生没 1474年5月17日~1539年2月13日
出身 フェッラーラ
没地 マントヴァ
父 エルコーレ1世・デステ
母 エレオノーラ・ダラゴーナ
夫 フランチェスコ2世・ゴンザーガ
子 エレオノーラ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
リヴィア・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
フェッランテ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
概要
イザベッラ・デステは、15世紀~16世紀のイタリア の女性。
教養
グァリーノ・ダ・ヴェローナ の息子バッティスタの下で古典を習う。
性格
大胆な計画を思いついてそれを国家の名において主張することのできる統治能力を持ち、極めて聡明であり、卑劣さの少しもない野心家であり、支配するために生まれ、女臭い装身具などでごまかされないと言ってのける女丈夫。
年表
1474年5月17日
フェッラーラ にて、生(1474年5月14日、1474年5月18日)。
1476年2月
1476年2月27日
1477年5月
1480年5月28日
1480年6月末
1490年2月11日
1490年2月15日
1490年12月29日(水)
午前中、イザベッラ・デステの行列が
マントヴァ 出発。
1491年1月17日(月)
1491年1月
ミラノ にて、結婚式に出席しなかった義弟
ジョヴァンニ・ゴンザーガ 宛てに手紙をしたためる。
あなたもおいでになるべきでした。・・・・祝賀の中でも、ご覧になった演劇的表現の最上の3つに入るものでしょう。さらに羨ましがらせるでしょうことに、
ミラノ からあなたがまだ訪れたことのない
ジェノヴァ の栄光の街に行く予定なのです。帰国するまでにどれほど多くの新しい場所、新しい土地を見ることになるのかばかり考えてしまいます。あなたに幸多かれと願っているものの、あまり効果がないかもしれません。垂涎の的でしょう。
1491年2月
1491年2月23日
妹
ベアトリーチェ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
17日のあなたからの手紙がどんなに幸せと喜びをもたらしたか、ご想像にお任せします。弟の妻で私たちの大切な義妹
アンナ・マリーア・スフォルツァ 様のご結婚を祝した見事な饗宴について十分に鮮やかに書いてくれたから、まるで自分もそこにいたかのような気になりました。あなたをどれほど愛しく大事に思っているか知っていてくれているから、あなたからの知らせがどれほどうれしいかきっと分かってもらえるでしょう。お別れしてから、他の何にもましてあなたからのお便りがうれしかったのです。そして、その手紙にあった野外劇と見世物は、最上の美と壮麗さにおいて異彩を放っていたに違いありません。最高の英知と完璧さでもってそれをお命じになった親愛なるお父様が、全て計画し手配なさったのですもの。私の不在はあなたを本当に悲しませ、祝宴も私がいなかったためにそれほど大きな喜びを感じなかったと信じています。私の方はというと、あなたがそばにいなくなってしまった今、とてもかわいい妹を奪われただけでなく、自分の半身を失ったかのように感じることを否めません。敬愛する夫が毎日私の楽しみのためにしてくださる新しく継続的な遊興がなければ、あなたとの再会が叶うまで悲嘆に暮れていたことでしょう。けれども、心も考えることもまだ一緒で、頻繁に文通はできるのだから、式典が終了し、約束どおり直筆で書いたお便りを通してお話しはともあれできることに満足し、共に慰めを見出しましょう。
1491年5月5日
1491年6月22日
1491年7月
1492年5月2日
マントヴァ にて、
ベアトリーチェ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
最も誉れ高き、名誉ある妹へ。
4月16日と17日に書かれたあなたからのお手紙2通、1通は
ガスパーレ・サンセヴェリーノ の射手マラカルノの私の推薦に対する返答、もう1通はベルナルディーノ・ダ・フェルトレ師がヴェローナで演説したという話が伝わってきたという報告について、を昨日受け取ったばかりです。初めのお手紙にお答えしますと、マラカルノがそのような忌まわしい犯罪を犯すような人物と少しでも考えるならば、本来私自身がそのような行為を嫌うため、決して弁護を申し立てたりは致しませんことを保証します。けれども、彼の過ちは些細なことだと聞いており、仲裁することに私は納得しています。彼の素行の悪さを聞き及び、受ける処罰を聞いて大変満足し、旦那様の賢明さを称賛し、同時にあなたのお手紙でのとてもやさしい表現に感謝します。奇跡的に盲人の目を開かせた後
