Scrittore

文筆家

偽ディオニシウス Ψευδο-Διονύσιος ὁ Ἀρεοπαγίτης

生没
4??年~5??年

概要

 偽ディオニシウスは、5~6世紀頃のおそらくシリアの神学者。

著作

 『天上位階論』
 『教会位階論』
 『神名論』
 『神秘神学』

別表記

 偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース、偽ディオニシウス・アレオパギタ、アレオパギテス、Pseudo-Dionysius Areopagita

外部リンク

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イシドルス Isidro

生没
560年~636年4月4日
出身
カルタヘナ
没地
セビリャ

概要

 イシドルスは、6世紀~7世紀の男性、中世初期の神学者。

著作

 『語源』
 『ゴート・ヴァンダル・スエウィ王国史』
 『異義解』
 『自然について』
 『問題集』
 『命題集』

別表記

 イシドール

関連項目

 The Borgias: 103

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イコノロジー研究

ダマスコのイオアン Ιωάννης Δαμασκήνος

生没
676年頃~749年12月4日

概要

 ダマスコのイオアンは、7世紀~8世紀の男性。

作品

 Sacra Parallela

別表記

 Iohannes Damascenus

外部リンク

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ラバヌス・マウルス Rabanus Maurus

生没
780年頃~856年2月4日
出身
マインツ
没地
マインツ

概要

 ラバヌス・マウルスは、8世紀~9世紀の男性。

著作

 『百科全書

参考文献

 『イコノロジー研究

外部リンク

 Wikipedia

アブー・マーシャル Abū Maʿshar

生没
787年8月10日~886年3月9日
出身
バルフ

概要

 アブー・マーシャルは、8世紀~9世紀の男性。

著作

別表記

 アブ・マシャル、Abu Maʿshar

外部リンク

 オカルトの部屋
 星のささやき ~ 月夜のダイアリー ~
 夢と星の幸せ占いサイト Angel's wing
 Wikipedia

レミギウス Remigius

生没
841年頃~908年

概要

 レミギウスは、9世紀~10世紀の男性。

著作

 『マルティアヌス・カペラについての注解

別表記

 RémiRémy

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イコノロジー研究

アヴェロエス Averroes

生没
1126年4月14日~1198年12月10日
出身
ムラービト朝コルドバ

概要

 アヴェロエスは、スペインのコルドバ出身の男性、哲学者、医学者。

肖像

別表記

 アウェロエス

外部リンク

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マイケル・スコット Michael Scot

生没
1175年~1232年頃

概要

 マイケル・スコットは、12世紀~13世紀の男性。

著作

 Astrologia cum Figuris
 Super Auctorem Spherae
 De Sole et Luna
 De Chiromantia
 De Physiognomia et de Hominis Procreatione

外部リンク

 ウィキペディア

トマズィン・フォン・ツェルクラエレ Thomasîn von Zerclaere

生没
1186年頃~1245年頃
出身
フリウリ
没地
アクイレイア

概要

 トマズィン・フォン・ツェルクラエレは、12世紀~13世紀の男性。

著作

 『イタリア人客

別表記

 トマス・フォン・ツェルクラエレ、トマジン、トーマジン、トマスィン・フォン・ツィルクレーレ、Thomasin von Zerclaere

外部リンク

 Wikipedia

ヨハンネス・デ・サクロボスコ Johannes de Sacrobosco

生没
1195年頃~1236年頃

概要

 ヨハンネス・デ・サクロボスコは、12世紀~13世紀の男性。

著作

 『天球論

別表記

 ジョン・オブ・ハリウッド、ジョヴァンニ・デ・サクロ・ボスコ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ルネサンス宮廷大全』

ボナヴェントゥーラ Bonaventura

生没
1221年?~1274年7月15日

概要

 ボナヴェントゥーラは、13世紀の男性。

本名

 ジョヴァンニ・デ・フィデンツァ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』

トマス・アクイナス Thomas Aquinas

生没
1225年~1274年

概要

 トマス・アクイナスは、13世紀のイタリアの男性、神学者、哲学者、ドミニコ会修道士。

神学大全 Summa theologiae

 1266年頃から1273年に執筆の未完の著書。

別表記

 トンマーゾ・ダクィーノ、アクィナス

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

フーゴー・フォン・トリンベルク Hugo von Trimberg

生没
1230年頃~1313年以降
出身
Ober又はNiederwerrn
没地
バンベルク、Theuerstadt

概要

 フーゴー・フォン・トリンベルクは、13世紀から14世紀の男性。

著書

 『走者

外部リンク

 Wikipedia

フランチェスコ・ダ・バルベリーノ Francesco da Barberino

生没
1264年~1348年
出身
バルベリーノ・ヴァル・デルサ
没地
フィレンツェ

概要

 フランチェスコ・ダ・バルベリーノは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。

著作

 愛の神についての記録

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究
 『ルネサンス宮廷大全』

ダンテ・アリギエーリ Dante Alighieri

生没
1265年~1321年9月14日
出身
フィレンツェ
没地
ラヴェンナ
アリギエーロ・アリギエーリ
ベッラ
ジェンマ・ドナーティ
ジョヴァンニ・アリギエーリ
ヤコポ・アリギエーリ
ピエトロ・アリギエーリ
アントーニア・アリギエーリ

概要

 ダンテ・アリギエーリは、13世紀から14世紀の男性、イタリア最大の詩人。  グエルフィとギベッリーニに分かれて反目しあうフィレンツェの教皇派の貴族の家に生まれる。幼少期はあまり知られていないものの、有名な逸話がある。彼が9歳の時、ベアトリーチェ・ポルティナーリという裕福な家庭の娘に一目惚れしてしまい、生涯を通して愛を捧げることを決める。彼女への愛の詩を処女作として、文壇に登場した。当時のイタリアでは、隣国フランスの吟遊詩人の流れを汲んだ詩作が極めて盛んであり、ダンテ・アリギエーリもこれらの詩の研究に没頭したらしい。
 ボローニャ大学で修辞学、哲学、法律学、天文学を学ぶ。1289年騎兵隊の一員としてカンパルディーノの戦いに参加、1300年フィレンツェ共和国のプリオーレに選ばれ、またフィレンツェの特別使節として教皇庁に赴く。
 フィレンツェの白派と黒派の紛争においてダンテ・アリギエーリが属する白派が敗北し、陰謀の嫌疑でフィレンツェからの永久追放を宣告される。
 彼の名前を不朽のものにした『神曲』は、追放後の放浪生活の間に書かれた。地獄篇は1304年から1308年にかけて、煉獄篇は1308年から1313年にかけて執筆され、天国篇は生涯の最後の7年間を費やして執筆された。
 構成は天国、煉獄、地獄の三部に分かれ、それぞれ三十三歌の三行韻という「三尽くし」であり全部で1万5千行にもなる大作である。特に有名なのは煉獄や地獄の様子を描いた部分であり、例えば地獄の最深部では下半身氷付けになったルシフェルが、3つの顔のそれぞれにブルートゥスネロ、カシウスを噛み砕いているのだそうである。
 内容もさる事ながら『神曲』の功績はこの詩がラテン語ではなくイタリア語で書かれていたということが上げられる。当時の多くの詩はラテン語で書かれており、俗語であるイタリア語の地位は相対的に低かった。イタリア語を文学の領域に押し上げるのに大きく貢献しているのである。ダンテ・アリギエーリを「イタリア語の父」と呼ぶ研究者もいる。
 晩年はラヴェンナの領主グイド・ダ・ポレンタの庇護を受け、外交使節としてヴェネツィアに派遣されての帰路、病没し、ラヴェンナに葬られた。

著作

 『新生』
 『神曲
 『饗宴』
 『俗語論』
 『帝政論

年表

1265年5月21日~6月21日

フィレンツェにて、生。『神曲天国篇で双子座とある。建物は取り壊されて残っていないが生家の場所はおそらく現在のトラットリア・デル・ペンネッロ

1266年3月27日

洗礼を受け、ドゥランテと名付けられる。

1274年5月1日

五月祭にサンタ・マルゲリータ・デイ・チェルキ教会ベアトリーチェ・ポルティナーリと出会う。具体的な交流はないに等しかったが、彼女はダンテ・アリギエーリに詩作の霊感を与え続けることになる。

1302年

フィレンツェ市から追放。

1305年

神曲』執筆開始

1472年7月18日

印刷業者Federico de' Conti、アンコーナ近郊イェージに開設した印刷所から初の印刷本、『神曲』を刊行。

肖像画

関連項目

正式名

 ドゥランテ・アリギエーリ

別表記

 アリギエリ、詩聖ダンテ

外部リンク

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 歴史データベース

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『サイレント・マイノリティ』
 『サロメの乳母の話』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『服飾の中世』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネッサンス夜話』
 『錬金術』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia

ギヨーム・ド・マショー Guillaume de Machaut

生没
1300年頃~1377年4月13日

概要

 ギヨーム・ド・マショーは、14世紀の男性、作曲家、詩人。

著作

 『マショー作品集

外部リンク

 ウィキペディア

フランチェスコ・ペトラルカ Francesco Petrarca

生没
1304年7月20日~1374年7月19日
出身
アレッツォ
没地
アルクァ(アルクァ・ペトラルカ)
ペトラッコ

概要

 フランチェスコ・ペトラルカは、14世紀の男性。

著作

 『凱旋歌集

年表

1319年~1323年

モンペリエ大学で法学を学ぶ。

1323年~1325年

ボローニャ大学で法学を学ぶ。

1337年

カプラーニカに滞在。

1341年

ローマ、カンピドリオの丘において桂冠詩人の栄を受け、ローマ元老院議員オルソ・デッラングイッラーラジョルダーノ・オルシーニから桂冠を授けられる。

1470年

1469年ヴェネツィアに印刷所を開設したドイツ人JohannWendelin von Speyer (da Spira)兄弟の内のWendelin (Vindelino)、フランチェスコ・ペトラルカCanzoniere(カンツォニエーレ)の初の印刷本を刊行。

本名

 フランチェスコ・ぺトラッコ(Francesco Petracco

別表記

 Petrarch

関連項目

 The Borgias: 107

外部リンク

 ウィキペディア
 Francesco Petrarch - Father of Humanism

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『性病の世界史』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『メディチ家』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Eros the Bittersweet
 『Lucretia Borgia

ピエトロ・アザリオ Pietro Azario

生没
1312年~1366年以降
出身
ノヴァーラ

概要

 ピエトロ・アザリオは、14世紀のイタリアの男性、年代記作者。

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

ジョヴァンニ・ボッカッチョ Giovanni Boccaccio

生没
1313年6月16日~1375年12月21日
没地
チェルタルド
ボッカッシーノ・ディ・ケッリーノ

概要

 ジョヴァンニ・ボッカッチョは、14世紀のイタリアの男性、詩人、散文作家、人文主義者フィレンツェ商人の庶子として育ったが文学に傾倒し、ダンテ・アリギエーリベアトリーチェ・ポルティナーリに倣ってナポリでフィアンメッタという女性に愛を捧げ、詩作を行った。ダンテ・アリギエーリとの違いは、愛が成就してしまったことである。ただ、あっという間に喧嘩別れとなった。失意のうちにフィレンツェに戻った彼は当時流行していたフィレンツェ散文に興味をうつし、小説のようなものを書き始めた。
 こうして不朽の名作と呼ばれる『デカメロン』が生まれる。時に1348年。イタリア、フランスは恐るべきペスト渦に打ちのめされていた。黒死病と呼ばれ恐れられたこの病気は、幾度もヨーロッパを襲い、惨渦をもたらした。イタリアは人口の3分の1近くを失ったという。
 話はペスト禍のさなかのフィレンツェサンタ・マリア・ノヴェッラ教会前から始まる。ここで7人の美女が来合わせた3人の青年と意気投合し、ペストの来ない清浄な田舎に逃げ出そうと相談がまとまる。そこで1日1人が暇つぶしに話をすれば10日で100の話ができることになる。ダンテ・アリギエーリの『神曲』が3ずくしだったように『デカメロン』は10ずくしの構成をとっている。
 場合によっては卑猥で低俗になるが、実に生き生きとした筆の運びで当時の世風を描ききっている。ジョヴァンニ・ボッカッチョ自身は後にこの小説を書いたことを恥じ、襟を正して厳めしく高尚な本を書こうと精を出したが、結局『デカメロン』以上のものは書けなかった。
 老後は幻滅して暮らしていたがダンテ・アリギエーリに対する礼賛の心だけは失わず、『神曲註解』や『ダンテ礼賛』などの著作を残している。またフィレンツェ市に働きかけ、ダンテ研究講座を開かせ彼自身が講師を務めた。

著作

 『デカメロン』
 『女神ディアナの狩り』
 『フィローストラト』
 『フィローコロ』
 『テセウス物語』
 『愛の幻想』
 『フィアンメッタ悲歌』
 『名婦列伝』
 『異教神系譜論

年表

1313年6月16日

生。出生地はフィレンツェかチェルタルドかはっきりしない。チェルタルドは一族の故郷ではある。

1348年

イタリアで黒死病、14世紀から15世紀へ続く

1353年

『デカメロン』完成

1472年3月21日

印刷業者Bartolommeo di Valdezoccho、パドヴァに開設した印刷所で初の印刷本、詩人ジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313年~1375年)のElegia di madonna Fiametta(フィアメッタの悲劇)を刊行。

1472年

法学者Pietro Adamo De Micheliマントヴァに開設した印刷所から初の印刷本、ジョヴァンニ・ボッカッチョDecamerone(デカメロン)を刊行。

別表記

 ボッカチオ

関連項目

 The Borgias: 107

外部リンク

 ウィキペディア
 歴史データベース

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『君主論』
 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『マキアヴェリ』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

コルッチョ・サルターティ Coluccio Salutati

生没
1331年2月16日~1406年5月4日

概要

 コルッチョ・サルターティは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、人文主義者。政治的、文化的指導者。

在職

 フィレンツェ共和国書記局長 1375年4月19日~1406年5月4日

年表

1375年4月19日~1406年5月4日

官僚の最重要地位であるフィレンツェ共和国書記局長に任命される。

別表記

 コッチオ・サルターティ、コルッチョ・ディ・ピエロ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』

ジェフリー・チョーサー Geoffrey Chaucer

生没
1343年頃~1400年10月25日

概要

 ジェフリー・チョーサーは、14世紀から15世紀の男性。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イコノロジー研究

ディエゴ・ロペス・デ・エストゥニーガ Diego López de Estúñiga

生没
1350年頃~1417年

概要

 ディエゴ・ロペス・デ・エストゥニーガは、14世紀から15世紀の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

マヌエル・クリュソロラス Μανουὴλ Χρυσολωρᾶς

生没
1355年頃~1415年4月
出身
コンスタンティノープル
没地
コンスタンツ

概要

 マヌエル・クリュソロラスは、14世紀から15世紀の男性。ギリシア古典を西ヨーロッパに広めた。

別表記

 Manuel ChrysolorasChrysolerasEmanuele Crisolora

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『Lucretia Borgia

レオナルド・ブルーニ Leonardo Bruni

生没
1370年頃~1444年3月9日
出身
アレッツォ
没地
フィレンツェ
ドナート・ブルーニ

概要

 レオナルド・ブルーニは、アレッツォ生まれの外交官、書記官、政治家、人文主義者、古典学者、歴史家。ルネサンス初期の最も重要な人文主義者の歴史家とされ、最初の近代歴史家とも呼ばれる。おそらくイタリアとヨーロッパで最初に、古代ギリシア語を正確に理解した文人。

