Leo X

レオ10世

生没:1475年12月11日~1521年12月1日
在位:枢機卿 1489年3月9日~1513年
       任命した教皇:インノケンティウス8世
   第217代教皇 1513年~1521年
    先代:ユリウス2世
    次代:ハドリアヌス6世
父:ロレンツォ・イル・マニーフィコ
母:クラリーチェ・ディ・ヤコポ・オルシーニ

概要

 ジョヴァンニ・デ・メディチは、15世紀~16世紀の男性、聖職者。第217代教皇レオ10世。

年表

1475年12月11日
ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男ジョヴァンニ・デ・メディチ生。
1487年2月25日
ヴェネツィアに加えてフィレンツェをフェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手としようとするインノケンティウス8世と、教皇の権威を利用して自家の権威を増大させようと狙うロレンツォ・イル・マニーフィコ、教皇の長子で40歳近いフランチェスケット・チーボ(1449年~1519年)と、ロレンツォ・イル・マニーフィコの14歳の次女マッダレーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1473年~1519年)の結婚を取り決める。
ロレンツォ・イル・マニーフィコ、長男ピエロ・イル・ファトゥオと、ローマの有力貴族オルシーニ家の娘でロレンツォ・イル・マニーフィコの妻クラリーチェ・ディ・ヤコポ・オルシーニの従妹アルフォンシーナ・オルシーニ(1472年~1520年)との結婚を代理人誓約の形で取り決める。
これらの婚姻政策により、メディチ家は教皇庁及びローマ貴族との結びつきを強め、ロレンツォ・イル・マニーフィコは事実上の君主の地位をフィレンツェ内外でさらに固める。
加えてロレンツォ・イル・マニーフィコ、次男ジョヴァンニ・デ・メディチを枢機卿にすべく、密かに教皇庁内で工作を始める。
1489年3月9/10日
インノケンティウス8世、自分の兄弟Maurizio Ciboの庶出の子ロレンツォ・チーボ(1500年~1549年)ら5名を新たに枢機卿に叙任し、ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男で13歳のジョヴァンニ・デ・メディチら3名を叙任予定者とすると公表。
これに対して強い不満を覚えたロレンツォ・イル・マニーフィコの強力な働きかけを受けたインノケンティウス8世、正式の就任は3年後とするとの条件つきでジョヴァンニ・デ・メディチを枢機卿に叙任。
1492年3月23日
インノケンティウス8世は、ジョヴァンニ・デ・メディチを正式に枢機卿に叙任。
1494年11月9日
メディチ家支配体制崩壊:シニョーリアは、ピエロ・イル・ファトゥオに出頭命令を下す。しかし、武装した従者を率いてきたピエロ・イル・ファトゥオヴェッキオ宮殿への立ち入りを禁止。ヴェッキオ宮殿の塔の鐘を鳴らして急を告げ、市民をシニョーリア広場に召集。反メディチを叫ぶ群衆市内に溢れ、ピエロ・イル・ファトゥオの帰途を妨害。
ピエロ・イル・ファトゥオ、辛うじてメディチ宮殿に帰着。市外にいた手兵を引き入れて抵抗しようと目論む。
シニョーリア、メディチ派への加担者を絞首刑に処し、祖国への反逆者ピエロ・イル・ファトゥオと弟ジョヴァンニ・デ・メディチを捕らえるか殺害した者に賞金を与えるとの布告を流す。
夕刻、ピエロ・イル・ファトゥオと弟ジョヴァンニ・デ・メディチは、少数の忠臣と共にボローニャへ逃亡。メディチ家支配体制、崩壊。
1505年3月
この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァはミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家オルシーニ家パンドルフォ・ペトルッチ、フィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家のジョヴァンニ・デ・メディチ、ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。
1508年
ピエロ・イル・ファトゥオの死後、武力によるフィレンツェ復帰策を捨て、ローマの自邸をフィレンツェ人に開放するなど市民との融和による復帰を目指し、市内に次第に共感、賛同、崇敬の念を醸成しつつあった枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチは、ピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチ(1493年~1528年)と有力貴族ストロッツィ家フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィ(1489年~1538)との婚姻、及びロレンツォ・イル・マニーフィコの娘ルクレツィア・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1470年~1551年頃)と有力貴族でピエロ・ソデリーニの公然たる政敵アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティの甥ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティとの婚姻を成立させる。
