Jacopo Piccinino

ヤコポ・ピッチニーノ

生没:1423年~1465年6月24日
父:ニッコロ・ピッチニーノ
妻:ドルシアーナ・スフォルツァ

概要

 ヤコポ・ピッチニーノは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

性格

 野心的。

年表

1447年8月~1447年9月
ミラノアンブロジアーナ共和国は、ヴェネツィアに和平を提案して一蹴され、軍と共にクレモーナにあったフランチェスコ1世・スフォルツァに軍総司令官として共和国の自由の擁護に当たるよう要請。密かにミラノ制覇を狙うフランチェスコ1世・スフォルツァ、共和国への恭順の意を表し、その要請を受け入れる。
直ちにフランチェスコ1世・スフォルツァ、故フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの配下のフランチェスコ・ピッチニーノヤコポ・ピッチニーノ(1423年~1465年)兄弟を味方につけ、その軍を自軍に加える。
1449年4月初め
この頃、フランチェスコ1世・スフォルツァ配下にあったフランチェスコ・ピッチニーノヤコポ・ピッチニーノ兄弟は、自軍と共にアンブロジアーナ共和国の陣に移り、大歓迎を受ける。
1460年7月22/27日
この日頃、フランチェスコ1世・スフォルツァの弟アレッサンドロ・スフォルツァ及びウルビーノ・モンフェッラート伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(1422年~1482年:在位1444年~1474年)の指揮するフェッランテ・ダラゴーナ軍と傭兵隊長ヤコポ・ピッチニーノ指揮のジャン・ダンジュー軍、ナポリ領北部アブルッツォのジュリアノーヴァ近郊サン・ファブリアーノで激戦を交わす。勝敗の決着着かぬまま、フェッランテ・ダラゴーナ軍退却。
間もなく、ジャン・ダンジュー軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは教会領攻撃に向かい、ローマ近郊リエティに到着。ローマに不安、募る。
1463年8月10日
ジャン・ダンジュー陣営の敗退が続く中でその総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは、アレッサンドロ・スフォルツァと交渉し、その非難と説得に従って、ジャン・ダンジューを離れ自軍と共にフェッランテ・ダラゴーナに従うことを約定。フェッランテ・ダラゴーナヤコポ・ピッチニーノを自軍の総指揮官として受け入れながらも信用せず。
1463年9月
傭兵隊長で自軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノを初め領主らも離れ始めて孤立してきたジャン・ダンジュー、イスキア島へ逃げる。
1464年8月12日
ドルシアーナ・スフォルツァと結婚。
1465年5月
ナポリに帰り、フェッランテ・ダラゴーナの大歓迎を受ける。
1465年6月24日
カステル・ヌオーヴォで扼殺される。または、カステル・デローヴォの牢獄に放り込まれ、港に飛び込んだ。
1465年6月24日
フェッランテ・ダラゴーナ軍の総指揮官に任じられ(1463年)ながらもその意図に不安と恐れを抱いて、1464年ミラノに入り、フランチェスコ1世・スフォルツァに保護を求め、その庶出の娘ドルシアーナ・スフォルツァ(1437年~1474年)を得ていた(1464年8月14日~)ヤコポ・ピッチニーノは、彼の勧めに従って1465年5月ナポリに帰りフェッランテ・ダラゴーナの大歓迎を受けていたが、この日、カステル・ヌオーヴォで扼殺される。フェッランテ・ダラゴーナフランチェスコ1世・スフォルツァによる謀殺と広く信じられる。

別表記

 ジャーコモ、ジャーコポ、ヤコポ・ピッチーニ、Iacopo Piccinino

外部リンク

 Condottieri di ventura

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

記載日

 2005年5月29日以前