聖週間 で死ぬというベルナルディーノ・ダ・フェルトレ師のいわゆる預言についてですが、その報告は全く事実ではないようです。説教を行ったヴェローナでもパドヴァでもそんな話はしておらず、謙虚な師がおよそしそうにもないですし、説教に立ち会った修道僧から聞いたことです。それでもあなたの希望に応え、事実を確かめるため、よく調査した結果が上記になります。どうかあなたの誉れ高き旦那様によろしくお伝えください。
1492年7月
マントヴァ 宮廷に伝染病が蔓延し、イザベッラ・デステ自身は罹患しなかったものの
ミラノ 行きを延期。
1492年8月10日
1492年8月12日
1492年8月
ピッツィゲットーネに到着した時、お気に入りの宝石と羽根で装飾された帽子を忘れたことに気づき、人をやって取りに戻らせる。
1492年8月15日
1492年8月16日
1492年8月19日(日)
パヴィア にて、夫
フランチェスコ2世・ゴンザーガ 宛てに手紙をしたためる。
私か彼らの部屋で食事を共にするいつもの習慣のとおり、今日は
ルドヴィーコ・イル・モーロ 様と妹と夕食を彼らの部屋で共にしました。夕食後
ルドヴィーコ・イル・モーロ 様は、
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ 、
イザベッラ・ダラゴーナ 、私と私の従者は残して後は人払いなさいまして、
ローマ 駐在大使からの手紙を自ら声を出してお読みになり、聖下から次のようにお言葉を頂戴したとのことです。「余の言うことを書き記せ。大方の予想に反し、実に奇跡的に、余は
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ の活躍により教皇になれたことを認めている。これまでの教皇の中で最も感謝を示す教皇になるつもりである。彼が余の椅子に座り、精神的及び一時的な財産を取り計らうことを喜ばしく思う」。その他愛情のこもったお言葉で仰られたと。
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ 枢機卿は教皇庁副尚書院長職以外にすでに感謝の最初の証をお受け取りになっており、教皇は
ローマ の邸宅を家具付きで、
ネピ 他たくさんのものをお与えになりました。また、個人的に夕食を共になさいました。
この他、教皇が自らの手で
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ 宛てに、半日も会っていず千年にも感じるとご不満を述べられ、取り決めるべき最重要事項をたくさん抱えているからすぐに来るよう要望をお書きになられた手紙を、
ルドヴィーコ・イル・モーロ 様は読んでくださいました。この会見の描写に続いて、聖下がどんなに暖かいお言葉で
ルドヴィーコ・イル・モーロ 様のことをお話になるかを猊下は伝えられ、聖下との友好関係維持に努め、全ての場合においてご助言に沿って利益を得て、自分の椅子に座すことだけを望むと仰られました。この全てが最高の喜びの理由をここの宮廷に与え、
ルドヴィーコ・イル・モーロ 様との密接な関係のために私たちも受け取る喜びを言葉と身振り両方でもってお伝えしておきました。
昨日4刻頃、これらの皆さんとご一緒に、
パヴィア から4マイルほどのところにあり、いい獲物がいるサン・ピローノと呼ばれる場所へ乗馬で行きました。森の端の牧草地に白いテントが建てられ、真ん中に緑の枝の日陰棚があり、その下で公妃と私は陣取り、公爵と他の人々は騎乗でも徒歩でも他のテントを占拠しています。見つかった8頭の内の1頭の雄鹿が森から走り出て、
バーリ 公の犬8匹が追いかけました。
ガレアッツォ・ヴィスコンティ が長槍を手に追いかけ、私たちの眼前で仕留めました。明日はベルリグアルドで食事をとり、父
エルコーレ1世・デステ が木曜日に到着予定である
ヴィジェヴァーノ で夕食にします。
1492年8月20日(月)
1492年8月22日(水)
夫
フランチェスコ2世・ゴンザーガ 宛てに手紙をしたためる。
ここ数日手紙を書こうとはしていましたが、常に妹や
ルドヴィーコ・イル・モーロ 様と一緒に過ごしているので、時間が見つけられずにいました。さて、ようやく一瞬の隙をついて急ぎ、直接は無理なので心の中であなたを訪れたいと存じます。ここで楽しんでいる全ての遊興よりも、あなたが元気で幸せだという知らせの方が大きな満足でございます。
1492年8月27日
今日、まるで景色のために作られたかのような美しい渓谷で狩りに出かけました。雄鹿は全てティチーノの緑豊かな谷に追い込まれ、川に入るか山を登らざるを得なくなるように狩人に全方位から囲まれ、そこを丘陵の斜面に設置された日陰棚と緑のテントの下で貴婦人が見ていました。犬が川を渡って追いかけた谷と山に沿って動物のあらゆる動きを見ることができました。しかし内2頭は丘を登って死角に逃げたので殺すところを見れませんでしたが、アルフォンソ様と
