Lucrezia Borgia

ルクレツィア・ボルジア

Il Pinturicchio
生没
1479年4月19日~1519年6月24日
出身
スビアーコ
没地
フェッラーラ
アレクサンデル6世
ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
ジョヴァンニ・スフォルツァ
アルフォンソ・ダラゴーナ
アルフォンソ1世・デステ
ロドリゴ・ダラゴーナ
アレッサンドロ・デステ
エルコーレ2世・デステ
イッポーリト・デステ
エレオノーラ・デステ
アレッサンドロ・デステ
フランチェスコ・デステ
アルフォンソ・デステ
イザベッラ・マリーア・デステ

概要

 ルクレツィア・ボルジアは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、聖職者の庶子。
 父アレクサンデル6世と兄チェーザレ・ボルジアの野望のため、3度にわたり政略結婚させられた。初婚は14歳でジョヴァンニ・スフォルツァと、再婚は19歳でアルフォンソ・ダラゴーナと、3度目は22歳でアルフォンソ1世・デステと結婚。アルフォンソ・ダラゴーナとの間に1男、ペドロ・カルデロンとの間に婚外子インファンテ・ロマーノアルフォンソ1世・デステとの間に6男2女をもうけた。

容姿

 金髪、碧眼。

教養

 幼い頃、アドリアーナ・デル・ミラに引き取られ、彼女の監督下、モンテ・ジョルダーノ宮殿に暮らす。キリスト教信徒としての高潔な立ち居振る舞いを身に着けている。
 見事な刺繍をすることができた。
 スペイン語で会話、読み書きができた。ラテン語を読むことはでき、少しだけギリシア語も理解していた。ギリシア語は、おそらくルドヴィーコ・ポドカタロに習った。
 あまり深い知識は持たなかった。

年表

1479年4月19日

スビアーコアッバツィアーレ要塞にて、生(1479年4月29日、1480年4月18日)。

1486年6月

この頃、兄チェーザレ・ボルジアらと共にアドリアーナ・デル・ミラに引き取られ、モンテ・ジョルダーノ宮殿に居住。

1491年2月26日

ローマケルビ・フアン・デ・サンテーリャスとの婚姻契約書がヴァレンシア方言にてカミッロ・ベネイムベネの手で作成される。ケルビ・フアン・デ・サンテーリャスヴァレンシアにいるため、父ロドリゴ・ボルジアローマ貴族アントーニオ・ポルカロを代理人として立てる。持参金はヴァレンシア貨幣で30万ティンブラ又はスー(ソル、フランスの貨幣で1リーブルは20スー)分が、金貨、宝石や貴重品で支払われる。その内1万1千ティンブラは亡き異母兄ガンディア公ペドロ・ルイス・デ・ボルハの遺贈であり、8千ティンブラは兄チェーザレ・ボルジアと弟ホフレ・ボルジアからのものだが、これもおそらくペドロ・ルイス・デ・ボルハの遺贈。1年以内に父の費用でヴァレンシアに向かい、当地に到着後6か月以内に教会での式を挙げる予定だった。1491年4月19日に12歳になると記載されている。「Item mes attenent que dita Dona Lucretia a XVIIII de Abril prop. vinent entrará in edat de dotze anys.

1491年4月30日

ガスパール・デ・プロシタとの婚姻契約書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。代理人は、父方の従弟ジョフレ・リャンソル、ヤコポ・セラ、マッテオ・キュシア。父ロドリゴ・ボルジアの費用でヴァレンシアに向かう予定。ケルビ・フアン・デ・サンテーリャスとの婚約があるため、契約書のこの日付には疑問が残る。

1491年6月16日

ローマケルビ・フアン・デ・サンテーリャスとの婚姻契約書が、少し内容を変えて、再び作成される。

しかしこの婚約は後に無効にされる。理由は不明。

1492年11月9日

1492年8月11日のガスパール・デ・プロシタとの婚約解消書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。

