Johann Burchard

ヨハン・ブルカルト

生没:1450年頃~1506年5月16日

概要

 ヨハン・ブルカルトは、15世紀~16世紀の男性、教皇庁の儀典長。見聞したことを詳細にしたためた彼の日記は高い資料的価値を持つ。

著作

 『ヨハン・ブルカルトの日記

年表

1494年5月8日
アルフォンソ2世・ダラゴーナナポリ王戴冠式に参列(1494年5月7日)。
1503年8月18日(金)
晩課の時刻(現19時51分)、教皇アレクサンデル6世、死。
ミケーレ・ダ・コレーリアヴァティカン宮殿の入口の全ての扉を閉め、財産を確保。
召使が、教皇の肘掛け椅子、座布団、壁布を残し、箪笥の中のものを全て着服。
7刻(現14時51分)、ヨハン・ブルカルトの同僚がヴァティカン宮殿に到着し、承認され中に通される。教皇の死を知り、聖具室付き召使と教皇の召使に遺体を洗わせる。全て日常着用していた服と、生前1度も袖を通すことのなかった裾なしの白い外套を着せる。諸教皇の間の控室で棺台に寝かせ、真紅の絹と敷物を被せる。
8刻(現15時51分)、再び扉を開かれ、教皇の死が知れ渡る。
8刻、同僚に呼ばれ、ヨハン・ブルカルトがヴァティカン宮殿に到着。この間、外にいる枢機卿たちにも報告が届くが、誰も行動を起こさず。
ヨハン・ブルカルトがオリヴィエーロ・カラーファ枢機卿に切迫した危機に備えることを提案。9刻過ぎ、オリヴィエーロ・カラーファが秘書を通して全枢機卿に、翌朝サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に集まってもらえるよう伝える。
ヨハン・ブルカルトが遺体に錦の赤い長衣、短い腕帛、上祭服、長靴下を着せる。靴には十字がなかったので、真紅のビロードの愛用だった履物を代わりに履かせ、かかとに2本の紐で金の十字を結びつける。指輪は行方不明。
諸教皇の間私的謁見の間を通り、鸚鵡の間に遺体を運ぶ。真紅の覆いと敷物をかけた、棒の長さの机を用意する。錦の座布団4つと真紅のビロードの座布団1つを調達するが、古いビロードは使わず、遺体の肩、両脇、頭の下に置き、その上に敷物をかける。
2つの松明のみで、夜通し遺体に付き添う者は誰もいず。
1503年8月19日(土)
夜12刻(現19時51分)過ぎ、宮殿警備8人に付き添われて、町に戻る。教区、修道問わずローマの全聖職者に、アレクサンデル6世の遺体にシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ大聖堂に付き添うため翌朝9刻にヴァティカンに集合と知らせるよう、副長官としてカルロら急使に、できなければ職を失う条件で指示を出す。教皇随行のための松明が2百本準備される。
ヴァティカン宮殿鸚鵡の間に棺を運び、遺体を中に横たえる。袖なしの外套を着た副助祭が十字架を運ぶため待機したものの、教皇の十字架は見つからず。
盾持ちと部屋付きの召使が集められ、内赦院の4人の役人と共に、松明43本を持つ。夜の間、彼らは窓の長椅子に腰掛け、棺台の上に手を乗せ、鎮魂歌を歌う。教皇を見るために周りに立つ貧者が続ける。
ヨハン・ブルカルトが棺の中に2つの敷布団を入れ、その上に薄紫色のビロードの新しい司教外套と教皇アレクサンデル6世の紋章の刺繍が施された覆いを被せる。遺体を横たえ、敷物をかけ、肩の下に古い枕を、頭の下には2つの座布団を入れる。金色の紐がついた2つの真紅の帽子は、ヨハン・ブルカルトが家に持ち帰る。
棺は儀典室の従僕が運ぶが、ヴァティカン宮殿の外まで担ぎ出せるか不安を感じ、礼拝堂付き聖職者でセッサ司教マルティーノ・ザパータに監督を任せる。
ローマの全修道司祭、サン・ピエトロ大聖堂所属聖職者、十字架を持った司教座聖堂参事会員のいるシスティーナ礼拝堂へ、教皇を運ぶ。
サン・ピエトロ大聖堂に向かい、初めに十字架が、次にサントノフリオの修道士、パウロ会修道士、フランチェスコ会修道士、アウグスティーノ会修道士、カルメル会修道士、ドミニコ会のみ3人の修道士、サン・ピエトロ大聖堂所属聖職者、ストラとピヴィアーレを着たローマの聖職者の侍従、数人の司教たちが行く。サン・ピエトロ大聖堂所属の聖職者と受禄者が大部分、教皇の従僕と雇用者が、約1百40の松明を掲げる。その後、アレクサンデル6世の棺が来て、聖職者と受禄者は無秩序に教皇を囲む。システィーナ礼拝堂の中にいた貧者によって棺は運ばれ、4人か6人の司教座聖堂参事会員がそばで棺台に手を乗せながら歩く。4人の執事で高位聖職者、つまり、サモーラ司教ディエゴ・デ・デーサ、カリーノラ司教ペドロ・ガンボア、ナルニ司教ピエトロ・グスマン、セッサ司教マルティーノ・ザパータが、2人ずつ棺の後ろを続く。