在職

 フィレンツェ共和国書記局長 1410年~1411年、1427年~1444年3月9日

翻訳

 アリストテレス著『政治学

年表

1370年頃

アレッツォにて、生。

1???年

コルッチョ・サルターティの弟子になる。

1405年~1414年

教皇秘書。

1410年~1411年

コルッチョ・サルターティの後任として、フィレンツェ共和国書記官長に任命される。

1427年~1444年3月9日

再び、フィレンツェ共和国書記官長に就任。

レオナルド・ブルーニは高い地位を占めてはいたものの、アルビッツィ家メディチ家に比べれば、権力はなかった。

1440年

この年頃、歴史の名に値する最初のフィレンツェ史と言われるHistoriarum florentini populi libri XII(フィレンツェ人の歴史12篇)を完(1415頃年~)。(1610年ストラスブルクで刊)。

1444年3月9日

フィレンツェで死。

1470年

ドイツ・マインツの印刷業者Johann Numeister(1400年代半頃~1522年頃)、ウンブリアのFolignoに開設した印刷所から初の印刷本、レオナルド・ブルーニDe bello Italico adversus Gothos(イタリア人とゴート人の戦争)を刊行。

1473年8月17日

レオナルド・ブルーニの『Historiarum florentini populi libri Ⅻ』(1440)のイタリア語訳『フィレンツェ史(Storia fiorentina)』完了。1476年ヴェネツィアで、1479年ローマで刊。

1475年

レオナルド・ブルーニの遺作Commentarius rerum suo tempore gestarum(同時代史:1440年執筆)、ヴェネツィアで刊。

埋葬地

別表記

 レオナルド・アレティーノ、リオナルド、Leonardo Aretino

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネッサンス夜話』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネッサンス百科事典』

グァリーノ・ダ・ヴェローナ Guarino da Verona

生没
1374年~1460年12月4日
出身
ヴェローナ
没地
フェッラーラ
バッティスタ・グァリーノ

概要

 グァリーノ・ダ・ヴェローナは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、人文主義者、古典学者。

著作

 『ホメロス伝』

別表記

 グアリーノ・ダ・ヴェローナ、ジョヴァンニ・グァリーノ

外部リンク

 エステ大辞典
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『Lucretia Borgia

ポッジョ・ブラッチョリーニ Poggio Bracciolini

生没
1380年2月11日~1459年10月30日
出身
テッラヌオヴァ・ブラッチョリーニ
没地
フィレンツェ
ヤコポ・ブラッチョリーニ

概要

 ポッジョ・ブラッチョリーニは、古典収集家、学者、著作家。

著作

 『フィレンツェ史

年表

1429年

De avaritia(吝嗇について)を完成(1428年~)。

1440年

De nobilitate(貴族論)執筆(1489年Antwerpenで刊)。

1440年

De infelicitate principium(君主の不幸について)執筆。

1448年

De Varietate fortunae(運命の変遷について)を完成(1431年~)。(1723年パリで刊)。

1452年

Liber facetiarum(風刺寓話集)を完成(1435年~1452年)。(1470年頃、ローマ及びニュルンベルクで刊)。

1455年

De miseria humanae conditionis(人間の悲惨な状態について)を執筆。

1459年10月30日

フィレンツェで死。

別表記

 ポッジオ・グッチオ・ブラチョリーニ、ブリッチオリーニ、ブラッチリオーニ、Gian Francesco Poggio Bracciolini

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ミケーレ・サヴォナローラ Michele Savonarola

生没
1384年~1468年
出身
パドヴァ
没地
フェッラーラ
ジョヴァンニ・サヴォナローラ
カテリーナ・ダ・ベルガモ
カテリーナ・ダ・ペルヌーミア
ニッコロ・サヴォナローラ

概要

 ミケーレ・サヴォナローラは、14世紀から15世紀の男性、医師、パドヴァ大学教授、フェッラーラ大学教授、エステ家宮廷筆頭侍医、トマス・アクイナスの信奉者。

年表

1384年

パドヴァにて、生(1385年)。

1414年

カテリーナ・ダ・ペルヌーミアと結婚。

1440年6月末

主著Opus medicinae seu pratica de aegritudinibus de capite usque ad pedes(医学概論または頭から足までの病気への対応)を執筆、公表。

1440年初秋

ニッコロ3世・デステの招請を受け、エステ家筆頭侍医、フェッラーラ大学教授として家族と共にフェッラーラに転居。

1452年9月21日

ジローラモ・サヴォナローラ、フェッラーラに生。

1452年

ジローラモ・サヴォナローラの養育の手引きとしてその母エレーナ・ボナコッシのため、『医学概論または頭から足までの病気への対応』の一部を一般向けに俗語で書き改めた小著Ad mulieres Ferrarienses de regimine praegnatium et noviter natorum usque ad septennium(妊婦と誕生から7歳までの幼児の摂生について)を執筆。

1465年

Speculum phisionomiae((人間を見る)鏡としての人相)を刊行。

1468年

フェッラーラで死。

1479年

遺作Opus medicinae seu pratica de aegritudinibus de capite usque ad pedes(医学概論または頭から足までの病気への対応)、フィレンツェ近郊Colle Valdelsaで刊。以後この著、この世紀及び翌16世紀にヴェネツィア及びボローニャで版を改めて刊行され、イタリア及びドイツで普及。

1485年

遺作Pratica canonica de febribus(熱への正しい対応)、Liber de balneis et thermis naturalibus omnibus Italiae sicque totius mundi(イタリア及び全世界の天然温泉についての書)、フェッラーラで刊。

1487年

遺作Summa de pulsibus urinis et egestionibus(脈、尿及び排泄物についての全書)、フェッラーラで刊。

著作

 『医学概論または頭から足までの病気への対応』
 『妊婦と誕生から7歳までの幼児の摂生について』
 『(人間を見る)鏡としての人相』
 『熱への正しい対応』
 『イタリア及び全世界の天然温泉についての書』
 『脈、尿及び排泄物についての全書』

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネッサンス夜話』
 『Lucretia Borgia

アントーニオ・パノルミータ Antonio Panormita

生没
1394年~1471年
出身
パレルモ
没地
ナポリ王国ナポリ

概要

 アントーニオ・パノルミータは、詩人、人文主義者、Accademia Antoniana(アントニオ学園、後Accademia Pontaniana ポンターノ学園)の創立者。

年表

1425年9月

ラテン語詩Hermaphrodius(ヘルマフロディーテ)をボローニャで公表。

1455年

De dictis et facilis Alphonsi regis Aragonum(アラゴン王アルフォンソ誌)を完成。

1471年1月19日

ナポリで死。

1485年

De dictis et facilis Alphonsi regis Aragonum、ピサで刊。

本名

 Antonio Beccadelli

別表記

 Il Panormita

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジャンノッツォ・マネッティ Giannozzo Manetti

生没
1396年6月5日~1459年10月27日
出身
フィレンツェ
没地
ナポリ王国ナポリ
ベルナルド・マネッティ
アレッサンドラ・テバルドゥッチ
ベルナルド・マネッティ
アンジェロ・マネッティ
アントニーノ・マネッティ
ピエラ・マネッティ
コスタンツァ・マネッティ
ジネヴラ・マネッティ
ジョヴァンニ・マネッティ

概要

 ジャンノッツォ・マネッティは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、政治家、人文主義者。

著作

 人間の尊厳と優越について

年表

1452年

人間の尊厳と優越について』を完成(1451年~1452年)し、アルフォンソ5世・デ・アラゴンに献呈。

1459年10月27日

ナポリで死。

1532年

バーゼルで『人間の尊厳と優越について』刊行。

別表記

 ジァノッツォ・マネッティ

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』

ロベルト・ヴァルトゥリオ Roberto Valturio

生没
1405年2月10日~1475年8月30日
出身
リーミニ

概要

 ロベルト・ヴァルトゥリオは、15世紀のイタリアの男性、著作家。

著作

 『軍事論

年表

1472年

印刷業者Giovanni da Verona、ヴェローナに開設した印刷所から初の印刷本、ロベルト・ヴァルトゥリオのDe re militari(軍事論:1460年執筆)を刊行。

外部リンク

 De re militari - Google Books
 Ingenious
 The Metropolitan Museum of Art
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

マッテオ・パルミエリ Matteo Palmieri

生没
1406年~1475年
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ

概要

 マッテオ・パルミエリは、15世紀のイタリアの男性、人文主義者、政治家。

年表

1438~1439年

主著Della vita civile(市民生活について)を執筆。(1529年フィレンツェで刊)。

1464~1466年

マッテオ・パルミエリ、俗語詩La città di vita(生命の都)を執筆。(1529年フィレンツェで刊)。

1466年9月末

ピエロ・イル・ゴットーソ、陰謀、反乱の平定を告知するためヴェネツィア、ミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ナポリのフェッランテ・ダラゴーナに使節を派遣。この後ボローニャにはマッテオ・パルミエリを派遣し、反乱をいち早く通報してくれたことへの謝意をも表明。

1475年4月13日

フィレンツェで死。

別表記

 マテオ・パルミエーリ

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ロレンツォ・ヴァッラ Lorenzo Valla

生没
1407年~1457年
出身
ローマ

概要

 ロレンツォ・ヴァッラは、15世紀のイタリアの男性、人文主義者、言語学者。

年表

1431年

De volptate(快楽について、別題De vero bono(真の善について))をパヴィアで執筆。

1435年

アルフォンソ5世・デ・アラゴンの秘書官になる。

1440年

アルフォンソ5世・デ・アラゴンの秘書官として主君の利権を擁護するためDe falso credita et ementitia Constantini donatione declamatio(誤って信じられてきたコンスタンティヌスの寄進状が偽作であることについて)を著し、教皇の現世支配権の根拠とされるコンスタンティヌスの寄進状を偽作と証明、主張。

1444年

Elegantiarum latinae linguae libri VI(ラテン語の優雅さ6篇)完成(1435年~)。(1471年ローマで刊)。

1449年

Adnotationes in Novum Testamentum(新約聖書校註)を執筆。(1505年パリで刊)。

1457年8月1日

ローマで死(1407年~1457年)。

1499年

遺作Dialecticae disputationes contra Aristotelicos(反アリストテレス主義者弁証論議)、ヴェネツィアで刊行。

1519年

De volptate、バーゼルで?刊。

1521年

この年頃、遺作Historiarum Ferdinandi regis Aragoniae(アラゴン王フェルディナンド誌)刊。

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『The Life of Cesare Borgia

バルド・バルトリーニ Baldo Bartolini

生没
1409年5月~1490年9月23日
出身
教皇領ペルージア
没地
教皇領ペルージア
コーラ・バルトリーニ
ベルナルド・バルトリーニ
マリアーノ・バルトリーニ

概要

 バルド・バルトリーニは、15世紀のイタリアの男性、法学者。

年表

1409年5月

コーラにて、生(1414年)。

埋葬地

 サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会

別表記

 バルド・バルドリーニ

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

ベネデット・アッコルティ Benedetto Accolti

生没
1415年~1464年9月26日
出身
アレッツォ
没地
フィレンツェ
ミケーレ・アッコルティ
ミケーレ・アッコルティ
ロゼッロ・アッコルティ
ベネデット・アッコルティ
ピエトロ・アッコルティ
ベルナルド・アッコルティ
エリザベッタ・アッコルティ
カテリーナ・アッコルティ
ルクレツィア・アッコルティ

概要

 ベネデット・アッコルティは人文主義者、法学者。

年表

1464年9月26日

フィレンツェで死(1466年)。

1532年

遺作De bello a christianis contra barbaros gesto pro Christi sepulchro et Iudaea recuperandis(キリスト教徒によるキリストの墳墓およびユダヤ地方奪回戦争について)、ヴェネツィアで刊。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ヨハネス・アルギュロプロス Johannes Argyropulos

生没
1415年頃~1487年

概要

 ヨハネス・アルギュロプロスは、15世紀の男性。

別表記

 ヤノス・アルギュロプーロス、John Argyropulos

外部リンク

 みんなの知恵蔵
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『ルネサンス精神の深層』
 『Lucretia Borgia

ジョヴァンニ・シモネッタ Giovanni Simonetta

生没
1420年~1490年
出身
カックーリ
没地
ヴェルチェッリ
アントーニオ・シモネッタ

概要

 ジョヴァンニ・シモネッタは、15世紀のイタリアの男性。

著作

 『フランチェスコ・スフォルツァの生涯』

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

マスッチォ・サレルニターノ Masuccio Salernitano

生没
1420年頃?~1475年
出身
サレルノ
没地
サレルノ

概要

 マスッチォ・サレルニターノはサレルノ生まれの著作家、小説家。

年表

1475年

サレルノで死。

1476年

マスッチォ・サレルニターノの遺作Novellino(小話集)、ナポリで刊。

本名

 Tommaso Guardati

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチ Vespasiano da Bisticci

生没
1421年~1498年7月28日

概要

 ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチは、書籍商。

著作

 ウルビーノ公フェデリーコ伝

年表

1421年

フィレンツェ近郊リニャーノ・スッラルノのビスティッチに生。

1480年

書籍商を辞める。

1482年

生業を辞めて以来籠もっていたフィレンツェ郊外アンテッラの農園でLe vite di uomini illustri del secolo XV(十五世紀著名人列伝)の執筆を開始。

1498年7月28日

フィレンツェ郊外アンテッラで死。

1839年

Le vite di uomini illustri del secolo XVローマで刊。

別表記

 ヴェスパジアーノ・フィオレンティーノ、Vespasiano Florent.