ガレアッツォ・ヴィスコンティ 殿が後を追い、負傷させるのに成功しました。その後、雌犬が子犬と一緒に来ましたが、犬はついていくことを許されませんでした。猪と山羊がたくさん見つかりましたが、猪1頭だけが眼前で殺され、山羊1頭が私の取り分になりました。最後に狼がやってきて、私たちを追い越す時見事な宙返りをして楽しませました。しかし、かわいそうな獣たちにそのような芸当はできず、すぐ仲間が虐殺されました。そうして、たくさん笑い陽気に帰り、夕食で1日を終え、心の気晴らしを体と分かち合いました。
1492年9月15日
1492年9月20日
1492年
1492年10月20日
1493年3月8日
1493年4月9日
1493年5月4日
1493年5月11日
1493年5月12日
1493年5月13日
1493年5月
1493年10月11日
1493年12月31日
1494年2月1日
1494年8月23日
1494年12月10日
1495年1月15日
1495年1月19日
1495年1月20日
ミラノ にて、夫
フランチェスコ2世・ゴンザーガ 宛てに手紙をしたためる。
大きな部屋に
イザベッラ・ダラゴーナ 様はいらっしゃいました。全てが黒で覆われ、息が詰まらない程度の光と空気があるだけでした。外套と黒いベールをお召しの殿下の深い哀悼は、涙を抑えられないほど哀れみを誘いました。あなたの分もお悔やみを申し上げると、弔慰を快く受け入れてくださり、お子様たちをお呼びになりました。その光景はいっそう感情を揺さぶりました。
1495年2月4日
1495年3月
1495年7月16日
マントヴァ にて、
ルドヴィーコ・イル・モーロ 宛てに手紙を直筆で書く。
最も誉れ高き
ミラノ 公、親愛なる主へ。
閣下がご親切にもお送りくださいました、
フェッランディーノ・ダラゴーナ 王の
ナポリ 入城のお知らせを、
ナポリ 王陛下御自身のためと閣下のためにも、極めて喜ばしいことと存じます。フランスからの解放がより早くなる助けになるに違いないと思われるからでございます。ですから、私も閣下と共に祝福し、本当に大変な喜びをもたらしたいいお知らせをいただいたことに心から感謝申し上げます。
ノヴァーラ 回復の報告をすぐにお受け取りになることを祈っており、ご成功を逐次ご連絡くださるようお願いいたします。妹の公妃殿下にどうかよろしくお伝えください。
1495年7月24日
マントヴァ にて、夫
フランチェスコ2世・ゴンザーガ 宛てに手紙をしたためる。
フォルノーヴォの戦い の戦利品について。
最も誉れ高き主へ。
ミラノ 公妃
ベアトリーチェ・デステ に贈呈するため、フランス王
シャルル8世 が所有していた垂れ幕4枚を送るよう閣下はお望みなのですね。もちろん従いますが、これら王室の戦利品はあなたの輝かしい功績の他に留めるもののない永遠の記憶の中で、当家に納まるべきものと考えますので、この件についてはとても不承不承ではあることを申しておかなければなりません。他人にやってしまうことにより、勝利の賞品と一緒に軍功も手放すように映ってしまいます。騾馬が入用なため、また例えば私にすでにあげたものなのでなどの言い訳を公爵夫人にして頂けることを願って、今日は送りません。まだ目にしていなければ、そこまで気にかけたりはしなかったでしょう。しかし、そもそも私にくださって、ご自身の命を危険に晒して勝ち取ったものですから、目に涙を浮かべて諦めましょう。それでも、申し上げたように閣下に従いますが、何らかの説明をご返信くださればと思います。もしこれらの垂れ幕に千倍の値が付けられても、他の方法で獲得されていたものなら、ご存知のように私が心から愛し尊重する妹である公爵夫人に喜んで譲ったことでしょう。ですが、このような事情で私が所有すべきであり、別れるのは大変辛いことでございます。
1496年7月13日
マルゲリータ・ゴンザーガを出産。しかし、数週間で夭折。
1496年9月
1497年1月2日(月)
1497年1月5日
1497年4月3日
1498年4月26日
マントヴァ にて、
チェチーリア・ガッレラーニ 宛に手紙をしたためる。
本日
ジョヴァンニ・ベッリーニ の手になる肖像画を何点か見まして、
レオナルド・ダ・ヴィンチ の作品について話が及び、比較することができないものだろうかと考えました。そこで、あなた様を描いた絵があることを覚えております故、この手紙を持参する者にお預けいただいて、肖像画を送って頂けるようお願い申し上げます。そうしてくだされば、2人の巨匠の作品を比較することができるばかりか、あなた様のお顔を再び見る喜びをもたらすでしょう。多大なる感謝をもって絵画はお返しいたしますし、できる限りご恩に報いることをお約束いたします。
1499年12月4日
1500年1~2月
1500年5月17日
1501年
1501年
1502年1月31日
1502年2月1日(火)
1502年2月2日(水)
1502年2月3日(木)
フェッラーラ にて
