- 生没
- 1500年2月24日~1558年9月21日
- 出身
- フランドル伯領ヘント
- 没地
- スペイン帝国クアコス・デ・ユステ
- 父
- フェリペ1世
- 母
- フアナ1世・デ・トラスタマラ
- 妻
- イサベル・デ・アヴィシュ
- 子
- マルゲリータ・ディ・パルマ
フェリペ2世
マリア・デ・アブスブルゴ
フアナ・デ・アブスブルゴ
ヨハネス
フアン・デ・アウストリア
概要
シャルル・ド・アブスブールは、16世紀の男性、神聖ローマ帝国皇帝。
在位
ネーデルラントの君主 1506年~1555年
カスティーリャ王カルロス1世 1516年~1556年
カラブリア公 1516年1月23日~1554年7月25日
スペイン王カルロス1世 1516年、1519年~1555年、1556年
先代:フェルナンド2世・デ・アラゴン
次代:フェリペ2世
神聖ローマ皇帝カール5世 1519年~1556年
年表
1504年9月22日
ルイ12世、マクシミリアン1世、マクシミリアン1世の子でブルゴーニュ公フェリペ1世の3者、ユリウス2世の指示の下にブロワで協定を締結。ルイ12世のミラノ支配、ルイ12世の娘クロード・ド・フランス(1499年~1524年)とフェリペ1世の長子(すなわちマクシミリアン1世の孫)カール5世の結婚、ロンバルディアやロマーニャに進出してきたヴェネツィアへの対抗などで合意。
1509年1月24日
ユリウス2世により、聖ペテロの騎士に叙勲され、証としてエルコーレ・デイ・フェデーリ作「聖ペテロの騎士の剣」が大使に手渡される。
1515年3月~1515年4月
イタリア侵攻、ミラノ奪還を企図して軍を大幅に増強、結集しながら、1515年3月24日、1515年1月5日より叔母マルグリット・ドートリッシュの後見を排して独立したネーデルラントの君主カール5世(在位1506年~)と、1515年4月5日、ヘンリー8世とそれぞれ協定して背後を固める。
1516年1月23日
フェルナンド2世・デ・アラゴン死。——その意思により、孫でマクシミリアン1世の孫でもあるネーデルラントの君主カールが、カルロス1世としてスペイン王に即位。
1516年春~10月半ば
ヴェローナ、ブレッシャを巡ってフランソワ1世軍及びヴェネツィア軍、とりわけヴェローナ奪回を急ぐヴェネツィア軍と、マルカントーニオ・コロンナ指揮のマクシミリアン1世軍及びカルロス1世軍との間に戦闘続く。
1516年8月13日
ノワイヨン協定:スペイン王カルロス1世とフランソワ1世は、フランス・ノワイヨンで、カルロス1世はフランソワ1世のミラノ領有を承認すること、カルロス1世の祖父マクシミリアン1世が制しているブレッシャとヴェローナを彼が手放せばヴェネツィアに返還し、その代金をフランソワ1世とヴェネツィアが支払うこと、フランソワ1世は娘Louiseと共にその持参領としてナポリをカルロス1世に与え、以後ナポリ継承権を主張しないことを協定。
1516年10月19日
マクシミリアン1世、カルロス1世、ヘンリー8世の三者は、レオ10世の勧奨により対フランス協定を締結。
1517年3月11日
マクシミリアン1世、カルロス1世、及びフランソワ1世は、カンブレーでイタリア分割及び相互安全保障を約定。
1517年9月
カルロス1世、スペイン支配のためネーデルラント人側近を率いてスペインに到着。以後スペインでネーデルラント人支配に対する反発生ずる。
1518年3月6日
オスマン・トルコのスルタンセリム1世の目覚しい軍備強化の動きを知ってそのキリスト教世界への侵攻を恐れるレオ10世、フランソワ1世、マクシミリアン1世、カルロス1世、ヘンリー8世などキリスト教諸国、諸権力者に勅書を送り、相互の一切の対立、紛争を5年間急死し、共に対トルコ防衛体制をとるよう訴える。
しかしヴェネツィアを初めとする諸国、諸権力者は、教皇の狙いはメディチ家の権勢拡大だとの不信と各自の権勢、権益の維持、拡大の野心とから、教皇の訴えを聞きながらそれぞれの策を進める。
1518年4月半ば
レオ10世、対オスマン・トルコ十字軍結成を訴えるべく、自分が取り立てた枢機卿たちベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナ、エジーディオ・ダ・ヴィテルボをそれぞれ、1518年4月13日フランソワ1世のもとへ、1518年4月16日カルロス1世のもとへ特使として派遣。
1518年5月5日
レオ10世、対オスマン・トルコ十字軍を訴えるべく、自分が取り立てた枢機卿Jacobus Cajetanusをマクシミリアン1世のもとに特使として派遣。
しかし前月から派遣した特使たちは、教皇自身を自陣に引き込もうと狙うカルロス1世の元のエジーディオ・ダ・ヴィテルボを除き、任務遂行にひどく難渋。
1518年9月10日
カルロス1世、「インディアに渡航する農夫に与える特典及び特権」に関する勅令を発し、新大陸への渡航を希望する農民に渡航費及び農業収入を得るまでの生活費を支給し、かつ20年間は税を免ずるなどの特典を与えると告示。これに基づき、1518年10月12日、渡航希望農夫募集事業開始され、新大陸への計画的植民始まる。
1518年10月2日
ロンドン協定:1518年8月のフランソワ1世主導の協定を見たイングランドの大法官・枢機卿トマス・ウルジー、ヘンリー8世とフランソワ1世の間に平和協定を成立させ、ヘンリー8世の幼い娘メアリー1世(1516年~1558年:イングランド王1553年~1558年)とフランソワ1世の王太子フランソワ(1518年~1536年)の結婚を取り決めると共に、この協定へのマクシミリアン1世、カール5世の加入の道を開く。これによりトマス・ウルジーは、レオ10世主導ではないヘンリー8世ないし自分主導のキリスト教諸国、諸権力者糾合をも視野に置く。
1518年
フランソワ1世とカルロス1世は、ノワイヨン協定で定めたカルロス1世とフランソワ1世の長女Louiseの婚約が彼女の死亡(1517年)によって解消したため、この種の事態が生じた場合はカルロス1世はフランソワ1世の次女シャルロッテ(1516年~1524年)と婚約するとの同協定の条項を再確認。
1519年1月12日
神聖ローマ皇帝位をめぐるフランソワ1世(ヴァロワ家)とカルロス1世(ハプスブルク家)の対立、闘争強まり、第二次イタリア戦争の兆し芽生える。
神聖ローマ皇帝選挙戦で争う両者それぞれと接触を保っていたレオ10世は、強者のイタリアにおける覇権確立を阻むべく、やや弱体なフランソワ1世を密かに支持。
1519年2月6日
レオ10世、カルロス1世とも相互防衛協定を締結。カルロス1世は神聖ローマ皇帝選でのレオ10世の支持を期待。
1519年5月末~6月初旬
レオ10世、神聖ローマ皇帝選でのフランソワ1世の勝利は不可能と知り、カルロス1世に対抗し得る第三の候補としてザクセン選帝侯フリードリヒ3世を考える。
1519日6月21日
レオ10世、神聖ローマ皇帝選挙戦でカルロス1世を排すべく選帝侯の一人ザクセン侯フリードリヒ3世(der Weise)を帝位に推挙し決起を促すが侯自身の固辞にあい失敗。
1519年6月28日
カルロス1世は、南ドイツの諸都市、諸侯の支持、フッガー家などから得た巨額の資金による選帝侯の買収などによってフランソワ1世を圧倒し、フランクフルトにおける選帝侯会議で選帝侯7名全員一致の支持により帝位を得、Karl Vを名乗る(在位1519年~1556年)。但し、カール5世は選出されるに当たりフリードリヒ3世の起草した帝権制約のための選挙協定を進んで受容。
1519年8月
Germaníasの反乱:この月?、スペイン・ヴァレンシアの組合手工業者、農民など、民兵団を組織して貴族に対し武装反乱(~1522年)。これにより貴族の王権の下への統合、促進される。
1519年10月22日
レオ10世とフランソワ1世、イタリアにおける相互の領国(メディチ家の支配領を含む)の安全保障協定を極秘裏に結ぶ。これによりフランソワ1世にナポリ王位を認めてカール5世に認めないこと、フランソワ1世はレオ10世によるフェッラーラの奪回を認めることを実質上、合意。
しかしマルティン・ルター及びルター派に対処する上でカール5世の協力を欠かせないレオ10世、この協定を知らずなおレオ10世の支持を信ずるカール5世とも裏面での折衝を続ける。
1520年3月
カール5世、スペイン・Santiagoに召集したCastilla議会にドイツ・アーヘンでの自身の戴冠式に出かける費用を要求し、議員の抵抗を押し切って承認させる。Castillaで議員及びカール5世への反発強まる。
1520年4月~1520年7月
コムネロスの反乱。カール5世の集権的支配によって特権を圧迫されたCastillaの諸都市、自治組織Comunidadを結成し、カール5世のネーデルラント人支配、反スペイン政策打破を目指して武装反乱。Juan Manuel(在位1520年4月~)は、この日付のカール5世への書簡で、マルティン・ルター問題への対応いかんがレオ10世のカール5世への対応を決するとした上で、ドイツに行ってもマルティン・ルターへの好意的言動はとらないよう強く勧奨。
1520年5月20日
カール5世、かつて自分の個人教師、助言者であったTortosaの枢機卿Adrian Florensz Boeyens(1459年~:枢機卿在位1517年~))をスペイン総督に任命し、この日ドイツに向かってLa Coruñaを出発。
1520年6月7日~1520年6月24日
フランソワ1世、カール5世に対抗する同盟者を得るべく、Calais近郊Ardresの豪華な装飾を施した陣屋(「金襴の陣屋」)に参議会員トマス・モアらを従えたヘンリー8世を招いて会見し、盟約を求めるが合意に達せずに終わる。
1520年7月10日~1520年7月14日
フランソワ1世から対カール5世同盟を求められていたヘンリー8世、スペインからネーデルラントへの帰途上のカール5世をCalais近郊Gravelinesに訪ねて会見し、対フランソワ1世同盟を秘密裡に協定。
1520年9月22日
セリム1世死。——子スレイマン(1494/1495年~1566年)、スルタン・スレイマン1世となり(在位1520年~66年)、セリム1世がイスラム世界で得た威信を基にオスマン・トルコの最盛期を招来。同時にカール5世支配の神聖ローマ帝国との対立を激化させる。
1520年10月23日
カール5世、アーヘンで戴冠式を挙行。
数日後アーヘンで、カール5世を神聖ローマ皇帝と公認するレオ10世の勅書が公表される。
1520年12月11日
レオ10世とカール5世、過去3ヶ月に相手の利益に反するいかなる協定も他者と結ばなかったこと、今後3ヶ月も結ばないことを文書で誓約。
1521年1月末
前年12月のカール5世との誓約を秘したままのレオ10世とこの誓約を知らぬフランソワ1世、フランソワ1世の提案により、フランソワ1世はナポリ領有を求めず第三者による領有を認め、かつレオ10世にフェッラーラ及びナポリ領の海岸線の領有を認める協定を、ヴェネツィアがこれを認めることを条件として締結。
1521年3月末/4月初旬
レオ10世とカール5世、1520年12月11日の誓約を更新。
1521年4月17日~1521年4月18日
カール5世によって初めて召集され、帝国改革を主題議題として開会されたヴォルムスの帝国議会、マルティン・ルターを審問。自らマルティン・ルターに所説の撤回を求めるが彼に峻拒され、1521年4月19日、彼を異端と宣言。
しかし、帝国議会へのマルティン・ルター召喚の報を早くから得ていたレオ10世及び教皇庁、教皇がすでに破門した人物の公的召喚、審問に強い不満を抱く。
1521年4月21日
カール5世、この日のヴォルムスの分割協定と翌1522年2月7日のブリュッセルの分割協定によりハプスブルク家のオーストリア世襲領を弟フェルディナンドに委譲し、フェルディナンドはオーストリア大公となる。これによりハプスブルク家のオーストリア系とスペイン系への分裂の端緒、開かれる。
1521年4月23日
コムネロスの反乱終息(1520年~)。反乱軍、Villarで貴族軍に敗れ、以後Castilla諸都市は王権の下に統合される。
1521年5月8日
レオ10世、フランソワ1世との1月末の協定に対する批准が遅れる間にその意図に不信を強め、一転してカール5世と、そのナポリ領有を改めて認めること、メディチ家のトスカーナにおける支配領を含めて相互に領国を防衛し合うこと、フランソワ1世からパルマ、ピアチェンツァを奪還して教会領に併合し、同じくミラノを奪還してルドヴィーコ・イル・モーロの子フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ(1495年~1535年:ミラノ公在位1521年~1524年、1525年、1529年~1535年)に統合させること、自身のフェッラーラ攻撃、奪還及びナポリ領内の一部領地のアレッサンドロ・デ・メディチ(1511年~1537年:メディチ家当主1529年~1537年:フィレンツェ元首1531年~1532年:フィレンツェ公1532年~1537年)への封与をカール5世が支持すること、などにつき秘密裡に協定し、1521年5月28/29日批准。
1521年春~夏
フランドル及びNavarraで、これらの地でのカール5世の支配を覆そうと狙うフランソワ1世の密かな支援を受けた者たちの、カール5世支配への反抗ないし攻撃が活発化すると共に、フランソワ1世軍も両地に侵攻。
1521年5月20日
フランソワ1世のNavarra攻撃に対してPampelona城塞を守備していたイグナティウス・デ・ロヨラが負傷。その療養中、回心し、「神の騎士」となることを期する。
この頃?、レオ10世は、フランソワ1世のジェノヴァ支配を打倒すべく、ジェノヴァから追放されているアドルノ家などにカール5世から借りた軍を与えてジェノヴァを攻撃させるが、攻撃を察知して防備を固めていたオッタヴィアーノ・フレゴーソ指揮の軍に撃退される。
1521年5月
カール5世の弟、オーストリア大公フェルディナンド1世、ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世の妹アンナ・ヤギェウォと結婚。
1521年6月末
Navarraに侵攻したフランソワ1世軍は、Pampelonaの南でカール5世のスペイン軍に敗退。
1521年8月1日
第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グイッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世とカール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。
1521年8月25日
カール5世とヘンリー8世、Brugesでカール5世はヘンリー8世の娘メアリー1世と結婚すること、1523年3月に共にフランソワ1世に宣戦を布告すること、を盟約。
1521年8月29日~9月2日
プロスペロ・コロンナ総指揮の同盟軍(教会軍、フィレンツェ軍、カール5世軍)は、パルマを攻撃し一時、支配するが、新たにフェッラーラ軍の支援を受けたミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍を前にして後退。
1522年1月9日
カール5世のかつての教師、助言者で現スペイン総督(在位1520年~1522年)、異端審問長官(在位1518年~1522年)、枢機卿(在位1517年~1522年)、ネーデルラント人Adrian Florensz Boeyens(1459年~1523年)、教皇に即位し、ハドリアヌス6世を名乗る(在位1522年~1523年)。
この新教皇選出、自らもこの位を狙いながらもなおその実現は不可能と見たジューリオ・デ・メディチの判断と決断に大きく影響される。
枢機卿会議、スペイン・Vascoにあってまだイタリアを訪れたことのない新教皇ハドリアヌス6世が着任するまで教会領の現状を凍結、維持すべく、ペルージアに迫ったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に教会領より撤退するよう要求。フィレンツェ軍、撤退。
1522年3月初旬
本国から援軍を得たロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、ヴェネツィア軍をも加えて、ミラノを奪還すべくロンバルディアに出撃。プロスペロ・コロンナ総指揮の同盟軍(主力はカール5世軍)と各地で激戦を展開。
1522年3月10日
ラモン・デ・カルドナ、死。彼に代わってCharles de Lannoy(1488年?~)、カール5世のナポリ総督となる。
1522年6月19日
カール5世とヘンリー8世、Windsorで協定を結び、前年8月の協定を改めて確認。これに従いヘンリー8世は、フランソワ1世に宣戦布告。
1522年11月29日
フランソワ1世を孤立させ、その新たなイタリア侵攻を阻止することを狙うカール5世、使節ジローラモ・アドルノをアルフォンソ1世・デステのもとへ送って折衝し、彼の領国支配の商人及びモデナ・レッジョの彼への返還を約束する代償に彼から巨額の軍資金を得ることを協定。
1523年4月27日
フランチェスコ・ソデリーニ、フランソワ1世に艦隊で教皇領シチリアを攻撃してカール5世のロンバルディア駐在軍をそこにひきつけながらフランソワ1世自身が速やかに北部イタリアに侵攻するよう勧めたとされ、ハドリアヌス6世の命により深夜、逮捕されてサンタンジェロ城に幽閉される。この処置に、ハドリアヌス6世と親密でその施策に影響を与えることの多いジューリオ・デ・メディチの反ソデリーニ家の意図と周到な工作が強く働く。以後ジューリオ・デ・メディチの教皇庁内での力、とみに強まる。
1523年7月29日
この頃、1523年4月頃以来カール5世から使節ジローラモ・アドルノを、その死後は同じくMarino Caracciolo(1469年~1538年)を送られ、協定を求められてきた上に1523年7月半ばからはハドリアヌス6世からも強く促されていたヴェネツィアは、求めに応じてカール5世、フェルディナンド及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとミラノ防衛の協定を結ぶ。カール5世によるフランソワ1世の孤立化、そのイタリア侵攻阻止の態勢、さらに強まる。しかしフランソワ1世はイタリア侵攻の意を弱めず軍を強化。
1523年8月3日
イタリアにおける戦闘の終息及びオスマン・トルコの攻撃に対するキリスト教世界の防衛を期するハドリアヌス6世、イタリア侵攻、ミラノ奪還の意図を捨てようとしないフランソワ1世に対抗すべく、カール5世、ヘンリー8世、フェルディナンド、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、フィレンツェ、シエナ、ジェノヴァなどと同盟を締結。
1523年9月11日
1521年死亡した妻シュザンヌ・ド・ボージューの遺領をフランソワ1世とその母后ルイーザ・ディ・サヴォイアから要求されて両者と対立していたブルボン公シャルル・ド・ブルボン(1490年~1527年)は、カール5世陣営に投じ、両者と決定的に敵対。
これによりフランソワ1世は、軍を指揮して自らイタリアに侵攻することを断念し、指揮を提督Guillaume de Bonnivetに委ねる。
1523年12月30日
プロスペロ・コロンナ死。彼に代わる同盟軍の指揮官にカール5世によって任命されたそのナポリ総督Charles de Lannoyは、すでに12月半ばロンバルディアに到着。
1524年1~2月