外部リンク

 Thematic Pathways on the Web
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

バルトロメオ・プラティナ Bartolomeo Platina

生没
1421年~1481年9月21日

概要

 バルトロメオ・プラティナは、15世紀の男性、人文主義者

著作

 『キリストと全教皇の生涯』

年表

1468年2月末

この頃、Giulio Pomponio Letoの主催するAccademia Romana、反教会的、異教的、共和政的秘密結社と化して反パウルス2世の陰謀を企んだと見なされて閉鎖され、Giulio Pomponio Letoを初めバルトロメオ・プラティナら人文主義者が逮捕される。しかし各自反論し、翌1469年5月頃までに釈放される。

1475年11月

この頃までにシクストゥス4世、バルトロメオ・プラティナをヴァティカン図書館長に任命し、教皇列伝の執筆を依頼。

1479年

バルトロメオ・プラティナ、シクストゥス4世の依頼により執筆していたLiber de vita Christi acomnium pontificum(キリストと全教皇の生涯)を完成。

1481年9月21日

この日?、バルトロメオ・プラティナ、ローマで死。

肖像

本名

 Bartolomeo Sacchi

別表記

 プラチーナ、プラーティナ、Il Platina

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

アントーニオ・トゥッチ・マネッティ Antonio Tucci Manetti

生没
1423年7月6日~1497年5月26日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ

概要

 アントーニオ・トゥッチ・マネッティは、イタリア人文主義者、建築家、数学者。

別表記

 アントーニオ・ディ・トゥッチョ・マネッティ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』

デメトリオ・カルコンディラス Demetrio Calcondilas

生没
1423年8月~1511年1月9日
出身
ギリシア、アテネ
没地
ミラノ公国ミラノ

概要

 デメトリオ・カルコンディラスは人文主義者、ギリシア語学者。

年表

1423年8月

アテネにて、生(1424年)。

1491年

ルドヴィーコ・イル・モーロに招聘され、ミラノで教鞭をとる(1492年)。

1493年

Erotemata(ギリシア語文法)を執筆。

1494年

Erotemata、ミラノで刊。

1511年

ミラノで死。

肖像

別表記

 カルコンディラ、Demetrius Chalcondyles

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの華』

クリストフォロ・ランディーノ Cristoforo Landino

生没
1424年~1498年9月24日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
バルトロメオ・ランディーノ
ルクレツィア・デリ・アルベルティ

概要

 クリストフォロ・ランディーノはフィレンツェ生まれの人文主義者

年表

1459年

ルクレツィア・デリ・アルベルティと結婚。子供7人をもうける。

1472年

De nobilitate animate(魂の高貴さについて)を執筆。

1475年

この頃、『カマルドリ論議』を執筆。(1480年頃フィレンツェで刊)。

1481年

ボッティチェッリのイラスト入りのCommento alla Commendia di Dante(ダンテ『神曲』の註解)をフィレンツェのシニョーリアに献呈。

1487年

ドイツの印刷業者Andreas Freitagローマ近郊ガエタに開設した印刷所から、クリストフォロ・ランディーノのFormulario de epistole vulgare de ornati parlamenti(典雅な俗語手紙文例集)を刊行。

1498年9月24日

フィレンツェで死。

著作

 キリストの聖体を記念して
 真の高貴について
 カマルドリ論議
 クサンドラ
 典雅な俗語手紙文例集

註解

 神曲

翻訳注解

 博物誌

肖像

別表記

 Cristoforo di Bartolommeo Landini

外部リンク

 ウィキペディア
 CiNii
 Google Books
 Google Books
 Treccani.it

参考文献

 『イコノロジー研究
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

レオーネ・コベッリ Leone Cobelli

生没
1425年~1500年5月14日
出身
フォルリ
バッティスタ・コベッリ

概要

 レオーネ・コベッリは、15世紀のイタリアの男性、画家、年代記作者。

著作

 『フォルリ年代記』

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ジョヴァンニ・ポンターノ Giovanni Pontano

生没
1426年5月7日~1503年9月
出身
Cerreto
没地
ナポリ王国ナポリ

概要

 ジョヴァンニ・ポンターノは人文主義者、詩人、政治家。

年表

1426年5月7日

おそらくこの年月日、ウンブリアのCerretoに誕生。

1491年11月

アンジュー家ナポリ王位要求権を継承しているとして当の王位を狙うシャルル8世インノケンティウス8世との関係が親密化しつつあるとの報を得たフェッランテ・ダラゴーナにより、インノケンティウス8世との関係改善を目指し、特使としてローマに派遣される。

1494年5月8日

アルフォンソ2世・ダラゴーナナポリ王戴冠式で、王の訓示を読み上げる(1494年5月7日)。

1503年9月

ナポリで死。

1509年

遺作De bello Neapolitano et de sermone(ナポリ戦役)、ナポリで刊行。

別表記

 ジョヴィアーノ・ポンターノ、ジョヴァンニ・イオヴィアーノ・ポンタノ、Jovian. Pontan.Gioviano PontanoJohannes Pontanus

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

アラマンノ・リヌッチーニ Alamanno Rinuccini

生没
1426年5月22日~1499年5月12日
出身
フィレンツェ
フィリッポ・リヌッチーニ
テッサ・ヴェットーリ
リーサ・カッポーニ
ピエロ・リヌッチーニ
アレッサンドラ・リーサ・リヌッチーニ
フィリッポ・マリーア・リヌッチーニ
ジネヴラ・チェチーリア・リヌッチーニ

概要

 アラマンノ・リヌッチーニは、15世紀のイタリアの男性、人文主義者。

年表

1426年5月22日

フィレンツェに生。

1479年4月

Dialogus de libertate(自由についての対話)においてロレンツォ・イル・マニーフィコをフィレンツェの専制君主、自由の抑圧者と糾弾し、1478年のパッツィ家の決起を断固として弁護。

1499年

フィレンツェで死。

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ミケーレ・ゾペッロ Michele Zopello

生没
14??年~
出身
サチーレ

概要

 ミケーレ・ゾペッロは、15世紀頃のイタリアの男性、暗号学者。イタリア情勢や軍事技術に精通。

著書

 『Litterarum simulationis liber

年表

1450年

サヴォイア公 ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアに書記として仕える。

フランチェスコ1世・スフォルツァによって投獄される。

1450年9月14日

サシッロからアレッサンドリアに移送の予定だったが、ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアに情報が洩れているため、ピアチェンツァに移送先を変えるよう、フランチェスコ1世・スフォルツァアレッサンドリアポデスタに命じる。

1452年12月28日

フランチェスコ1世・スフォルツァからミケーレ・ゾペッロ宛て手紙。釈放が知らされ、ミラノ公のもとへ出頭するよう命じられる。

別表記

 Michaeli de Zopelis

外部リンク

 Bibliotheca Philadelphiensis
 Lombardia Beni Culturali
 Lombardia Beni Culturali

フランソワ・ヴィヨン François Villon

生没
1431年?~1463年以降

概要

 フランソワ・ヴィヨンは、15世紀のフランスの男性、詩人。

著作

 『形見の歌』
 『遺言詩集』

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ルネッサンスの光と闇』

ルイジ・プルチ Luigi Pulci

生没
1432年8月15日~1484年11月
出身
フィレンツェ
没地
パドヴァ
ヤコポ・プルチ
ルクレツィア・デリ・アルビッツィ

概要

 ルイジ・プルチは、15世紀のイタリアの男性、詩人。

著作

 『モルガンテ

年表

1432年8月15日

フィレンツェに生。

1466年3月12日

フィレンツェでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。

1469年

1469年2月7日にロレンツォ・イル・マニーフィコが開催した騎馬槍試合を歌ったLa Giostra di Lorenzo de' Medici(ロレンツォ・デ・メディチの騎馬槍試合)を作詩。

1470年代初め

ロレンツォ・イル・マニーフィコによりロベルト・サンセヴェリーノに紹介される。

1473年9月

生まれ故郷ミラノへ帰るロベルト・サンセヴェリーノに同行し、その旅の記録を北部の方言を真似た風刺的なソネット2編に残した。

1474年2月

ロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。マルシリオ・フィチーノに対する中傷的内容の手紙。

1474年

ルクレツィア・デリ・アルビッツィと結婚。

1477年1月3日(金)

ロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの死について言及し、ロレンツォ・イル・マニーフィコの利益になるようにロベルト・サンセヴェリーノに働きかけることを申し出ている。

1477年2月半ば

ミラノに向けて発つ。

到着後は彼自身がフィレンツェ政府のスパイによって監視されていた。

1477年3月

ロレンツォ・イル・マニーフィコに密書を送ろうとした時、チッコ・シモネッタの要請により、その密書を現地のフィレンツェ大使に盗み見られていた。

1477年4月

フィレンツェに戻る。

1483年

モルガンテフィレンツェで刊行。

1484年11月

パドヴァで死。

外部リンク

 レオナルドとルイジ・プルチ
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

シジスモンド・デ・コンティ Sigismondo de' Conti

生没
1432年~1512年2月23日
出身
フォリーニョ
没地
ローマ

概要

 シジスモンド・デ・コンティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

マルシリオ・フィチーノ Marsilio Ficino

生没
1433年10月19日~1499年10月1日
出身
フィリーネ・ヴァルダルノ
没地
カレッジ

概要

 マルシリオ・フィチーノは、15世紀のイタリアの男性、哲学者、人文主義者。

著作

 プラトン神学
 愛について
 弁明
 三重の生について
 キリスト教論
 フェッランテ王に宛てたアルフォンソ王の予言

翻訳

 エネアデス

年表

1433年10月19日

フィレンツェ近郊フィリーネ・ヴァルダルノに誕生。(1433年10月9日)

1456年

フェッラーラ・フィレンツェ公会議(1438年~1439年)に出席したギリシアの人文主義者Ioannes Argyropoulos(1415年頃~1487年)をフィレンツェ大学及び自分の息子らの師として招いたコジモ・イル・ヴェッキオ、公会議後に着想を得た哲学及び哲学的討論に関心を抱く有能な若者たちの集いアカデミア・プラトニカの実現に向かう。自分の侍医の息子で1451年頃からプラトン哲学を学ばせておいた最も有能な23歳の青年マルシリオ・フィチーノをその中心メンバーと想定。

1459年

この頃、コジモ・イル・ヴェッキオ、マルシリオ・フィチーノにプラトンの著作のラテン語への翻訳、註解を指示し、そのための支援を始める。

1462年

コジモ・イル・ヴェッキオは、マルシリオ・フィチーノにプラトンの著作のラテン語への翻訳・註解の場としてカレッジの自分の別荘を提供。プラトン・アカデミーは、以後この別荘でマルシリオ・フィチーノを中心に発展。

1463年4月

『ヘルメス文書』をラテン語に翻訳。(1471年刊行)。

1469年

プラトンの『饗宴』への注釈を完了。

1470年

この年頃、プラトンの著作(対話篇)のラテン語訳を完成。1484年以降刊。

1474年

キリスト教論』を執筆。(1476年刊)。

1482年11月25日

プラトン神学』をフィレンツェで刊行。

1489年12月3日

医学・神学論『三重の生について』をフィレンツェで刊行し、ロレンツォ・イル・マニーフィコに献呈。

1490年1月

この月?、ミケランジェロロレンツォ・イル・マニーフィコに招かれてメディチ宮殿に住み(1490年~1492年)、Bertoldo di Giovanniに彫刻を学び始める。以後ここでマルシリオ・フィチーノ、アンジェロ・ポリツィアーノジョヴァンニ・ピコらと交流。

1492年5月7日

この日までにギリシア哲学者プロティノス(205年頃~79年)の作品の翻訳をフィレンツェで印刷。

1499年10月1日

フィレンツェ郊外カレッジのメディチ家別荘で死。

肖像

別表記

 マルシーリオ・フィツィーノ

外部リンク

 ウィキペディア
 フィチーノ研究のラウンジ
 早稲田大学図書館
 魔術人名録
 Renaissance Astrology
 Treccani.it

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネッサンス夜話』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『The Life of Cesare Borgia

ヤコポ・ゲラルディ Jacopo Gherardi

生没
1434年7月25日~1516年9月
出身
ヴォルテッラ
没地
ローマ
ニッコロ・ゲラルディ

概要

 ヤコポ・ゲラルディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、人文主義者。1479年から1484年に日記を残す。

年表

1434年7月25日

ヴォルテッラに生。

1445年7月

親類であるフィレンツェのスピネッリ家に居候し、おそらく銀行業に触れる。

14??年

シエナへ。

1458年

ローマへ。

14??年

フランチェスコ・トデスキーニ司教に雇われる。

1463年

ヤコポ・アンマンナーティ枢機卿の秘書になる。彼の死まで在職。

1479年9月7日~1484年8月12日

日記をつける。

1479年9月10日

ヤコポ・アンマンナーティ、死。

1516年9月

ローマで死。

別表記

 ジャーコモ・ゲラルディ、ヴォルテッラ、Jacopo of Volterra

外部リンク

 Wikipedia
 Wikipedia
 Treccani

参考文献

 『ボルジア家ー悪徳と策謀の一族』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ヤコポ・フィリッポ・フォレスティ Jacopo Filippo Foresti

生没
1434年~1520年6月15日
出身
ソルト・コッリーナ
没地
ベルガモ

概要

 ヤコポ・フィリッポ・フォレスティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

著作

 『Supplementum chronicarum』 1483年ヴェネツィア
 『De plurimis claris selectisque mulieribus』 1497年フェッラーラ     カテリーナ・スフォルツァの初の伝記が収録されている。  『Confessionale seu interrogatorium』 1520年ヴェネツィア

別表記

 Jacopo da Bergamo

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia

コンスタンティーノ・ラスカリス Constantino Lascaris

生没
1434年~1501年
出身
コンスタンティノポリス
没地
メッシーナ

概要

 コンスタンティーノ・ラスカリスはビザンツの文法学者、写本収集家。

年表

1434年

コンスタンティノポリスに生。

1476年

イッポーリタ・スフォルツァのために書いたErotemata((ギリシア語文法)抜粋)をミラノで刊行。ギリシア語の最初の印刷本となる。

1495年3月8日

Erotemataの再版を、アルドー・マヌツィオが最初の出版物としてヴェネツィアで刊行。

1501年

メッシーナで死。

別表記

 ラスカリフ、Konstantinos LaskarisConstantinus Lascaris

外部リンク

 Catholic Encyclopedia
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia

マッテオ・マリーア・ボイアルド Matteo Maria Boiardo

生没
1441年5月21日~1494年12月20日
出身
スカンディアーノ
没地
レッジョ・エミリア
ジョヴァンニ・ボイアルド
ルチア・ストロッツィ
タッデア・ゴンザーガ
カミッロ・ゴンザーガ
ルチア・ゴンザーガ
コルネーリア・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
エミーリア・ゴンザーガ

概要

 マッテオ・マリーア・ボイアルドは、15世紀のイタリアの男性、詩人。

在位

 スカンディアーノ伯爵 1456年~1494年

著作

 『恋するオルランド』

年表

1441年5月21日~1441年6月21日

レッジョ近郊スカンディアーノに生(1434年頃、1440年)。

1473年

シジスモンド・デステ率いる、フェッラーラエルコーレ1世・デステの花嫁エレオノーラ・ダラゴーナ出迎え一行に参加。

1483年

Orlando innamorato(恋するオルランド)1・2篇をレッジョで刊行。

1494年12月20日

レッジョで死(1494年12月19日)。Orlando innamorato(恋するオルランド)の3篇、未完のままに終わる。

1499年

マッテオ・マリーア・ボイアルドの遺作Amorum libri tres(愛について3篇)刊。

別表記

 マテオ・マリア・ボヤルド

外部リンク

 ウィキペディア
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルネサンスの歴史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

ペッレグリーノ・プリシアーノ Pellegrino Prisciano

生没
1435年頃~1518年
出身
フェッラーラ
没地
フェッラーラ

概要

 ペッレグリーノ・プリシアーノは、15世紀から16世紀の男性。

別表記

 プリッシャーノ、プリシャーニ

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』

ステファノ・インフェスーラ Stefano Infessura

生没
1435年頃~1500年頃
出身
ローマ

概要

 ステファノ・インフェスーラは、15世紀頃のイタリアの男性、法律家、年代記作者。ローマ元老院の秘書官という地位に長期間就いていたため、ローマを巡る情報や噂に通じていた。