フランチェスコ2世・ゴンザーガ 宛てに手紙をしたためる。自身の性格と随行員たちに関して、比較に耐えられ、称賛をさらうことすらできるように願っている。「実際のところ、結婚式は甚だ味気ないものでした。再び
マントヴァ に戻るまで、千年もかかりそうな感じがします。閣下と息子に会いたく、楽しみなど全くないこの地から早く離れたくて仕方がありません。この結婚式に出席できたことをうらやましがることはございません。とてもよそよそしく、
マントヴァ に残った人たちをうらやましく思います」
1502年2月5日(土)
フランス大使フィリッポ・デッラ・ロッカ・ベルティを夕食に招き、
エリザベッタ・ゴンザーガ との間に彼は座る。食事後、彼の歓待のためにリュートに合わせて歌う。部屋に案内し、2人の侍女と共に1時間ほど会話し、着けていた手袋を贈る。
1502年2月9日(水)
1502年2月14日(月)
1502年2月18日(金)
マントヴァ にて、
ルクレツィア・ボルジア 宛てに手紙をしたためる。
貴き淑女へ。あなたへの愛と、出発の時と変わらぬ健康を保っていて欲しいという気持ちは、あなたも同じように感じていらっしゃることと願います。それ故、うれしく思ってくださるといいのですが、ご報告申し上げます。最善の状態で月曜日にこの町に戻り、私の夫もまた壮健であることを知りました。実の妹のようにあなたの幸福を喜ぶ気持ちから、あなたがどうなされているか尋ねること以上に書かなければならないことなどありません。すでにあなたのものであるものを差し出すのは無用なこととは存じ上げますが、きっぱり申し上げますと、私や私の所有物はあなたの仰せのままです。私も大変お世話になっております。あなたの夫、私の弟に、私を覚えていてほしいとお伝えください。
1503年1月10日
1503年1月15日
チェーザレ・ボルジア 宛てに手紙をしたためる。
ヴァレンティーノ公殿へ。
あなたと私の夫との友情がために、親しみやすいお手紙でお知らせくださるに足る好転は、私たちに陽気な喜びをもたらしました。そのため、彼と私たちの名において、あなたに訪れた幸運にお祝い申し上げます。また、お知らせくださいますこと、有益なものになることを期待するこれからのことに助言をくださることに感謝しております。あなたを敬愛しておりますことゆえ、閣下のご成功とご進展をお喜びすることができるように、ご計画についてあなたから頻繁に知らせが届くことを願います。壮大な企ての従事による興奮と疲労の後で、娯楽を楽しみたいことでしょうから、宮廷人のジョヴァンニをやって百の仮面を届けさせましょう。もちろん、閣下の偉大さと、私たちの思いに釣り合わない些細な贈り物だとは分かっておりますけれども、もしもっと価値の高く相応しいものが私たちの国にあれば、それを差し上げていただろうことを示しているのです。仮面がそれほど美しくなかったならば、それは数年間仮面を被ることを法律で禁じられ、ずっと以前に作るのを止めてしまった
フェッラーラ の職人のせいです。ですが、私たちの善意と愛が欠点を補ってくれますように願います。
ジョルジョ・ブロニョーロ を通して合意した保証条項の聖下のご決断について、閣下のお知らせがあるまで、今のところ私たちのことに関する限り何ら新しく伝えることはございません。そのため、楽しみに待ち、満足な結果になることを期待しております。あなたに忠誠を。
1503年11月13日
1505年11月23日
1507年1月28日
1508年8月
パオラ・ゴンザーガを出産。
1539年2月13日
死。
肖像
座右の銘
夢もなく、恐れもなく Nes spe nec metu
埋葬地
チェーザレ・ボルジア数
きょうだいアルフォンソ1世・デステ →妻ルクレツィア・ボルジア →きょうだいチェーザレ・ボルジア
別表記
イザベラ・ゴンツァーガ
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
文化広報誌:SPAZIO
engramma
Genealogy.EU
Google Books
Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
Internet Archive - Isabella d'Este : Ady, Julia Mary Cartwright
JDA's Family Tree
rodinbook.nl
THE BORGIAS wiki
Treccani.it
『愛の年代記』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス百科事典』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ルネッサンスの光と闇』
『ルネッサンス夜話』
『Lucretia Borgia 』
『The Life of Cesare Borgia 』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2020年1月18日