これをピエロ・ソデリーニは、共和国の叛徒との婚姻を禁じている法を犯すものと糾弾。しかし反ピエロ・ソデリーニ派は反論。メディチ家に対する方針を巡って共和政派と反共和政派の対立、さらに厳しくなる。
1511年1月3日
Ottoメディチ家のジョヴァンニ・デ・メディチ・ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ兄弟と交流する者を全て反逆者とみなすと布告。
1512年1月26日
ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍(フェルナンド2世・デ・アラゴン軍及び教皇代理ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿と傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナ(1450~1460年~1520年)、ファブリツィオ・コロンナらを含むユリウス2世軍)、ボローニャを包囲。
1512年4月11日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。
完敗した同盟軍はライモンド・ディ・カルドーナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。
ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。
ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。
1512年6月
この頃、ジョヴァンニ・デ・メディチ、ルイ12世の捕虜としてフランスに護送される途中ポー河畔で逃亡し、ボローニャに逃れる。
1512年8月下旬
ボローニャに結集していたライモンド・ディ・カルドーナ指揮のスペイン軍は、ジョヴァンニ・デ・メディチ、ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ兄弟らを伴って南下。市民軍の結集していたフィオレンツオーラを避け、1512年8月21日バルベリーノ・ディ・ムジェッロに到着。
1512年9月14日
ジョヴァンニ・デ・メディチ、ライモンド・ディ・カルドーナの指揮するフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に守られて市内に入る。メディチ家は、他の市民と同等の政治的権利を有する私人として公式に復帰。
1512年9月16日
午後、ジョヴァンニ・デ・メディチを中心とする完全武装のメディチ派、コンシーリオ・デリ・オッタンタが新たな政体改革を議論していたヴェッキオ宮殿に乱入し、これを占拠すると共に新正義の旗手ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィパルラメントの即時召集を強要。
夕刻、パルラメントが召集、開催され、武装したメディチ派が取り囲む中、現行法の廃棄及びシニョーリアとジョヴァンニ・デ・メディチの選出する者とからなる政体改革のためのバーリアの設置を承認。
1513年3月11日
枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチ、教皇に即位し、レオ10世を名乗る。
1513年3月
ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、教皇の弟ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィGiovanni Tornabuoniジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィベルナルド・ルチェッライフィリッポ・ブォンデルモンティベネデット・デ・ネルリピエロ・ディ・ヤコポ・ディ・ピエロ・グィッチャルディーニロレンツォ・モレッリネリ・カッポーニ(1452年~1519年)、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファの12名が選出される。
1513年4月4日
レオ10世即位祝賀使節団の出発に先駆けてレオ10世より書簡が届き、前年10月のソデリーニ一族追放処分の解除、この年2月の陰謀参画者の赦免の意が伝えられる。
1513年4月5日
