港にある灯台の2つの塔を金と銀で刺繍され、スペインの格言「Tal trabalio mes plases par tal thesauros non perder」と書かれたものを一番愛でたとお答えしました。
 (ルドヴィーコ・イル・モーロは妻ベアトリーチェ・デステにはすでに錦で衣装を作っており、同じものを15ヤード受け取ってほしいと言われる。)
 この錦は少なくとも1ヤード40ドゥカートは価値があるものです。
1492年
ミラノ出発。マルケジーノ・スタンガジローラモ・トゥッタヴィッラが随行。
ジェノヴァ到着。ルドヴィーコ・イル・モーロの義妹として、アゴスティーノ・アドルノらに歓迎される。
ミラノ到着。
1492年10月20日
マントヴァ到着。
1493年3月8日
ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。甥マッシミリアーノ・スフォルツァに会いたい。
1493年4月9日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
 ルドヴィーコ・イル・モーロ様が5月にフェッラーラの訪問を決めたという知らせと、本書に同封した同行者の名簿が送られてきました。私としては信じがたいことですが、そのような宴がフェッラーラにて催されている時に、もしヴェネツィアにいるならば残念でございます。ミラノにいた時、ルドヴィーコ・イル・モーロ様はフェッラーラに行くようなことがあればマントヴァに立ち寄ると仰っていたので、当家の名誉にとって最善だと考えられることを閣下はお決めにならなければなりません。最も賢明な判断をされるに違いありませんし、お知らせくださるでしょう。私なら誤るかもしれませんが。
1493年5月4日
フェッラーラに向け、マントヴァ出発。
1493年5月11日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。妹ベアトリーチェ・デステヴェネツィア行き随行員名簿について。
1493年5月12日
ヴェネツィアへ向けフェッラーラ出発。
1493年5月13日
キオッジャ到着。ポデスタ宮殿に宿泊。
1493年5月
ヴェネツィア到着。
1493年10月11日
エレオノーラ・ダラゴーナ、死。
1493年12月31日
長女エレオノーラ・ゴンザーガ出産。
1494年2月1日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。義弟ルドヴィーコ・イル・モーロのガルダ湖の魚の要求について。
 時折ミラノに魚を贈るのなら構わないのですが、毎週では困ります。まるで封建領主に対する皇帝のような態度で要求するので、強要されているとは見えないようにしなければならず、一種の貢ぎ物でした。
1494年8月23日
ルドヴィーコ・イル・モーロに招待され、パルマに到着し、彼とフランス大使に会い、ロベール・スチュアート・ドオービニイ配下のフランス軍の行進を見る。
1494年12月10日
エレオノーラ・ゴンザーガ出産時に父エルコーレ1世・デステからもらった揺り籠を、妹ベアトリーチェ・デステに贈る。義姉のモンパンシェ伯妃キアラ・ゴンザーガが来ているため手紙が短いことを弁解。
1495年1月15日
マントヴァ出発。
1495年1月19日
ミラノ到着。
1495年1月20日
ミラノにて、夫フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