この頃?、教皇クレメンス7世、フランソワ1世などキリスト教君主間の戦いには介入しないと言明しながら秘密裡にカール5世に多額の軍資金を送り、フィレンツェに対してもカール5世を支援するよう指令。
1524年3~4月
Guillaume de Bonnivet指揮のフランソワ1世軍と、Charles de Lannoy指揮のカール5世軍を主力としてシャルル・ド・ブルボン軍、フェルディナンド軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ総指揮のヴェネツィア軍、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍を結集した同盟軍が、ミラノ攻防を巡って激戦。フランソワ1世軍の敗色濃厚となる。
1524年4月10日
カール5世のイタリアにおける覇権確立を恐れたクレメンス7世、フランソワ1世のイタリア侵攻、ミラノ攻撃に敵対する方針を変更することを内心密かに決め、この日フランソワ1世の使節に自分は決してカール5世に与するものではないと言明。
1524年4月14日
クレメンス7世、カール5世から出された前年8月の前教皇ハドリアヌス6世との同盟の更新の要求に対し、オスマン・トルコに対して団結すべきキリスト教世界の父としてキリスト教君主間の戦いには中立を保つと改めて宣言し、間接的に拒絶の姿勢を示す。
1524年5月
フランソワ1世軍は、ミラノ攻防戦に決定的に敗北し、撤退。カール5世は、ミラノを制圧。
1524年6月23日
ドイツ農民戦争:南ドイツ・Stühlingen伯領の農民が、62ヶ条の訴状を掲げて武装蜂起。以後、各地で農民蜂起続発し、神聖ローマ帝国の3分の2を覆う農民戦争へと発展。
1524年6月
カール5世、ヘンリー8世、シャルル・ド・ブルボンの三者は、カール5世とヘンリー8世から軍や資金を得てシャルル・ド・ブルボンが1524年7月から12月の間にフランスに侵攻することを協定。
1524年8月12日
クレメンス7世、カール5世の使節が伝えた前年8月の同盟の更新と軍資金提供の要求を明確に拒絶。
1524年12月初旬
この頃までにクレメンス7世、カール5世陣営にあったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレに対して、アルフォンソ1世・デステからフランソワ1世陣営への物資輸送の安全を期すよう指令。1524年12月10日物資はジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの保護の下、輸送される。
1525年2月24日
Charles de Lannoy総指揮のカール5世軍(=ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス指揮の軍とシャルル・ド・ブルボン指揮の軍)は、前年10月以来パヴィア包囲していたフランソワ1世軍を破る。フランソワ1世は負傷して捕虜となり、クレモーナ近郊Pizzighettoneに幽閉される。彼の将軍ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ(1460年~)、Guillaume de Bonnivet(1488年?~)らは戦死。カール5世軍の指揮官ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらは負傷。
1525年2月26日
パヴィアにおけるフランソワ1世の敗北、捕囚の報をローマで得たクレメンス7世、夢にも思わなかった事態に呆然。イタリアの諸権力者、諸国もカール5世のイタリアにおける覇権の脅威に脅え始める。
1525年3月7日~半ば頃
パヴィアでの敗戦、フランソワ1世の捕囚の報が伝えられたフランス王宮は、シャルル・ド・ブルボン軍とヘンリー8世軍の侵入の恐れも覚えて混乱。母后、摂政ルイーザ・ディ・サヴォイアはカール5世のもとに使節を送ってミラノ及びナポリ継承請求権の放棄、ブルボン公領の返還、カール5世のブルゴーニュ公就任の承認などを伝えると共に、クレメンス7世とヴェネツィアにも使節を送ってフランソワ1世の身柄の安全を懇願。
1525年3月
パヴィアでのカール5世軍の勝利を見て彼に対抗すればロマーニャの教会領をことごとく失いかねないばかりかフィレンツェでのメディチ支配も危うくなると感じたクレメンス7世と、自軍の兵士への報酬やフランソワ1世の身柄の取り扱いについてクレメンス7世との折衝を望むCharles de Lannoyは、秘密裡に折衝。クレメンス7世はヴェネツィアを折衝に引き入れようと試みるが、カール5世の覇権を嫌うヴェネツィアはCharles de Lannoyの求める金の支払いも嫌ってこの試みに乗らず。
1525年4月1日
クレメンス7世とCharles de Lannoyは、クレメンス7世とカール5世は共にミラノをフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに与えてこれの防衛に当たり、クレメンス7世はCharles de Lannoyに軍資金を与え、Charles de Lannoyは教会領、フィレンツェ及びメディチ家を保護することなどを秘密裡に協定。5月1日または10日、ローマで公表される。この過程で、クレメンス7世の命に従いフィレンツェはペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに、ルッカとシエナはCharles de Lannoyに軍資金を支払う。
1525年5月5日
この頃?、クレメンス7世、1525年4月1日協定の一部条項の批准を躊躇うカール5世のもとに、その真意を探ると共に協定の全面的批准を促すべく使節として枢機卿ジョヴァンニ・サルヴィアーティを派遣することに決める。
1525年6月7日
Charles de Lannoyは、カール5世陣営の指揮官ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスやシャルル・ド・ブルボンにもイタリアの君主たちにも知らせず、彼らの意図に反して独断でフランソワ1世をジェノヴァからカール5世のいるスペインに向けて海路、護送させる。陣営内でのCharles de Lannoyへの反発、強まる。
フランソワ1世のスペイン護送を知ったクレメンス7世らイタリアの諸権力者、諸国の間に、カール5世とフランソワ1世の間でイタリア分割支配を条件として和が図られるのではとの不安、生ずる。
1525年7~8月
この頃カール5世、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァに、ミラノを正式に封与条件として巨額の金を要求。
1525年7~8月
フランソワ1世のスペイン護送などを巡ってCharles de Lannoyとフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスなどとの間に生じた不和を利用してカール5世陣営を分断し、その支配から免れようと企むフランチェスコ・マリーア・スフォルツァの副王Girolamo Morone(1470年~1529年)、密かにルイーザ・ディ・サヴォイア、クレメンス7世及びヴェネツィアの支持・参加を得て反カール5世同盟を結成。フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに同盟軍の最高指揮官ともナポリ王ともするとの条件を示して彼を陰謀・同盟に引き入れる。
1525年8月30日
ルイーザ・ディ・サヴォイア、フランソワ1世の名でヘンリー8世と対カール5世協定を結ぶことに成功し、フランスの支配領はたとえフランソワ1世の救出・解放のためでもカール5世に委譲しないことを条件として、ヘンリー8世からフランソワ1世の救出・解放に尽力するとの約束を得る。
1525年10月14日
反カール5世同盟の内情・非力さを知って到底カール5世に対抗できないと感じたフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスの裏切り・通報により、一連の陰謀・同盟露見し、主謀者Girolamo Moroneはカール5世の命によって逮捕される(1526年1月釈放)。
1525年11月12日
カール5世軍は、ミラノを再制圧。フランチェスコ・マリーア・スフォルツァは城塞に閉じ込められる。
1526年1月14日
マドリード協定:カール5世とフランソワ1世は、カール5世はイングランドとフランスの提携、自分のイタリアにおける支配力の強化を恐れるイタリアの諸権力者、諸国のフランスへの傾斜を見て、フランスとの対立を回避するのを得策と考え、フランソワ1世は自分の身柄の解放を何よりも望んで、子息フランソワとアンリ(1519年~1559年:フランス王在位1547年~1559年)を人質として釈放されること、ミラノ、ナポリ、ジェノヴァ、フランドル、アルトワ、Tournai、ブルゴーニュなどの支配権ないしはその要求権をカール5世に委譲すること、カール5世の姉で前ポルトガル王故Manoel Iの後室レオノール・デ・アウストリア(1498年~1558年)と結婚することなどを協定。
カール5世のイタリア人重臣、法務卿Mercurino Arborio di Gattinaraはフランソワ1世が自由の身となった時にこれを遵守するはずがなく、これはフランソワ1世をより恐るべき敵とするだけだとしてこれに署名することを拒否し、カール5世は1526年2月11日自らこれに署名。
この協定の報が伝わるに連れ、自由の身になればフランソワ1世はこの協定を守るはずがないと広く、とりわけイタリア各地で広く信じられる。
1526年3月末~4月初旬
クレメンス7世及びヴェネツィア、それぞれフランソワ1世のもとに使節を送り、マドリード協定は強制的に締結させられたもので無効であると伝えると共に、彼の協定についての真意を確認しながら協同でカール5世に反抗するよう勧奨。フランソワ1世は協定に拘束される意志のないことを伝える。
加えてクレメンス7世、戦争は不可避と見、フィレンツェの防備を固めるべくスペイン人軍事技術者Pedro Navarraをフィレンツェに派遣。
1526年5月22日
コニャック同盟:クレメンス7世、ヴェネツィア、フランソワ1世及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァは、共にカール5世と戦うこと、ミラノ、ジェノヴァ、ナポリなどカール5世の配下の地を攻撃・奪還すること、ミラノはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに、ジェノヴァとナポリはフランソワ1世に与えることなどについて合意し、フランス・アングレームのコニャックで秘密裡に同盟を締結。直ちに同盟軍を起こす。
1526年6月17日
カール5世に与するシエナ政府の転覆を狙うクレメンス7世、小軍(教皇軍・フィレンツェ軍)をシエナ市壁下に送る。
1526年6月25日
カール5世、ルター主義の一掃を目指して第一回Speyer帝国議会を召集、開催。
1526年6月下旬~7月初旬
コニャック同盟軍(クレメンス7世軍、ヴェネツィア軍、フィレンツェ軍)は、カール5世軍の包囲するミラノを目指して進撃を開始。
1526年7月7~8日
コニャック同盟軍は、ミラノに接近するがカール5世軍の強い反撃にあい、攻略を断念してマリニャーノに撤退。この撤退を巡って同盟軍内に、ヴェネツィア軍総指揮官で同盟軍総指揮官の地位を占めていたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレへの不満、不信が強まる。
1526年7月24日
フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カール5世軍の包囲に耐え切れずミラノの城塞を明け渡し、ロディに撤退。ロディでコニャック同盟に自ら正式に署名。
1526年8月20日
クレメンス7世と、ローマにおけるその最後の強敵でカール5世と結んだコロンナ一族との抗争について、クレメンス7世とヴェスパシアーノ・コロンナ及びカール5世のナポリ総督代理ウク・デ・モンカーダ(1476年頃~1528年)との間で、クレメンス7世はコロンナ家領を侵攻しないこと、コロンナ家はその軍をローマ近郊からナポリに撤退させることなどについて協定。
1526年8月27日
コニャック同盟による国際的孤立、オスマン・トルコ軍の脅威、ルター派諸侯のGotha・Torgau同盟への結束によって不利な状況下に置かれたカール5世が方針を転換したのに従い、第一回Speyer帝国議会は当初の開催目的を逆転し、ヴォルムスの勅令の実施延期を決議。これによってカール5世、信仰問題に関する諸侯の自由、ルター主義に対する暗黙の寛容を認め、ルター派諸侯の支持、協力を得る道を開く。
1526年9月17日
オスマン・トルコ軍の脅威的進撃に対処し得ないクレメンス7世への不満、非難が広まる中、カール5世は、クレメンス7世を非難し公会議開催を求める宣言文をグラナダで公表。この中で、クレメンス7世を自分から長年得てきた支持を忘れて自分に敵対しているのみならず、この世における神の代理人の地位にありながら人間の血の犠牲の上に世俗の財物、領地を保持し、キリスト教世界を守るべき任務を放置してキリスト教徒攻撃に力を注ぎ、異教徒によるキリスト教徒攻撃を許しているとルター派さながらにクレメンス7世を弾劾した上で、公会議によるクレメンス7世の審査を求める。
1526年9月21日
やむなくウク・デ・モンカーダと、4ヶ月間の休戦、ロンバルディアにある教皇軍のポー河以南への撤退、コロンナ家の赦免、カール5世軍、コロンナ家軍のローマ及び教会領からナポリへの撤退などを協定。
この後、クレメンス7世、直ちに密かに軍を集め、コロンナ家領及びナポリへの侵攻態勢を整えると共にコロンナ一族を教会に対する反逆者と宣言し、ポンペーオ・コロンナの枢機卿位を剥奪。
他方でクレメンス7世、ロンバルディアの同盟軍に書簡を送り、4ヶ月の休戦期間終了後はこれまで以上にカール5世と戦うと告げる。
1526年9月30日
カール5世とアルフォンソ1世・デステ、カール5世はアルフォンソ1世・デステの駐イタリア軍の総指揮官となること、カール5世はアルフォンソ1世・デステから資金を得て彼にモデナなどを封与し保護することなどを協定。
1526年10月6日
カール5世、枢機卿たちに書簡を送り、クレメンス7世を9月の宣言文同様に非難した上で、クレメンス7世が公会議を召集、開催しないなら代わって枢機卿たちが法的権限に従ってそれを行うよう求める。
1526年11月初旬
カール5世の傭兵隊長でマルティン・ルターに共感を抱くゲオルク・フォン・フルンズベルク(1473年~1528年)、ルター派信徒で教皇に反感を抱く傭兵(Landsknecht)を率いてイタリアに侵攻し、まずロンバルディアを目指す。
1526年11月17日
カール5世、新世界の征服がキリスト教の原則に従って行われてはいないとの主張に動かされて「発見及びインディオの正しい扱い方に関する法令」を制定し、インディオの虐待、奴隷化を禁ずる。
1526年11月下旬
ローマを目指すゲオルク・フォン・フルンズベルク指揮のカール5世軍は、ポー河を渡って進軍すべくBorgoforteに近づくが、コニャック同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレはこの地に陣を敷きながら抗戦を躊躇う。小軍をもって抗戦したフィレンツェ軍指揮官ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレは1526年11月24日負傷し、1526年11月28日死亡。同盟軍内にフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレへの不満、不信、さらに強まる。
1526年11月28日
ゲオルク・フォン・フルンズベルク指揮のカール5世軍は、Borgoforteでポー河を渡る。
この頃すでに同盟軍の劣勢、カール5世軍の進撃の伝わったローマ及びフィレンツェで、市民の不安、動揺、日毎に強まる。
1526年12月上旬
この頃?、クレメンス7世、カール5世に与するアルフォンソ1世・デステを自陣に引き入れるためやむなく、彼をコニャック同盟軍の総指揮官とすること、彼の子息エルコーレ2世・デステにカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)を与えること、彼にモデナを返還することなどの和解条項をフランチェスコ・グイッチャルディーニを介して提示するが受容されずに終わる。
1526年12月
Charles de Lannoy指揮のカール5世軍とパオロ・ヴィテッリ指揮の教皇軍は、コロンナ家領、教会領で激戦を続ける(~1527年)。
1527年1月30/31日
R. di Ceri総指揮・パオロ・ヴィテッリ指揮の教皇軍が、Charles de Lannoy指揮のカール5世軍が包囲するFrosinoneを急襲し、撤退させる。
1527年1月30日~2月上旬
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、ミラノを出発。1527年2月9日?、ピアチェンツァ近郊でゲオルク・フォン・フルンズベルク指揮の軍を併合し、各地で略奪を繰り返しながらボローニャに向かう。
教皇軍の一部は、急ぎボローニャ市街の防衛、確保に向かう。
1527年3月5日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍、モデナ領Buonportoに到着。シャルル・ド・ブルボンはアルフォンソ1世・デステと会見し、食糧や軍用品を得る。
1527年3月7日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、ボローニャ領サン・ジョヴァンニに到着。以後ボローニャ領を劫掠。
1527年3月15/16日
軍資金に窮して自軍の兵士の憤懣、脱走を止められない中でシャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍の南下を見たクレメンス7世、やむなくCharles de Lannoyと8ヶ月間の休戦協定を結び、自軍のナポリ領及びコロンナ家領からの撤退、コロンナ家の赦免、ポンペーオ・コロンナの枢機卿への復位、カール5世軍への資金の提供、カール5世軍の教会領及びフィレンツェ領からの撤退、ヴェネツィア及びフランスによる本協定承認後のカール5世軍のイタリアからの撤退を約定。
これによりクレメンス7世は形式上コニャック同盟から離脱。
1527年4月16日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、フォルリの南MeldolaからAppenniniを越えフィレンツェ領サンタ・ソフィアに到着。直ちに領内の略奪を開始。
1527年4月25~26日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、フィレンツェ南方30キロのサン・ジョヴァンニ至る。
コニャック同盟軍(サルッツォ侯ミケーレ・アントーニオ(?~1528年:在位1504年~1528年)ら指揮のフランソワ1世軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮のヴェネツィア軍、グイド・ランゴーニ指揮の教皇軍)は、フィレンツェ北方10数キロのバルベリーノに結集し、カール5世軍に対するフィレンツェ防衛策を協議。協議後、フィレンツェとカール5世軍の布陣するサン・ジョヴァンニとの中間地点Incisaに向かってフィレンツェ郊外に近づく。