神聖同盟(1511年)の更新:新教皇レオ10世、マクシミリアン1世ヘンリー8世、及びフェルナンド2世・デ・アラゴンが、ネーデルラントのメヘレンで対フランス神聖同盟を更新することにつき協定。但し、レオ10世は同盟とルイ12世の間で中立的な姿勢を、フェルナンド2世・デ・アラゴンは、1513年4月1日のルイ12世との協定を優先的に遵守する姿勢を保ち続ける。
1513年4月11日
レオ10世の戴冠式が、ローマで盛大に挙行される。前教皇ユリウス2世と対立してきたアルフォンソ1世・デステは主賓として出席。ユリウス2世の甥フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレも出席。
1513年4月23日
レオ10世は、1513年4月8日?死亡した大司教コジモ・デ・パッツィの後任に従弟(=パッツィ家の陰謀(1478年)によって殺害された叔父ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチの庶出の子)ジューリオ・デ・メディチ(1478年~)を任命。
1513年
この頃?、レオ10世、ルイ12世とヴェネツィアのブロワ協定及びそれによって釈放されたバルトロメオ・ダルヴィアーノを指揮官とするヴェネツィア軍の強化などを挙げてマッシミリアーノ・スフォルツァを脅かし、ライモンド・ディ・カルドーナが彼に服従させたパルマ、ピアチェンツァを取り上げる。
1513年8月13日
レオ10世、教会の旗手としてローマに滞在することになったジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチに代えて甥ロレンツォ・デ・メディチをフィレンツェの統治者とする。
1513年8月
この頃レオ10世、弟ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ教会の旗手に任命。かつ彼をカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイア(1498年~1524年)と結婚させることに決める。
1513年夏~1513年秋
ルイ12世軍がイタリアから撤退し、かつフランス本国がヘンリー8世軍やスイス連邦軍の攻撃を受けてルイ12世が軍をイタリアに新たに侵攻させることは不可能になったために孤立したヴェネツィア軍は、神聖同盟軍(マクシミリアン1世軍、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、及びスイス連邦軍を中心とするミラノ軍)とヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァなどを巡って戦闘を続けていたが、パドヴァに撤収して防備を固める。
レオ10世、神聖同盟陣営に小軍を送って同盟側に断つ態度をようやく明確に示し始めると共に、ヴェネツィアに対しフランスとの同盟を破棄するよう工作するが失敗。
1513年9月23日
レオ10世、従弟ジューリオ・デ・メディチ及び甥インノチェンツォ・チーボ(1491年~1550年:枢機卿在位1513年~1550年)、同族ロレンツォ・プッチ、自分の秘書でかつての家庭教師ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナの3名を新たに枢機卿に任命。
1513年10月
ルイ12世軍によりルッカに売却された(1494年)ピエトラサンタとMutroneを奪還すべくルッカに軍を派遣し、周辺の要塞を占領。問題を提訴してきたルッカに対してレオ10世は、1513年10月12日、領地のフィレンツェへの帰属、フィレンツェ軍が占領した要塞のルッカへの返還と裁定。
1513年10月
この頃?、レオ10世、サン・ピエトロ大聖堂改築資金調達のためとの命国を掲げて贖宥状を発行することを決意。
1513年11月5日
レオ10世、Studium sacri palatiiStudium urbisを併合する勅書を発し、現ローマ大学を設立。聖書のラテン語訳などを促進。
1513年11月6日
この年6月から折衝を続けてきたレオ10世とルイ12世は、ピサ分離公会議(1511年)問題についてフランス・コルベイユで和解、協定。ルイ12世はこの公会議を断念、否認し、教皇はこの公会議推進派としてユリウス2世に破門された枢機卿5名を赦免。
1514年6月半ば
レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。しかしその2日後、1510年8月にユリウス2世が制圧して、1511年1月にマクシミリアン1世に封与したアルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを買収することをマクシミリアン1世の閣僚と約束するなど、かねてから抱いていたモデナ、レッジョ、パルマ、ピアチェンツァ一帯をメディチ家の領国と化して甥ロレンツォ・デ・メディチに統治させようとの野望実現に向けて歩を踏み出す。
