Luca Pitti

ルカ・ピッティ

生没:1394年~1472年
在位:正義の旗手 1448年7月~8月
         1453年11月~12月
         1458年7月~8月
父:ブオナッコルソ・ピッティ
子:フランチェスカ・ピッティ
  ヤコポ・ディ・ルカ・ピッティ

概要

 ルカ・ピッティは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

年表

1450年3月
フランチェスコ1世・スフォルツァから年来の支援への感謝の書簡がシニョーリアとコジモ・イル・ヴェッキオに届き、シニョーリアはコジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソネリ・ディ・ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニ(1388年~1457年)、ディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティ(1394年~1472年)の4名の祝賀使節をミラノに派遣すると共に、市内で祝賀行事を開催。
1452年7月14日
アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦のため、ジャンノッツォ・パンドルフィーニルカ・ピッティ、ピエロ・ルチェッライ、ベルナルド・リドルフィらを委員とする新十人委員会を編成。さらに1452年8月、この委員の任期を5年間に延長。
1453年11月5日
イタリア諸国間の和平が実現しない状況に対処すべく、ルカ・ピッティコジモ・イル・ヴェッキオ、ネリ・カッポーニ、アニョロ・アッチャイウオリらを委員とする新十人委員会が編成され、委員の任期は5年と定められる。
このバーリア、アッコピアトーリシニョーリアなど主要官職選出の大権の延長を承認。
1458年7月2日~7月31日
メディチ家に対抗心を燃やしながらもコジモ・イル・ヴェッキオの威勢に服しているルカ・ピッティは、1458年7月~8月の正義の旗手に就くや直ちに共和政の事実上の変改を試み続けるがジローラモ・マキャヴェリらの強い反対で斥けられる。
この間、かねてからコジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援を受けてきたサン・マルコ修道院アントニーノ・ピエロッツィは、敢然として自ら筆を取って国法遵守誓約違反及び共和政変改を非難する文書を書き、主要教会に張り出す。
1458年8月3日~8月4日
ルカ・ピッティ、軍を動員してジローラモ・マキャヴェリ及びピエロ・マキャヴェリ兄弟らを逮捕させる。
彼らを拷問にかけて体制転覆の陰謀を自白させ、その陰謀などを利用しパルラメント開催の雰囲気を作り出す。
1458年8月9日
ルカ・ピッティ、ファエンツァの君主アストッレ2世・マンフレディ(?~1468年:兄弟との共同支配在位1417年~1448年:単独支配在位1448年~1468年)にその騎兵、歩兵を率いて市内を固めさせる。
1458年8月11日
武装兵が市内を固めシニョーリア広場を取り囲む中でパルラメント開催:ここでシニョーリア、250名からなる6ヶ月任期のバーリアの設置、シニョーリア及び八人委員会の選出方法の伝統的抽選の廃止、アッコピアトーリによる直接指名への変更、バーリア的な権限を有する永続的機関Consiglio de' Cento(百人委員会)の設置、を含む法案を、ルカ・ピッティの提案通り強引に万場一致で承認させる。
これにより1282年以来の共和政、事実上終焉。以後、表見上の共和政の下でのメディチ家による独裁的統治、曲折を経ながらも着実に進展。
1466年5月27日
コジモ・イル・ヴェッキオ死後もしばらくはピエロ・イル・ゴットーソの最強の支持者だったものの次第にメディチ家を離れ、その権力、威勢の限定、縮小と、共和政の復活を唱えてきたルカ・ピッティを指導者とし、ジャノッツォ・ピッティManno Temperaniアニョロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニらメディチ支配下で指導的地位を占めてきた有力者を中心とする約400名の市民、共和政の再建、維持に全力を尽くして当たるとの誓約を行う。但しこの誓約、今だピエロ・イル・ゴットーソの追放などは唱えず。
1466年8月
ルカ・ピッティの陰謀:新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、父、故フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めに応じようとするピエロ・イル・ゴットーソと対立したのを契機にメディチ支配の一掃を企図するようになったルカ・ピッティを中心とするアニョロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニニッコロ・ソデリーニら、病弱なピエロ・イル・ゴットーソの行動力の欠如と彼の強大な支援者フランチェスコ1世・スフォルツァの死を利して一気にピエロ・イル・ゴットーソを殺害しメディチ支配を打倒することを狙う。このためボルソ・デステに密かに支援を求める。
1466年8月27日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから反乱とエステ軍の領内侵入を通報する書状を受けたピエロ・イル・ゴットーソ、療養中だったカレッジの別荘から急ぎフィレンツェ市内に向かう。
市内に入ったピエロ・イル・ゴットーソ、直ちにメディチ派を集め、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの書状を示して反乱と外敵の侵入を告げ、さらに書状をシニョーリアに運ばせ直ちに防衛体制を取らせる。
自らも兵を集めながらもピエロ・イル・ゴットーソルカ・ピッティに交渉を呼びかける。反乱の早期の発覚と予想に反してのピエロ・イル・ゴットーソの迅速果敢な対応に機先を制された首謀者たち、呼びかけに応じざるを得なくなる。
交渉に現われた老ルカ・ピッティは、ピエロ・イル・ゴットーソと和解。しかし帰宅後ニッコロ・ソデリーニら陰謀仲間に説得され、すぐ翻心。
1466年8月29日
シニョーリアの選出結果を見たルカ・ピッティ、改めてピエロ・イル・ゴットーソと和解し、屈服。
1466年9月11日
バーリア、ピッティ陰謀事件の関係者の処罰を決める:アニョロ・アッチャイウオリは息子たちと共にバーリ近郊バルレッタへ、ディエティサルヴィ・ネローニは兄弟と共にシチリアへ、ニッコロ・ソデリーニは息子と共にフランス・プロヴァンスへ、それぞれ20年追放する他、関係者をことごとく追放や罰金刑に処する。しかし中心メンバーのルカ・ピッティのみは処罰せず放置。
以後ルカ・ピッティ、各派から軽蔑され、事実上の陰棲を余儀なくされる。
1467年5月10日
バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍、エルコーレ1世・デステ及びアレッサンドロ・スフォルツァらの軍も加え、この日ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。アニョロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティの陰謀の首謀者たちもこれに従う。

別表記

 ルーカ・ピッティ

関連項目

 ピッティ陰謀事件

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

記載日

 2005年5月29日以前