1527年4月30日
この日?、ヘンリー8世とフランソワ1世、娘メアリーとフランソワ1世ないしはフランソワ1世の第二子アンリとの結婚、ヘンリー8世のコニャック同盟及びフランソワ1世が7月に予定している対カール5世戦への加入、カール5世に対するフランソワ1世の子息の釈放要求などをロンドン・ウェストミンスターで協定。
1527年5月5~6日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、Acquapendente、ヴィテルボなどを経てローマ市外に布陣。
1527年5月6日
ローマ劫掠:シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、R. di Ceri指揮のローマ防衛軍を破って市街に突入。シャルル・ド・ブルボン自身は戦死するが、軍は略奪、破壊、放火、殺戮の限りを尽くしながらヴァティカン宮殿をも激しく襲う。クレメンス7世は急ぎ枢機卿13名らと共にサンタンジェロ城塞に逃げ、そのまま捕囚同然の身となる。
1527年5月6日
グイド・ランゴーニ指揮の教皇軍小部隊は、教皇防衛のためローマに到着。しかしカール5世軍の威勢を見て市街に入らずヴィテルボ方面に撤退。
1527年5月15日
イタリアをカール5世の配下に放置したくないフランソワ1世、ヴェネツィアと、共同でスイス人傭兵を雇うこと、自軍をイタリアに派遣すること、ヴェネツィアはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと共に兵を調達することを協定。
1527年
この頃?、フランス・Orangeの君主Philibert de Chalon(1502年~)、ローマ占領カール5世軍の指揮官に任命され、ローマの貴族・市民を強制動員してサンタンジェロ城塞の包囲を強化。
1527年6月6日
ローマ近郊に迫っていた同盟軍は、カール5世軍を攻撃することは危険と見てヴィテルボに撤退。
1527年6月6日
期待していたコニャック同盟軍による救出、解放に見込みはないと判断したクレメンス7世、屈服し、カール5世軍より示された、カール5世に巨額の資金を3回に分割して支払うこと、2回目を支払った時点でガエタまたはナポリで13名の枢機卿と共に釈放されること、サンタンジェロ城初めオスティア、チヴィタヴェッキア、チヴィタ・カステッラーナの各城塞をカール5世軍に明け渡しピアチェンツァ、パルマ、モデナをカール5世に委譲すること、コロンナ家を赦免することなどの条項を受諾。
これによりカール5世軍がサンタンジェロ城に入り、クレメンス7世初め枢機卿らは文字通りの捕囚となる。
1527年8月3~18日
ヘンリー8世の代理トマス・ウルジーと自ら登場してきたフランソワ1世は、フランス・ピカルディのAmiensで、フランソワ1世の2名の子息の釈放、クレメンス7世の釈放、教会領の保全、イタリア諸国の旧状復帰などを条件とする和解をカール5世に要求することを協定。しかしカール5世にこの要求を拒絶され、1527年8月18日に協定を公表すると共に、クレメンス7世の釈放、対カール5世戦争の完遂を改めて約定。
1527年8月中旬
イタリア全土にペスト蔓延。とりわけローマ、フィレンツェ、ナポリなどで大流行。サンタンジェロ城の内部でも死者が続き、教皇ら、嘆願して8月13日?スペイン兵の看視の下で一時ベルヴェデーレ宮に移される。
ローマ占領カール5世軍の兵士たちは、ペストが猖獗を極めるローマを避けてナルニ、テルニ、スポレートなどに疎開し、略奪を続ける。
1527年9月24日
Charles de Lannoyが、ペストによりガエタで死。代わってウク・デ・モンカーダがカール5世によりナポリ総督に任じられると共に全イタリアにおける総督的地位を占める。
1527年10月30日
カール5世の総督ウク・デ・モンカーダは、ローマでクレメンス7世と、クレメンス7世はカール5世に、ナポリ及びミラノ問題に関して敵対しないこと、ナポリ及びカール5世の全領地における十分の一税を与えること、巨額の軍資金を与えること、人質としてイッポーリト・デ・メディチとアレッサンドロ・デ・メディチを渡すことなどと共にクレメンス7世を1527年12月9日に釈放することを協定。
1527年11月15日
アルフォンソ1世・デステ、オデ・ド・フォワ及び枢機卿インノチェンツォ・チーボの勧奨に従い、同盟軍による所領防衛、子エルコーレ2世・デステと故ルイ12世の娘ルネ・ド・フランス(1515年~1575年頃)との結婚など、提示された多くの名誉ある条項を受諾してカール5世陣営を離れ、同盟陣営に加わる。しかし当の条項はエルコーレ2世・デステとルネ・ド・フランスの結婚以外ほとんど守られずに終わる。
1527年12月7日
フェデリーコ2世・ゴンザーガ、オデ・ド・フォワの勧奨に従い、カール5世陣営を離れてコニャック同盟陣営に加わる。
1527年4月1日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍がフィレンツェを目指しているとの報が伝えられる。
1527年4月5日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍が、イーモラの城塞の下を通過し、フィレンツェを目指してAppenniniに接近。
1527年
この頃、クレメンス7世の命にのみ従うシルヴィオ・パッセリーニの統治に不満、反感を強めていたニッコロ・カッポーニら貴族及び市民、特にその青年層が、カール5世軍の侵攻に対処するため市民に武器を貸与し市民軍を復活するよう要求。シルヴィオ・パッセリーニは暴動、反乱の発生を恐れてこの要求を拒否。
1527年5月11日
フィレンツェに、カール5世軍によるローマ劫掠、クレメンス7世捕囚の報、届く。
1527年6月22日
フィレンツェは、ピアニョーニを中心とするフランス支持派がニッコロ・カッポーニを代表とするカール5世支持派を圧したことにより、フランスとの新協定を結び軍の派遣を約定。
1528年1月21日
スペイン・Burgosに滞在するカール5世のもとにそれぞれ特使を送り、フランソワ1世の2人の子息の釈放、返還、フランソワ1世軍のイタリアからの撤退などについて折衝していたフランソワ1世と彼は、解答を引き延ばすカール5世に対して正式に宣戦を布告。
ボローニャまで進撃していたフランソワ1世軍は、ナポリを目指してマルケ経由で南進。
1528年2月17日
フィリベール・ド・シャロン指揮のローマ占領カール5世軍は、荒廃したローマを撤収し、ナポリ方面に向かう。
直後、ナポレオーネ・オルシーニらの率いるオルシーニ家の軍や領民らがローマに入り、カール5世軍の傷病兵などを殺害すると共に市街をさらに略奪、破壊。
1528年3月半ば
この頃、Lucera近くでフィレンツェ軍を配下に加えるなど威勢を増したオデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、トロイアでフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍と対峙。後者は前者の威力を見て戦わずに退却。
1528年3月下旬~4月
オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、分隊を派遣して各地を占領するなど目覚しい進撃を続け、Puglia及びカラブリアの大部分を制圧。ウク・デ・モンカーダ指揮のカール5世軍はナポリ城下まで撤退し、ナポリ防衛を図らざるを得なくなる。
1528年3月~4月
この頃、ロンバルディア全域で、戦闘・略奪・飢餓・ペスト(及びペストに似た熱病)による荒廃、一段と激化。とりわけカール5世軍の総督Antonio de Leyva(1480年頃~1536年)の苛酷な圧政下のミラノは廃都の様相を呈し始める。
1528年
この頃?、カール5世、ナポリ及びミラノを確保すべく援軍を送ることを決意し、Brauschweig-Wolfenbüttel公Heinrich (der Jüngere)(1489年~1568年:在位1514年~1568年)指揮の下にLandsknecht(傭兵軍)を結成。
1528年6月
前年ヘンリー8世から出された妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立確認の訴えについて、カテリーナ・ダラゴーナの甥カール5世の監視下で自由な判定をなし得ないまま逃避的な態度を取り続けてきたクレメンス7世、ヘンリー8世の執拗な要求の前に、イングランドで教皇使節法廷を開いて問題を審議、判定することをやむなく認め、使節として枢機卿ロレンツォ・カンペッジオを任命。
1528年
この頃、ペストの威力なお衰えず、ナポリ攻囲及び守備両陣営の将軍・兵士に死者続出。
1528年7月下旬
この頃?、アンドレア・ドーリア、カール5世から提示された彼の保護下でのジェノヴァの独立、サヴォーナのジェノヴァ帰属などの条件を受け入れて彼の配下に入る。
1528年8月末
すでにそのナポリ包囲態勢が大きく崩れていたMichele Antonio指揮のフランソワ1世軍、市の前から近郊Aversaに撤退。これをフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍が追撃し、Aversaを急襲。フランソワ1世軍、ほとんど壊滅し降伏。フランソワ1世主導によるナポリ奪還戦、完敗に終わる。
1528年9月9日
アンドレア・ドーリア、カール5世の支持の下、ペストの蔓延によってフランソワ1世の総督Teodoro Trivulzioの守備態勢が弱化しているジェノヴァを海上から包囲。
1528年9月12/13日
アンドレア・ドーリア、少数の軍を率いてジェノヴァに入り、反乱を起こした市民と共にTeodoro Trivulzioを破る。ジェノヴァはフランソワ1世の支配を脱しカール5世の保護の下で「自由」を得る。
1528年10月6日
クレメンス7世、ヴィテルボを発ち、略奪、破壊とペストによって甚だしく荒廃し人口も半減したローマに戻る。
以後、クレメンス7世、アルフォンソ1世・デステへの復讐、フェッラーラ、モデナ、レッジョの奪還を策すと共に、フランソワ1世に対してイタリアで圧倒的な優位を占めつつあるカール5世との和解の方途を探り始める。
1528年
クレメンス7世側近との文通によってクレメンス7世とカール5世の接近の動きを知ったニッコロ・カッポーニ、両者の同盟がフィレンツェに極めて大きな危険をもたらすと深く憂慮し、クレメンス7世自身と和解できないまでも彼が同盟しようとしているカール5世とは和解すべしとプラティカなどで力説するが受け入れられず、依然フランソワ1世との同盟策が大勢の支持を得る。ニッコロ・カッポーニ、落胆。
1529年1~2月
快癒したクレメンス7世から接近工作を受け、自分も極めて融和的な書簡を送り、それをクレメンス7世が1529年2月8日枢機卿会議で公開するなど、両者の和解、接近の動き活発化する。
1529年2月21日
自ら招集した第2回シュパイエル帝国議会開会。
1529年4月19日
イタリア戦争で優勢を誇り、ヨーロッパ政局で優位を占めて宗教改革派に強い態度をとれるようになった彼の代理として第2回シュパイエル帝国議会に出席していたフェルディナンド、ローマ教会側諸侯の強硬な態度にも推されて、第1回議会(1526年)の改革派への「暗黙の寛容」決議を撤回しヴォルムスの勅令(1521年)の厳格な実施、Zwingli派や「再」洗礼派の根絶、などを決める。
プロテスタントの呼称誕生:これに対し改革派のザクセン、Hessen、Brandenburg、Brauschweig、Anhaltの諸侯と、ストラスブルク、ニュルンベルク、など南ドイツ14都市、Protestatio(抗議書)を提出。
この書の署名者たちに与えられた名称Protestant(プロテスタント)は、後改革派・新教徒の総称となる。
1529年6月29日
バルセロナ協定:フィレンツェにおけるニッコロ・カッポーニの失脚、反メディチ家感情の高揚に直面してフィレンツェとの和解を断念し、メディチ家の復辟のために彼の力を必要とすると判断したクレメンス7世と、北欧における権益とイタリアにおける優位を確保するためにクレメンス7世の支持、商人を得るのが有利と判断した彼は、バルセロナで、クレメンス7世は彼の軍の教会領通過に当たって安全を保証すること、クレメンス7世はメディチ家をフィレンツェに復辟させること、アレッサンドロ・デ・メディチを庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマと結婚させること、クレメンス7世はCervia、ラヴェンナ、モデナ、レッジョ、Rubieraを教会領として占有すること、彼はクレメンス7世のフェッラーラ獲得に協力することなどを協定。
1529年7月7日
この日頃、叔母でかつての後見人マルグリット・ドートリッシュとフランソワ1世の母ルイーザ・ディ・サヴォイア、それぞれカンブレーに着き、直ちに和平交渉に入る。
1529年8月5日
カンブレーの和(貴婦人の和):マルグリット・ドートリッシュとルイーザ・ディ・サヴォイアは、彼はフランソワ1世から巨額の身代金を得てその2人の子息を釈放すること、フランソワ1世はナポリ、ミラノ、アスティなどイタリア各地への継承請求権及びフランドル、アルトワ、Tournay、Arrasへの継承請求権を放棄すること、彼はブルゴーニュを要求しないこと、フランソワ1世の同盟国ヴェネツィア、フィレンツェ、アルフォンソ1世・デステは4ヶ月以内に彼と和解すればこの和平に加えられること、フランソワ1世は彼の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚することなどを協定。
これにより、イタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。
1529年8月12日
クレメンス7世から正式に神聖ローマ皇帝の冠を受けるべく海路ジェノヴァに着き、初めてイタリアの地を踏む。この地でカンブレーの和の成立の報を得る。
1529年8月24日
クレメンス7世の使節団の強い要求に従って一旦はフィレンツェ使節団の接見を拒否し、アンドレア・ドーリアの要請をいれ、クレメンス7世の使節の一人の同席の下でようやく接見。これまでの誠意と今後の恭順、協調を言上した上、クレメンス7世こそフィレンツェの自由と彼自身にとって最大の敵であると力説し、フィリベール・ド・シャロン指揮のフィレンツェ攻略軍の進撃を止めるよう懇請する使節団に対し、クレメンス7世の名誉を認めぬ限り交渉の余地はないと断言し、仲介するから直ちにクレメンス7世と和解交渉を開始せよと命ずる。
1529年8月30日
ジェノヴァを発ちピアチェンツァに向かう。彼を追ったフィレンツェの使節ラッファエーレ・ジローラミ、ルイジ・アラマンニに対して、クレメンス7世の使節と合意の上、1529年8月24日の第一回会見の主張を繰り返す。
1529年8月末~9月初旬
フィリベール・ド・シャロン指揮の自軍が、ペルージア領内に進撃して各地を次々と占領し、ペルージア市街を孤立させる。
1529年9月11~12日
マラテスタ・バリオーニ、自軍と共に安全に退出することを保障され、フィレンツェとの傭兵契約の継続を許されてペルージアを去る。フィレンツェ軍もペルージアを撤退。
これによりフィリベール・ド・シャロン指揮の自軍の攻撃目標はいよいよフィレンツェ領に絞られる。
1529年9月14~17日
フィレンツェ領内に入った自軍、コルトーナを制圧。
1529年9月18~19日
自軍が、フィレンツェの南方防衛の重要拠点アレッツォを制圧。
1529年9月
フェデリーコ2世・ゴンザーガを自軍の指揮官に任用する。
1529年10月7日
ジェノヴァに着き、イタリアに長く滞在できないことを理由にローマでではなくボローニャでの戴冠を申し込む。クレメンス7世は慣例を破ることに反対する側近を押し切り、やむなくローマを出発。トスカーナを避け、ロマーニャ経由でボローニャに向かう。
1529年10月上旬~中旬
フィレンツェ市街を目指して周辺各地を制圧しながら進撃してきた自軍が、ついに間近から市街を包囲し始める。
1529年10月24日
クレメンス7世、ボローニャに着き、彼を待つ。
1529年10月29日
自軍が、フィレンツェ市内の砲撃を始める。
1529年11月5日
ボローニャ会談:クレメンス7世の待つボローニャに着き、両者、直ちに会談を始める。以後、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟、(2)アルフォンソ1世・デステの支配するフェッラーラ、モデナ、レッジョに対するクレメンス7世の要求権、(3)彼とフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ及びヴェネツィアとの和解などにつき断続的に会見を繰り返す。
この会見の帰趨次第で自己の運命が決まることを察知したイタリア諸国の君侯ないしはその使節たち、続々とボローニャに参集し、自国に有利な取り成しを得るべく画策。
1529年11月9/10日
自軍が、総力を挙げてフィレンツェ市街を夜襲するが予想に反して激しく抵抗され、指揮官フィリベール・ド・シャロンはやむなく撤退を指令。
1529年11月11日
フィリベール・ド・シャロンは、フィレンツェ攻撃への支援強化を求めるため、ボローニャに向かう。
1529年
クレメンス7世と、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟について確認し、ロンバルディアで和平がなればその地の自分の軍をフィレンツェ攻撃に投入することで合意。(2)フェッラーラ、モデナ、レッジョ問題についてはすでに内心でこれをアルフォンソ1世・デステに与えることを決意している彼が巧みにクレメンス7世を説得し、自分の検討に委ねることに決める。
1529年11月29日
フィリベール・ド・シャロンは、フィレンツェ攻略に必要として求めたものの内、資金はクレメンス7世から継続的に与えるとの約束を得、軍はこの時すでにヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと和解することを決意した彼からそれによって不要となるロンバルディア駐在の軍を与えるとの約束を得、ボローニャからフィレンツェ市外の戦線に帰着。
1529年11月末
ボローニャに着いたフェデリーコ2世・ゴンザーガを歓迎する。
1529年12月23日
スペインで予測していたよりもイタリアの、とりわけミラノやフィレンツェの軍事制圧が困難であることを認識し、軍事制圧に必要な巨額の費用、ドイツの宗教改革の波動、弟フェルディナンドの支配するオーストリアへのオスマン・トルコの再攻撃の危険などなどを考慮し、クレメンス7世の勧奨も受けて初めの方針を変更し、ヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと協定。ヴェネツィアはクレメンス7世にラヴェンナ及びチェルヴィアを、彼にナポリ領内のPugliaの占領地をそれぞれ返還すること。彼はフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに巨額の金でミラノを封与すること。
1529年12月23日