さらにこの頃、レオ10世、弟ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチのためナポリをも領有しようと企んでルイ12世と秘密裡に折衝していると広く信じられる。
ただしレオ10世、三大権力者(ルイ12世フェルナンド2世・デ・アラゴンマクシミリアン1世)間の、ないしこの内の二者間の関係強化も、いずれの一者によるイタリア支配も防いで自己の権力強化とメディチ家の勢力伸長、安泰を図るべく、三者への対応について揺らぎ続ける。
1514年9月21日
レオ10世、フェルナンド2世・デ・アラゴンとローマでイタリアにおける相互の領国の安全保障を盟約。合わせて両者、他者とりわけルイ12世と盟約しないことを相互に誓約。
1514年12月9日
レオ10世、ミラノ防衛の戦力を確保するためスイス連邦と協定。
1515年1月
レオ10世の弟ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ、フランス王フランソワ1世の即位祝賀使節としてフランスに行き、その叔母でカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイアと結婚し、ヌムール公の称号を受ける。これによりメディチ家とフランス王室との婚姻関係生ずる。
1515年2月7日
マクシミリアン1世フェルナンド2世・デ・アラゴンマッシミリアーノ・スフォルツァ、スイス連邦及びフィレンツェは、レオ10世の暗黙の加担の下、対オスマン・トルコ同盟の名目でミラノ防衛のための対フランソワ1世、対フランス同盟を結成。
1515年
この頃?、レオ10世の強い支持を得て対フランス同盟側についていたジェノヴァのドージェ・オッタヴィアーノ・フレゴーソフランソワ1世によるイタリア侵攻軍の目覚しい強化、結集に怯えて彼と秘密裡に協定を結ぶが、すぐ露見。
傭兵隊長プロスペロ・コロンナ(1460年頃?~1523年)指揮のミラノ軍が、スイス連邦軍と共にジェノヴァ攻撃に向かうが、オッタヴィアーノ・フレゴーソの訴えを受け入れたレオ10世に制止される。
1515年6月29日
レオ10世は、弟ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチを教会軍総司令官に任命。しかし病身の彼は実質上、任務を果たせず。
1515年7月17日
レオ10世は、対フランス同盟に正式に加盟すると共にこの同盟を公表。しかしナポリをフェルナンド2世・デ・アラゴンから奪って弟ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチに支配させようとの意図を密かに抱くレオ10世は、なお秘密裡にフランソワ1世とも接触を取り続ける。
この頃?、ロレンツォ・デ・メディチの指揮するフィレンツェ軍が、対フランス同盟陣営に加わるべくピアチェンツァに到着。教皇軍の小部隊もヴェローナに到着。ロレンツォ・デ・メディチは病床のジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチに代わって教会軍総司令官を務める。
1515年10月13日
マリニャーノの戦におけるフランソワ1世の勝利後直ちにカルロ・ディ・サヴォイアを介してフランソワ1世との和平協定締結を策していたレオ10世、彼と、メディチ家のフィレンツェ支配の承認、ウルビーノなど教会領の奪回に際しての彼の中立、自ら制圧しているパルマ、ピアチェンツァの彼への返還などを協定。
ライモンド・ディ・カルドーナ、レオ10世にこの協定について異議を述べるが無視される。
1515年11月30日
フランソワ1世との会談のためボローニャに向かうレオ10世、この日、壮大華麗な歓迎を受けてフィレンツェに入る。1515年12月3日ボローニャに向け出発。
1515年12月11日~1515年12月14日
レオ10世とフランソワ1世、ボローニャで政教協約などにつき会談。この年10月の協定を共に確認した上、モデナ、レッジョのアルフォンソ1世・デステへの返還を求めるフランソワ1世に対し、両地を2ヶ月以内に割譲すると約束。しかし、アルフォンソ1世・デステから所定の金を得ながら期限後も両地を手放さず。
1515年12月18日
レオ10世、ボローニャを出発。途中フィレンツェに1ヶ月余滞在し、翌1516年1月末ローマに向かう。
1516年2月
エラスムス新約聖書ギリシア語校訂本文に教会公認訳によらない自身のラテン語訳を付したNovum instrumentum(校訂ギリシア語新約聖書)をバーゼルで刊行。新約聖書ギリシア語原文の最初の印刷本となる。
間もなくこれを、かねてから恩恵を受けてきたレオ10世に献呈。
1516年3月10日
シエナの君主ボルゲーゼ・ペトルッチメディチ家に対する忠誠心の欠如を怒ったレオ10世は、彼を彼の従兄弟ラッファエーレ・ペトルッチを用いて追放し、ラッファエーレ・ペトルッチをシエナの君主に据える。新君主ラッファエーレ・ペトルッチロレンツォ・デ・メディチをシエナの傭兵隊長とする。