別表記

 インフェッスラ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ルカ・ランドゥッチ Luca Landucci

生没
1436年?~1516年
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
アントーニオ・ランドゥッチ
サルヴェストーラ・パーニ

概要

 ルカ・ランドゥッチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェの薬種業者、年代記作家。祖父は同名のルカ・ランドゥッチ。

著作

 『フィレンツェ日誌』(Diario fiorentino

年表

1436年

この年?、フィレンツェに生(1435年)。

1516年6月2日

この日以前、、フィレンツェで死。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

マルカントーニオ・サベリコ Marcantonio Sabellico

生没
1436頃~1506年
出身
ヴィコヴァーロ
没地
ヴェネツィア

概要

 マルカントーニオ・サベリコは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、人文主義者、歴史家。

年表

1436年

この年頃、ローマ近郊ヴィコヴァーロに生。

1487年

Rerum Venetarum ab urbe condita(ヴェネツィア誌)をヴェネツィアで刊行。

1498年

Enneades sive Rapsodiae historiarum(真の世界史)92篇の刊行をヴェネツィアで開始(1498年~1504年)。

1506年4月18日

ヴェネツィアで死。

本名

 Marcantonio Coccio

別表記

 マルコ・アントーニオ・サベリコ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アンニオ・ダ・ヴィテルボ Annio da Viterbo

生没
1437年1月5日~1502年9月13日
出身
ヴィテルボ
没地
ローマ

概要

 アンニオ・ダ・ヴィテルボは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、人文主義者、歴史家、偽書作者。

外部リンク

 ウィキペディア

ウゴリーノ・ヴェリーノ Ugolino Verino

生没
1438年~1516年5月10日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ

概要

 ウゴリーノ・ヴェリーノは、15世紀から16世紀の男性、イタリアの詩人。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『ルネサンス精神の深層』

ハルトマン・シェデル Hartmann Schedel

生没
1440年2月13日~1514年11月28日
出身
ニュルンベルク
没地
ニュルンベルク

概要

 ハルトマン・シェデルは、14世紀~16世紀のドイツの男性、医師、人文主義者、歴史家。

著作

 『Nuremberg Chronicle

Nuremberg Chronicle』1493年 フィレンツェの眺め

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

フランチェスコ・ベルリンギエリ Francesco Berlinghieri

生没
1440年~1501年

概要

 フランチェスコ・ベルリンギエリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

著作

 地誌

外部リンク

 corbis
 THE BORGIAS wiki
 Wikipedia

フランチェスコ・マタラッツォ Francesco Matarazzo

生没
1443年~1518年8月21日

概要

 フランチェスコ・マタラッツォは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ドメニコ・マリピエーロ Domenico Malipiero

生没
1445年~1513年10月30日
出身
ヴェネツィア
没地
ヴェネツィア

概要

 ドメニコ・マリピエーロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、年代記作者。

年表

1445年

ヴェネツィアにて、生(1428年)。

1497年6月17日

手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアフアン・ボルジアと近親相姦を犯しているとの噂について。

1513年10月30日

ヴェネツィアにて、死(1515年)。

別表記

 マリピエロ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia

ルカ・パチョーリ Luca Pacioli

生没
1445年頃~1517年1月19日
出身
ボルゴ・サン・セポルクロ
没地
ローマ

概要

 ルカ・パチョーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、数学者、フランシスコ会修道士。

年表

1445年

この年頃、アレッツォ近郊ボルゴ・サン・セポルクロに生(1447年頃)。

1477年10月

ペルージア到着。

1477年11月~1480年6月

ペルージア大学にて教鞭を取る。

1480年

ヴェネツィア共和国ツァラ(ザダル)に行く。

1494年

Summa de arithmetica, geometria, proportioni e proportionalià(算術、幾何、比例及び比例全面)をヴェネツィアで刊行。

1497年

ルドヴィーコ・イル・モーロに招聘され、ミラノで幾何学と数学を教える。また、レオナルド・ダ・ヴィンチと協力して研究。

1509年

レオナルド・ダ・ヴィンチによる遠近法の図解入りの著De divina proportione(神聖比例論)をヴェネツィアで刊行。

1517年1月19日

ローマにて、死(1509年以降、1520年頃)。

別表記

 フラー・ルーカ・パッチョーロ、Fra Luca Bartolomeo de PacioliLuca di Borgo

外部リンク

 ウィキペディア
 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』

パウルス・ファン・ミデルブルフ Paulus van Middelburg

生没
1446年~1534年12月13日
出身
ミデルブルフ
没地
ローマ

概要

 パウルス・ファン・ミデルブルフは、15世紀から16世紀のネーデルラント出身の男性、占星術者、聖職者。

在位

 フォッソンブローネ司教 1494年~1534年

年表

1481年~1508年

ウルビーノ公国の宮廷占星術師を務める。

外部リンク

 Finestre sull'Arte
 Wikipedia

フィリップ・ドゥ・コミーヌ Philippe de Commynes

生没
1447年~1511年10月18日

概要

 フィリップ・ドゥ・コミーヌは、15世紀から16世紀の男性、年代記作家、政治家、外交官。

年表

1447年

この頃、現フランス・ベルギー国境のコミーヌに生。

1494年10月11日

パヴィア到着。

1498年

Mémoires(回想録)全8篇を完成(1489年~1498年)。(1524~1528年パリで刊行)。

1511年10月18日

現フランス西部Argentonで死。

別表記

 フィリップ・ダルジャントン、コミンズ、ComminesComines

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『The Life of Cesare Borgia

アンドレア・ベルナルディ Andrea Bernardi

生没
1450年~1522年
出身
サン・ジョヴァンニ・イン・ペルシチェート
没地
フォルリ

概要

 アンドレア・ベルナルディは、イタリアの歴史家、年代記作者。

著作

 『Cronache Forlivesi

外部リンク

 Google Books
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『The Life of Cesare Borgia

ヨハン・ブルカルト Johann Burchard

生没
1450年頃~1506年5月16日
出身
ニーダーラウターバッハ
没地
ローマ

概要

 ヨハン・ブルカルトは、15世紀から16世紀の男性、教皇庁の儀典長。見聞したことを詳細にしたためた彼の日記は高い資料的価値を持つ。

著作

 『ヨハン・ブルカルトの日記

在職

 教皇庁儀典長 1484年~1503年

在位

 チヴィタ・カステッラーナ、オルテ司教 1503年~1506年

年表

1445~1450年

ニーダーラウターバッハにて、生。

14??年

ニーダーラウターバッハの聖フロレンティウス修道院で基礎教育と典礼の初歩を学ぶ。

1467年

サン・トマーシュ教会司祭でストラスブール総代理であったヨハネス・ヴェーガロフの下で書記として初めての職を得る。

その立場を利用して文書偽造や窃盗などを犯し、辞職を余儀なくされる。

ローマに行く。

1471年

パウルス2世により、ストラスブールの聖エリギウス礼拝堂付き聖職者に任命され、4スクードの収入を保証される。

1472年

ヴェネツィア宮殿のマルコ・バルボ枢機卿の客人や職員として、文書に名前の記載あり。

1472年

シクストゥス4世により、アルザス地方のストラスブールの聖トーマス教会及びハスラッハの聖フロレンティウス教会の聖堂参事会員聖職禄を与えられる。

1473年

ジョヴァンニ・アルチンボルディ枢機卿に仕え、その影響力により、教皇の家族及び常連会食者の称号を得る。

1475年

教皇庁財務長官であるペーザロ司教トンマーゾ・ヴィンチェンツィの下で働く。

聖年を機に、昇進を妨げていた偽造と窃盗の罪を告白し、許しを得る。

1478年

教皇付き聖職者及び教皇勅書の草稿書記官に任命される。

1481年

教皇庁首席書記官及び教皇庁聖職者となった。

1484年

アゴスティーノ・パトリツィ・ピッコロミーニに代わって、教皇庁儀典長に就任(1483年)。

1491~1500年

ローマサンテウスタキオ地区にブルカルド小宮殿を建てる。

1494年

アルフォンソ2世・ダラゴーナナポリ王戴冠式とホフレ・ボルジアサンチャ・ダラゴーナの結婚式を差配する任務を負う。

1494年4月24日(木)

フアン・デ・ボルハ枢機卿に随行してローマ出発。

1494年4月28日(月)

カステル・ヌオーヴォにて、アルフォンソ2世・ダラゴーナに儀式の進行を説明。

1494年5月8日(木)

アルフォンソ2世・ダラゴーナナポリ王戴冠式を差配(1494年5月7日)。

1503年8月18日(金)

晩課の時刻(現19時51分)、教皇アレクサンデル6世、死。

ミケーレ・ダ・コレーリアヴァティカン宮殿の入口の全ての扉を閉め、財産を確保。

召使が、教皇の肘掛け椅子、座布団、壁布を残し、箪笥の中のものを全て着服。

7刻(現14時51分)、ヨハン・ブルカルトの同僚がヴァティカン宮殿に到着し、承認され中に通される。教皇の死を知り、聖具室付き召使と教皇の召使に遺体を洗わせる。全て日常着用していた服と、生前1度も袖を通すことのなかった裾なしの白い外套を着せる。諸教皇の間の控室で棺台に寝かせ、真紅の絹と敷物を被せる。

8刻(現15時51分)、再び扉を開かれ、教皇の死が知れ渡る。

8刻、同僚に呼ばれ、ヨハン・ブルカルトがヴァティカン宮殿に到着。この間、外にいる枢機卿たちにも報告が届くが、誰も行動を起こさず。

ヨハン・ブルカルトがオリヴィエーロ・カラーファ枢機卿に切迫した危機に備えることを提案。9刻過ぎ、オリヴィエーロ・カラーファが秘書を通して全枢機卿に、翌朝サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂に集まってもらえるよう伝える。

ヨハン・ブルカルトが遺体に錦の赤い長衣、短い腕帛、上祭服、長靴下を着せる。靴には十字がなかったので、真紅のビロードの愛用だった履物を代わりに履かせ、かかとに2本の紐で金の十字を結びつける。指輪は行方不明。

諸教皇の間私的謁見の間を通り、鸚鵡の間に遺体を運ぶ。真紅の覆いと敷物をかけた、棒の長さの机を用意する。錦の座布団4つと真紅のビロードの座布団1つを調達するが、古いビロードは使わず、遺体の肩、両脇、頭の下に置き、その上に敷物をかける。

2つの松明のみで、夜通し遺体に付き添う者は誰もいず。

1503年8月19日(土)

夜12刻(現19時51分)過ぎ、宮殿警備8人に付き添われて、町に戻る。教区、修道問わずローマの全聖職者に、アレクサンデル6世の遺体にシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ大聖堂に付き添うため翌朝9刻にヴァティカンに集合と知らせるよう、副長官としてカルロら急使に、できなければ職を失う条件で指示を出す。教皇随行のための松明が2百本準備される。

ヴァティカン宮殿鸚鵡の間に棺を運び、遺体を中に横たえる。袖なしの外套を着た副助祭が十字架を運ぶため待機したものの、教皇の十字架は見つからず。

盾持ちと部屋付きの召使が集められ、内赦院の4人の役人と共に、松明43本を持つ。夜の間、彼らは窓の長椅子に腰掛け、棺台の上に手を乗せ、鎮魂歌を歌う。教皇を見るために周りに立つ貧者が続ける。

ヨハン・ブルカルトが棺の中に2つの敷布団を入れ、その上に薄紫色のビロードの新しい司教外套と教皇アレクサンデル6世の紋章の刺繍が施された覆いを被せる。遺体を横たえ、敷物をかけ、肩の下に古い枕を、頭の下には2つの座布団を入れる。金色の紐がついた2つの真紅の帽子は、ヨハン・ブルカルトが家に持ち帰る。

棺は儀典室の従僕が運ぶが、ヴァティカン宮殿の外まで担ぎ出せるか不安を感じ、礼拝堂付き聖職者でセッサ司教マルティーノ・ザパータに監督を任せる。

ローマの全修道司祭、サン・ピエトロ大聖堂所属聖職者、十字架を持った司教座聖堂参事会員のいるシスティーナ礼拝堂へ、教皇を運ぶ。

サン・ピエトロ大聖堂に向かい、初めに十字架が、次にサントノフリオの修道士、パウロ会修道士、フランチェスコ会修道士、アウグスティーノ会修道士、カルメル会修道士、ドミニコ会のみ3人の修道士、サン・ピエトロ大聖堂所属聖職者、ストラとピヴィアーレを着たローマの聖職者の侍従、数人の司教たちが行く。サン・ピエトロ大聖堂所属の聖職者と受禄者が大部分、教皇の従僕と雇用者が、約1百40の松明を掲げる。その後、アレクサンデル6世の棺が来て、聖職者と受禄者は無秩序に教皇を囲む。システィーナ礼拝堂の中にいた貧者によって棺は運ばれ、4人か6人の司教座聖堂参事会員がそばで棺台に手を乗せながら歩く。4人の執事で高位聖職者、つまり、サモーラ司教ディエゴ・デ・デーサ、カリーノラ司教ペドロ・ガンボア、ナルニ司教ピエトロ・グスマン、セッサ司教マルティーノ・ザパータが、2人ずつ棺の後ろを続く。

サン・ピエトロ大聖堂の中央に棺を据えると、「Non intres in judicium」云々が朗誦されるが、本がなく、それを待つ間聖職者が応唱「Libera me, Domine」を歌う。聖歌が歌われている間、宮殿警備の兵士たちが松明を数本着服しようとする。聖職者たちは抵抗するが、兵士が武器を向けたため、聖歌を中断して聖具室へ逃げ、教皇はほぼ1人にされてしまう。ヨハン・ブルカルトが他3名と棺台を担ぎ、主祭壇と教皇座へ運び、頭を祭壇に向けて置き、棺の後ろの聖歌隊席を閉める。教皇に害された者が復讐するかもしれないとして、マルティーノ・ザパータが人々が死者に近づけば不祥事が起こる可能性を懸念。それ故、棺を再び動かすよう指示し、階段の間の礼拝堂の入り口に据える。最下段は柵は近く、扉は柵の間からやすやすと手の届く。終日、その柵に狭く囲まれた場所に留まる。

8刻(現3時49分)には、故アレクサンデル6世の顔の腐敗と黒さが進行。

その間、9刻(現4時49分)過ぎ、枢機卿16名がサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂に集合。ラグサ大司教ジョヴァンニ・サッコローマ知事に任命し、兵士を2百人を与える。式武官長にフアン・デ・ヴェラを任命。この2名にローマの門、民衆、聖職者の監督を信任。彼らの立会いの下、アレクサンデル6世の鉛製印章が教皇勅書封書官によって破壊される。教皇の指輪を教皇庁掌璽院に引き渡すよう指令され、ハイメ・デ・カサノヴァがこれにあたる。その間、アントニオット・パッラヴィチーニ枢機卿とボルジア枢機卿(フランセスク・デ・ボルジャ又はペレ・リュイス・リャンソル)が教皇の部屋の所有物の目録作成にあたる。この集まりは3刻(現10時49分)頃終わる。