永久同盟:クレメンス7世、フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ3世・ディ・サヴォイア、フェデリーコ2世・ゴンザーガと、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステは彼の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。
これらの協定により、イタリアにおける覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。
1529年
1529年末~1530年
フィレンツェを包囲する自軍、ロンバルディアから回された軍を含む援軍の到着によって著しく増強され、比較的弱かったアルノ河以北での攻撃を強める。ピストイア、プラート、Catanzaroなどを次々と占領し、北部からも市街に迫る。
1530年1月中旬/下旬
前年12月、軍最高司令官就任を契約しながら父アルフォンソ1世・デステのカール5世への接近、同盟策によってその契約の実行を阻まれ、ついに着任しないエルコーレ2世・デステに代えて、フィレンツェはマラテスタ・バリオーニを本人の強い意向に従い軍最高司令官に就任させる。
1530年1月下旬
クレメンス7世、ボローニャに派遣されてきたフィレンツェの使節ルイジ・ソデリーニ(1476年~1530年)、Andreuolo Niccoliniに、フィレンツェの反抗、敵対及びフィレンツェ政府、政体そのものへの反発、敵意を激しい言葉で一方的に浴びせる。
カール5世、新たな妥協案を提示するのでなければ会見の必要はないとしてフィレンツェ使節の接見を拒否。
1530年1月下旬~末
フィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍は、全面的にフィレンツェを包囲し、全軍を挙げて市壁下に迫る。フィレンツェ市内と市外の交通、通信はほとんど途絶し、食糧の搬入も不可能となる。
1530年2月初旬~上旬
カール5世軍によるフィレンツェ市内砲撃及びカール5世軍とフィレンツェ軍のフィレンツェ城門外での先頭が、断続的の行われる。
1530年2月8日
プラティカは、平和的交渉で成果を得られる展望はないとしてクレメンス7世との和解を断念。しかしカール5世及びフィリベール・ド・シャロンとの接触は求め続ける。
1530年2月22/23日
カール5世、ボローニャでクレメンス7世よりロンゴバルド王(イタリア王)の冠を受ける。
1530年2月24日
カール5世、30回目の誕生日のこの日、ボローニャでクレメンス7世より神聖ローマ皇帝の冠を受ける。
1530年2月24日
カール5世軍は、ヴォルテッラとその周辺を制圧。
1530年3月2日
クレメンス7世に強く拒絶されてボローニャを訪ねられなかったアルフォンソ1世・デステ、カール5世の仲介により、ようやくクレメンス7世からフェッラーラ~ボローニャ間の通行の安全を保障される。1530年3月7日ボローニャに着く。
1530年3月半ば~下旬
カール5世、自国の自由、領土保全、共和政体の護持の3条件を堅持した上で和解しようとして折衝を求め続けるフィレンツェを、3条件を撤廃しない限り折衝の要なしと却下。フィレンツェはカール5世との折衝をやむなく断念。
1530年3月21日
帰国する前にイタリアにおける争乱の芽を摘み取りたいカール5世、フェッラーラ、モデナ、レッジョの帰属問題につき、近く自身が裁定を下すこと、その時までこれらの地を自身ないし自身の配下の者の管轄下に置くことをクレメンス7世とアルフォンソ1世・デステに同意させる。
1530年3月22日
カール5世、ボローニャを発ち帰国の途につく。
1530年3月25日
マントヴァに着いたカール5世は、マントヴァを公国に、フェデリーコ2世・ゴンザーガをその公に昇格(在位1530年~1540年)。1530年4月8日、大聖堂前の壮麗な式典でカール5世は、これを宣言。
1530年5月29日
カール5世軍、フィレンツェに残る最後の交通路の要所・最後の食糧供給地Empoliを制圧し略奪。カール5世陣営のフィレンツェ攻略への確信、さらに深まり、士気、さらに高まる。
1530年6月15日
カール5世、インスブルックを経てアウグスブルクに着く。
1530年6月21日
アウグスブルク帝国議会:カール5世、宗教改革問題に決着をつけて帝国内の宗教的及び政治的統一を固めるべくアウグスブルクで帝国議会を開催。
1530年6月21日
フィレンツェの十人委員会の委員Iacopo Gherardi、Andrea Tebaldiらが参画しているクレメンス7世毒殺の陰謀を聞き知ったマラテスタ・バリオーニ、カール5世軍陣営に通報。
ペルージアを追われてフィレンツェ軍指揮官に留まった後もフィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世に使者を送って接触を持ち続けると共に、この年4月からはフランソワ1世の宮廷にも使者を送って彼にはその言葉に反してフィレンツェ支援の意図がないことを感得していたマラテスタ・バリオーニは、自身のペルージア復辟の意図を実現するにはカール5世、クレメンス7世側につくのが有利と判断していたが、この陰謀の通報により、フィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世の信頼を得始める。
1530年6月21~29日
カール5世軍、ヴォルテッラ奪回を目指して攻撃するが、Francesco Ferrucci指揮のフィレンツェ軍に撃退される。
1530年6月下旬
クレメンス7世を自陣に引き入れてカール5世に対抗させたいフランソワ1世、子息が釈放されたから約束のフィレンツェ支援をと催促するBaldassarre Carducciに、カール5世の全ヨーロッパ制覇を防ぐために自分とクレメンス7世、ヘンリー8世、フィレンツェの同盟が必要だと説き、これを実現するためフィレンツェはクレメンス7世と和解せよと指示。
1530年7月7日
フランソワ1世、マドリード協定(1526年)及びカンブレーの和により、カール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚。
1530年7月末
この頃ローマで、クレメンス7世の代理、フィリベール・ド・シャロンの使者及びマラテスタ・バリオーニの使者により、マラテスタ・バリオーニのカール5世・クレメンス7世陣営への寝返りの密議が纏まる。
1530年8月3日
Francesco Ferrucci指揮のフィレンツェ軍とフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍、ピストイア近郊の山中Gavinanaで決戦。フィリベール・ド・シャロン戦死し(1502年~)、カール5世軍は一時撤退。しかしすぐ援軍が到着したカール5世軍、逆にフィレンツェ軍を撃破。捕虜となったFrancesco Ferrucciはすぐに虐殺される(1489年~)。
1530年8月6日
マラテスタ・バリオーニ、フィリベール・ド・シャロンの後を継いだフィレンツェ包囲カール5世軍指揮官・(フェデリーコ2世・ゴンザーガの弟)フェッランテ・ゴンザーガに使者を送ってフィレンツェとの和議の条件、フィレンツェの自由の保障、メディチ家の完全復辟を聞き出し、フィレンツェのシニョーリアに伝えると共にその受容、和議を勧奨。シニョーリアはこれを拒絶し、逆にマラテスタ・バリオーニに包囲軍の全面的攻撃を命令。マラテスタ・バリオーニはこれを拒否。
1530年8月9日
有力貴族を含む共和政派、反カール5世集会を開いて市内の警護を開始。これをメディチ派が妨害。
シニョーリアは、全市民に武装解除と商店の開店を指令すると共に全政治犯の釈放令を発してメディチ派の被逮捕者を釈放。さらにカール5世陣営との和議の使節としてロレンツォ・ストロッツィ、ピエルフランチェスコ・ポルティナーリ、バルド・アルトヴィッティ、ヤコポ・モレッリを、クレメンス7世への使節としてバルトロメオ・カヴァルカンティを指名。
1530年8月10日
早朝、フィレンツェの和平使節4名は、フィレンツェの自由の保障、領土の安全の2条件を持ってカール5世陣営に到着。終日交渉続く。
1530年8月11日
朝、フィレンツェの4使節は、和平(降伏)協定案を持って市内に帰る。彼らに同道したカール5世軍陣営における委員バッチオ・ヴァローリ(?~1537年)とフィレンツェのシニョーリアとの交渉は、夜妥結。コンシーリオ・デリ・オッタンタもこれを承認。
1530年8月12日
フィレンツェ共和政の消滅:カール5世の陣営で、フィレンツェの政体は4ヶ月以内にカール5世が決めること、フィレンツェはカール5世軍にその兵を満足させるに足る軍資金を支払うこと、フィレンツェの領土を保全し外国軍隊はそこから撤退すること、マラテスタ・バリオーニとステファノ・コロンナはカール5世に代わって市内を警護すること、これまでのフィレンツェの反メディチ、クレメンス7世の罪は問われず、指導者及び市民は処罰されないことなどを内容とする和平(降伏)協定が調印される。これによりフィレンツェ共和政、実質上、歴史から消える。
1530年9月22日
アウグスブルク帝国議会、ルター派に対して1531年4月15日までにローマ教会に復帰するよう求めることを決議。
1530年10月7~8日
この日頃?、ローマのテヴェレ河氾濫。ほとんど全市外が水没したローマはカール5世軍による劫掠(1525年5月)に匹敵する損害を受け、死者は3千名余に上る。
1530年11月15日
アウグスブルク帝国議会であらゆる宗教改革を禁止し、ヴォルムスの勅令(1521年)の完全実施を命令。
1530年12月1日
カール5世の叔母・ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュ死(1480年~1530年:ネーデルラント総督在位1507年~1515年、1519年~1530年)。
1531年1月3日
カール5世は、妹、前ハンガリー・ボヘミア王妃マリア・フォン・ハプスブルクをネーデルラント総督に任命。
1531年1月5日
フェルディナンド、帝国内外の諸問題、宗教改革、オスマン・トルコの進出、フランソワ1世との角逐に対処するためドイツにおける可能な限り強力な代理人を必要とするカール5世の命を受けたアウグスブルク帝国議会により、金印勅書(Goldene Bulle (Bulla Aurea):1356年)の規定に反してローマ人の王に選出される。1531年1月11日アーヘンで戴冠。
1531年4月25日
クレメンス7世、前年に繰り返して公会議開催を求めてきたカール5世に対し、フランソワ1世の反対の続く限り応じられないと書面で回答。
1531年5月
メディチ家を神聖ローマ皇室のみならずフランス王室の一統にも連ねてアレッサンドロ・デ・メディチによるフィレンツェ支配体制を固めたいクレメンス7世と、カール5世に対抗してミラノ、ジェノヴァを始めイタリア各地を再び制圧したいフランソワ1世の特使、枢機卿Gabriel de Gramont(1480年頃~1534年:在位1530年~1534年)は、ローマでカトリーヌ・メディシスとフランソワ1世の第二子アンリ・ド・ヴァロワとの結婚について秘密裡に合意。
1531年7月5日
カール5世の庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマの婚約者としてカール5世と共にブリュッセルにあったアレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェに帰着。
1531年7月6日
アレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェ・ヴェッキオ宮殿で全官職者を前に、1530年10月28日付のカール5世の勅書——アレッサンドロ・デ・メディチをフィレンツェのCapo(元首)とし、彼に後継男子なき時はその地位をカール5世自身が継ぐものとする、フィレンツェのこれまでの反抗を許し、その自由と特権とを再び認める、フィレンツェの全官職は1527年以前と同様に選出される——を読み上げる。
1532年1月初旬
クレメンス7世、オスマン・トルコ軍の攻撃に備えてアンコーナを初め教会領の各地の港湾を強化すること、カール5世、フェルディナンドのオスマン・トルコ対策に資金援助を行うことを決めると共に、これらを支援するようキリスト教諸国の君侯に呼びかける。
1532年6月21日
クレメンス7世、枢機卿会議において、イッポーリト・デ・メディチを軍及び巨額の軍資金と共にカール5世、フェルディナンド陣営に派遣することを決める。
1532年7月23日
カール5世とフェルディナンドは、スレイマン1世軍に対抗するための軍資金の援助を得るべく、シュマルカルデン同盟諸侯とニュルンベルクで休戦協定を結び、次の公会議が開かれるまでの間、新教徒の信教の自由を保障(ニュルンベルク宗教和議)。
1532年8月28日
この月初めからオーストリア国境に2キロのハンガリーGünsでカール5世、フェルディナンド軍と攻防を続けていたスレイマン1世軍は、ようやくこの町を攻略。しかし予想外の激しい抵抗を受けて夏を徒費したため、天候の悪化を懸念してウィーン攻略を断念し、撤退。
1532年10月4日
スレイマン1世の撤退によってその侵攻の脅威を免れて以来クレメンス7世と再び会見することを求め、同意を得たカール5世、会見地ボローニャに向かってウィーンを出発。
1532年10月20日~10月29日
アン・ブーリン(1507年頃~1536年)やトマス・クロムウェルを伴ったヘンリー8世とフランソワ1世は、ブーローニュとCalaisで会見。カール5世に対する防衛同盟を確認しクレメンス7世をそれに引き入れることで合意すると共にヘンリー8世の婚姻無効問題について協議。
1532年12月8日
クレメンス7世、カール5世との会見のためローマからボローニャに着く。
1532年12月13日
カール5世、マントヴァなどを経てボローニャに着く。
1532年12月15~20日
クレメンス7世とカール5世、ボローニャで断続的に会見。カール5世は、(19ドイツの宗教上の対立を解決する唯一の策としての公会議の即時開催、(2)ジェノヴァ及びミラノをフランソワ1世から防衛するためのイタリア同盟の締結、(3)ミラノ防衛のためのカトリーヌ・ド・メディシスとフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとの結婚を提案。
クレメンス7世は、(1)についてはキリスト教君主、諸侯、都市の事前の了解が必要との口実で回答を引き延ばし、(3)についてはフランソワ1世との合意を盾に回答を渋るなど、会見はカール5世の意を満たさぬ状態を続ける。但しカール5世は、3についてはフランソワ1世がメディチ家などとの婚姻を重視することはあるまいと楽観。
1532年
カール5世は、Villafranca侯ペドロ・デ・トレド(1484年~1553年:ナポリ総督在位1532年~1553年)をナポリ総督に任命。
1533年1月初旬
カール5世の予想に反して第二子アンリ・ド・ヴァロワとカトリーヌ・メディシスとの結婚を急ぐフランソワ1世の2名の全権使節、枢機卿François de Tournon(1489年~1562年:在位1530年~1562年)とG. de Gramont、ボローニャに着き、クレメンス7世と協議。
1533年2月24日
クレメンス7世、カール5世、フェルディナンド、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステ、フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。
1533年2月28日
カール5世、ボローニャを発ち、1533年3月28日ジェノヴァから海路スペインに向かう。
1533年10月11日
カルロ・ディ・サヴォイアがカール5世の圧力を受けてクレメンス7世・フランソワ1世会談の自領ニースでの開催を断ってきたためにその会談の場とされたマルセイユに、この日クレメンス7世、リヴォルノから海路到着し、1533年10月12日14名の枢機卿と60名余の高位聖職者を伴って市外に入る。
1533年11月7日
クレメンス7世、フランソワ1世の強い要請の下、カール5世陣営の枢機卿の反対を押し切ってフランソワ1世の推す4名を枢機卿に任命。
1534年4月
カール5世、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァを自分の姪で前デンマーク王・ノルウェイ王・スウェーデン王Christian II(1481年~1559年:デンマーク王・ノルウェイ王在位1513年~1523年、スウェーデン王在位1520年~1523年)の娘Christina(1518年~1590年)と結婚させる。ミラノ市内で盛大な祝賀行事が行われる。
1534年6月29日
フランチェスコ・グイッチャルディーニ、アレッサンドロ・デ・メディチに、敵対派の動きは激化してもその支配権は揺らぐまいと楽観的予測を伝えると共に、カール5世による支持・保護を力説し公知させることが肝心だと勧告。
1534年10月17日~10月18日
カール5世への対抗上、教皇とシュマルカルデン同盟諸侯の双方に宥和策をとるフランソワ1世に新教徒側内部でも幻想的な期待が生じていたフランスで、ローマ教会のミサを罵倒し、教皇との妥協に傾くルター派を叱咤し、新教の信仰原理を真正面から対置する激越なビラがパリ、ブロワ、ルーアンなど各都市で、深夜、一斉に貼り付け・撒布され、アンボワーズ城のフランソワ1世の寝室の前にまで置かれる。(檄文事件)
パリ高等法院、パリ大学神学部及びフランソワ1世、直ちに異端撲滅に動き出し、異端容疑者を次々に検挙。
1534年10月31日
アルフォンソ1世・デステ死。——その子エルコーレ2世・デステ(1508年~1559年)、フェッラーラ、モデナ、レッジョ公となる(在位1534年~1559年)。
1535年3~5月半ば
亡命者たち(貴族・枢機卿と共和政派)、アレッサンドロ・デ・メディチに代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立することで一致し、使者を次々とバルセロナのカール5世のもとに派遣。アレッサンドロ・デ・メディチは「降伏協定」(1530年)を遵守せず、パルラメントを悪用して「自由」を抑圧し専横を欲しいままにしている。このような「暴政」は支持するに値しないとそれぞれカール5世ないしその側近に訴える。
1534年バルバロッサに奪われたチュニスの攻略問題に専心しているカール5世は、フィレンツェ問題については亡命者たちの訴えを聞きおくに留める一方、アレッサンドロ・デ・メディチに後日ナポリに来て亡命者たちの主張について自分に直接、弁明せよとの指示を送る。
アレッサンドロ・デ・メディチは、亡命貴族(ストロッツィ家、サルヴィアーティ家)やロレンツォ・リドルフィ(1503年~1576年)などを次々に反逆者と宣告しその財産の没収を宣言。
1535年6月16日
アンドレア・ドーリアらを指揮官とする水軍を率いたカール5世は、チュニスを包囲。
1535年7月20日~1535年7月21日
カール5世、チュニスを奪還し城内に入る。
1535年7月26日
パウルス3世、John Fisherの処刑に抗議する書簡をキリスト教各国に送る。さらに1535年7月末、トマス・モアの処刑の報に激怒。