1516年3月14日
レオ10世は、前年秋の対フランソワ1世戦への参加拒否、フランソワ1世側への傾斜などにおける忠誠心の欠如を理由に、ウルビーノなどフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの教会領内の全領国を剥奪すると宣言。
1516年4月5日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、レオ10世よりモデナの教皇総督に任命される。
1516年5月17日
レオ10世は、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレからウルビーノなど全領国を奪うべくロレンツォ・デ・メディチの指揮する軍をウルビーノに向かわせる。
1516年8月16/18日
レオ10世は、ロレンツォ・デ・メディチフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレから取り上げたウルビーノ、ペーザロ及びセニガッリアを封与。以後彼はウルビーノ公と公称される。
さらにレオ10世は、ロレンツォ・デ・メディチを、1516年3月死のジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチに代わる教会の旗手に任命。
1516年8月18日
レオ10世、1515年12月ボローニャの会見でフランソワ1世より提起された政教協約を承認し、署名。これによりブールジュの国事詔書(1438年)は廃止されるが、フランソワ1世の王国内における実質上の聖職者任命権が承認され、ガリカニズムはむしろ確立される。
1516年10月19日
マクシミリアン1世カルロス1世ヘンリー8世の三者は、レオ10世の勧奨により対フランス協定を締結。
1517年
この頃?、レオ10世からフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレのウルビーノ奪還戦を秘密裡に支援していると思われていたフランソワ1世は、レオ10世のもとに使節を送り、その事実はないと弁明すると共にボローニャ会談(1515年12月)でのモデナ、レッジョのアルフォンソ1世・デステへの返還に関する約束を履行するよう迫る。これに対しレオ10世は、7ヶ月以内に履行するとの勅書を発するが、以後も依然として履行の姿勢を示さず。
1517年3月16日
ラテラーノ公会議は、教会改革の方途を見出せないまま終わる。
1517年4月初旬
レオ10世より追放された(1516年3月)シエナの前君主ボルゲーゼ・ペトルッチの弟・枢機卿アルフォンソ・ペトルッチ(1492年~1517年)、他の枢機卿4名を誘ってレオ10世毒殺の陰謀を練っていたが発覚。
レオ10世から一切を許すとの言質を与えられて、5月19日、ヴァティカン宮殿に出頭したところを捕らえられ、1517年6月22日聖職位剥奪の上、1517年7月4日サンタンジェロ城で絞殺され、彼の秘書、協力者2名も、1517年6月27日処刑される。他の4名の枢機卿の内2名は聖職を剥奪され、2名は大金を払って特赦される。
1517年6月30日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、レオ10世よりレッジョの教皇総督にも任命される(1517年~1523年)。
1517年7月1日
レオ10世、ウルビーノ争奪戦の費用などを調達すると共に教皇庁内における自己の立場を固めるため、自らの甥ジョヴァンニ・サルヴィアーティ(1490年~1553年:枢機卿在位1517年~1553年)、ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィ(1501年~1550年:枢機卿在位1517年~1550年)及び高名な人士ないし学者ロレンツォ・カンペッジオ(1474年~1539年)、J. Cajetanusエジーディオ・ダ・ヴィテルボF. Ximénez de Cisnerosらを含む31名の枢機卿を任命し、かつ多くの聖職を新たに設けて競売に付す。これにより巨額の資金を得る。
1518年3月6日
オスマン・トルコのスルタンセリム1世の目覚しい軍備強化の動きを知ってそのキリスト教世界への侵攻を恐れるレオ10世、フランソワ1世マクシミリアン1世カルロス1世ヘンリー8世などキリスト教諸国、諸権力者に勅書を送り、相互の一切の対立、紛争を5年間急死し、共に対トルコ防衛体制をとるよう訴える。
しかしヴェネツィアを初めとする諸国、諸権力者は、教皇の狙いはメディチ家の権勢拡大だとの不信と各自の権勢、権益の維持、拡大の野心とから、教皇の訴えを聞きながらそれぞれの策を進める。
1518年4月半ば
レオ10世、対オスマン・トルコ十字軍結成を訴えるべく、自分が取り立てた枢機卿たちベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナエジーディオ・ダ・ヴィテルボをそれぞれ、1518年4月13日フランソワ1世のもとへ、1518年4月16日カルロス1世のもとへ特使として派遣。