食事後、枢機卿は部屋付き聖職者と共に、銀製品と高額な調度品の目録を作成。教皇冠と2つの小冠、教皇がミサや全ての司宰で使用していた指輪全部が見つかり、大きな収納箱8つに詰める。ヴァティカン宮殿ボルジアの間の裏にある第1室には、ミケロット・ネーリが見落としていたさらなる銀杯がある。同じく見落としていた緑の布に覆われた桧の箱には、約2万5千ドゥカート相当の宝石と指輪、枢機卿たちの誓約書やナポリ王国叙任の勅書やその他文書の大量の紙が入っている。

ヨハン・ブルカルト不在の間に、部屋付き聖職者フェルナンド・ポンツェットが大工のミケーレとブッチョに、サン・ピエトロ大聖堂の真ん中の霊柩台を長さ15スパン(約3.42 m)、幅12スパン(約2.74 m)、高さ6スパン(約1.37 m)に手配。側廊に霊柩台を除く50本の松明を支えるための柵と1百40本のかがり火を、会葬者と高位聖職者1百名が座る長椅子を手配。垂木1本1ドゥカートで、総額1百50ドゥカート。加えてフェルナンド・ポンツェットは、聖餐式執行司祭のための祭具机を手配し、翌終日にわたり執行司祭が棺台他全てを執り行うようにする。

その間、教皇は主祭壇の柵に囲まれ、4つの松明が灯されている。ヨハン・ブルカルトが見た時には漆黒の布か黒人のように斑が広がり、鼻は腫れ、口は肥大し、舌は腫れて唇から出始め、口は開いていた。かつて誰も見たこともないほど恐ろしい姿だったという。

夜9刻(現16時49分)過ぎ、しきりに冗談を言ってアレクサンデル6世を揶揄する6人の運搬人によって、サンタ・マリア・デッレ・フェッブレ教会に運ばれ、祭壇の左の壁の隅に置かれる。松明などの灯りが使われず、司教などが見守ることもなく、ミトラを教皇のそばに置き、古い敷物を被せ、2人の大工によって作られた棺は狭く短かったため遺体を押し込めるように入れる。

1503年

ユリウス2世により、教皇即位の数日後、チヴィタ・カステッラーナ、オルテ司教に叙階される。

1505年

痛風を患う。

1506年5月16日

死。

印章

別表記

 BurcardoGiovanni Burckardt

関連項目

 The Borgias: 101, 102, 103, 108, 109

外部リンク

 THE BORGIAS wiki
 Wikipedia

参考文献

 『サイレント・マイノリティ』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フランキーノ・ガッフーリオ Franchino Gaffurio

生没
1451年1月14日~1522年6月25日
出身
ローディ
没地
ミラノ公国ミラノ

概要

 フランキーノ・ガッフーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、音楽理論家。

著作

 『音楽提要

年表

1484年1月22日

ミラノ大聖堂の楽長に就任。

1492年

Theorica musicae』出版。

1496年

音楽提要』出版。

1518年

De harmonia musicorum instrumentorum opus』出版。

別表記

 ガフリウス、Franchinus Gaffurius

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスの華』

ジローラモ・ベニヴィエーニ Girolamo Benivieni

生没
1453年2月6日~1542年8月
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ

概要

 ジローラモ・ベニヴィエーニは、詩人、著作家、哲学者、ジローラモ・サヴォナローラの信奉者で著書翻訳者。

年表

1453年2月6日

フィレンツェに生。

1496年10月31日

ジローラモ・サヴォナローラDe semplicitate christianae vitae(クリスト信徒の質素な生活について)の俗語、イタリア語版Della semplicità della vita cristiana(クリスト信徒の質素な生活について)を、詩人、著作家、哲学者でジローラモ・サヴォナローラの教説にいち早く改心した中心的信徒ジローラモ・ベニヴィエーニの訳により、Lorenzo Morgiani e Johann Petri書房から刊行。(以後、この書、フィレンツェで1528年、1529年、ヴェネツィアで1533年、1547年に刊行される)。

1542年8月

フィレンツェで死。

別表記

 ベニヴィエニ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』

ジュリアーノ・ファンタグッツィ Giuliano Fantaguzzi

生没
1453年8月1日~1521年
出身
チェゼーナ
ガスパーレ・ファンタグッツィ

概要

 ジュリアーノ・ファンタグッツィは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、年代記作者。

著作

 『チェゼーナ年代記』

外部リンク

 Treccani

アンジェロ・ポリツィアーノ Angelo Poliziano

生没
1454年7月14日~1494年
出身
モンテプルチャーノ
没地
フィレンツェ

概要

 アンジェロ・ポリツィアーノは、15世紀のイタリアの男性、詩人、人文主義者、古典学者、教育者。

著作

 『オルフェオ
 『ジュリアーノ殿下の騎馬槍試合の詩
 『詩森
 『雑俎

年表

1454年7月14日

シエナ近郊モンテプルチャーノに生。

1478年4月26日

パッツィ家の陰謀決起:

シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?~1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・デ・メディチは殺され(1453年~)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。

同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。

同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。

間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。

自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。

ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。

1478年

アンジェロ・ポリツィアーノDe conuratione pactiana commetarii(パッツィ家の陰謀)においてメディチ家を擁護し、パッツィ家の陰謀・決起を非難。

1478年

アンジェロ・ポリツィアーノ、『ジュリアーノ殿下の騎馬槍試合の詩』、ジュリアーノ・デ・メディチが殺害されたため未完に終わる。

1480年6月

アンジェロ・ポリツィアーノ、演劇Favola d'Orfeo(オルフェウス物語)を執筆。

1485年

レオン・バッティスタ・アルベルティの遺作De re aedificatoria(建築論)、アンジェロ・ポリツィアーノの序文を付してフィレンツェで初めて刊行され、ロレンツォ・イル・マニーフィコに献呈される。

1489年

アンジェロ・ポリツィアーノ、古典言語100の注釈Miscellaneorum centuria prima(雑録)をフィレンツェで(?)刊行。

1494年9月28日

フィレンツェで死(1494年9月29日)。

肖像

本名

 Angiolo Ambrosini

別表記

 アニョーロ・ポリツィアーノ、Angolo PolizianoAngelus Politianus

外部リンク

 ウィキペディア
 紀伊國屋書店
 Treccani.it

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

ピエトロ・パオロ・ポンピリオ Pietro Paolo Pompilio

生没
1454年頃~1491年
出身
ローマ
没地
ローマ
プロティア

概要

 ピエトロ・パオロ・ポンピリオは、15世紀頃のイタリアの男性。

外部リンク

 Repertorium Pomponianum
 Repertorium Pomponianum
 Treccani

参考文献

 『The Life of Cesare Borgia

ヨハネス・ロイヒリン Johannes Reuchlin

生没
1455年~1522年
没地
Liebenzell

概要

 ヨハネス・ロイヒリンは、15世紀から16世紀の男性。

著作

 カバラの術について

年表

1498年

ローマ到着。

1514年3月

各地から寄せられた著名学者の書簡を一巻に纏めたClarorum virorum epistolae(名士書簡集)をテュービンゲンで刊行。

1517年3月27日

主著De arte Cabbalistica(カバラ研究)をドイツ・ElsaßHagenauで刊行し、エラスムスに献呈。

1522年

ドイツ・バイエルンのLiebenzellで死。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『Lucretia Borgia

ピエトロ・マルティレ・ダンギエーラ Pietro Martire d'Anghiera

生没
1457年2月2日~1526年10月
出身
アローナ
没地
グラナダ

概要

 ピエトロ・マルティレ・ダンギエーラは、15世紀から16世紀のイタリア出身の男性、大航海時代の歴史家。

年表

1457年2月2日

ミラノ公国アローナにて、生。

14??年

ジョヴァンニ・ボッロメオに師事。

1478年頃

20歳の時、ローマに到着。

14??年

ローマにて、ポンポーニオ・レートに出会う。

1487年8月

ローマ駐在スペイン大使ロペス・デ・メンドーサに随行してサラゴサに行く(1486年)。

1488年

サラマンカにて、教鞭をとる。

1492年

この年以降、スペイン宮廷の若い貴族の教育を担当。

1501年

スペイン大使としてエジプトに派遣される。

1503年11月10日

スペインのセゴビアにて、手紙を書く。「その潤沢な財産を手に入れようと教皇アレクサンデル6世は、毒を盛る目的でアドリアーノ・ダ・カステッレジ枢機卿を招待。チェーザレ・ボルジアが指定した瓶から枢機卿に葡萄酒を注がせるために執事を買収。チェーザレ・ボルジアが出る。ややあって、不注意にも執事が食卓の上に毒入り葡萄酒を残して出る。教皇が入る。喉が渇いて、葡萄酒を求める。召使は急いで、もちろんそれと知らずに、その瓶を取り上げ、教皇に注いだ。教皇が飲んでいる間に戻ってきたチェーザレ・ボルジアも渇きを癒すため、何の疑いもせず腰掛けて同じものを飲む。瓶に目印をつけておかなかったのである。」

当時イタリアにさえいなかったこのピエトロ・マルティレ・ダンギエーラの書いたものが、まるで事実であるかのように広まる。

別表記

 Pedro Mártir de AngleríaPeter Martyr d'AnghieraPetrus Martyr AngleriusPeter Martyr of AngleriaPier Martire da Anghiera

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『The Life of Cesare Borgia

ヤコポ・サンナザーロ Jacopo Sannazzaro

生没
1457年7月28日~1530年8月6日
出身
ナポリ王国ナポリ
没地
ナポリ王国ナポリ

概要

 ヤコポ・サンナザーロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、詩人。

年表

1457年7月28日

ナポリに生(1456年、1458年7月28日)。

1462年

父、死。母の実家があるサン・チプリアーノ・ピチェンティーノに引っ越す。

1475年

ナポリに戻り、詩学と修辞学の教師ジュニアーノ・マイオとルチオ・クラッソに師事する。

147?年

ジョヴァンニ・ポンターノ、ピエトロ・ヤコポ・デ・ジェンナーロ、ジャンフランチェスコ・カラッチオーロらと知り合う。

1481年

カラブリアアルフォンソ2世・ダラゴーナに仕える。

1483年

フェッラーラへ行く。

1495年12月18日

ナポリ王アルフォンソ2世・ダラゴーナ、死。

短期間、シャルル8世に仕える。

1496年

ナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナに仕える。

1499年

フェデリーコ・ダラゴーナにより、メルゲッリーナの邸宅を贈与される。

1501年8月3日

フェデリーコ・ダラゴーナがイスキアに逃亡し、ヤコポ・サンナザーロも随行(1501年8月2日)。

1504年

田園詩Arcadia(アルカディア)を刊行。

1530年8月6日

ナポリで死(1530年4月24日)。

1530年

Sonnets et canzoni』を刊行。

別表記

 Iacopo SannazzaroSanazzaro

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ローレンツ・ベーハイム Lorenz Beheim

生没
1458年4月3日~1521年4月11日
出身
ニュルンベルク
没地
バンベルク
ローレンツ・ベーハイム
エルスベス・ネグワイン

概要

 ローレンツ・ベーハイムは、15世紀から16世紀のドイツ人の男性、人文主義者、占星術師、医師、錬金術師。ジューリオ・ポンポーニオ・レトのローマ学院の一員。ウィリバルト・ピルクハイマーやデューラーと親しい友人であった。

年表

1458年4月3日

ニュルンベルクにて、生(1457年頃)。

1473年~1476年

インゴルシュタットで神学を学ぶ。

1476年~1478年

ライプツィヒに移り、文学修士号を取得。

1490年

イタリアに行き、法学博士号を取得。

ロドリゴ・ボルジア枢機卿に家政長として仕える。

1492年

ロドリゴ・ボルジア枢機卿が教皇に就任。

以後、砲兵長として、要塞の建設に関わり、砲兵部門を指導し、いくつかの包囲戦に参加。

1495年?

おそらくこの年、ローマでウィリバルト・ピルクハイマーと知り合う。親密な友情を育み、知る中で最も学識豊かな人物と称賛される。活発に手紙のやりとりをする。ウィリバルト・ピルクハイマーの返信は現存してないが、ローレンツ・ベーハイムの手紙は保存されている。ウィリバルト・ピルクハイマーと、彼らの共通の友人であるデューラーの占星術の天体配置図を作成。

1???年

チェーザレ・ボルジアの占星術の天体配置図を作成。

チェーザレ・ボルジアが戦術、防衛、毒物などに関する質問状を送る。ローレンツ・ベーハイムの返答は現存せず。

ウィリバルト・ピルクハイマーの遺品には、おそらくローレンツ・ベーハイムによって作成されたとされるアレクサンデル6世の丸薬に関する手稿が含まれている。

ローマの碑文を熱心に収集。ピントゥリッキオの今では失われた一連のフレスコ画の碑文なども模写。

1503年

ニュルンベルクに帰国。

1505年

バンベルクの聖シュテファン修道院の司祭に就任。

1506年~1507年

バンベルクで弁護士としても活動。

1507年5月23日

バンベルクにて、ウィリバルト・ピルクハイマー宛てに手紙を書く。4月12日に受け取った手紙から得た情報で、「聖グレゴリウスの日にスペインのパンプローナ第5教区で戦死した」チェーザレ・ボルジアの最期の瞬間を説明し、「31年6か月生きた」と書いた。数年前にローマチェーザレ・ボルジア自身の要請で天体配置図を作成しており、その星占いの結果を述べる。

別表記

 ローレンツ・べハイム、Behaim

外部リンク

 Deutsche Digitale Bibliothek
 elsBorja
 Google Books
 Google Books
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『Lucretia Borgia

ベルナルド・アッコルティ Bernardo Accolti

生没
1458年9月11日~1535年2月28日頃
出身
アレッツォ
没地
ローマ
ベネデット・アッコルティ
アルフォンソ・アッコルティ
ヴィルジーニア・アッコルティ

概要

 ベルナルド・アッコルティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1458年9月11日

アレッツォにて、生。

1520年~1534年

教皇レオ10世により、ネピ公を封与される(1521年~)。

1534年

教皇パウルス3世により、ネピ公の地位を剥奪される。

1535年2月28日頃

ローマにて、生。

別表記

 ベルナルディーノ、アレティーノ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

ジョヴァンニ・カンビ Giovanni Cambi

生没
1458年9月21日~1535年4月24日
出身
フィレンツェ
ネロ・カンビ
トンマーザ・デッラ・パッラ
コスタンツァ・スカルラッティ
ロレンツァ・カンビーニ
マルコ・カンビ
トンマーゾ・カンビ
ツァノービ・カンビ