この他、John Fisher及びトマス・モア処刑の報、カール5世をも含む各君侯などヨーロッパ各地・各陣営に大きな反響を呼び起こす。これを鎮めるべくThomas Cromwell、ローマを初め各地に、彼ら両名は王ヘンリー8世の寛容・忍耐にもかかわらず王に反抗した王を打倒しようとしたと処刑を正当化する書簡を送る。
1535年8月10日
亡命者たちがイッポーリト・デ・メディチ自身をチュニスのカール5世のもとに送ってアレッサンドロ・デ・メディチの専横を訴えイッポーリト・デ・メディチ擁立を支持するよう求めることに決めたのに従い、カール5世のもとに旅立とうとしていたイッポーリト・デ・メディチ、この日、ラツィオのフォンディ近在Itriのジューリア・ゴンザーガのもとで死(1511年~)。アレッサンドロ・デ・メディチの指示による毒殺との噂が流れる。
1535年8月17日
チュニスをその太守に封与したカール5世、シチリアに向け出航。
1535年
亡命者たち、ナポリのカール5世のもとに行きアレッサンドロ・デ・メディチの暴政を訴えるが、共和政とその下での自由を標榜する共和制派と、貴族寡頭政とその下での自らの地位・特権の保全を目指す貴族・枢機卿の主張の対立が顕著になる。
彼らをフランソワ1世のもとに走らせたくないカール5世、彼らを留めながらアレッサンドロ・デ・メディチを通しての自身によるフィレンツェ支配を強化する方途を探る。
1535年
故ルドヴィーコ・イル・モーロの庶子、カラヴァッジョ侯、Calliate伯Giampaolo Sforza、スフォルツァ家の嫡流が絶えたことを理由にミラノ公位の継承を望み、それをカール5世に承認させてくれるようパウルス3世に懇願すべくローマに向かうが、途中フィレンツェで急死(1497年~)。
フランソワ1世、ミラノ継承請求権を主張し、息子アンリ・ド・ヴァロワにミラノを与えるよう要求。
1535年11月25日
カール5世、シチリア各地を経てナポリに着く。
この頃?、カール5世、Antonio de Leyvaをミラノ総督に任命し、自身によるミラノ支配を公示。
1536年1月3日
アレッサンドロ・デ・メディチ、騎兵3百と共にフランチェスコ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、Robert Pucciら腹心を従えてナポリに入り、カール5世の歓迎を受ける。
以後アレッサンドロ・デ・メディチ、カール5世とその幕閣に多大の金品を供与して歓心を買いながら、パルラメントの召集・バーリアの設置はフィレンツェの伝統に従っていること、一部貴族の処断はフィレンツェ防衛上当然必要な措置であること、などを彼らに力説し、自分の施政に関する亡命者たちのカール5世への訴えの不当性を強調。
1536年1月7日
婚姻無効宣言を下された(1533年)後も王妃の称号と権利の放棄を認めず軟禁状態に置かれていたカテリーナ・ダラゴーナ、失意の内に病(?)死(1485年~)。
これによりカール5世への対応の自由を得たヘンリー8世の心、この頃すでに現王妃アン・ブーリンを離れ、宮廷の女性Jane Seymour(1509年頃~1537年)に傾く。これをアラゴン家系貴族など反ブーリン家派、裏面から助長。
1536年2月
カール5世とアレッサンドロ・デ・メディチ、カール5世はアレッサンドロ・デ・メディチをフィレンツェのSignore(統治者)として公認し、アレッサンドロ・デ・メディチに自分の庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)を嫁がせ、アレッサンドロ・デ・メディチはカール5世に巨額の軍資金を供与することで合意。
他方カール5世、亡命者たちにフィレンツェへの帰国の安全、没収財産の返還、通常の市民と同等の公職の享受、を保証すると明言するが、亡命者たちはこれに応じずに終わる。
1536年2月
フランソワ1世、ミラノ継承請求権及び領土継承権を主張して軍をサヴォイアに進攻させ、カール5世の側に立つ公カルロ3世・ディ・サヴォイアを追放。さらに軍をピエモンテに進攻させる(第3次カール5世・フランソワ1世戦争(~1538年))。
1536年2月29日
アレッサンドロ・デ・メディチ、カール5世自身の出席も得てマルゲリータ・ディ・パルマとの盛大な結婚式を挙げる。数日後アレッサンドロ・デ・メディチ、ナポリを発って揚々とフィレンツェへの帰途に着く。
1536年4月5日
カール5世、兵7百を率いてナポリからローマに入り、以後パウルス3世と会談を重ねる。
1536年4月17日
カール5世、パウルス3世初め枢機卿及びフランソワ1世の大使を含む君主の駐教皇庁大使たちが居並ぶ前で演説し、フランソワ1世を、長年にわたって違約を続け、好戦的野望を満たそうとしていると激しく非難。
1536年4月18日
1536年4月中旬~下旬
J. Calvin、エルコーレ2世・デステがカール5世の圧力を受けて宗教改革者たちの滞在を拒み始めたため、フェッラーラを去る。
1536年4月29日
カール5世、シエナを経てフィレンツェに入り、市内の全聖職者と市の役人多数の歓迎を受ける。
1536年5月4日
カール5世、フィレンツェを起ち、ピエモンテ方面に向かう。
1536年5月11日
フランソワ1世、自分に対するカール5世の非難演説(1536年4月)への反論をパウルス3世に送る。1536年5月25日、反論は枢機卿及び教皇庁駐在大使たちの前で読み上げられる。
1536年6月2日
カトリック教会内改革に意欲を燃やすパウルス3世、1536年4月8日枢機卿会議で反対派の抵抗を押して開催を決め、1536年4月24日カール5世の残した使節との間でその日時について合意した公会議を、誤認・異端の排除、キリスト教諸国家の和平、などのため1537年5月23日マントヴァで開催するとの勅書を発する。
1536年7月25日
この日頃カール5世、フランソワ1世に反撃すべく大軍を3隊に分け三方からプロヴァンスに入り各地を攻撃させるが、折からの暑さ、フランソワ1世の総督アンヌ・ド・モンモランシー(1493年~1567年)の焦土化作戦による食糧調達の困難化、ペストの発生、などにより進軍に難渋し停滞。
1536年9月5日
フランソワ1世、カール5世との戦闘が続いている現状ではフランスの聖職者をマントヴァに送ることはできないと言明し、パウルス3世のマントヴァ公会議開催の勅令(1536年6月)を拒絶。
1536年9月
マルセイユの包囲にも失敗したカール5世軍、戦果を挙げられないままプロヴァンスからやむなく撤退。カール5世自身は1536年9月16日水軍と共に海路ジェノヴァに向かう。
1536年11月29日
妻マルゲリータ・パレオロガ(?~1566年)の叔父でモンフェッラート侯ジャンジョルジョ・パレオロゴ(?~在位1530年~)が後継者を残さず死亡した(1533年)ため、その領土を1536年11月3日にカール5世の裁定により妻に封与されたばかりのマントヴァ公フェデリーコ2世・ゴンザーガ、同じくカール5世によりモンフェッラート侯位の継承を承認される。
ゴンザーガ家と同様モンフェッラートの継承権を主張して争ってきたサヴォイア公カルロ3世・ディ・サヴォイア、カール5世のこの裁定・承認に強い不満を抱きながら沈黙。
1537年1月7日
早朝、ロレンツィーノ・デ・メディチと従者は、密かに市を離れボローニャに向かう。
夕刻、カール5世の代理人としてアレッサンドロ・デ・メディチの背後で事実上、支配権を握っていた枢機卿インノチェンツォ・チーボらが朝から極秘の内に行方を捜していたアレッサンドロ・デ・メディチが、遺体で発見される。
直ちにインノチェンツォ・チーボはチッタ・ディ・カステッロにあったアレッサンドロ・ヴィテッリ(?~1566年)指揮のスペイン軍主義体に急ぎ市内に戻るよう指示を発すると共に、アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の遺児ジューリオ・デ・メディチ(?~1600年)を後継Ducaとして立て、その摂政として自身が支配者となる策を弄し始める。しかし、カール5世の直接かつ完全な支配化に陥ることを恐れるメディチ派、四十八人評議会主導による政体変革なき事態収拾を図る。
夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャに着き、この地に滞在する亡命者たちに事態を説明した後ヴェネツィアに向かう。
1537年1月8日
午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチをDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グイッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。
インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。
午後、フランチェスコ・グイッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。
夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グイッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリもフランチェスコ・グイッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。
深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。
1537年1月9日
早朝、四十八人評議会召集、開催され、フランチェスコ・グイッチャルディーニらの主導によりコジモ1世・デ・メディチを、Ducaとしてではなく、カール5世によってアレッサンドロ・デ・メディチに承認された(1531年)Capo della Repubblica Fiorentinaの正統後継者として承認。同時にそのConsigliereとしてフランチェスコ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、ロベルト・アッチャイウオリ、Matteo Niccolini、ヤコポ・ジャンフィリアッツィ、Giuliano Capponi、Raffaello de' Mediciの8名を指名。
1537年1月中旬
コジモ1世・デ・メディチ、外交活動を次々に展開し、支配の安定を図る。——パウルス3世には特使Alessandro Strozziを送ってローマ教会への恭順の意を表し、編成したばかりの軍を率いて北上していた3名の枢機卿らには書簡を、その内自身の伯父ジョヴァンニ・サルヴィアーティには特使Alessandro del Cacciaも送って彼らの厚遇を示唆しながら、軍を解いたうえで彼らだけで市内に入って協定を結ぶよう説得し、カール5世には特使ベルナルド・デ・メディチを送って政変と自身の支配の承認、アレッサンドロ・ヴィテッリの占拠しているフォルテッツァ・ダ・バッソの返還、などを懇請。
1537年4月末
この頃までに?、コジモ1世・デ・メディチ、使節を通してカール5世に、その庶出の娘でアレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚を希望する旨申し出、その承認を懇請。
1537年5月初旬
カール5世の全権代理・シフエンテス伯Jun de Silva、政変に関わる事情調査のため市内に入る。以後、コジモ1世・デ・メディチにはマルゲリータ・ディ・パルマとの結婚の可能性を示唆してその意を引きながら、四十八人評議会を召集・開催させ、政変とその後の政体について説明させると共に亡命者たちの政体変更に関する見解も収集。
この過程でコジモ1世・デ・メディチ、内心で強めてきた独裁君主Ducaへの志向をカール5世の支持の下で実現すべく、君主独裁の抑制・フィレンツェの独立を志向するフランチェスコ・グイッチャルディーニら有力貴族を排斥し、単独で、カール5世への領内城塞の譲渡などをJun de Silvaに約束。
1537年6月12日
Jun de Silva、四十八人評議会において、コジモ1世・デ・メディチとマルゲリータ・ディ・パルマとの結婚問題は保留するがコジモ1世・デ・メディチをPrincipato di Firenze(フィレンツェ君主国)のCapo(元首)として承認し、以後の事情変更については全てカール5世の承認を要することとすると宣言。これにより、1532年Principato体制を維持することで政体問題、落着。
1537年6月
3人の枢機卿らフィレンツェの亡命者たちとの友好を表明していたパウルス3世、カール5世に臣従してそのイタリアでの勢力拡大に貢献しつつあるコジモ1世・デ・メディチに反感を抱きながらも、カール5世の威勢とオスマン・トルコによる攻撃の脅威を考慮し、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに対して教会領内での徴兵を厳禁すると共に、彼らとコジモ1世・デ・メディチとの戦争には中立を保つ。
1537年8月3~4日
捕虜の内Ludovico Rucellai(?~)ら7名、衆人の前で斬首ないし絞首される。
フィリッポ・ストロッツィはアレッサンドロ・ヴィテッリの監視下でフォルテッツァ・ダ・バッソに幽閉されてカール5世の配下に入り、コジモ1世・デ・メディチの手を離れる。
1537年8~9月
コジモ1世・デ・メディチ、カール5世のもとに特使Averardo Serristori、Giovanni Campanaを送り、マルゲリータ・ディ・パルマと自身の結婚、フィレンツェ領内の城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分、を懇請。
1537年9月30日
カール5世、パウルス3世を自陣に引き入れるべく、その申し出を受け入れて彼の孫オッタヴィオ・ファルネーゼにマルゲリータ・ディ・パルマを与えることを内心で決めると共に、かねてから彼女との結婚を求めていたコジモ1世・デ・メディチも自陣に確保しておくべく、慰撫策として彼にDuca(公)の称号を認める。(以後コジモ1世・デ・メディチ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチとなる)。
1537年
カール5世の裁定により、1532年Principato体制の継続、最終的に固まる。
このPrincipato体制、コジモ1世・デ・メディチによる専制支配の度を急速に強めた後、1737年1月メディチ家支配の終焉・ロレーヌ家支配下での政体変改まで続く。
1538年2月8日
ヴェネツィアの各地の拠点を次々と攻略し、その領内ケルキラ島をも占領しようとするスレイマン1世軍の威勢を前に、パウルス3世、ヴェネツィア、カール5世及びフェルディナンド、ヴァティカン宮殿で対オスマン・トルコ神聖同盟を結び、同盟軍の結成(陸軍の指揮官ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、水軍の指揮官アンドレア・ドーリア)、戦費の分担(パウルス3世、ヴェネツィア、カール5世が1対2対3の割合)などを約定し、2日後に公示。しかし、同盟軍はこの秋になってようやく結成される。
1538年2月
カール5世、パウルス3世の長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼに、自身とパウルス3世の仲介者となることを期待してノヴァーラを封与。
1538年5月17日
公会議の早期開催とオスマン・トルコの脅威への対策についてキリスト教諸国の和解・同盟を実現すべくニースでのカール5世とフランソワ1世の会見を提案してきたパウルス3世、1538年3月23日ローマを発ち、この日ニース郊外に到着。以後、カール5世と1538年5月19日、1538年5月21日、1538年6月3日、1538年6月9日の4回、フランソワ1世と1538年6月2日、1538年6月13日、1538年6月17日の3回、個別に会談。
しかし、カール5世とフランソワ1世の直接の会談はついに実現できないままに終わる。
1538年6月10日
カール5世、フェルディナンド、ドイツのカトリック諸侯(バイエルン公Wilhelm IV、ザクセン公Georg (der Bärtige)など)及び大司教・枢機卿(マインツ大司教・枢機卿Albrecht II (von Mainz)、ザルツブルク大司教・枢機卿Matthäus Langら、プロテスタント諸侯のシュマルカルデン同盟(1530年)に対抗し同盟を結成(ニュルンベルク同盟)。
1538年6月22日
パウルス3世とカール5世、ニースから同道でジェノヴァに到着。この地に滞在中、両者は、公会議の1539年4月6日までの延期、パウルス3世の孫オッタヴィオ・ファルネーゼとカール5世の庶出の娘、故アレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマの結婚、スペインにおける教会収入5年分のカール5世への付与について正式に合意。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマはオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィはアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年7月14日~7月16日
カール5世とフランソワ1世、フランス南部エーグ=モルトで会見し、オスマン・トルコ、ルター派及びイングランドに共に対決することで合意。ニースの和議に続く両者の協調により、ヨーロッパに平和の気運、強まる。
1538年9月27/28日
ようやく結成されたアンドレア・ドーリア指揮の神聖同盟軍、Barbarossa指揮のオスマン・トルコ軍とギリシア・プレヴェザ沖で遭遇。教皇軍、カール5世及びヴェネツィア軍にポルトガル軍、マルタ軍、フィレンツェ軍を加えて艦船数で後者の2.5倍、兵数で3.5倍の量を誇る前者、後者の砲撃の前にあえなく退却(プレヴェザ沖の海戦)。オスマン・トルコによる地中海制圧、始まる(~1571年)。
1538年
コジモ1世・デ・メディチ、ニースのカール5世のもとに特使としてインノチェンツォ・チーボと自分の秘書Francesco Campana(1491年以降~1546年)を送って恭順の意を表すると共に、1537年から懇請してきた3点(マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚、領内城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分)をまたまた懇請。
1538年12月18日
自分の身柄と処分がすでにカール5世から全面的にコジモ1世・デ・メディチに任せられていることを知って絶望したフィリッポ・ストロッツィ、この日、自ら剣で喉をかき切って死(1489年~)。(但し、1538年8月とする異説、処刑されたとする異説、などあり)。
1539年1月12日
カール5世とフランソワ1世、相互の同意なしに他者と新しい同盟を締結しないことなどをトレドで協定(トレド協定)。
1539年
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレのカメリーノ領有を支援したいコジモ1世・デ・メディチ、その意をカール5世に承認されず、具体的な行動を起こせずに終わる。
1539年4月19日