1518年5月5日
レオ10世、対オスマン・トルコ十字軍を訴えるべく、自分が取り立てた枢機卿Jacobus Cajetanusマクシミリアン1世のもとに特使として派遣。
しかし前月から派遣した特使たちは、教皇自身を自陣に引き込もうと狙うカルロス1世の元のエジーディオ・ダ・ヴィテルボを除き、任務遂行にひどく難渋。
1518年6月
レオ10世、マルティン・ルターに対しローマに出頭して審問に応ずるよう命令。しかしマルティン・ルターの庇護者ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の尽力によりローマでの審問は回避される。
1518年10月2日
ロンドン協定:1518年8月のフランソワ1世主導の協定を見たイングランドの大法官・枢機卿トマス・ウルジーヘンリー8世フランソワ1世の間に平和協定を成立させ、ヘンリー8世の幼い娘メアリー1世(1516年~1558年:イングランド王1553年~1558年)とフランソワ1世の王太子フランソワ(1518年~1536年)の結婚を取り決めると共に、この協定へのマクシミリアン1世カール5世の加入の道を開く。これによりトマス・ウルジーは、レオ10世主導ではないヘンリー8世ないし自分主導のキリスト教諸国、諸権力者糾合をも視野に置く。
1518年10月12日~1518年10月14日
レオ10世、アウグスブルクの帝国議会に出席していた枢機卿Jacobus Cajetanusにその宿所フッガー家でマルティン・ルターを審問させる。マルティン・ルターJacobus Cajetanusの改悛要求を拒否。
1518年11月14日
モデナ・レッジョの返還に関する1517年の勅書の履行を求めてきたアルフォンソ1世・デステ、レオ10世にその意のないことを確認させられ、フランソワ1世に助力を求めるべく自らパリへ赴くことを決意。
しかし、パリでは再三の懇願にも拘らず、すでにレオ10世との協調を最重視していたフランソワ1世から誠意ある回答を得られず、1519年2月帰国。
1518年12月
フランソワ1世、レオ10世の特使ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナを介して交渉を進め、自己の利益を引き出し確保しつつレオ10世との協調を深める。
1519年1月12日
マクシミリアン1世死。
神聖ローマ皇帝位をめぐるフランソワ1世ヴァロワ家)とカルロス1世ハプスブルク家)の対立、闘争強まり、第二次イタリア戦争の兆し芽生える。
神聖ローマ皇帝選挙戦で争う両者それぞれと接触を保っていたレオ10世は、強者のイタリアにおける覇権確立を阻むべく、やや弱体なフランソワ1世を密かに支持。
1519年1月20日
レオ10世とフランソワ1世、相互防衛協定を締結。この9日後、レオ10世、フランソワ1世の大使に神聖ローマ皇帝選での支持を表明。
1519年2月6日
レオ10世、カルロス1世とも相互防衛協定を締結。カルロス1世は神聖ローマ皇帝選でのレオ10世の支持を期待。
1519年3月
レオ10世、神聖ローマ皇帝選でのフランソワ1世支持を公表し各方面に工作を行う。
1519年5月4日
ロレンツォ・デ・メディチ死(1492年~:ウルビーノ公在位1516年~)。
レオ10世、ジューリオ・デ・メディチフィレンツェの支配にあたらせながら彼を通してローマからフィレンツェを支配。
しかしレオ10世の意に従いながらもジューリオ・デ・メディチ、自ら絶対君主化して集権的支配を行なっていたロレンツォ・デ・メディチに対してメディチ派貴族の中にさえ憤懣・反発が強まり離反者が生じていたことを考慮し、宥和策をとり始める。
1519年5月末~6月初旬
レオ10世、神聖ローマ皇帝選でのフランソワ1世の勝利は不可能と知り、カルロス1世に対抗し得る第三の候補としてザクセン選帝侯フリードリヒ3世を考える。
1519日6月21日
レオ10世、神聖ローマ皇帝選挙戦でカルロス1世を排すべく選帝侯の一人ザクセン候フリードリヒ3世(der Weise)を帝位に推挙し決起を促すが候自身の固辞にあい失敗。
1519年6月
この頃?、レオ10世、ウルビーノ・セニガッリアペーザロを教会領に併合し、ウルビーノ争奪戦のために巨額の資金を提供してきたフィレンツェにサン・レオ要塞とモンテフェルトロを与える。
1519年10月22日
レオ10世とフランソワ1世、イタリアにおける相互の領国(メディチ家の支配領を含む)の安全保障協定を極秘裏に結ぶ。これによりフランソワ1世にナポリ王位を認めてカール5世に認めないこと、フランソワ1世はレオ10世によるフェッラーラの奪回を認めることを実質上、合意。
しかしマルティン・ルター及びルター派に対処する上でカール5世の協力を欠かせないレオ10世、この協定を知らずなおレオ10世の支持を信ずるカール5世とも裏面での折衝を続ける。
1519年末