概要

 ジョヴァンニ・カンビは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

著作

 『イストリエ』

別表記

 ジョヴァンニ・ディ・ネロ・カンビ、Nero di Cambio

外部リンク

 Storia di Firenze
 Treccani

参考文献

 『イコノロジー研究
 『ルネッサンス夜話』
 『Cesare Borgia: duca di Romagna

ベルナルディーノ・コリオ Bernardino Corio

生没
1459年3月8日~1519年
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ミラノ公国ミラノ
マルコ・コリオ
エリザベッタ・ボッリ
アニェーゼ・ファニャーニ
マルコ・アントーニオ・コリオ
ジャンフランチェスコ・コリオ
エリザベッタ・コリオ
フランチェスカ・コリオ
ファウスティーナ・コリオ

概要

 ベルナルディーノ・コリオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、歴史家。

著作

 『祖国の歴史』(La patria historiaHistoria di Milano

年表

1459年3月8日

ミラノに生。

1483年

アニェーゼ・ファニャーニと結婚。

1492年8月26日

教皇アレクサンデル6世の戴冠式の行列を目撃。

1500年

妻アニェーゼ・ファニャーニ、死。

1503年7月15日

La patria historia(祖国の歴史)をミラノで刊行。

1503~1512年

死。

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood
 『The Life of Cesare Borgia

レオーネ・エブレオ Leone Ebreo

生没
1460年頃~1530年頃
出身
リスボン
没地
ナポリ王国ナポリ

概要

 レオーネ・エブレオは、15世紀から16世紀の男性。

著作

 『愛の対話』

別表記

 イェフダ・レオネ・アブラバネル

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』

ヴィンチェンツォ・コッリ Vincenzo Colli

生没
1460年頃~1508年
没地
ローマ

概要

 ヴィンチェンツォ・コッリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、詩人、文芸評論家。

年表

1500年7月16日

トンマーゾ・アルバネーゼを匿っていたヴィンチェンツォ・コッリは、この頃、ウルビーノ公爵夫人エリザベッタ・ゴンザーガ宛てに手紙を書く。アルフォンソ・ダラゴーナ暗殺未遂事件について。

1503年1月

チェーザレ・ボルジアコッミッサーリオとしてフェルモに派遣される。

別表記

 イル・カルメータ、ヴィンチェンツォ・カルメータ、Vincenzo Calmetail Calmeta

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『The Life of Cesare Borgia

ピエトロ・ポンポナッツィ Pietro Pomponazzi

生没
1462年9月16日~1525年5月18日
出身
マントヴァ
没地
ボローニャ
コルネーリア・ドンディ
ルドヴィーカ・ディ・モンタニャーナ
アドリアーナ・デッラ・スクローファ

概要

 ピエトロ・ポンポナッツィは、15世紀から16世紀の男性、哲学者、人文主義者

年表

1462年9月16日

マントヴァに生。

1484年

パドヴァ大学に入学。

1487年

パドヴァ大学を卒業。

1488年~1496年

パドヴァ大学で哲学の教授を務める。

1496年

カルピに移住。

1497年

マントヴァにて、コルネーリア・ドンディと結婚。

1507年

妻コルネーリア・ドンディ、死。

150?年

ルドヴィーカ・ディ・モンタニャーナと結婚。

1509年

アルフォンソ1世・デステに招待され、フェッラーラに移住。

1510年

マントヴァに移住。

1512年

ボローニャ大学で教授を務める。

1512年

アドリアーナ・デッラ・スクローファと結婚。

1516年11月6日

霊魂の不滅姓を合理的に証明することは不可能とするDe immortalitate animae(霊魂不滅論)をボローニャで刊行。大きな反響・非難を招く。

1517年11月13日

1516年の作に対するかつての弟子G. Contariniの否定論に答えるApologia contro Contarenum(コンタリーニへの弁明)3篇を執筆。

1518年2月3日

1517年執筆のApologia(弁明)をボローニャで刊行。

1519月5月18日

Defensorium adversus Augustium Niphum(アゴスティーノ・ニーフォへの弁明)をボローニャで刊行。

1525年5月18日

ローマで死。

1556年

ピエトロ・ポンポナッツィの遺作De naturalium et effectuum admirandorum causis, sive de incatationibus(自然の驚くべき事実の原因について、あるいは魔術について)、バーゼルで刊。

別表記

 ペレット

外部リンク

 オシテオサレテ
 人生の謎學
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

アントーニオ・テバルデオ Antonio Tebaldeo

生没
1463年~1537年
出身
フェッラーラ
没地
ローマ

概要

 アントーニオ・テバルデオは、詩人、人文主義者、医師、文学者、ルクレツィア・ボルジアの秘書。

別表記

 テヴァルデオ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

ミケーレ・フェルノ Michele Ferno

生没
1465年~1513年

概要

 ミケーレ・フェルノは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、アレクサンデル6世の追従者。

外部リンク

 Treccani.it

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

カッサンドラ・フェデーレ Cassandra Fedele

生没
1465年頃~1558年
出身
ヴェネツィア
没地
ヴェネツィア
アンジェロ・フェデーレ
バルバラ・レオーニ

概要

 カッサンドラ・フェデーレは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

別表記

 Fedeli

参考文献

 『Lucretia Borgia

外部リンク

 Italian Women Writers
 Wikipedia

パーリデ・ダ・チェレザーラ Paride da Ceresara

生没
1466年2月10日~1532年
出身
チェレザーラ
没地
マントヴァ

概要

 パーリデ・ダ・チェレザーラは、15世紀から16世紀の男性、人文主義者、詩人、占星術師。

別表記

 パリデ・ダ・チェレサラ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの華』

マリン・サヌード Marin Sanudo

生没
1466年6月22日~1536年4月4日
出身
ヴェネツィア
没地
ヴェネツィア

概要

 マリン・サヌードは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、歴史家、政治家。

著作

 『シャルル8世の遠征
 『日記

年表

1466年6月22日

ヴェネツィアに生(1466年5月22日)。

1483年

Itinerario per terraferma veneta(ヴェネト地方内陸部旅行記)を執筆。

1484年

Commentari della guerra di Ferrara(フェッラーラの戦役註記)を執筆。

1493年

Vite dei dogi((歴代)ドージェ伝)を完成。

1495年12月31日

シャルル8世の遠征をジェノヴァのドージェ、アゴスティーノ・バルバリーゴに献呈。

1496年1月1日

日記』の執筆を開始。

1497年7月21日

ローマにて、手紙を書く。「アスカーニオ・マリーア・スフォルツァがガンディア公フアン・ボルジアを殺害したのは確かです」

1497年12月

ローマにて、手紙を書く。フアン・ボルジアを暗殺したのはオルシーニであることを示唆する。

1533年9月30日

日記』、この日をもって終わる。(1879年~1902年刊)。

1536年4月4日

ヴェネツィアで死。

別表記

 Marino Sanutoil Giovane

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『サイレント・マイノリティ』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

セラフィーノ・アクイラーノ Serafino Aquilano

生没
1466年~1500年8月10日
出身
アクイラ
没地
ローマ

概要

 セラフィーノ・アクイラーノは宮廷詩人。

年表

1466年

アブルッツォアクイラに生。

1500年8月10日

ローマで死。

別表記

 Serafino de' CiminelliSerafino Cimino da Aquila

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

エラスムス Erasmus

生没
1466年10月28日~1536年7月12日
出身
ロッテルダム
没地
バーゼル

概要

 エラスムスは、人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。

著作

 痴愚神礼讃

年表

1466年10月28日

人文主義者エラスムス、ネーデルランドのロッテルダムに生(1465年、1466年10月27日、1469年)。

1500年6月末/7月

エラスムス、Adagiorum collectanea(格言集)をパリで刊行。

1504年2月15日

エラスムス、Enchiridion militis christiani(キリスト教兵士提要)(Lucubratiunculae(螢雪余論)所収)をアントウェルペンで刊行。(但し1503年刊の異説あり)。

1508年9月

エラスムス、Adagiorum collectanea(格言集)を増補しAdagiorum chiliades(多数の格言集)と改題の上、ヴェネツィアで刊行。

1509年8月

エラスムス、Encomium moriae(痴愚神礼讃)の稿をトマス・モアに献呈。

1511年6月10日

この頃、エラスムス、Encomium moriae(痴愚神礼讃)をパリで刊行。

1516年2月

エラスムス、新約聖書ギリシア語校訂本文に教会公認訳によらない自身のラテン語訳を付したNovum instrumentum(校訂ギリシア語新約聖書)をバーゼルで刊行。新約聖書ギリシア語原文の最初の印刷本となる。

間もなくこれを、かねてから恩恵を受けてきたレオ10世に献呈。

1516年4月~1516年8月

エラスムス、Opera divi Eusebii Hieronymi(聖ヒェロニムス著作集)全9巻をバーゼルで刊。

1516年5月

エラスムス、Institutio principis christiani(キリスト教君主教育)をバーゼルで刊行。

1517年3月27日

ヨハネス・ロイヒリン、主著De arte Cabbalistica(カバラ研究)をドイツ・ElsaßHagenauで刊行し、エラスムスに献呈。

1517年12月

エラスムス、Querela pacis(平和の訴え)をバーゼルで刊行。

1518年3月30日

エラスムス、Encomium matrimonii(結婚礼賛)、Encomium artis medicae(医学礼賛)、ブリュッセル近郊ルーヴェンで刊行。

1518年11月

エラスムス、Colloquia(対話集)をバーゼルで刊行。

1519年3月28日

マルティン・ルター、エラスムスに書簡を送り、教会との対決を支援するよう間接的に要請。

1519年5月30日

エラスムス、マルティン・ルターに返書を送り、彼の著書はなお未読なので彼への賛否は決しかねるとした上、自分は学問に身を捧げる、「性急さ」よりも「謙虚さ」によってこそ目的を達し得る、と述べて彼を支持できないことを間接的に伝える。

1522年12月1日

自分のかつての神学講義の聴講生エラスムスから、自分の教皇即位後に、彼のカトリック信仰を証言する書簡を受け取っていたハドリアヌス6世、この日、彼にその学識をマルティン・ルターに向けるよう要請する書簡を送る。

1522年12月23日

エラスムス、この日付の書簡をハドリアヌス6世に送り、ルター派への対応について、自分の態度は語らず、教会の不名誉となるような弾圧はしないよう要望。

1523年1月23日

ハドリアヌス6世、エラスムスに再び書簡を送り、彼をローマに招くと共にマルティン・ルターを論駁するよう重ねて要請。

1523年3月22日

エラスムス、ハドリアヌス6世に書簡を送り、一派に与して争いに加わるよりは死を選ぶとマルティン・ルター論駁を冷たく断る。

1524年2/3月

この頃までにエラスムス、「黙示録」を除く新約聖書の釈義を完成し、バーゼルで刊行。

1524年4月15日

マルティン・ルター、エラスムスに書簡を送り、「我々の悲劇の単なる傍観者」に留まって欲しいと述べて自分への批判を差し控えるよう間接的に要請。

1524年9月1日

エラスムス、Diatribe de libero arbitrio(自由意志論)をバーゼルで刊行し、マルティン・ルターを論難。

1525年末

マルティン・ルターDe servo arbitrio(奴隷的意志論)をヴィッテンベルクで刊行してエラスムスに反論し、彼と決別。マルティン・ルターの孤立化、深まる。

1526年2月20日

この月、自分に対するマルティン・ルターの反論を入手して一読したエラスムス、直ちにHyperaspistes adversus servum arbitrium Lutheri(ルターの奴隷的意志論に対する反論)を執筆し、この日に序文を付して印刷に回す。1526年2月または1526年3月バーゼルで刊行。

1526年4月11日

エラスムス、マルティン・ルターに書簡を送り、自分に対する彼の「気狂いじみた罵言」、「攻撃」を指摘した上、「要するにあなたは聖俗一切の事柄を混乱に投げ込むように福音の旗印を押し立てている」と厳しく批判。

1526年4月16日

エラスムス、フェルディナンドの側近、ウィーン司教Johannes Faberに書簡を送り、ローマ教会とルター派の相互不干渉、共存を勧奨。

1526年5月16日

パリ大学神学部、エラスムスのColloquia(対話集:1526年2月刊)を禁書とする。

1526年6月14~23日

エラスムス、直接フランソワ1世、パリ高等法院及びパリ大学神学部に書簡を送り、思想検察に慎重を期すよう勧奨。

1527年3月30日

エラスムス、トマス・モアに書簡を送り、自説を展開した上、マルティン・ルターに対する反論の続編を執筆する意図を披瀝。

1533年8月末/9月初旬

エラスムス、De sarcienda ecclesiae concordia(教会の美しき協調について)をバーゼルで刊行し、新・旧両教派に互譲の精神を求め教義の差異に拘らないよう説くが、両派から批判を受ける。

1536年7月11/12日

深夜、エラスムス、バーゼルで死(1469年~)。

1547年7月

イングランド王Edward VI、勅令を発し、各教区教会に英語訳聖書、エラスムスの新約聖書釈義(1524年)の英語訳T. CranmerThe Book of Homilies(説教集:1547年刊)の備付及び偶像崇拝の対象となる聖像壁画の破壊を命じ、イングランド国教会のプロテスタント化に着手。

1559年1月

禁書目録の公表:パウルス4世ローマの異端審問所を初めとする全ての異端審問所が全キリスト教徒を防衛するための、検閲及び刑罰の恐怖を与えるべき著者と書籍の目録(Index librorum prohibitorum(禁書目録))を公表。この中にエラスムスやニッコロ・マキアヴェッリの全作品などが登録される。

別表記

 Desiderius Erasmus

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『サイレント・マイノリティ』
 『修道院』
 『性病の世界史』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『Lucretia Borgia

マリオ・エクイコーラ Mario Equicola

生没
1470年~1525年7月26日
出身
アルヴィート
没地
マントヴァ

概要

 マリオ・エクイコーラは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、人文主義者、著作家。

年表

1470年

この年頃、ラツィオのフロジノーネ近郊アルヴィートに生(~1524年)。

1501年9月27日

ミラノにて、マルゲリータ・カンテルモ宛てに手紙を書く。

1501年10月1日

パヴィアにて、マルゲリータ・カンテルモ宛てに手紙を書く。

1501年10月17日

リヨンにて、マルゲリータ・カンテルモ宛てに手紙を書く。

1501年10月18日

リヨンにて、ジャン・クリストフォロ・ロマーノ宛てに手紙を書く。

1501年10月22日

リヨンにて、マルゲリータ・カンテルモ宛てに手紙を書く。

1501年11月6日

ブロワにて、マルゲリータ・カンテルモ宛てに手紙を書く。

1503年5月17日

フェッラーラにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。

1504年12月11日

パリにて、フランチェスコ・ソデリーニ宛てに手紙を書く。

1505年10月6日

イッポーリト・デステにより、ブロワに派遣される。

ブロワにて、イッポーリト・デステ宛てに手紙を書く。

1506年1月9日

ブロワにて、イッポーリト・デステ宛てに手紙を書く。

1506年5月16日

フェッラーラにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。

1506年9月

マントヴァに滞在。

1506年~1507年5月

イッポーリト・デステにより、ナポリ訪問中のフェルナンド2世・デ・アラゴンのもとへ派遣される。

1507年8月17日

フェッラーラにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。

1507年9月18日

フェッラーラにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。

1507年11月16日

ガッツオーロにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。

1525年

De natura de amore(愛の本質について)をヴェネツィアで刊行。

1525年7月26日

マントヴァで死。

外部リンク

 Google Books
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

ニコラウス・コペルニクス Nicolaus Copernicus

生没
1473年2月19日~1543年5月24日
出身
ポーランド王国トルン
没地
ポーランド王国フロムボルク

概要

 ニコラウス・コペルニクスは、ポーランド出身の15世紀から16世紀の男性、天文学者、占星術師、医師、聖職者。

著作

 『天球の回転について』

年表

1496年

ボローニャ大学に入学し、法律を学ぶ。

外部リンク

 ウィキペディア

トンマジーノ・ビアンキ Tommasino Bianchi

生没
1473年12月1日~1554年12月13日
出身
モデナ
没地
モデナ

概要

 トンマジーノ・ビアンキは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、年代記作者。1506年から1554年までのモデナの年代記を著す。