サン・ピエトロ大聖堂の中央に棺を据えると、「Non intres in judicium」云々が朗誦されるが、本がなく、それを待つ間聖職者が応唱「Libera me, Domine」を歌う。聖歌が歌われている間、宮殿警備の兵士たちが松明を数本着服しようとする。聖職者たちは抵抗するが、兵士が武器を向けたため、聖歌を中断して聖具室へ逃げ、教皇はほぼ1人にされてしまう。ヨハン・ブルカルトが他3名と棺台を担ぎ、主祭壇と教皇座へ運び、頭を祭壇に向けて置き、棺の後ろの聖歌隊席を閉める。教皇に害された者が復讐するかもしれないとして、マルティーノ・ザパータが人々が死者に近づけば不祥事が起こる可能性を懸念。それ故、棺を再び動かすよう指示し、階段の間の礼拝堂の入り口に据える。最下段は柵は近く、扉は柵の間からやすやすと手の届く。終日、その柵に狭く囲まれた場所に留まる。
8刻(現3時49分)には、故アレクサンデル6世の顔の腐敗と黒さが進行。
その間、9刻(現4時49分)過ぎ、枢機卿16名がサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に集合。ラグーザ(ドゥブロヴニク)大司教ジョヴァンニ・サッコをローマ知事に任命し、兵士を2百人を与える。式武官長にフアン・デ・ヴェラを任命。この2名にローマの門、民衆、聖職者の監督を信任。彼らの立会いの下、アレクサンデル6世の鉛製印章が教皇勅書封書官によって破壊される。教皇の指輪を教皇庁掌璽院に引き渡すよう指令され、ハイメ・デ・カサノヴァがこれにあたる。その間、アントーニオ・ジェンティーレ・パッラヴィチーノ枢機卿とボルジア枢機卿(フランチェスコ・ボルジア又はペドロ・ルイス・ランソル)が教皇の部屋の所有物の目録作成にあたる。この集まりは3刻(現10時49分)頃終わる。
食事後、枢機卿は部屋付き聖職者と共に、銀製品と高額な調度品の目録を作成。教皇冠と2つの小冠、教皇がミサや全ての司宰で使用していた指輪全部が見つかり、大きな収納箱8つに詰める。ヴァティカン宮殿ボルジアの間の裏にある第1室には、ミケロット・ネーリが見落としていたさらなる銀杯がある。同じく見落としていた緑の布に覆われた桧の箱には、約2万5千ドゥカート相当の宝石と指輪、枢機卿たちの誓約書やナポリ王国叙任の勅書やその他文書の大量の紙が入っている。
ヨハン・ブルカルト不在の間に、部屋付き聖職者フェルナンド・ポンツェットが大工のミケーレとブッチョに、サン・ピエトロ大聖堂の真ん中の霊柩台を長さ15スパン(約3.42 m)、幅12スパン(約2.74 m)、高さ6スパン(約1.37 m)に手配。側廊に霊柩台を除く50本の松明を支えるための柵と1百40本のかがり火を、会葬者と高位聖職者1百名が座る長椅子を手配。垂木1本1ドゥカートで、総額1百50ドゥカート。加えてフェルナンド・ポンツェットは、聖餐式執行司祭のための祭具机を手配し、翌終日にわたり執行司祭が棺台他全てを執り行うようにする。
その間、教皇は主祭壇の柵に囲まれ、4つの松明が灯されている。ヨハン・ブルカルトが見た時には漆黒の布か黒人のように斑が広がり、鼻は腫れ、口は肥大し、舌は腫れて唇から出始め、 口は開いていた。かつて誰も見たこともないほど恐ろしい姿だったという。
夜9刻(現16時49分)過ぎ、しきりに冗談を言ってアレクサンデル6世をほのめかす6人の運搬人によって、サンタ・マリア・デッレ・フェッブリ教会に運ばれ、祭壇の左の壁の隅に置かれる。松明などの灯りが使われず、司教などが見守ることもなく、ミトラを教皇のそばに置き、古い敷物を被せ、2人の大工によって作られた棺は狭く短かったため遺体を押し込めるように入れる。

別表記

 BurcardoGiovanni Burckardt

関連項目

 The Borgias: 101, 102, 103, 108, 109

外部リンク

 THE BORGIAS wiki
 Wikipedia

参考文献

 『サイレント・マイノリティ』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2006年10月27日以前