この頃?、レオ10世、かねてから抱いていてフェッラーラ奪取の意を実現すべく、アルフォンソ1世・デステが病床に臥したのを機にVentimigliaの司教アレッサンドロ・フレゴーソ指揮の軍にフェッラーラを急襲させるが失敗に終わる。
1520年3月
フェッラーラ奪回を目指すレオ10世は、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(1498年~1526年)指揮の軍を送ってまず周辺のフェルモ、Recanati、ファブリアーノなどを制圧し、直轄統治を始める。
1520年3月16日
ペルージア制圧も目指すレオ10世は、君主ジャンパオロ・バリオーニを、その同門の政敵ジェンティーレ・バリオーニ(1466年~1527年)を追放した廉で巧みにローマに召還し、サンタンジェロ城に招いて捕らえ、投獄。
1520年4月~1520年7月
コムネロスの反乱。カール5世の集権的支配によって特権を圧迫されたCastillaの諸都市、自治組織Comunidadを結成し、カール5世のネーデルラント人支配、反スペイン政策打破を目指して武装反乱。Juan Manuel(在位1520年4月~)は、この日付のカール5世への書簡で、マルティン・ルター問題への対応いかんがレオ10世のカール5世への対応を決するとした上で、ドイツに行ってもマルティン・ルターへの好意的言動はとらないよう強く勧奨。
1520年6月2日~1520年6月3日
レオ10世は、投獄していたジャンパオロ・バリオーニを、ウルビーノ争奪戦においてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに通じていたなどの理由を挙げて処刑(1470年頃~:在位1488年~1500年、1500年~1502年、1503年~1506年、1513年~)。ペルージアは保護していたジェンティーレ・バリオーニに統治させる形をとりながら自身の代理を派遣して直接に統治。
1520年6月15日
レオ10世、マルティン・ルターに対し破門威嚇の勅書を発する。
1520年10月11日
マルティン・ルター、、レオ10世の破門威嚇の勅書を受け取る。
1520年10月23日
カール5世、アーヘンで戴冠式を挙行。
数日後アーヘンで、カール5世を神聖ローマ皇帝と公認するレオ10世の勅書が公表される。
1520年11月
ミケランジェロ、レオ10世と「メディチ家廟墓」制作の契約を結ぶ。
1520年12月10日
マルティン・ルター、、教会法典3巻と共にレオ10世の破門威嚇の勅書を公衆の前で焼却し、ローマ教皇、教会との決別を具体的に示す。
1520年12月11日
レオ10世とカール5世、過去3ヶ月に相手の利益に反するいかなる協定も他者と結ばなかったこと、今後3ヶ月も結ばないことを文書で誓約。
1520年
フェッラーラ制圧に意を燃やすレオ10世、アルフォンソ1世・デステの守備隊長を買収して自軍のフェッラーラへの自由入城を保証させた上グイド・ランゴーニ(1485年~1539年)指揮の軍を派遣するが、その直前に買収、攻撃計画発覚し、失敗に終わる。
1521年1月3日
レオ10世、マルティン・ルターに破門勅書を発する。
1521年1月末
前年12月のカール5世との誓約を秘したままのレオ10世とこの誓約を知らぬフランソワ1世フランソワ1世の提案により、フランソワ1世はナポリ領有を求めず第三者による領有を認め、かつレオ10世にフェッラーラ及びナポリ領の海岸線の領有を認める協定を、ヴェネツィアがこれを認めることを条件として締結。
1521年3月末/4月初旬
レオ10世とカール5世、1520年12月11日の誓約を更新。
1521年4月17日~1521年4月18日
カール5世によって初めて召集され、帝国改革を主題議題として開会されたヴォルムスの帝国議会、マルティン・ルターを審問。自らマルティン・ルターに所説の撤回を求めるが彼に峻拒され、1521年4月19日、彼を異端と宣言。
しかし、帝国議会へのマルティン・ルター召喚の報を早くから得ていたレオ10世及び教皇庁、教皇がすでに破門した人物の公的召喚、審問に強い不満を抱く。
1521年5月8日
レオ10世、フランソワ1世との1月末の協定に対する批准が遅れる間にその意図に不信を強め、一転してカール5世と、そのナポリ領有を改めて認めること、メディチ家のトスカーナにおける支配領を含めて相互に領国を防衛し合うこと、フランソワ1世からパルマ、ピアチェンツァを奪還して教会領に併合し、同じくミラノを奪還してルドヴィーコ・イル・モーロの子フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ(1495年~1535年:ミラノ公在位1521年~1524年、1525年、1529年~1535年)に統合させること、自身のフェッラーラ攻撃、奪還及びナポリ領内の一部領地のアレッサンドロ・デ・メディチ(1511年~1537年:メディチ家当主1529年~1537年:フィレンツェ元首1531年~1532年:フィレンツェ公1532年~1537年)への封与をカール5世が支持すること、などにつき秘密裡に協定し、1521年5月28/29日批准。