モデナ年代記 Cronaca modenese

 E a dì 8 fu fatto la crida che ogne persona che vada fora de Modena se debia fare la croce rossa , aciò non ge sia fatto adispiacere dali soldati ; altrimente faciande , sel ge serà fato adispiacere , non ge serà fato raxon nisuna .
 1510 domenica a dì 8 septembre . In questo di s'è fatto la crida , che tuti queli che hano prexo dinari debiano andare dredo ali soi capi che son andati in campo a Ferara , altrimente se serano prexe serano inpicati .
 E a dì ditto se partì da Modena per andare in in campo circha 300 fanti de queli dela Gexia che era stati in Modena per guarda .
 E a di ditto vene a Modena 50 homini d ' arme , e 100 cavalli lezeri per guarda dela terra , insemo con altretanti che se ge trovano de diti homini d'arme e cavalli lezeri .
 E a dì ditto la mogliere del signore Alisandro di Pii Signore de Sasolo è stata menata via de Sasolo dal signore Galeazo Palavesin e conduta in Parmesana , secondo che se dice lei si è stata quella che ge ha dato Sasolo contra la volontà del dito signore Alisandro e questa per essere lei dela caxa de Este , è in ditto Sasolo ge de molte zente ct scoreno tuto quello paese e robano . Item in Formizene ge intrato don Alberguzo uno deli capi dela montagna aposta dela Gexia con 200 fanti , per modo che in questo di hano prexo novi a preson de ditti nimici , e 2 cavalli e 6 para de boi de quelli de Rubera , li quali havevano conduti per robare in quello paexe ditti nemici .

別表記

 Tomasino de' Lancellotti

外部リンク

 Fondazione di Modena
 Google Books
 Treccani

ルドヴィーコ・アリオスト Ludovico Ariosto

生没
1474年9月8日~1533年7月6日
出身
レッジョ・エミリア
没地
フェッラーラ
ニッコロ・アリオスト

概要

 ルドヴィーコ・アリオストは、15世紀から16世紀の男性、詩人、劇作家。

年表

1502年

父ニッコロ・アリオスト、死。

1503年

イッポーリト・デステ枢機卿に秘書として仕え、フェッラーラに定住。

1505年11月8日

フェッラーラにて、ベルトランド・コスタビリ宛てに手紙を書く。

 敬愛なる友、神父へご挨拶申し上げます。
 公爵の書簡により、聖下がジューリオ・デステ様の事件について十分に理解されたことは間違いありません。それでも、教皇に対する奉仕の義務として、ジューリオ・デステ様に対する犯罪を犯した悪党たちが以前私たちの使用人だったことを考えると、神父様にこの件を簡潔に繰り返しておくことが最善であると考えました。
 さて、次のように聖下に伝えていただくようお願いいたします。ジューリオ・デステ様がベルリグアルドにいた際、昼過ぎにその辺りの野を馬で散歩していたところ、かつて私たちの使用人だった4人の男に襲われました。彼らはジューリオ・デステ様を馬から引きずり降ろし、目の光を奪おうと何度も殴りかかりましたが、神の慈悲により状況が良くなることを期待しています。このような暴力的な犯罪の原因は、私たちが知る限りでは、彼らがジューリオ・デステ様の家人との間で敵対関係にあり、イッポーリト・デステ猊下が前者よりも後者にとても好意的であると信じていたからです。(前に書き送った通りの状況から)ジューリオ・デステ様と私たちとの間にいくつか意見の違いがあることを知った上で、猊下を怒らせることで私たちに害を及ぼせると考え、残虐な行為を犯したのです。この件について想像できる限りの悲しみを感じており、現時点でこれほどの悲しみと苦痛をもたらす出来事は他にありません。この出来事が重くのしかかり続けているため、平静さを欠いています。
 私たちは教会の者でありながら、公爵の要求に応じてこれらの犯罪者を捕まえるためにあらゆる手段を講じていますが、それでもまだ彼らを捕まえることはできていません。
 この全てを、私たちの悲しみを表すと共に、神父のいつもの巧みさで聖下にお伝えください。教皇によろしくお願いいたします。さようなら。
イッポーリト・デステより、ベルトランド・コスタビリ宛て。ローマ転送。

1505年12月2日

フェッラーラにて、シジスモンド・サリンベーニ宛てに手紙を書く。

シジスモンド殿へ。
 昨日の貴殿からの手紙により、ジューリオ・デステ様に対して罪を犯した極めて悪しき者であるフランチェスコ・ヴェルジェジーノの身柄確保について、ヴェネツィア共和国シニョーリアの善意と愛情深い父親のようなご配慮を知りました。また、イッポーリト・デステ枢機卿の行動、弁解と説得についても理解しました。これら全てをよく考慮した上で、我々は引き続きご協力を求めたいと思います。それ故、シニョーリアを再度訪問し、これまでと今回の件について父のような忠告と示していただいた善意に対して、心から誠心誠意感謝を伝えてください。さらに、この事件を知らせた際に彼らが当初意図していた通り、当該犯罪者を我々の手に引き渡してもらえるよう働きかけて欲しい。シニョーリアは枢機卿の干渉を気にするべきではありません。枢機卿が彼らの息子であるにしても、彼らの長男である我々が愛と好意において優先されるべきなのです。もし我々と枢機卿の動機を比較するなら、正義と名誉の両方の点で、我々の理由が枢機卿の理由よりも重いものであると判断するに違いありません。要するに、犯罪者を引き渡した方が良い結果をもたらすだろうことに気づかれるでしょう。ですので、我々の願いを実現するためにあらゆる適切な手段を尽くしてください。切望し、我々の名誉に大きく関わるため、強調しているのです。シニョーリアによろしくお願いします。 フェッラーラアルフォンソ1世・デステ  追記:貴殿が最大限の努力を払ったにもかかわらず犯罪者を確保できないことが判明した場合、又は本件が非常に困難で長引く場合は、法の執行者としての誠実な義務をもって、意に沿わぬいかなる決定も下さず、シニョーリアに犯罪者の処遇を委ねることを許可します。我々の名誉のため、いかなる手段を使ってでも身柄確保が必要であることを示すのです。
ヴェネツィアの法務顧問兼大使シジスモンド・サリンベーニ殿。急送。

1506年頃

Orlando furioso(狂えるオルランド、狂乱のオルランド)執筆開始(1502年)。

1516年4月

Orlando furiosoフェッラーラで刊行。イッポーリト・デステ枢機卿に献呈。

別表記

 ルドヴィコ

外部リンク

 ウィキペディア
 Project Gutenberg

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

テオーフィロ・モーキ Teofilo Mochi

生没
1474年~1530年

概要

 テオーフィロ・モーキは、15世紀から16世紀の男性。

参考文献

 『君主論』

スティーヴン・ホーズ Stephen Hawes

生没
1474年頃~1523年
出身
サフォーク?

概要

 スティーヴン・ホーズは、15世紀から16世紀の男性。

著作

 『快楽の戯れ

外部リンク

 Wikipedia

セバスティアーノ・セルリオ Sebastiano Serlio

生没
1475年9月6日~1554年頃

概要

 セバスティアーノ・セルリオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

著作

 建築論

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ピエリオ・ヴァレリアーノ Pierio Valeriano

生没
1477年~1560年

概要

 ピエリオ・ヴァレリアーノは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

著作

 『ヒエログリフィカ

別表記

 ヴァレリアノ

外部リンク

 CAMENA

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンス宮廷大全』

ジャン・ジョルジョ・トリッシーノ Gian Giorgio Trissino

生没
1478年7月8日~1550年12月8日
出身
ヴィンチェンツァ
没地
ローマ

概要

 ジャン・ジョルジョ・トリッシーノは人文主義者、劇作家、詩人。

年表

1478年7月8日

ヴェネトのヴィチェンツァに生。

1515年

1514年から1515年にかけて、悲劇Sofonisba(ソフォニスバ)を執筆。

1515年

ローマSofonisba上演。

1524年

Sofonisba刊。

1547年

抒情詩L' Italia liberata da' Goti(ゴート族から解放されたイタリア)を脱稿し、翌1548年にかけて刊行。

1550年12月8日

ローマで死。

別表記

 トリッシノ

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

バルダッサーレ・カスティリオーネ Baldassare Castiglione

生没
1478年12月6日~1529年2月2日
出身
カザーティコ
没地
トレド
クリストフォロ・カスティリオーネ
アロイジア・ゴンザーガ
イッポーリタ・トレッリ

概要

 バルダッサーレ・カスティリオーネは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、外交官、宮廷人、著作家。

著作

 『宮廷人

年表

1478年12月6日

マントヴァ近郊カザーティコに生。

1513年

この年頃から1516/1518年までに宮廷人を完成。

1529年2月2日

スペイン、トレドで死。

肖像

別表記

 バルダッサーレ・カスティリョーネ、バルダッサレ、バルダサーレ、バルダッサルレ・カスティリオーネ伯

外部リンク

 ウィキペディア
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジローラモ・フラカストロ Girolamo Fracastoro

生没
1478年~1553年

概要

 ジローラモ・フラカストロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、自然科学者、医師、詩人。

年表

1478年

ヴェローナに生。

1530年

Syphilis sive morbus gallicus(シフィリス、またはフランス病)をヴェローナで刊行。

1546年

De Contagione et contagiosis morbis et curatione(伝染病と治療)をヴェネツィアで刊行。

1553年8月8日

ヴェローナ近郊Incaffiで死。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『性病の世界史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

リーリオ・グレゴーリオ・ジラルディ Giglio Gregorio Giraldi

生没
1479年6月14日~1552年2月
出身
フェッラーラ
没地
フェッラーラ

概要

 リーリオ・グレゴーリオ・ジラルディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『Lucretia Borgia

チェリオ・カルカニーニ Celio Calcagnini

生没
1479年9月17日~1541年

概要

 チェリオ・カルカニーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

フランシスコ・デリカード Francisco Delicado

生没
1480年頃~1535年頃
出身
コルドバ

概要

 フランシスコ・デリカードは、15世紀から16世紀の男性。

外部リンク

 摂南大学
 Wikipedia

フランソワ・ラブレー François Rablais

生没
1483年~1553年4月9日
出身
シノン近郊の村
没地
パリ

概要

 フランソワ・ラブレーは作家、人文主義者

年表

1494年

この年頃、フランス・シノン近郊La Devinièreに生(~1553年)。(但し1483年?生の異説あり。)

1532年11月

この頃?、Pantagruel(第2の書、パンタグリュエル)を、換字変名を付してリヨンで刊行。

1534年秋

この頃?、Gargantua(第1の書、ガルガンチュワ)を、換字変名を付してリヨンで刊行。

1546年1月

この頃?、Le Tiers Livre de Pantagruel(パンタグリュエル、第3の書)を初めて本名を付して(以下同じ)パリで刊行。

1552年1月28日

Le Quart Livre de Pantagruel(第4の書、パンタグリュエル)をパリで刊行。

1553年4月9日

パリで死(1494年頃~)。

1564年

フランソワ・ラブレーの遺作Le Cinque livre de Pantaguel(第5の書、パンタグリュエル)、刊行地・刊行者を伏せられて刊。(但し他者の偽作の疑いあり)。

外部リンク

 ウィキペディア
 ロワール渓谷地方のポータルサイト
 Wikipédia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史12 ルネッサンス』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『中世の食卓から』
 『服飾の中世』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

パオロ・ジョヴィオ Paolo Giovio

生没
1483年4月19日~1552年12月11日
出身
コモ
没地
フィレンツェ
ルイジ・ジョヴィオ
エリザベッタ・ベンツィ
フェリチアーノ・ジョヴィオ

概要

 パオロ・ジョヴィオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、人文主義者、歴史記述家、医師、伝記作者、博物学者、聖職者。

著作

 『偉人伝
 『名将伝
 『軍事と愛のインプレーザについての対話

肖像画の収集

 1520年代、フィレンツェにいた頃から有名な文学者、詩人、哲学者などの肖像画を集め始めていた。後にはこれらの人々に加え、武人、君主、教皇、アレクサンドロス3世やロムルスなどの古代の権力者から神聖ローマ皇帝カール5世やフランス王フランソワ1世など同時代の権力者だけでなく、オスマン帝国のスルタンや東洋の皇子たちまで及んだ。 1537年秋から1543年春にかけて、コモ湖のそばに宮殿を建設して肖像画を展示。居住し、一般に公開していたわけではないにせよ、これが最初の美術館と言われる。 1551年に出版された『名将伝』は、コジモ1世・デ・メディチに捧げられているのだが、 そこには「30年以上に及ぶ、好奇心を満たすための多数の肖像画の収集に、私は熱意もお金も惜しむことはなかった」と書かれている。 より本人に近いということに拘り、同時代の人はその家族に頼んで肖像画を譲ってもらい、過去の人々は硬貨や彫像から肖像画を描かせた。 パオロ・ジョヴィオの関心は対象人物であって絵画ではなかったので、模写であったり、一流の技量とは言えない画家によるものも数多くあったという。 こうして集められた肖像画は4百枚を超えていたと考えられているが、1552年パオロ・ジョヴィオの死後、多くの遺産相続人たちによって離散してしまい、現在まで残っているのはごく一部のみである。宮殿も現存せず。

年表

1483年4月19日

コモに生。

1505年頃

パヴィア大学で哲学、薬学を学ぶ。

150?年

パドヴァ大学で哲学、薬学を学ぶ。

1507年

この年には故郷のコモに戻っている。

詩集Noctes(夜)を出版。

1511年

この年にはパヴィアで、最初は芸術、後に医学の学位を取得。

その後故郷に戻り医師をしていたが、ペストが発生。

1512年

ローマに転居。

学者としてバンディネッロ・サウリ枢機卿の取り巻きに取り立てられ、枢機卿のそばで働く。

1514年

哲学の教授として揺るぎなき地位に着く。

1517年

教皇クレメンス7世の主治医を務める。

1521年8月28日

フィレンツェにて、マリオ・エクイコーラ宛てに手紙をしたためる。肖像画の収集品の役割について、「彼らの先例に素直に倣うことを通して、死を免れぬ人間たちに栄光への大望を抱かせ得る」と述べている。

