Louis XI

ルイ11世

生没:1423年~1483年
在位:教会の旗手 1444年~?
   フランス王 1461年~1483年
    先代:シャルル7世
    次代:シャルル8世
父:シャルル7世
妻:カルロッタ・ディ・サヴォイア
子:アンヌ・ド・フランス
  シャルル8世
  ジャンヌ・ド・ヴァロワ

概要

 ルイ11世は、15世紀のフランスの男性、フランス王。

年表

1461年7月22日
シャルル7世、死(1403年~1461年:在位1422年~1461年)——長子ルイ11世(1423年~1483年)、フランス王に即位(在位1461年~1483年)。
1461年
ピウス2世、フランス王ルイ11世にブールジュの国事詔書(1438年)を形式的にではあれ撤回させる。
1463年12月22日
ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンら諸侯の抗争に難渋するルイ11世は、フランチェスコ1世・スフォルツァの求めに応じてジェノヴァの支配権を委譲。
1464年6月19日
この日?、ルイ11世、王立郵便制度を創設し、国立郵便業の先鞭をつける。
1464年12月
ルイ11世の弟ベリ公シャルル・ド・フランス(1446年~1472年:在位1461年~1465年)とブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンら大諸侯、公益同盟を結成してルイ11世に反乱。間もなく戦争状態に入る。
1465年7月16日
パリ南方モントゥレリーで公益同盟軍、ルイ11世を破る。しかしルイ11世はパリを保持。
1465年10月5日
この日及び1465年10月29日ルイ11世、反乱大諸侯に担がれている弟シャルル・ド・フランスにノルマンディを与えるなどの譲歩を含む協定をパリ南東コンフラン及びサン・モールで公益同盟と結び、戦争を締結させる(1464年~1465年)。公益同盟解体。
1468年7月6日
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァアメーデオ9世・ディ・サヴォイア及びルイ11世の妻カルロッタ・ディ・サヴォイア(1441年~1483年)の妹ボーナ・ディ・サヴォイア(1449年~1503年)と結婚。
1470年
ルイ11世とパリ大学の2名の教授、学長Jean de La Pierre及び図書館長・神学者・修辞学者(後の学長・ルイ11世ローマ駐在大使)Guillaume Fichet(1433年~1480年)、ドイツの印刷業者Michael FreiburgerUlrich Gering(1440年頃~1510年)及びMartin Kranzを招き、パリ大学(Sorbonne)構内にフランスで初の印刷所を開設。
1472年3月
ルイ11世の弟シャルル・ド・フランスの死(1446年~:在位1469年~)により、公領は本領に再併合される。
1472年11月18日
ヨハネス・ベッサリオンルイ11世のもとへの教皇使節からの帰途、ラヴェンナで死。
1474年6月11日
ルイ11世フリードリヒ3世とスイス誓約同盟の永久協定を認可し、後者の独立を承認。
1474年10月
ルイ11世フリードリヒ3世の支援を得たスイス誓約同盟、シャルル・ル・テメレールに対して戦端を開く(ブルゴーニュ戦争:1474年~1477年)。
1477年1月5日
シャルル・ル・テメレール、フランス北東部ナンシーの戦いで敗れ、戦死(1433年~:在位1467年~)。ブルゴーニュ戦争、終結(1474年~1477年)。
フランス王国統一の最大の障害となっていたブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールの死により、王国統一、急速に進展:ルイ11世は公領(本領)を併合し、公の娘マリー・ド・ブルゴーニュ(1457年~1482年)はフランシュ=コンテ、ネーデルランド(アルトワ、フランドルなど)のみを継承。
1478年5月2日
かねてからローマ教会の改革、公会議開催、フランスのガリカニズムを志向しシクストゥス4世と対立してきたルイ11世に、自身ないしフィレンツェとシクストゥス4世の敵対の仲裁を依頼。間もなく、シクストゥス4世を脅迫するよう重ねて依頼。
1478年8月1日
ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、フェッラーラ及びルイ11世の使節たち、会合し、シクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコ及びフィレンツェへの敵対はオスマン・トルコを利するだけの、キリスト教世界への敵対行為であると非難の声明を発表。
この頃?、フリードリヒ3世も、シクストゥス4世に対し、フィレンツェに向けている軍を直ちにオスマン・トルコに向けるよう勧奨。
しかしシクストゥス4世、これらの非難、勧奨を無視しフィレンツェ領内で戦闘を続行。
1479年1~2月半ば
公会議の開催を求めるルイ11世の使節に対しシクストゥス4世、これを拒否すると共にロレンツォ・イル・マニーフィコを強く非難し、ルイ11世は彼に贖罪を説くべきと反論。
1479年2月15日
この日から開催された枢機卿会議でフリードリヒ3世の使節は、ルイ11世の求める公会議の開催は否定しながらもシクストゥス4世に対し、フリウーリや上部イタリアにも及んでいるオスマン・トルコの進撃を考慮し慈悲をもってフィレンツェと和を講ずるべきと主張。枢機卿の多くもこれに賛同するが、ジローラモ・リアリオフェッランテ・ダラゴーナの対フィレンツェ強硬姿勢に傾くシクストゥス4世は首肯せず。
1479年8月7日
フリードリヒ3世の子マクシミリアン1世(1459年~1519年:神聖ローマ皇帝1493年~1519年)、フランス北部のGuinegatteの戦いでルイ11世の軍を破り、妻マリー・ド・ブルゴーニュの相続領を守る。
1479年秋
戦況が著しく不利に傾き状況が緊迫化する一方、期待したルイ11世からの支援が得られず、フェッランテ・ダラゴーナ陣営にいたルドヴィーコ・イル・モーロが実権を握り始めたミラノなどからの支援も期待できなくなった市内に焦燥感が強まり、ロレンツォ・イル・マニーフィコ一人のためにフィレンツェが崩壊の危機に瀕していると公言され始める。
この頃?、ロレンツォ・イル・マニーフィコフェッランテ・ダラゴーナの女婿エルコーレ1世・デステの助言と仲介を得つつナポリのフェッランテ・ダラゴーナ宮廷で秘密裡に停戦、和平工作を開始か?
1482年12月23日
マクシミリアン1世ルイ11世によるブルゴーニュ公領(本領)とピカルディ地方の取得を認め、さらに、自分の娘マルグリット・ドートリッシュルイ11世の子シャルル8世と婚約させ、娘の婚資としてアルトワ、フランシュ=コンテをシャルル8世に与えることを認める(アラスの和約)。
1483年8月29/30日
ルイ11世死。子シャルル、フランス王に即位しシャルル8世を名乗る(1470年~1498年:在位1483年~1498年)。しかしシャルル8世の姉アンヌ・ド・フランス(A. de Beaujou:1461年~1522年)、摂政として実権を掌握。
1493年1月19日
シャルル8世、イタリア侵攻の態勢を整えるべくフェルナンド2世・デ・アラゴンとバルセロナで協定を結び、前王ルイ11世が前アラゴン王フアン2世・デ・アラゴンより獲得した(1462年)スペインに近いフランス南東部ルシヨンとサルダーニャを返還(バルセロナ協定)。

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『君主論』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界大百科事典』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ハプスブルク家』
 『フィレンツェ史』
 『服飾の中世』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前