1493年2月2日

ヴァティカン宮殿ペーザロの君主ジョヴァンニ・スフォルツァと婚約。ペーザロに帰っていた彼の代理人は、ニッコロ・デ・サヴァーノ(ニッコロ・ダ・サイアーノ)。アドリアーナ・デル・ミラ、ミラノ大使、アレクサンデル6世の友人、部下、フアン・ロペス、フアン・カザノヴァ、ペドロ・カランツァ、フアン・マラデスが出席。持参金は3万1千ドゥカート。1年以内にペーザロに行くこと。

1493年

この頃?、サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿アドリアーナ・デル・ミラジューリア・ファルネーゼと共に住まい、ここで宮廷を営む。

1493年4月23日

このゲオルギオスの日(1493年4月24日)に結婚式が予定されていたが、花婿のジョヴァンニ・スフォルツァが間に合わないことが判明したため、延期される。

1493年

この頃?、新婚の住居にサンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿と、サンタンジェロ城近くの故アルディチーノ・デッラ・ポルタの宮殿が提案されたが、元々住んでいるサンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿が選ばれる。

1493年6月12日

ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚し、ヴァティカン宮殿アレクサンデル6世や枢機卿たちの出席のもとで豪奢な式典を挙げ、夜を徹して享楽の宴を繰り広げる。

入場には黒人の少女が花嫁の引き裾を捧げ持つ。ルクレツィア・ボルジアの一方の側にはジューリア・ファルネーゼが、その反対側にはアンジェラ・オルシーニ。その後に続いたのはジェラーチェ侯夫人バッティスティーナ・ウソディマーレで、黒人女に引き裾を持たせる。その他の貴婦人たちがさらに続き、総勢百50人余。「彼女は動いているとは思えないほどに快い身ごなしで」前に進み出る。ジョヴァンニ・スフォルツァも前に進み出る。そして2人は、金色の台座の上の教皇の足元に跪く。カミッロ・ベネイムベネ公証人が恒例の問いを発し「私は心から望む」とジョヴァンニ・スフォルツァが答え、ルクレツィア・ボルジアも同じ答えをする。コンコルディア司教レオネッロ・キエリカートが指輪を2人の指にはめる間、ピティリアーノニッコロ2世・オルシーニが、新郎新婦の頭上に抜き放ったサーベルを捧げ持っている。レオネッロ・キエリカート司教が、結婚の神聖についての短い説話を行う。その後で祝典が始まる。

披露宴ではラテン語によるプラウトゥスの喜劇「メナエクムス兄弟」が上演されたが、退屈なものだったらしく教皇が途中でそれを中止させる。セラフィーノ・アクイラーノが「非常に洗練されている」田園詩で新郎新婦を称える。量的にたっぷりだが、凝ったところはまるでなく、料理上の傑作はない、冷たい飲食物が出される。ケーキ類が、作法の命ずるところに従い、まず教皇、枢機卿ら、ついで新郎新婦、婦人たち、高位聖職者、そしてその他の賓客という順で給仕がなされる。残り物は調理場へは戻されず、窓から、喝采をして称える民衆の頭上に投げられる。こうして50キロ以上のケーキが無駄にされた、とヨハン・ブルカルト日記に記す。スフォルツァ家から世界中で評判のミラノの錦と指輪2つ、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿から銀嶺の食卓用具一式、兄弟、フェッラーラエルコーレ1世・デステフアン・デ・ボルハ枢機卿、教皇庁書記官長ベルナルディーノ・ルナーティから贈り物をもらう。