カール5世とシュマルカルデン同盟、フランクフルトで、(1)プロテスタントは15か月間の休戦とその間の信教の自由を保証され、代わりに同盟に新メンバーを加えないこと、(2)ニュルンベルク同盟(1538年6月)は有効であること、(3)信仰問題はニュルンベルクで神学者と宗教心の厚い平信徒からなる委員会において検討すること、などを協定(フランクフルト休戦協定)。但し、ローマ教会は(3)を、信仰問題は教皇と公会議によって決定されるとして承認せず。
1539年5月21日
パウルス3世、1539年5月1日にヴィチェンツァで開催予定であった公会議を、当日に司教が参集しなかった上、公会議開催に最も熱心なカール5世からプロテスタントとの交渉が進展しない現状では公会議に代表を派遣できないと伝えられ、この協力を期待できなくなったため、無期延期することを枢機卿会議で決める。
1539年6月29日
コジモ1世・デ・メディチ、カール5世のナポリ総督ペドロ・デ・トレドの娘エレオノーラ・ディ・トレド(1522年~1562年)と結婚。
1539年12月
この月?、ヴェネツィアとオスマン・トルコとの和平を知ったカール5世とフランソワ1世、それぞれ特使をヴェネツィアに送って和平破棄を勧奨。ヴェネツィアはこれを丁重に無視し、さらに和平を求める方針を固める。
1540年1月1日
ネーデルラントのゲントで生じた暴動を鎮圧すべくその地に向かっていたカール5世、旅程を早めるためフランス領内を通行するようにとのフランソワ1世の申し出に応じてこの日パリに入り、フランソワ1世自身の盛大な歓迎を受ける。
1540年1月6日
ヘンリー8世、和解した(1538年6月)フランソワ1世とカール5世が共に自領イングランドに侵攻態勢をとることを恐れ、これに抗するべくThomas Cromwellの戦略に従ってやむを得ず、西方ドイツ・プロテスタントのリーダーでカール5世の南北支配領(イタリア、南ドイツ、ネーデルラント)を結ぶ通行路を跨ぐ北西ドイツに強力な領邦を築きつつあったクレーフェ公・ゲルデルン(ヘルダーラント)公Wilhelm V (von Kleve)(1516年~1592年:クレーフェ公在位1539年~1544年・ゲルデルン公在位1538年~1543年)との同盟を求め、その姉Anna von Kleve(1515年~1557年)と、1539年10月4日の婚約に従い、この日、結婚。
しかしAnnaをHans Holbein der (Jüngere)の絵でしか見ていなかったヘンリー8世、その容姿に著しく落胆・反発。
1540年4月17日
Thomas Cromwell、ヘンリー8世によりエセックス伯に列せられる。
しかしすでにこの時、フランソワ1世とカール5世の関係の冷却化及びカール5世とプロテスタント(シュマルカルデン同盟)の休戦・対話が明確化すると共に、ヘンリー8世とドイツ・プロテスタントとの同盟の不要無益性・ヘンリー8世とAnna von Kleveとの結婚の不要無益性も明確化し、後者を推し進めたThomas Cromwellに対するヘンリー8世と保守派貴族・政治家の反発、急速に強まり顕在化する。
1540年4月18日
オスマン・トルコの脅威の増大、対フランソワ1世関係の緊迫化、プロテスタント勢力の強大化、などの事態を前にカール5世、公会議よりも自領内部での宗教討議によって信仰上の対立を収拾・調停し、それによってプロテスタント(シュマルカルデン同盟)とフランソワ1世の結合を阻止し、対オスマン・トルコ態勢にプロテスタントの支援を獲得すべく、1540年シュパイエルで、まず1540年5月23日カトリック諸侯会議を開催して意思統一を図り、続いて1540年6月6日カトリック・プロテスタント両派の宗教討議を開催することを、この日、決意。
1540年6月1日
パウルス3世と決定的に対立することを避けたいカール5世の制約の下、領国境界まで軍を進めながら対教皇軍戦の支援に踏み切れないメディチ家を初めコロンナ家や諸都市からも期待した支援を得られずに孤立し、資金と食糧の欠乏したペルージアの代表リドルフォ・バリオーニは、教皇軍のジローラモ・オルシーニに、市民の安全及び移転の自由などを条件として市の明け渡しを認める。
1540年7月28日
アグノーにおけるドイツのカトリック・プロテスタント両派宗教討議、教会の本質的性格などについて両派の調停ならず、1540年10月ヴォルムスで再開することをカール5世の同意の下で決めた上、散会。
1540年10/11月
カール5世、この領有をめぐって長年、紛争が続いてきたミラノを子フェリペ2世(1527年~1598年:在位1556年~1598年)に封与。長年イタリアの覇権をめぐって争奪の的となってきたミラノのこの封与により、ニースの和(1538年)の破綻、明白化する。
1540年11月25日
ドイツのカトリック・プロテスタント両派宗教討議、ヴォルムスで、カトリック側からJ. Eck、Giovanni Morone(1509年~1580年:枢機卿1542年~1580年)、パウルス3世の特使Tommaso Campeggio(1481年~1564年)ら、プロテスタント側からJ. Calvin、M. Bucerらが出席し、カール5世の大法官・全権特使Nicolas Perrenot de Granvelle(Granvela:1486年頃~1550年:大法官在位1530年~?)を議長として開会。しかし実質討議は翌1541年1月まで遅滞。
1541年1月14日~1541年1月17日
ヴォルムスにおけるドイツのカトリック・プロテスタント両派宗教討議、実質討議を行うが、原罪論において見解、対立。1541年1月18日、議長Nicolas Perrenot de Granvelle、1541年4月のレーゲンスブルク帝国議会に場を移して討議せよとのカール5世の命を告示。
1541年2月25日
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)コロンナ家の統領Ascanio Colonna(1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。
しかしAscanio Colonna、これを拒否しコジモ1世・デ・メディチに支援を求める。これに対しパウルス3世、直ちにピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍をローマに結集。
以後、ペドロ・デ・トレドがカール5世の特使としてローマに入って両者の仲介を、ヴィットーリア・コロンナもローマに帰り両者の交渉の進展を、それぞれ試みるが実らず。
1541年5月26日
コロンナ家、ペドロ・デ・トレドにも支援を求めたものの、パウルス3世をフランソワ1世側に追いやることは避けたいカール5世側の思惑からここでも聞き入れられず、この日、最後の拠点パリアーノの城塞も制圧され、全面的に敗北。
統領Ascanio Colonnaを初め一族はナポリに亡命し、所領は全てパウルス3世に没収される。
1541年7月2/3日
フランソワ1世のスレイマン1世への使節Antonio Rincone(?~)とCesare Fregoso(1502年?~)、ミラノ領パヴィア近郊ティチーノのポー河口で何者かに暗殺される。
フランソワ1世、この暗殺はカール5世とそのミラノ総督・ペスカーラ侯・ヴァスト侯アルフォンソ3世・ダヴァーロス(1502年~:総督在位1538年~:侯在位1525年~)の指示によるものだと激怒し、これによってカール5世との和(1538年6月7日)は破られたと主張。
1541年9月13日~9月18日
パウルス3世とカール5世、ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。
フランソワ1世、ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。
フェッラーラ公エルコーレ2世・デステ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチなど、ルッカに入りカール5世に表敬。
1541年10月下旬
カール5世、ルッカ会見におけるパウルス3世の忠言やアンドレア・ドーリアなど自軍首脳揃っての諌止を聞き入れず、アンドレア・ドーリア指揮の大艦隊を率いてBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェを攻撃。しかし、突然襲来した激しいハリケーンとそれに乗じての現地Barbaria人軍団の反撃にあって壊滅的打撃を受け、カール5世自身も危機に陥る。以後、オスマン・トルコ水軍、フランソワ1世水軍との提携の下、北アフリカのスペイン拠点を次々と攻略。
1541年11月下旬
荒海に翻弄されていたカール5世艦隊の生存部隊、ようやくスペインに向かい始める。
1541年12月1日
辛うじて危機を脱したカール5世、ようやくスペイン南東部カルタヘナに上陸。
1542年7月10/12日
カール5世による子フェリペ2世へのミラノ封与(1540年)及び自身の2名の使節のミラノ領における暗殺(1541年)などからカール5世に不満を強め、オスマン・トルコと提携を図るなど戦争態勢を整えてきたフランソワ1世、この日、カール5世に対して宣戦を布告し、ピエモンテで攻勢に出る(第4次カール5世・フランソワ1世戦争(~1544年)。
1542年夏~秋
カール5世のミラノ総督アルフォンソ3世・ダヴァーロス、ピエモンテに出撃し、全戦線にわたってフランソワ1世軍を撃退。
1542年11月1日
この日トレントで開催予定の公会議、パウルス3世は特使・枢機卿Reginald Pole、Giovanni Morone、Pietro Paolo Parisio(1473年~1545年:在位1539年~1545年)を派遣したものの、フランソワ1世は司教を派遣せず、カール5世も大法官Nicolas Perrenot de Granvelleを派遣しながら司教をしないなど、参集者が少なく、開催できず。
1542年11月20日
カール5世、Encomienda制の漸次的撤廃、インディオの奴隷化の禁止、その自由と生命の保護、などを定めた40か条からなるLeyes Nuevas(新法)を裁可し、発布させる。
以後、間もなくIndiasの植民者の間にこの法の撤廃を求める運動・反乱など激しい抵抗、続出。
1543年2月11日
カール5世とヘンリー8世、カール5世は自身の対戦相手である、ヘンリー8世は自身が併合を目指すスコットランドの背後にあるフランソワ1世に共に対抗する秘密同盟を締結。
この同盟についてカール5世、パウルス3世に使者を送り、対フランソワ1世戦ないしは対フランソワ1世同盟国(オスマン・トルコ)戦のためのものであり、イングランド教会を支持してローマ教会・パウルス3世に対抗するものではないどころか、ヘンリー8世を正道に引き戻すためのものであると弁明。
1543年5月
カール5世、フェリペ2世を自分がスペインに不在の時の摂政に任命。
1543年6月12日
対フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロス、ピエル・ルイジ・ファルネーゼ、フランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアでコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。
1543年6月22/23~24/25日
パウルス3世とカール5世、パウルス3世の申し込みによりパルマ近郊ブッセートで会見し、(1)ミラノ領有問題、(2)トレント公会議開催問題、などについて討議。しかし(1)についてはパウルス3世は自家ファルネーゼ家の威勢拡大を企図しながら自身の孫・カール5世の娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへの封与を提案し、カール5世は自身の子フェリペ2世による領有の現状維持を目論み、カール5世(2)についてパウルス3世はカール5世・フランソワ1世戦の終結までの延期を図り、カール5世は自身とフランソワ1世の間で中立を装うパウルス3世に不満を抱きながら自派の枢機卿の増員・トレントでの早期開催を主張するなど、懸案のいずれについても合意できずに終わる。
1543年7月6日
パウルス3世、カール5世・フランソワ1世戦争及びオスマン・トルコによるキリスト教諸国侵攻という状況に鑑み、公会議の開催を適切な時期まで延期することを枢機卿会議で決め、直ちに勅書を発して公表。
1543年8月10日~1543年8月22日
フランソワ1世水軍とBarbarossa指揮の艦隊、ニースを攻撃。激しい抵抗を受けながらも市街を占領し略奪・破壊・砲火を行うが、領主カルロ3世・ディ・サヴォイアの要請によりアルフォンソ3世・ダヴァーロス指揮のカール5世軍進撃との報に、城塞は攻略できないまま撤退。
1544年4月13日~1544年4月14日
フランソワ1世のピエモンテ総督・アンギャン公François de Bourbon(1519年~1546年:総督在位1543年~1546年)指揮の軍、チェレゾーレでカール5世軍を指揮官アルフォンソ3世・ダヴァーロスに負傷を負わせるなど撃破し、ピエモンテの戦況を逆転させるが、自身も少なからぬ損害を被る。
1544年7月初旬
カール5世軍はネーデルラントからシャンパーニュに、呼応してヘンリー8世軍はピカデリーにそれぞれ進攻。
1544年8月17日
カール5世軍、40日にわたる包囲の後、シャンパーニュのサン=ディジエを占領。
1544年
ピエモンテにおけるカール5世軍敗北の報を得たコジモ1世・デ・メディチ、援軍として歩兵4千をリヴォルノから海路ジェノヴァに送り、ミラノに向かわせる。
1544年9月
カール5世軍、シャトー=ティエリを占領し、パリに接近を図るが、糧食の補充が思うに任せず、以後の進撃に難渋。
1544年9月14日
ヘンリー8世軍、ブーローニュを占領しパリに迫る。しかし、糧食不足に悩むカール5世軍を支援せず。
1544年9月18日
クレピーの和:カール5世・ヘンリー8世両軍によるパリ攻撃・占領の危険を感ずるフランソワ1世と、前進・撤退いずれの策も自軍の大損害を招くと見たカール5世、クレピーで和約し、(1)フランソワ1世の第三子Orléans公Charles(d'Orléans:1522年~:在位1536年~)はカール5世の娘マリア・デ・アブスブルゴ(1528年~1603年)と結婚し婚資としてネーデルラントを得るか、フェルディナンドの娘Anna(von Österreich:1528年~1590年)と結婚し婚資としてミラノを得る、(2)フランソワ1世はミラノ、ナポリ及びフランドル、アルトワへの継承請求権を放棄する、(3)カール5世はピエモンテ、サヴォイアを、フランソワ1世はブーローニュをそれぞれ返還する、(4)両者は共にオスマン・トルコに対抗する、(5)宗教の再統合のために公会議の開催を促進し、カール5世はドイツ・プロテスタントといかなる同盟も結ばない、ことを約定(第4次カール5世・フランソワ1世戦争終結(1542年~))。
ヘンリー8世、この和約を受容しながらも、約定の前に占領したことを理由にブーローニュ占領を解かず、フランソワ1世軍に対する戦闘を続行。
しかしこの和により、カール5世は西ヨーロッパで圧倒的な優位を、とりわけイタリアで決定的優位を占め、領内ドイツでのプロテスタントとの対決に専心可能となり、フランソワ1世はドイツ・プロテスタント諸侯との同盟の必要性から解放されたことに伴い、パウルス3世はこの両者から協力を得られることになってトレント公会議開催の主たる障害から解放される。
1544年11月末/12月
ルッカにおける貴族寡頭支配の打倒、シエナやピサの共和主義者の協力を得てのメディチ家・ハプスブルク家専制支配の打倒、トスカーナにおける共和政諸都市の自由連合と信教の自由、を希求していた(1543年頃?~)ルッカの貴族・政治家Francesco Burlamacchi(1498年~)、メディチ家の宿敵ストロッツィ家との提携を図り、フランソワ1世の下で対カール5世戦に従軍していたピエロ・ストロッツィ(1510年頃~)・Leone Strozzi(1515年~)兄弟(故フィリッポ・ストロッツィの子)のもと(マルセイユ及びパリ)に使者・靴職人Bastiano Carletti(1400年代末~?)を派遣。Leone Strozziから計画への賛同・協力及び早期決起のための武器収集などの約束を得る。
しかし、フランソワ1世軍の対ヘンリー8世軍戦闘のため、決起は17か月後とされる。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピをオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマとオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1545年9月9日
フランソワ1世の第三子Orléans公Charles d'Orléans死。これによりクレピーの和(1544年9月)における、婚資としてCharles d'Orléansにミラノないしネーデルラントを授与するという約定が敗れ、ミラノを引き続き支配することになったカール5世のイタリアでの優位、さらに決定的となる。
1545年10月
カール5世、反乱を含むIndias植民者の激しい抵抗が続くため、新法(1542年11月)の中核をなすEncomienda制廃止条項を撤廃。
1545年11月10日
この日?、プロテスタントとの戦いに専心したいカール5世及びドイツ諸侯から支援を得られなくなったフェルディナンド、スレイマン1世と18か月間の休戦を協定。
1545年
ペルーのポトシ銀鉱(現ボリビア領)、スペイン人により発見される。以後、新大陸最大の埋蔵量を誇るこの銀鉱の開発により、スペインへの銀の流入が驚異的に増大し、植民帝国の支柱となる。
1546年1月22日
トレント公会議、主要審議課題は教義の確定だとするパウルス3世側と、教会改革だとするカール5世側とが鋭く対立する中、この日、両課題を同時並行的に審議していくことを決める。
1546年3月31日
アルフォンソ3世・ダヴァーロス死。代わってカール5世のシチリア総督・グアスタッラ伯フェッランテ・ゴンザーガ(シチリア総督在位1536年~:グアスタッラ伯1539年~)、ミラノ総督となる(在位~1554年2月)。
1546年5月
すでに対シュマルカルデン同盟戦争を企図していたカール5世、軍の移動を始める一方、パウルス3世に同盟に対抗するための特別協定の素案を提示。
1546年6月5日
この日開会のレーゲンスブルク帝国議会の審議の中でシュマルカルデン同盟のドイツ・プロテスタント、トレント公会議に反対
1546年6月7日
カール5世、パウルス3世の使節に、(1)自分がこの月内にもシュマルカルデン同盟に対して戦端を開き、以後パウルス3世の明確な同意なしにはプロテスタントとこの戦争の原因や目的に関して、とりわけ教会の教義や規定に触れる事柄についていかなる譲歩・合意もしない、(2)自分にパウルス3世は軍資金と大軍を送る、(3)両者はいずれか一方にとって障害となる者に共に対抗する、などを骨子とする対シュマルカルデン同盟特別協定案を、前日付で自分が署名した上で手渡す。
1546年6月19日
カール5世、ザクセン選帝侯位・領を与えるとの条件を提示してレーゲンスブルクでザクセン公Moritzと協定を結び、公を自陣に引き入れることに成功。
1546年6月26日
パウルス3世、4日前に枢機卿会議で承認を得たカール5世署名の対シュマルカルデン同盟特別協定に署名。これにより、パウルス3世・カール5世の対プロテスタント連合、成立。
1546年7月20日