1550年

Historiarum sui temporis(同時代史)をフィレンツェで刊行(~1552年)。

1552年12月10日

フィレンツェで死。

肖像

別表記

 パーオロ・ジョーヴィオ、Paul. Jovius

外部リンク

 イタリアの泉
 ウィキペディア
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ヴェロニカ・ガンバラ Veronica Gambara

生没
1485年6月30日~1550年
出身
プラルボイーノ

概要

 ヴェロニカ・ガンバラは、詩人。

年表

1485年6月30日

ブレッシャ近郊プラルボイーノに生。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

ルイジ・ダ・ポルト Luigi da Porto

生没
1485年~1529年

概要

 ルイジ・ダ・ポルトは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、散文作家。

年表

1485年8月10日

ヴィチェンツァに生。

1510年3月16日

手紙を書く。バルダッサーレ・ディ・スキピオーネが、「スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャに安全保障を約束されていたにもかかわらず、チェーザレ・ボルジアをナポリで拘留し、王権に不名誉と汚名をもたらした」ことを否定するスペイン人は誰であれ決闘すると、「全キリスト教界」の公共場に挑戦状を掲示したこと。

1524年

Giulietta e Romeo(ロメオとジゥリエッタ)執筆。

1529年5月10日

ヴィチェンツァで死。

1530年

Giulietta e Romeo(ロメオとジゥリエッタ)ヴェネツィアで刊。

別表記

 ルイジ・ダ・ポルトゥ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『The Life of Cesare Borgia

マッテオ・バンデッロ Matteo Bandello

生没
1485年~1561年
出身
カステルヌオーヴォ・スクリーヴィア
没地
アジャン

概要

 マッテオ・バンデッロは、15世紀から16世紀の男性、小説家。

年表

1485年

トルトーナのCastel Scriviaに生。

1554年

Novelle(短編小説集)、第1~3巻をルッカで刊行。(第4巻、1573年リヨンで刊)

1561年9月13日

この日?、フランス南西部アジャンで死。

別表記

 マテオ、マッテーオ・バンデロ

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

アグリッパ・フォン・ネッテスハイム Agrippa von Nettesheim

生没
1486年9月14日~1535年2月18日

概要

 アグリッパ・フォン・ネッテスハイムは、15世紀から16世紀の男性、医師、哲学者、錬金術研究者。

著作

 『学問及び芸術の不確かさと虚しさ』
 『秘密の哲学について』
 『神秘哲学論』

年表

1486年9月14日

ドイツ、ケルンに生。

1530年

De incertitudine et vanitate scientiarum et artium(学問及び芸術の不確かさと虚しさ)をAntwerpenで刊行。

1533年

De occulta philosophia(神秘哲学)をバーゼルで(?)刊行。

1535年2月18日

フランス南東部グルノーブルまたはリヨンで死。

正式名

 ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイム
 Heinrich Cornelius Agrippa von Nettesheim

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『魔女狩り』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アキッレ・ボッキ Achille Bocchi

Achille Bocchi
生没
1488年~1562年11月6日
出身
ボローニャ
没地
ボローニャ

概要

 アキッレ・ボッキは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、人文主義作家、ギリシアの歴史家・講師、詩人。

著作

 『象徴的探求の宇宙

別表記

 アキレス・ボッキウス

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究

フランチェスコ・マリーア・モルツァ Francesco Maria Molza

生没
1489年6月18日~1544年2月28日
出身
モデナ
没地
モデナ

概要

 フランチェスコ・マリーア・モルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、人文主義者、詩人。

年表

1489年6月18日

モデナにて、生。

1544年2月28日

モデナにて、死。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ピエトロ・アレティーノ Pietro Aretino

生没
1492年4月20日~1556年10月21日

概要

 ピエトロ・アレティーノは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、詩人、散文家、劇作家。

年表

1492年4月20日

アレッツォにて、生。

1525年

喜劇La Cortigiana(遊女)を執筆。(1534年刊行。1537年初演)。

1534年4月

Ragionamenti(艶話)第1巻を刊行。

1536年

Ragionamenti(艶話)第2巻を刊行。

1546年

悲劇Orazia(オラツィア)を刊行。

1556年10月21日

ヴェネツィアで死。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

アンドレア・アルチアーティ Andrea Alciati

生没
1492年5月8日~1550年1月12日
出身
アルツァーノ
没地
パヴィア

概要

 アンドレア・アルチアーティは、人文主義者、ローマ法学者。

著作

 『エンブレマータ

年表

1492年5月8日

コモ地方アルツァーテに生。

1511年

ボローニャ大学に就学。

1530年

Libellus de ponderibus et mensuris(度量衡論)をHagenau (Haguenau)で刊行。

1550年1月11日

パヴィアで死(1550年1月12日)。

1582年

Opere omnia(全著作集)全4巻、バーゼルで刊。

別表記

 アルチャーティ、Alciato

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

ベルナルド・タッソー Bernardo Tasso

生没
1493年11月11日~1569年9月5日
トルクワト・タッソー

概要

 ベルナルド・タッソーは詩人。

年表

1493年11月11日

ヴェネツィアに生(~1569年)。

1560年末

叙事詩集Amadigi(アマーディジ)をヴェネツィアで刊行。

1569年9月5日

マントヴァ近郊オスティーリアで死(1493年~)。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia

パラケルスス Paracelsus

生没
1493年11月11日~1541年9月24日
出身
スイス連邦アインジーデルン
没地
オーストリア帝国ザルツブルク

概要

 パラケルススは、スイス出身の15世紀から16世紀の男性、医師、化学者、錬金術師、神秘思想家。

年表

1493年11月11日

アインジーデルンにて、生(1493年12月17日)。

1510年頃

バーゼル大学に就学。

151?年

フェッラーラ大学に就学し、ニッコロ・マナルディの人文主義医学に触れる。

1516年頃

医学の博士号を得て、フェッラーラ大学を卒業(1515年)。

外部リンク

 ウィキペディア

ルイジ・アラマンニ Luigi Alamanni

生没
1495年3月6日~1556年4月18日
出身
フィレンツェ
没地
アンボワーズ
ピエロ・アラマンニ
ジネヴラ・パガネッリ
アレッサンドラ・セッリストーリ
ジョヴァンニ・バッティスタ・アラマンニ

概要

 ルイジ・アラマンニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、詩人。

別表記

 ルイジ・ディ・ピエロ・アラマンニ

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

エヴァンジェリスタ・マッダレーニ・カポディフェッロ Evangelista Maddaleni Capodiferro

生没
14??年~1527年
没地
ローマ
ニッコロ・マッダレーニ・カポディフェッロ
アンブロジーナ
ファウスティーナ・トレビゾンド
ファウスタ・マッダレーニ・カポディフェッロ
ジューリア・マッダレーニ・カポディフェッロ

概要

 エヴァンジェリスタ・マッダレーニ・カポディフェッロは、15世紀後半~16世紀の男性、長男、詩人。

別表記

 ファウスト・エヴァンジェリスタ・カポディフェルロ

外部リンク

 JDA's Family Tree
 New Advent
 Treccani.it

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

ジローラモ・カルダーノ Girolamo Cardano

生没
1501年9月24日~1576年

概要

 ジローラモ・カルダーノは、16世紀のイタリアの男性、数学者、医学者、自然科学者。

著作

 『外科の歴史』

年表

1501年9月24日

パヴィアに生。

1539年

Pratica arithmetica et mensurandi singularis(実用算術・測量論)をミラノで刊行。

1545年

Artis magnae, sive de regulis algebracis(大学問の、もしくは代数学の規則)をニュルンベルクで刊行。

1550年

Desubtilitate rerum(事物の微妙さについて)をニュルンベルクで刊行。

1557年

De rerum varietate(事物の諸相)をバーゼルで刊行。

別表記

 ジェロラモ、Gerolamo Cardano

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『錬金術』
 『ローマ教皇検死録』

ガブリエーレ・シメオーニ Gabriele Simeoni

生没
1509年7月25日~1577年以降
出身
フィレンツェ
オッタヴィアーノ・シメオーニ
マリーア・ナルディーニ

概要

 ガブリエーレ・シメオーニは、16世紀のイタリアの男性、文筆家、詩人、歴史家。

著作

 『Les Devises, ou Emblèmes héroïques, et morales』1559年リヨン

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

クロード・パラダン Claude Paradin

生没
1512年~1573年
出身
キュゾー
没地
ボージュー

概要

 クロード・パラダンは、16世紀のフランスの男性、作家、紋章本の著者、歴史家。

著作

 『英雄的ドゥヴィーズ集

外部リンク

 Wikipédia

ナターレ・コンティ Natale Conti

生没
1520年頃~1582年

概要

 ナターレ・コンティは、16世紀の男性。

著作

 『Mythologiae

別表記

 Natalis Comes

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究

フランチェスコ・サンソヴィーノ Francesco Sansovino

生没
1521年~1586年
出身
ローマ
ヤコポ・サンソヴィーノ

概要

 フランチェスコ・サンソヴィーノは、16世紀のイタリアの男性、著作家。

年表

1521年

ローマに生(~1586年)。

1561年

Del governo dei regni e del le repubbiche cosi antiche come moderne(古今の諸王国・共和国の統治について)をヴェネツィアで刊行。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ピエール・ド・ロンサール Pierre de Ronsard

生没
1524年9月11日~1585年12月27日

概要

 ピエール・ド・ロンサールは、16世紀の男性。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ヴィンチェンツオ・カルターリ Vincenzo Cartari

生没
1531年~1571年頃
没地
レッジョ・エミリア

概要

 ヴィンチェンツオ・カルターリは、16世紀のイタリアの男性、神話学者、外交官。

著作

 『古代の神々の像について

別表記

 ヴィンツェンツォ

外部リンク

 Wikipedia

ミシェル・ド・モンテーニュ Michel de Montaigne

生没
1533年2月28日~1592年9月13日

概要

 ミシェル・ド・モンテーニュは、16世紀の男性。

正式名

 ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『情報エネルギー化社会』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『Eros the Bittersweet

ヤコブス・ティポティウス Jacobus Typotius

生没
1540年~1601年

概要

 ヤコブス・ティポティウスは、16世紀から17世紀の男性。

著作

 『神と人間の象徴

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究

トルクワト・タッソー Torquato Tasso

生没
1544年~1595年
出身
ソッレント
ベルナルド・タッソー

概要

 トルクワト・タッソーは、詩人。

著作

 『アミンタ』
 『トッリスモンド』
 『解放されたエルサレム』
 『征服されたエルサレム』

年表

1544年3月11日

ソッレントに生。

1560年

叙事詩Gerusalemme liberata(エルサレム解放)の執筆を開始(~1575年)。(1580年Il Goffredoの仮題でヴェネツィアで、1581年「エルサレム解放」と改題してパルマで刊行)。

1562年

叙事詩Rinaldo(リナルド)を刊行。

1573年春

牧歌劇Aminta(アミンタ)を執筆・完成。

1573年7月31日

この日?、トルクワト・タッソーのAminta(アミンタ)、作者自身の監督の下でフェッラーラエステンセ城で上演される。(1580年以降ヴェネツィアフェッラーラなどで次々と刊)。

1580年

『解放されたエルサレム』。

別表記

 トルクヴァート・タッソ

外部リンク

 ウィキペディア
 エステ大辞典
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia

ミゲル・デ・セルバンテス Miguel de Cervantes

生没
1547年9月29日~1616年4月23日
出身
アルカラ・デ・エナーレス

概要

 ミゲル・デ・セルバンテスは小説家。

年表

1547年9月29日/10月9日

マドリード近郊アルカラ・デ・エナーレスに生。

著作

 『才知溢れる郷土ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(Elingenioso hidalgo Don Quixote de la Mancha)、第1部1605年、第2部1615年、共にマドリードで刊。

別表記

 Miguel de Cervantes Saavedra

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イコノロジー研究
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ジョルダーノ・ブルーノ Giordano Bruno

生没
1548年~1600年2月17日

概要

 ジョルダーノ・ブルーノは、16世紀から17世紀のイタリアの男性、哲学者、ドミニコ会修道士。

年表

1548年1月

この月?、ナポリ近郊ノーラに生。

1584年

De l' infinito universo e mondi(無限宇宙と諸世界について)をロンドンで刊。

1584年

De la causa, principio et uno(原因、原理及び一者について)をロンドンで刊。

1600年2月17日

異端としてローマカンポ・デ・フィオーリで火刑死。

肖像

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

チェーザレ・リパ Cesare Ripa

生没
1555年~1622年1月22日
出身
教皇領ペルージア
没地
ローマ

概要

 チェーザレ・リパは、イタリアの図像学者。

著作

年表

1555年

ペルージアにて、生(1560年)。

1622年1月22日

ローマにて、死。

別表記

 チェーザレ・リーパ

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究
 『西洋美術解読事典』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネッサンスの光と闇』

ロバート・グリーン Robert Greene

生没
1558年6月11日~1592年9月3日

概要

 ロバート・グリーンは、16世紀の男性。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『オーランドー』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare

生没
1564年4月26日~1616年
出身
ストラトフォード・アポン・エイヴォン
没地
ストラトフォード・アポン・エイヴォン

概要

 ウィリアム・シェイクスピアは、詩人、劇作家。

著作

 冬物語
 ルークリースの凌辱
 夏の夜の夢
 ロミオとジュリエット

年表

1564年4月26日

イングランド中部ストラトフォード・アポン・エイヴォンに生。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イコノロジー研究
 『サイレント・マイノリティ』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

クリストファー・マーロー Christopher Marlowe

生没
1564年~1593年

概要

 クリストファー・マーローは、劇作家、詩人、翻訳家。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『オーランドー』
 『中世の食卓から』

トンマーゾ・カンパネッラ Tommaso Campanella

生没
1568年9月5日~1639年5月21日
出身
スティーロ

概要

 トンマーゾ・カンパネッラは哲学者、ドミニコ会修道士。

著作

 『スペイン王国論』Monarchia di Spagna
 『政治警句集』Aforismi politici
 『天文学』Astronomia
 『救世主王国論』Monarchia del Messia
 『克服されたる無神論』Atheismus triumphatus
 『イタリア諸侯に捧げる辞』Discorsi ai Principi d'Itaria
 『諸物の感覚および魔術』Senso delle cose e lamagia
 『ガリレオの弁明』Apologia pro Galolaeo 1616年

年表

1568年9月5日

カラブリアのスティーロに生。

1602年

La città del sole(太陽の都)執筆。

1623年

La città del soleのラテン語訳Civitas solis、フランクフルトで刊。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』

ジョン・ダン John Donne

生没
1572年1月22日?~1631年3月31日

概要

 ジョン・ダンは、16世紀から17世紀の男性、形而上詩人。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『オーランドー』
 『Eros the Bittersweet

ロバート・バートン Robert Burton

生没
1577年~1640年

概要

 ロバート・バートンは、16世紀から17世紀の男性。

別表記

 ロバートバートン

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『オーランドー』

ジョン・フレッチャー John Fletcher

生没
1579年~1625年

概要

 ジョン・フレッチャーは、16世紀から17世紀のイングランドの男性、劇作家。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『オーランドー』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2024年4月14日