 大きな部屋にイザベッラ・ダラゴーナ様はいらっしゃいました。全てが黒で覆われ、息が詰まらない程度の光と空気があるだけでした。外套と黒いベールをお召しの殿下の深い哀悼は、涙を抑えられないほど哀れみを誘いました。あなたの分もお悔やみを申し上げると、弔慰を快く受け入れてくださり、お子様たちをお呼びになりました。その光景はいっそう感情を揺さぶりました。
1495年2月4日
ベアトリーチェ・デステフランチェスコ・マリーア・スフォルツァを出産。
1495年3月
謝肉祭が終わるまでミラノに滞在。
1495年7月16日
マントヴァにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を直筆で書く。
 最も誉れ高きミラノ公、親愛なる主へ。
 閣下がご親切にもお送りくださいました、フェッランディーノ・ダラゴーナ王のナポリ入城のお知らせを、ナポリ王陛下御自身のためと閣下のためにも、極めて喜ばしいことと存じます。フランスからの解放がより早くなる助けになるに違いないと思われるからでございます。ですから、私も閣下と共に祝福し、本当に大変な喜びをもたらしたいいお知らせをいただいたことに心から感謝申し上げます。ノヴァーラ回復の報告をすぐにお受け取りになることを祈っており、ご成功を逐次ご連絡くださるようお願いいたします。妹の公妃殿下にどうかよろしくお伝えください。
1495年7月24日
マントヴァにて、夫フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。フォルノーヴォの戦いの戦利品について。
 最も誉れ高き主へ。
 ミラノ公妃ベアトリーチェ・デステに贈呈するため、フランス王シャルル8世が所有していた垂れ幕4枚を送るよう閣下はお望みなのですね。もちろん従いますが、これら王室の戦利品はあなたの輝かしい功績の他に留めるもののない永遠の記憶の中で、当家に納まるべきものと考えますので、この件についてはとても不承不承ではあることを申しておかなければなりません。他人にやってしまうことにより、勝利の賞品と一緒に軍功も手放すように映ってしまいます。騾馬が入用なため、また例えば私にすでにあげたものなのでなどの言い訳を公爵夫人にして頂けることを願って、今日は送りません。まだ目にしていなければ、そこまで気にかけたりはしなかったでしょう。しかし、そもそも私にくださって、ご自身の命を危険に晒して勝ち取ったものですから、目に涙を浮かべて諦めましょう。それでも、申し上げたように閣下に従いますが、何らかの説明をご返信くださればと思います。もしこれらの垂れ幕に千倍の値が付けられても、他の方法で獲得されていたものなら、ご存知のように私が心から愛し尊重する妹である公爵夫人に喜んで譲ったことでしょう。ですが、このような事情で私が所有すべきであり、別れるのは大変辛いことでございます。
1496年7月13日
マルゲリータ・ゴンザーガを出産。しかし、数週間で夭折。
1496年9月
フランチェスコ2世・ゴンザーガが熱病にかかり、イザベッラ・デステはカラブリアに向かう。
フランチェスコ2世・ゴンザーガが回復するとすぐにマントヴァへ連れ帰る。
1497年1月2日(月)
ベアトリーチェ・デステ死去。
1497年1月5日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。故ベアトリーチェ・デステへの哀悼。
1497年4月3日
再びジャン・クリストフォロ・ロマーノマントヴァへ呼ぶ。
1498年4月26日