カール5世、シュマルカルデン同盟の指導者Johann Friedrich I (der Großmütige)とPhilipp I (der Großmütige)に対し、ブラウンシュヴァイク=ウルフェンビュッテル公Heinrich (der Jüngere)の追放・領地侵犯(1542年)と捕囚(1545年)を理由に帝国法の保護停止の処分を下し、シュマルカルデン同盟に対し戦闘態勢をとる(シュマルカルデン戦争:~1547年)。
1546年7月20日~1546年8月初頭
カール5世軍の動向を睨みながら諸侯の軍をドナウヴェルトで合流させ、カール5世軍を凌ぐ戦闘態勢をとったシュマルカルデン同盟軍、全戦線で優位に立つ。
1546年8月7日
カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。
1546年8月26日~1546年9月4日
カール5世軍とシュマルカルデン同盟軍、バイエルン領境付近で交戦。同盟軍、ほとんど攻勢に出ることなく撤退。
1546年8月28日~1546年9月3日
Francesco Burlamacchiの処遇についてルッカのシニョーリア、カール5世の判断を待ちながらも、コジモ1世・デ・メディチからの裁判権の要求は拒否して自らのRuota della Giustizia(司法・治安委員会)で拷問を加えながら彼を厳しく取り調べる。
1546年9月13日
カール5世、ミラノ総督フェッランテ・ゴンザーガの指名する委員にFrancesco Burlamacchiの審問権を与えると決定。
これによりFrancesco Burlamacchi、ミラノに護送され、1546年10月13日よりNiccolò Belloniの審問を受ける。
1546年9月15日
カール5世軍、ネーデルラントに駐屯していたビューレン伯Maximilian指揮の軍と合流し、さらに増強される。ドイツ・イタリア・ハンガリー・ネーデルラントに分散していたカール5世軍の結合を阻止しながらドイツ駐屯軍のみと戦うとのシュマルカルデン同盟側の戦略、完全に崩壊。以後、同盟軍、明らかに劣勢に陥る。
1546年10月末
ザクセン公Moritz、カール5世からザクセン選帝侯位・領を与えるとの正式の約束を得、選帝侯Johann Friedrich I (der Großmütige)に宣戦。
1546年11月23日
軍資金不足に悩んできたシュマルカルデン同盟軍、ついに分散、退却。Johann Friedrich I (der Großmütige)及びPhilipp I (der Großmütige)ら、それぞれ領国に向かう。カール5世軍、主要地点をさらに次々と制圧。
1546年末
ジェノヴァやシエナのみならずパルマ・ピアチェンツァをも直接、支配下に収めようと企図し、後者の公ピエル・ルイジ・ファルネーゼの失脚を狙いながらもそのためにはパウルス3世の死を待つ他はないと考えるカール5世に、フェッランテ・ゴンザーガ、公の強力・苛烈な統治で伝来の封建的特権を制約され不満を強めている貴族を利用するよう提案。
1547年1月2日~1月3日
ジェノヴァの貴族Gian Luigi Fieschi (il Giovane)(1522年~)とその兄弟Gerolamo Fieschi、Ottobono Fieschi(?~1555年)、カール5世を背景にジェノヴァを事実上専制的に支配するアンドレア・ドーリア一族の放逐とフランソワ1世の庇護下でのBarnaba Adorno(?~1558年)による統治を目指し、市内の親フランス派貴族と結んで、武装蜂起。
市の城門を閉め、港に停泊中のアンドレア・ドーリア艦船を捕獲し、彼の後継者Giannettino Doriaを殺害するなど目的完遂かと思われたが、アンドレア・ドーリア自身には逃げられた上、Gian Luigi Fieschi (il Giovane)が艦船を乗り移る最中に海に落ちて溺死し、それと共に仲間が逃亡し、蜂起は失敗に終わる。
市内に戻ったアンドレア・ドーリア、Gerolamo Fieschi(?~)らを処刑するなど、蜂起勢力を厳しく処罰。
カール5世、ジェノヴァの蜂起にはピエル・ルイジ・ファルネーゼとパウルス3世が関与しているとしてパウルス3世の使節に抗議するが、否定され斥けられる。
1547年1月22日
パウルス3世、カール5世はMoritzとの協定(1546年6月)などにより対シュマルカルデン同盟特別協定(1546年6月)の(1)に違反しているとして、自身がカール5世に派遣した(1546年8月)援軍を引き上げる勅書を発する。
1547年3月11日
パウルス3世の特使ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテらトレント公会議の多数派、パウルス3世の意を付度し、シュマルカルデン戦争における勝利を確定的にしたカール5世の圧力を回避すべく、発疹チフスの流行で会議参加者にも罹患・死亡が相次いでいることを理由に会議のボローニャ移転を決議。少数反対派はトレントに残留することを決め、これを支持するカール5世は以後、威嚇してボローニャ会議での決議宣言を阻止し続ける。
1547年4月24日
主要地点を次々と攻略してきたカール5世軍、Moritz軍と合流してさらに強大化し、エルベ川から靄の立ち込めるMühlbergでJohann Friedrich I (der Großmütige)軍に圧勝。Johann Friedrich I (der Großmütige)自身を捕虜とする。
1547年5月16日
カール5世の意に従いそのナポリ総督ペドロ・デ・トレドが、スペインに設置されてきた(1480年~)のと同様の異端審問所を設置しようと試みたのに対し、ナポリの民衆、若干の貴族と共に抵抗し、武装反乱。同時にサレルノの君主Ferrante Sanseverino(1507年~1568年)らをのもとに送って異端審問所設置反対を直訴。しかしいれられず、ペドロ・デ・トレドへの服従を命じられる。
1547年5月19日
カール5世、ヴィッテンベルクでJohann Friedrich I (der Großmütige)にザクセン選帝侯位と領地の大部分の放棄を約定させる。
直ちにカール5世、この侯位と領地の一部をMoritzに封与することを、1546年6月の約定通り承認。
1547年6月19/20日
Philipp I (der Großmütige)軍、カール5世軍に降伏。Philipp I (der Großmütige)自身は捕らえられ、慈悲を乞うたものの間もなくカール5世によりネーデルラントに移送され、投獄・拘留される(~1552年)。これによりシュマルカルデン同盟は事実上、瓦解し(1530年~)、カール5世の完勝に内にシュマルカルデン戦争、終結(1546年~)。
1547年7月21日
カール5世のミラノ総督フェッランテ・ゴンザーガの派遣した軍及び同ローマ駐在大使Diego Hurtado de Mendoza(1503年~1575年:在位1547年~)の派遣した軍、ナポリに入り、Santa Maria Novara教会などを占拠。これに対し反乱派市民・貴族、果敢に抵抗するが、カール5世の服従命令を伝えられて威勢を失い、鎮静。
1547年8月12日
ペドロ・デ・トレド、スペイン式異端審問所の設置を断念し、一部首謀者以外の叛徒の罪は問わないと宣言。しかしカール5世のもとから戻ったサレルノの君主Ferrante Sanseverinoは追放される。
1547年9月10日
フェッランテ・ゴンザーガ、カール5世の承認の下、ピエル・ルイジ・ファルネーゼに不満を強めているピアチェンツァの貴族と結び、この日、彼らにピエル・ルイジ・ファルネーゼを刺殺させる(1503年~:パルマ・ピアチェンツァ公1545年~)。
1547年9月12日
フェッランテ・ゴンザーガ、軍と共にピアチェンツァに入り、カール5世の名をもって占領。ピエル・ルイジ・ファルネーゼを倒した貴族たちにピアチェンツァはファルネーゼ家にもパウルス3世にも渡さぬと宣言。さらにパルマをも狙う。
1547年9月16日
子ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼをパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世、カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。
1547年10月20日
この頃までにシエナ、軍による威嚇を背景とするコジモ1世・デ・メディチの強制に従い、追放した(1546年)カール5世軍守備隊の再駐屯を認める。カール5世はこの日、ローマ駐在大使Diego Hurtado de Mendozaを総督としてシエナに派遣。
1548年1月16日
カール5世、多数派によるボローニャでの公会議の有効性について正式に抗議。
1548年2月3日
多数派によるボローニャでの公会議、この日から休会。
1548年2月24日
カール5世、アウグスブルク帝国議会でMoritzにザクセン選帝侯位及び領地の一部を正式に封与。
1548年6月22日~7月24日
カール5世、コジモ1世・デ・メディチから巨額の資金を得て彼にピオンビーノを委譲し、後見下に置いていたヤコポ4世・ダッピアーノ(1539年~1585年:在位1545年~1562年)をジェノヴァに隠遁させる。しかし自身の重臣たちの強い反対を受け、間もなくエルバ島を除くピオンビーノ領を取り上げる。コジモ1世・デ・メディチは同島の主要都市ポルトフェッラーイオを要塞化。
1548年6月30日
シュマルカルデン戦争にようやく勝利を収めたカール5世、自らの権力を弱体化させる帝国内の宗教闘争及びローマ教会の権限の乱用を終結させ除去すべく新・旧両教派の妥協・和解を目指し、トレント公会議の決定が出されるまで両派の妥協によって暫定的にドイツにおける信仰問題を解決するものとして、カトリック神学者Michael Helding(1506年~1561年)、Julius von Pflug(1499年~1564年)、プロテスタント神学者J. Agricolaに起草させた「仮信条協定」を、この日、アウグスブルク帝国議会(1547年~)で帝国法として議決させる(Augsburger Interim(アウグスブルク仮信条協定))。
この過程でカール5世、暫定的とはいえ世俗の権力が無謬の教会に代わって宗教問題を確定することはできないとするカトリック諸身分の抵抗は、この協定をカトリック教徒に関わるものとせずカトリックからの離反者を再度カトリックに引き戻すためのものとする、と大幅に譲歩して凌いだもの、協定成立後もローマ教会・パウルス3世から同主旨の強い反発を受け、M. Bucerらプロテスタントからも信仰義認論など自分たちの本質的な教義を認めていないと厳しい反発を受ける。
1548年7月
この頃?、1547年来カール5世と信仰上も政治上も反発・対立を強めてきたパウルス3世、ピエモンテにあるアンリ2世に反カール5世協定の締結を密かに働きかける。しかしアンリ2世、この協定を望みながらも高齢のパウルス3世の死とそれによる同盟の瓦解の可能性を危惧し、イタリア諸都市の同盟参加を条件として提示するなどしながら状況の推移を見守る。
1548年8月23日
パウルス3世とカール5世の妥協を防止すべくアンリ2世がパウルス3世のもとに送った使節Claude de L'Aubespine(1500年頃~1567年)、ローマに入る。
1548年9月
帝国の相続問題を懸念するカール5世、長女マリア・デ・アブスブルゴと弟フェルディナンドの長子マクシミリアン2世(1527年~1576年:ハンガリー王Maximilian I在位1563年~1576年:神聖ローマ皇帝在位1564年~1576年)の結婚式を、自身も列席してマドリードで盛大に挙げさせる。
1548年11月4日
カール5世のシエナ総督Diego Hurtado de Mendoza、カール5世軍守備隊を導入してシエナの政体を変更し、絶対的支配の端を開く。
1548年11月22日
帝国内のみならず支配圏全域に長子を自らの後継者として認知させようと目論む父カール5世の指示に従いスペインを発ったフェリペ2世、アンドレア・ドーリアの艦隊でこの日ジェノヴァに着き、アンドレア・ドーリアの館に入る。イタリアの各諸侯、自ら、あるいは特使を送ってフェリペ2世に貢納。フェリペ2世は後パヴィアを経てミラノに向かう。
1549年4月1日
フェリペ2世、マントヴァ、トレント、及びドイツ各地を経てネーデルラントに入り、この日カール5世に迎えられてブリュッセルに着く。以後、ネーデルラント各地を巡行。
1549年6月12日
ピアチェンツァの返還を求めてきた(1547年~)パウルス3世へのカール5世の回答、届く。この中でカール5世、教会・教皇にはパルマ・ピアチェンツァを占有するいかなる正統な資格もなく、したがってそれを教皇から封与された者にも何らの資格もないとした上、パルマも自分に渡すよう要求。
1549年9月13/14日
パウルス3世、ボローニャでの多数派による公会議の中止を宣言。この会議はついに1度も議決宣言を出さず、カール5世の抗議に屈した形で終わる。
1549年11月29日
教皇選出枢機卿会議、開催。新教皇にオッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ委譲と教会改革のための公会議の開催を義務付ける選挙協定を採択した後、教皇選出に入るが、それぞれ自派から新教皇を送りたいカール5世・アンリ2世両派の対立、激化。
1550年2月8日
枢機卿ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ(1487年~:在位1536年~)、教皇に即位し、ユリウス3世を名乗る(在位~1555年)。
教皇選出枢機卿会議、カール5世派の枢機卿が推すReginald Poleを再三、首位に立てながら決定できず、対立するカール5世・アンリ2世両派に中立的なジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテを立てることでようやく決着。
教皇ユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの使節団全員にCavaliere(騎士)の称号を与えて歓迎し、コジモ1世・デ・メディチがアレッツォ近くのモンテ・サン・サヴィーノをdel Monte家に委譲するよう求める。ユリウス3世の自家勢力拡大策(nepotismo)、早くも始まる。
1550年6月28日
故Barbarossaの後継者的な海賊Dragut(本名Torghud 'Ali Paşa:1485年~1565年)を先頭に南イタリア地中海沿岸諸都市で略奪・破壊を働き続けるSinan Paşa(?~1578年)総指揮のオスマン・トルコ水軍がこの春、占領したマーディアを奪還すると共にその海賊行為を断つべく、カール5世の指示により、アンドレア・ドーリアを総指揮官としてその軍及びカール5世のシチリア総督Juan de Vegaの軍にペドロ・デ・トレド及びコジモ1世・デ・メディチからの援軍を加えた大軍、この日アフリカ(マーディア)に上陸。
1551年3月9日
カール5世、フェルディナンド、両名の妹でネーデルラント総督・前ハンガリー・ボヘミア王妃マリア・フォン・ハプスブルク及びフェリペ2世の4者、アウグスブルクで長い協議を続けた末、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家のドイツ、スペイン両系統が交互に継承すること、すなわちカール5世の後を弟フェルディナンドが継いで帝位に就き、フェルディナンドの後をカール5世の子フェリペ2世が継いでローマ人の王となり、その後をフェルディナンドの子マクシミリアン2世が継ぐことを、マリア・フォン・ハプスブルクの懸命な仲介によってようやく取り決める。
1551年5月1日
トレント公会議、ユリウス3世の下での第1回会議を開くが、開会の教皇勅書などを朗読後、カール5世の威勢によりドイツ人の、とりわけプロテスタントの散会が実現する時を待つべく、閉会。
1551年5月22日
ユリウス3世、他の王侯を奉じあるいはその軍を招くことを1551年2月以来しばしば禁じてきたにもかかわらず、パルマをミラノに併合しようと狙うカール5世に抗すべくアンリ2世と同盟締結の協議を続けるオッタヴィオ・ファルネーゼに関し、この日の枢機卿会議で、叛徒とみなして教会の旗手の任を解き(1548年~)、封土パルマでの全権を剥奪することを決める。
1551年5月27日
オッタヴィオ・ファルネーゼ、アンリ2世と同盟を結んで軍資金と武器の援助を約束される。
これに憤激したカール5世、直ちにオッタヴィオ・ファルネーゼから、自らがその父ピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与した(1538年)ノヴァーラなどを取り上げ、ユリウス3世の甥Giovan Battista del Monteに封与。
1551年8月15日
マルタ島制圧を目指してカール5世軍(スペイン軍)と8日間激戦を続けながら果たせず、カール5世によりマルタ騎士団に与えられていた(1530年~)トリポリに直ちに向かったSinan Paşa総指揮のオスマン・トルコ水軍、Dragut指揮の下、10日間の激戦の末この日トリポリを占領。Dragutはスレイマン1世のトリポリ地方長官となる。
1551年10月5日
反カール5世同盟に結集した(1551年5月)ドイツ・プロテスタント諸侯、アンリ2世と、アンリ2世はフランス語圏4都市メス、トゥール、ヴェルダン、カンブレーを「帝国の代理人」として領有し、代わりにドイツ・プロテスタント諸侯にカール5世と戦うための軍と資金を供与するとの同盟をロッハウで締結。この同盟の中でアンリ2世は「ゲルマン民族とその囚われの諸侯の自由の擁護者」と名付けられる。
1551年12月半ば
ユリウス3世、カール5世に、財政上の理由から北部イタリアにもはや軍を維持することはできないと伝え、数日後、アンリ2世との和平交渉の状況を伝える。この頃カール5世も資金欠乏のため兵の補充に甚だしく難渋。
1552年
この頃Moritzらプロテスタント諸侯、南ドイツでカール5世を攻撃。カール5世は辛うじてインスブルックに逃げ、雪のアルプス・ブレンナー峠を越えてイタリアに入り、迂回して自領フィラッハ(現オーストリア領)に辿り着く。カール5世のドイツ支配権、実質上、崩壊。Philipp I (der Großmütige)とJohann Friedrich I (der Großmütige)はシュマルカルデン戦争における敗北(1547年)以来5年ぶりに釈放される。
1552年4月24日
シャンボール同盟の対カール5世戦争が続く中、ユリウス3世、教会改革(教皇至上権の弱化・司教権の弱化)を狙うスペイン人司教たちの反対を抑えてトレント公会議の延期を決定。4日後、その勅書を発する。
1552年4月29日
ユリウス3世、1552年2月に提示された条件を飲み、アンリ2世と休戦協定を結ぶ。両者、カール5世のこの協定への加入については彼自身の判断に任せる。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼのパルマ領有、再確認される。
1552年5月10日
ユリウス3世とアンリ2世の和平協定を阻止したかったカール5世、軍資金の欠乏とドイツ領内での反乱に見舞われ、やむなくこの協定を承認。
1552年7月26日~7月27日