1521年5月20日
フランソワ1世Navarra攻撃に対してPampelona城塞を守備していたイグナティウス・デ・ロヨラが負傷。その療養中、回心し、「神の騎士」となることを期する。
この頃?、レオ10世は、フランソワ1世のジェノヴァ支配を打倒すべく、ジェノヴァから追放されているアドルノ家などにカール5世から借りた軍を与えてジェノヴァを攻撃させるが、攻撃を察知して防備を固めていたオッタヴィアーノ・フレゴーソ指揮の軍に撃退される。
1521年7/8月
ヘンリー8世トマス・モアの助力を得てマルティン・ルターDe captivitate Babylonica ecclesiae praeludium(教会のバビロニア捕囚)を反駁するAssertio septem sacramentorum(七秘蹟擁護論)を執筆。これにより1521年10月、レオ10世より信仰の擁護者(Fidei defensor)の称号を受ける。
1521年8月1日
第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ候フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グィッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世カール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。
1521年9月4日
レオ10世、フランソワ1世とその軍指揮官たちに対し、教会への数々の不正、裏切り、パルマ、ピアチェンツァの不当な占領、フィレンツェ商人への迫害などを理由に、15日以内に武器を置いてパルマ、ピアチェンツァを教会に返還しなければ破門すると警告。
1521年11月29日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、レオ10世よりパルマの教会総督に任命される(~1522年)。
1521年12月1日
同盟軍によるミラノ攻略の報を受けて歓喜した後病床に臥したレオ10世、パルマ攻略の報を受けたこの日、死。
フランソワ1世の教唆によってレオ10世を毒殺したとの嫌疑で、レオ10世の侍従官Bernabò Malaspinaが逮捕・投獄されるが間もなく釈放される。
1521年12月上旬~下旬
レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グィッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニ(1491年~1531年)、オラーツィオ・バリオーニ(1493年頃~1528年)と共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。
1521年12月
レオ10世の死を機に騒乱が生ずるのを恐れたメディチ派が、反メディチ派15名を逮捕、拘束するが間もなく釈放。

任命した枢機卿

1513年9月23日 ロレンツォ・プッチ
ジューリオ・デ・メディチ
ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナ
インノチェンツォ・チーボ
1515年9月10日 トマス・ウルジー
1515年12月14日 アドリアン・ボイエンス
1517年7月1日 ポンペーオ・コロンナ
ロレンツォ・カンペッジオ
ルイジ・デ・ロッシ
シルヴィオ・パッセリーニ
エジーディオ・ダ・ヴィテルボ
フランチェスコ・オルシーニ
ジョヴァンニ・サルヴィアーティ
ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィ

肖像

 レオ10世と枢機卿たち

本名

 ジョヴァンニ・デ・メディチ、Giovanni de' Medici

別表記

 ジョヴァンニ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ、ジョヴァンニ・ディ・メディチ、レオーネ10世、Leone X

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 そらのお城
 Famille de Carné
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『君主論』
 『修道院』
 『性病の世界史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネッサンス夜話』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lost Girls
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2006年2月11日以前