マントヴァにて、チェチーリア・ガッレラーニ宛に手紙をしたためる。
 本日ジョヴァンニ・ベッリーニの手になる肖像画を何点か見まして、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品について話が及び、比較することができないものだろうかと考えました。そこで、あなた様を描いた絵があることを覚えております故、この手紙を持参する者にお預けいただいて、肖像画を送って頂けるようお願い申し上げます。そうしてくだされば、2人の巨匠の作品を比較することができるばかりか、あなた様のお顔を再び見る喜びをもたらすでしょう。多大なる感謝をもって絵画はお返しいたしますし、できる限りご恩に報いることをお約束いたします。
1499年12月4日
カルロ・カナーレ宛てに手紙をしたためる。
1500年1~2月
この頃、レオナルド・ダ・ヴィンチマントヴァに滞在して彼女の肖像を描く。
1500年5月17日
長男フェデリーコ2世・ゴンザーガ出産。
1501年
チェーザレ・ボルジアから、彼の娘ルイーズ・ボルジアと2歳のフェデリーコ2世・ゴンザーガとの婚約を申し込まれる。要求を辛うじて退ける。
1501年
リヴィア・ゴンザーガを出産。
1502年1月31日
マントヴァ出発。コトローネ候妃エレオノーラ・オルシーニ・デル・バルツォが同行。
1502年2月1日(火)
フェッラーラにて夫フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。「ルクレツィア・ボルジアの姿形については何も書きますまい。閣下は実際に見たことがおありになるのですから」
1502年2月2日(水)
フェッラーラにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。1502年2月1日のルクレツィア・ボルジアフェッラーラ入城の行進の様子。
1502年2月3日(木)
フェッラーラにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。自身の性格と随行員たちに関して、比較に耐えられ、称賛をさらうことすらできるように願っている。「実際のところ、結婚式は甚だ味気ないものでした。再びマントヴァに戻るまで、千年もかかりそうな感じがします。閣下と息子に会いたく、楽しみなど全くないこの地から早く離れたくて仕方がありません。この結婚式に出席できたことをうらやましがることはございません。とてもよそよそしく、マントヴァに残った人たちをうらやましく思います」
1502年2月5日(土)
フランス大使フィリッポ・デッラ・ロッカ・ベルティを夕食に招き、エリザベッタ・ゴンザーガとの間に彼は座る。食事後、彼の歓待のためにリュートに合わせて歌う。部屋に案内し、2人の侍女と共に1時間ほど会話し、着けていた手袋を贈る。
フェッラーラにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
1502年2月9日(水)
灰の水曜日四旬節初日。フェッラーラにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
1502年2月14日(月)
マントヴァ到着。
1502年2月18日(金)
マントヴァにて、ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。
 貴き淑女へ。あなたへの愛と、出発の時と変わらぬ健康を保っていて欲しいという気持ちは、あなたも同じように感じていらっしゃることと願います。それ故、うれしく思ってくださるといいのですが、ご報告申し上げます。最善の状態で月曜日にこの町に戻り、私の夫もまた壮健であることを知りました。実の妹のようにあなたの幸福を喜ぶ気持ちから、あなたがどうなされているか尋ねること以上に書かなければならないことなどありません。すでにあなたのものであるものを差し出すのは無用なこととは存じ上げますが、きっぱり申し上げますと、私や私の所有物はあなたの仰せのままです。私も大変お世話になっております。あなたの夫、私の弟に、私を覚えていてほしいとお伝えください。
マントヴァにて、アドリアーナ・デル・ミラ宛てに手紙をしたためる。
1503年1月10日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
1503年1月15日
チェーザレ・ボルジア宛てに手紙をしたためる。
 ヴァレンティーノ公殿へ。
 あなたと私の夫との友情がために、親しみやすいお手紙でお知らせくださるに足る好転は、私たちに陽気な喜びをもたらしました。そのため、彼と私たちの名において、あなたに訪れた幸運にお祝い申し上げます。また、お知らせくださいますこと、有益なものになることを期待するこれからのことに助言をくださることに感謝しております。あなたを敬愛しておりますことゆえ、閣下のご成功とご進展をお喜びすることができるように、ご計画についてあなたから頻繁に知らせが届くことを願います。壮大な企ての従事による興奮と疲労の後で、娯楽を楽しみたいことでしょうから、宮廷人のジョヴァンニをやって百の仮面を届けさせましょう。もちろん、閣下の偉大さと、私たちの思いに釣り合わない些細な贈り物だとは分かっておりますけれども、もしもっと価値の高く相応しいものが私たちの国にあれば、それを差し上げていただろうことを示しているのです。仮面がそれほど美しくなかったならば、それは数年間仮面を被ることを法律で禁じられ、ずっと以前に作るのを止めてしまったフェッラーラの職人のせいです。ですが、私たちの善意と愛が欠点を補ってくれますように願います。ジョルジョ・ブロニョーロを通して合意した保証条項の聖下のご決断について、閣下のお知らせがあるまで、今のところ私たちのことに関する限り何ら新しく伝えることはございません。そのため、楽しみに待ち、満足な結果になることを期待しております。あなたに忠誠を。
1503年11月13日
イッポーリタ・ゴンザーガを出産。
1505年11月23日
エルコーレ・ゴンザーガを出産。
1507年1月28日
フェッランテ・ゴンザーガを出産。
1508年8月
パオラ・ゴンザーガを出産。
1539年2月13日
死。

肖像

座右の銘

 夢もなく、恐れもなく Nes spe nec metu

埋葬地

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいアルフォンソ1世・デステ→妻ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 イザベラ・ゴンツァーガ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 文化広報誌:SPAZIO
 engramma
 Genealogy.EU
 Google Books
 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
 Internet Archive - Isabella d'Este : Ady, Julia Mary Cartwright
 JDA's Family Tree
 rodinbook.nl
 THE BORGIAS wiki
 Treccani.it

参考文献

 『愛の年代記』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年1月18日