堅固な城塞の構築を進めるなどさらに圧制の度を強めてきたカール5世の絶対的支配(1547年~)を脱すべく1551年来アンリ2世との接触を深めていたシエナ市民、アンリ2世の指示の下で領内に入ったピティリアーノ伯ニッコロ2世・オルシーニ軍が前夜、市の城門に迫ったのに呼応し、「フランス、勝利、自由」を叫んで武器を手に決起。
カール5世軍(スペイン軍)守備隊長はコジモ1世・デ・メディチに援軍を求め、コジモ1世・デ・メディチは直ちに小軍を送るが抗しきれず、カール5世軍(スペイン軍)守備隊は構築中の城塞に引きこもる。
1552年8月1日
この日頃?、コジモ1世・デ・メディチ、特使Ippolito da Correggio(1510年~1552年)をシエナに送り、カール5世軍(スペイン軍)守備隊と和を結ぶよう強く勧告。
アンリ2世、ローマ駐在大使Ludovic Lansacをシエナに送り、決起を支持し軍を派遣することを約束すると共に、カール5世軍(スペイン軍)守備隊との協定は無益だと強調。アンリ2世配下の軍、各地からシエナに向かう。
1552年8月3日
この日?、8千を超える市民がカール5世軍(スペイン軍)守備隊の籠る城塞を取り囲む中コジモ1世・デ・メディチ、シエナと、(1)守備隊はシエナから撤退する、(2)城塞は壊され、すべての外国軍はシエナから撤退する、(3)シエナは自由を得るがカール5世の下に留まり、彼に敵対する者を領内に入れない、(4)コジモ1世・デ・メディチは自軍がこの間に占領したシエナの領地を全て返還する、ことを約定。
これに強い不満を唱えるカール5世軍(スペイン軍)守備隊に対しコジモ1世・デ・メディチ、アンリ2世が新たに各地からシエナに向かいつつある中で逡巡していれば事態はさらに悪化すると懸命に弁明。
1552年8月4日
この日?、シエナ、コジモ1世・デ・メディチのもとに特使Ambrosio Nutiを送り、コジモ1世・デ・メディチに敵対しないことを表明すると共に回復した自由の承認・保証を求める。
これに対しコジモ1世・デ・メディチ、シエナに特使Leone Ricasoliを送り、その自由を保証すると共に友好関係の維持を承認。
同時にこの頃コジモ1世・デ・メディチ、アンリ2世に、彼とカール5世との間で厳正な中立を保つと約束。
1552年8月5日
シエナ制圧にコジモ1世・デ・メディチの支持を確保すると共に自軍の戦費を調達するため1548年に続いて重ねてピオンビーノを巨額の金でコジモ1世・デ・メディチに委譲したカール5世の政略に絶望したヤコポ4世・ダッピアーノ、この日、両者によるこの自領譲渡協定に署名。
1552年8月13日
シエナからのアンリ2世軍の駆逐・シエナ奪還のためナポリで進軍の準備を始めたペドロ・デ・トレドがその途上ローマ劫掠を狙うとの噂が流れる中、1551年のパルマ争奪戦ですでに財政危機に陥っていたユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの勧奨をいれて、シエナ出身の枢機卿Fabio Mignanelliを特使としてシエナに送り、アンリ2世軍の領内からの撤退・外国勢力の介入防止とそれによるシエナの自立と平穏の確保を勧告するが、失敗に終わる。
この頃?、コジモ1世・デ・メディチ、Diego Hurtado de MendozaやFransicso Albaからシエナの反乱・離反はひとえにコジモ1世・デ・メディチの責任であるとの報告を受けていたカール5世のもとに特使Ippolito da CorreggioとLeone Santiを送り、嫌疑を晴らすべく事態を説明すると共にいずれ無謀なシエナに制裁を加えると誓約。
1552年8月15日
パッサウ協定の締結過程を黙過していたカール5世、この協定に署名しこれに承認。
1552年9月末
ユリウス3世、カール5世とアンリ2世の仲介を目指し、そのための方策を策定するよう4名の枢機卿からなる委員会に命ずる。
1552年10月16日
カール5世、1552年3月アンリ2世軍に占領されたメスを奪還するべく大軍を送って包囲。
1552年12月末
シエナを目指すペドロ・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)によるローマ劫掠の不安が強まる中、ユリウス3世、再びナポリのペドロ・デ・トレドのもとに特使Achille de' Grassiを送って和平を説くが失敗に終わる。
1552年12月末
メスを包囲していた(1552年10月~)カール5世軍、ギーズ公François I de Lorraine(1519年~1563年:在位1550年~1563年)指揮のアンリ2世軍の反撃に敗退。
1553年1月1日
カール5世、敗退するメス包囲軍に退却を命令。この敗退過程でカール5世、支配権への意欲を甚だしく喪失し、間もなくネーデルラントに半ば引退。
1553年2月上旬
この頃?、ガルシア・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)、イタリアにおけるカール5世軍の指揮官の1人(1552年~)でペドロ・デ・トレドによりシエナ攻撃イタリア人歩兵隊指揮官に任じられたユリウス3世の甥Ascanio della Cornia(Corgna:1513年~1571年)がコジモ1世・デ・メディチの同意を得て集めた歩兵隊と合流し、シエナ領に入る。
1553年3月19日
カール5世軍(スペイン軍)、モンティチェッリを占領。直ちに要衝モンタルチーノを包囲。
1553年6月15日
アンリ2世水軍とオスマン・トルコ水軍がナポリ近海で合流したためナポリの守備強化を迫られたカール5世陣営、シエナ包囲を断念し軍をナポリに向かわせる。
1553年7月
この月までにカール5世軍、フランドルにおけるアンリ2世の主要な要塞テルアーヌを長期の包囲戦の末、占領。さらにこの月カール5世軍、1553年6月23日フランドル総督・軍総指揮官に任じられたカルロ3世・ディ・サヴォイアの子エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(1528年~1580年)指揮の下で包囲してきたエダンを占領。この包囲に抗したアンリ2世軍の指揮官・カストロ公・(故パウルス3世の孫)Orazio Farnese、戦死(1531年~:在位1549年~)。
1553年9月初旬
オスマン・トルコ水軍とアンリ2世水軍、コルシカ島のほとんどを制圧。しかし間もなくオスマン・トルコ水軍はスレイマン1世に呼び戻されてレヴァントに向かい、アンリ2世水軍のみ残る。
アンドレア・ドーリア総指揮のカール5世軍・ジェノヴァ軍、コルシカ奪還のため攻撃を開始。
1553年秋~冬
コジモ1世・デ・メディチ、カール5世のもとに特使Bartolomeo Concini(1507年~1578年)を派遣し、カール5世の名の下でシエナを制圧する企図を示して同意を得ると共に、軍指揮官としてマリニャーノ侯ジャン・ヤコポ・デ・メディチ(1495年~1555年:侯在位1532年~1555年)を送るなどの支援を約束される。
1553年冬
アンドレア・ドーリア総指揮下のカール5世軍・ジェノヴァ軍、ボニファチオを除くコルシカ全島をアンリ2世軍から奪還。
1553年12月
ネーデルラント支配の安定化、イングランドにおけるカトリックの復活及びイングランドのスペイン=ハプスブルク帝国への併呑を狙うカール5世の主導の下、フェリペ2世とメアリー1世、婚約。
従兄弟フェリペ2世は同信カトリック教徒で良き相談相手である上、そのフェリペ2世にイングランドにとって経済的に重要なネーデルラントをドイツから分離して委ねるとの好餌を与えられたメアリー1世、カール5世のこの政略に喜んで服従。
しかしこの婚約成立過程ですでに、これをスペイン=ハプスブルク帝国への屈服とみる貴族及び民衆の間に広まり深まった反スペイン感情、反ローマ教会感情、及び両者の重畳する中で生じたナショナリズムの感情を背景として、婚約阻止を目指す反乱の動き顕在化する。この1つの首謀者・デヴォンシャーの軍人Peter Carew(1514年~1575年)、計画が発覚しヴェネツィアに逃亡。
1554年1月28/29日
コジモ1世・デ・メディチ、海陸両面からシエナ領攻撃を開始。カール5世から送られたジャン・ヤコポ・デ・メディチも加わってシエナの市の城門に通ずるCamolliaを攻撃させ、その城塞を一気に占領。
しかし折からの嵐のためガレー船を使用できなかったのを初め海陸両面で攻撃に難渋し、シエナ市内には入城できず。以後、シエナを守るアンリ2世軍とカール5世の支援を受けるフィレンツェ軍、周辺各地で一進一退の攻防を続ける(~1555年)。
1554年6月26日
フィレンツェ軍には戦況に応じてカール5世からの援軍が加わるのに対しシエナには期待し続けるアンリ2世からの援軍が着かない中、ピサ、リヴォルノ、ピオンビーノ、グロッセートなどトスカーナ各地で陣地構築に奔走していたLeone Strozzi、フィレンツェ軍の守るグロッセート近郊への自軍のみによる上陸を敢行。しかし上陸後、偵察中に撃たれ、数時間後Castinlione della Pescaiaで死(1515年~)。彼に心服していたフィレンツェの亡命貴族の中に落胆し戦線を離脱する者が出る。
1554年7月25日
メアリー1世とフェリペ2世の結婚式、ウィンチェスターの大聖堂で挙行される。
挙式直前、カール5世の特使Suárez de Figueroa(1500年代初頭?~1571年)、カール5世がフェリペ2世にナポリを委譲したと公表。
1554年夏~秋
ナポリからの援軍でさらに増強されたジャン・ヤコポ・デ・メディチ指揮のフィレンツェ軍・カール5世、各地を占領しながらシエナ包囲を徐々に狭める。
1555年4月17日
1554年来のジャン・ヤコポ・デ・メディチ軍の攻撃に耐えながらも、狭まる包囲戦の中で深刻な飢餓状態に陥り、期待していたアンリ2世からの援軍も得られないでいるシエナ、特使Niccolò Sergardi、Camillo d' Elei、Lelio Pecci、Agostino Bardiをコジモ1世・デ・メディチのもとに送って降伏し、(1)カール5世の庇護の下で「自由」を保持し自らを統治すること、(2)自らの費用でカール5世軍を守備隊として駐屯させること、などを協定。
1555年4月21日~5月2日
モンルックの君主Blaise de Lasseren de Massancome(1502年頃~1577年)指揮のアンリ2世軍、シエナ市を去る。しかしキウージ、グロッセート、ポルト・エルコーレ、モンタルチーノをなお手中に収め、この軍と共にシエナを去った有力貴族ら数百名はモンタルチーノなどに籠って小共和政を樹立する。
間もなく代わってジャン・ヤコポ・デ・メディチ麾下のカール5世軍が市内に入り、シエナは実質上コジモ1世・デ・メディチの支配下に陥る。
1555年8月10日
カール5世陣営に与するサンタ・フィオーラのスフォルツァ家が、謀ってアンリ2世軍のガレー船2隻をチヴィタヴェッキアで奪い、ナポリに向けて出港させたのに対し、カール5世陣営の貴族の跳梁を抑制しようと企図していたパウルス4世、この日、甥の枢機卿Carlo Carafaを通じて、スフォルツァ家の当主・教皇代行枢機卿グイド・アスカーニオ・スフォルツァ(1518年~1564年:枢機卿在位1534年~1564年:教皇代行在位1537年~?)に、奪った船を3日以内にチヴィタヴェッキアに戻さなければ訴追すると通告。
これに対しグイド・アスカーニオ・スフォルツァ、夜、自宅にコロンナ家などカール5世陣営の貴族を集め、反パウルス4世を叫んで気勢を上げる。Marcantonio Colonna(1535年~1584年)は、すぐにも反パウルス4世暴動に決起する用意があると決意を表明。
1555年8月12日
奪ったガレー船の返還をスフォルツァ家になお強硬に命じながらも、教会領の南の境界におけるカール5世軍(スペイン軍)の動向を危惧せざるを得ない上ローマにおける兵力と資金の欠乏に悩むパウルス4世に対し、アンリ2世に与する枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ、一族を挙げて支援することを約すると共に、アンリ2世との同盟を勧奨。
1555年9月4日
フェリペ2世、カール5世の譲位式に出席のため、ドーヴァーからイングランドを離れブリュッセルに向かう。
1555年9月14日
Carlo Carafa、教皇庁防衛のため対カール5世陣営の攻守同盟を締結するよう呼びかける全権大使をフェッラーラのエルコーレ2世・デステのもとに送る。
1555年9月15日
スフォルツァ家に奪われたアンリ2世水軍のガレー船、チヴィタヴェッキアに帰還。4日後パウルス4世、グイド・アスカーニオ・スフォルツァを巨額の保釈金などと引き換えに釈放。
しかし教会領の南の境界で大規模な徴兵を続けるカール5世軍(スペイン軍)と、北の境界でアンリ2世軍の一掃を狙うカール5世陣営のコジモ1世・デ・メディチ軍とに囲まれたパウルス4世、恐怖を覚えつつスペイン=ハプスブルク帝国への反発・敵意を募らせる。
1555年9月15日
Carlo Carafa、(1)教皇庁の防衛とそのための軍の提供、(2)カール5世陣営に対抗する攻守同盟の締結、(3)同盟へのヴェネツィア及びフェッラーラの引き入れ、の実現を呼びかける全権特使Annibale Rucellaiをアンリ2世のもとに送る。
1555年9月25日
アウグスブルクの宗教和議:カール5世の委任を受けたフェルディナンドによって主催されたアウグスブルク帝国議会において、カール5世側とルター派諸侯・帝国都市、ドイツにおいて(1)カトリック教会と共にルター派教会の存在を認める、(2)諸侯・帝国都市は両教会のいずれかを選択し、その選択が領民の宗教を決定する(cuys regio, ejus religio)、(3)カトリックの大司教・司教がルター派に改宗する際はその世俗的地位と領土を失い、カトリックの後継者が選ばれる(教会留保権)、などを内容とする和議を結ぶ。ドイツの宗教問題におけるカール5世の敗北、明らかとなる。
しかし個人の信仰の自由の未確認、カルヴィン派やZwingli派の排除、教会留保権の容認、など三十年戦争(1618年~1648年)に至る宗教争乱の種を残す。
1555年9月25日
アウグスブルク帝国議会、帝国内の平和(Landfriede)確保のため、軍隊の設置、帝国裁判所の判決を執行、などをマクシミリアン1世により画定された(1500年)帝国の10の管区(Reichskreis)に委ねる執行令を、帝国法として施行することを決める。
1555年10月25日
ネーデルラントに半ば引退(1553年)後もフェリペ2世・メアリー1世の結婚を実現させて(1554年)普遍的帝国実現の希望を蘇らせたカール5世、その結婚から期待した子を得られずに希望が潰え、アンリ2世とパウルス4世の接近(1555年8月~)を知り、宗教問題もフェルディナンドに委ねて敗北し(1555年9月)、ついにブリュッセルで譲位式を挙げ、ネーデルラント及びイタリアを列席のフェリペ2世に正式に委譲。
1555年12月15日
パウルス4世とアンリ2世、攻守同盟締結:パウルス4世、1555年11月20日、1555年11月22日と続いてローマに入ったアンリ2世の全権使節・枢機卿Charles de Guise(1524年~1574年:在位1547年~1574年)、François de Tournonと交渉を続けた末、(1)アンリ2世は戦費と軍を提供すると共にCarlo Carafaとその兄弟を庇護し、パウルス4世も軍を提供して相互に支援し合うこと、(2)戦端はナポリ又はフィレンツェに対して開くこと、(3)勝利の暁にはシエナを教会領とし、ナポリ及びミラノをアンリ2世の王太子以外の王子に統治させること、(4)同盟はピエモンテを除くイタリア全土に適用されること、などを約定。
これによってパウルス4世、反カール5世・反スペイン=ハプスブルク帝国の姿勢を鮮明に打ち出す。
1555年
カール5世の妹マリア・フォン・ハプスブルク、ネーデルラント総督を辞し(1531年~)、スペイン中西部ユステ近郊に隠遁。
1556年1月16日
カール5世、スペイン王位とスペイン領及び新大陸などその植民地をフェリペ2世に委譲(スペイン王カルロス1世在位1516年~)。
これによりフェリペ2世、スペイン王となりフェリペ2世を名乗る(在位~1598年)。
1556年2月5日
アンリ2世とフェリペ2世のVaucellesでの休戦交渉(1555年~)、アンリ2世は(1)メス、トゥール、ヴェルダンの3司教領を領有、(2)オスマン・トルコやイタリアの君主を相手とする全ての同盟を維持、(3)ピエモンテの現状を維持、フェリペ2世は(1)北フランス・テルアーヌ、エダンを領有の上、5年間休戦、を約定し、フェリペ2世及びカール5世の実質的敗北裏に妥結(Vaucellesの休戦協定)。
これにより、カール5世の退位を機にイタリアをスペイン=ハプスブルク帝国から解放しようとのパウルス4世の企図、中断される。
1556年9月12日
カール5世、パウルス4世を無視して神聖ローマ皇帝位(在位1519年~)と帝国版図を弟フェルディナンドに委譲。この委譲と、1556年1月のスペイン王位及びその領土・直轄地のフェリペ2世への委譲とにより、ハプスブルク家の分裂とそのスペイン王朝化、明白となる。
これに対しパウルス4世、教皇の承認なき帝位の委譲を無効とし、この旨を厳しく伝える書簡を選帝侯たちに送る。
1556年9月13日
カール5世、ネーデルラントを発って海路スペインに向かう。1556年9月末スペイン着。
1559年8月20日
カール5世からのネーデルラント委譲の式典(1555年)以降ネーデルラントにあったフェリペ2世、ヨーロッパにおける覇権を目指すべくスペインに向かう。
ネーデルラントについてはフェリペ2世、異母姉マルゲリータ・ディ・パルマ(パルマ公・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼの妃)を摂政に任じ(在位~1567年)、警察・裁判、財務、国務の3顧問会議と王室顧問会議を設けて統治の実務に当たらせる。以後、王室顧問会議の最高顧問A. P. de Granvelle(在位~1564年)の過酷なプロテスタント弾圧に対する政治的・宗教的不満、高じ、反抗運動、芽生える。
1570年秋
アンダルシア・アルプハラス地方のMoro人反乱(1568年~)、フェリペ2世の異母弟・(故カール5世の庶出の子)フアン・デ・アウストリア(1545年~1578年)指揮のフェリペ2世軍に鎮圧され、Moro人は強制移住・分散させられる。
肖像
剣
別表記
カルル5世
外部リンク
ウィキペディア
歴史データベース
Find A Grave
Genealogy.EU
The Medici Archive Project
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『西洋拷問刑罰史』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ハプスブルク家』
『フィレンツェ史』
『服飾の中世』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『魔女狩り』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
『ルネッサンス百科事典』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンスの女たち』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前