1493年11月半ば

少なくともこの頃までは夫ジョヴァンニ・スフォルツァとは名目上の夫婦にすぎなかった。

1494年6月8日

ジョヴァンニ・スフォルツァと共に、ペーザロに入城。雨の中、歓迎式典が行われた。

1494年6月10日

ペーザロにて、アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。

1494年6月

ペーザロにて、アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。

 猊下に、カテリーナ・ゴンザーガの美しさについて少しお伝えします。その評判については恐らくお聞き及びでしょう。彼女は背丈においてジューリア・ファルネーゼより数センチ勝り、身体は豊かで、肌は白く、美しい手をしています。美しい人です。けれども、口は不恰好で、歯は醜く、目は大きくて白く、鼻はむしろ不細工で、髪も汚い色です。顔は長くて、男っぽい感じです。口は達者で、すらすらと話します。彼女の踊り振りを見ましたが、あまり感心できませんでした。結局、全ての点で、評判を下回る女性です。

1494年夏

ヴィッラ・インペリアーレに滞在。

1495年6月16日

ジョヴァンニ・スフォルツァと共に、アレクサンデル6世が避難しているペルージア到着。

1495年10月末

この頃にはローマに戻っている。

1496年

サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿に居住。ジョヴァンニ・スフォルツァヴァティカン宮殿に居住。(1497年1月15日、ジョヴァンニ・スフォルツァが変装してペーザロを出発しローマへ向かった後、数日後に出発)

1496年2月27日

フアン・デ・ボルハ枢機卿、フアン・デ・カストロ枢機卿、バルトロメ・マルティ枢機卿が訪れる。

1496年5月20日

聖霊降臨節。ホフレ・ボルジアサンチャ・ダラゴーナが10時頃ローマに到着。美しい装飾品を身につけた12人の侍女、見事なマントを纏った2人の小姓、金と緋の錦に身を包んだ騎士たち。親しい枢機卿たち、館の警護隊、イタリア各国及び諸外国の大使などが随伴。ラテラーノ門で、黒サテンの馬衣を纏った自分の馬に跨って迎えに出、サンチャ・ダラゴーナと恭しく抱き合う。ついで、馬上のホフレ・ボルジアが先導を務め、ルクレツィア・ボルジアとスペイン大使に少し遅れて、サンチャ・ダラゴーナが続き、行列は再び歩みを起こし、ヴァティカン宮殿へ向かう。

1497年3月19日(日)

枝の主日サン・ピエトロ大聖堂での行事に参加。

1497年3月26日(日)

復活祭

1497年6月6日

サン・シスト教会に引きこもる(1497年6月4日)。この辺りは極めて非衛生的で、マラリア罹患の恐れがあった。

1497年

離婚申請に署名。女性は婚姻が実行されなかった時には3年後に離婚を申請することができると定めたグレゴリウス9世の法令に基づいてしたためられたもの。ラテン語で書かれたこの申請については、後に関係者の書類に転写された若干の文章が知られるのみであるが、そこで特に述べられているのは、「夫の家に入ってから、肉体的結合も交接もなしに3年余を過ごしました。このことを誓うと同時に、産科医の診断を受ける用意があります」というものである。

1497年6月14日

ヴァノッツァ・デイ・カッタネイが宴を主催するが、参加せず。

夜、兄フアン・ボルジアが暗殺される。

1497年12月20日

ジョヴァンニ・スフォルツァとの結婚が解消される。

1497年12月22日

ジョヴァンニ・スフォルツァとの結婚の解消が宣告される。自身を無垢の処女と宣言する文書の朗読に立ち会うためにヴァティカン宮殿に出頭。謹聴し、微笑し、優雅なラテン語で回答。

1498年6月20日

アルフォンソ・ダラゴーナとの婚姻契約書が作成される。夫側の代理人はアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿。持参金は4万ドゥカート。ナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナアルフォンソ・ダラゴーナビシェーリエコラートを与えること。

1498年7月21日

アルフォンソ・ダラゴーナとの結婚式。

1499年2月9日

女官たちと共にフアン・ロペス枢機卿の葡萄園へピクニックに行く。2ヶ月の身重であったが、連れの者たちに小道を走ってみようと持ちかけ、つまずき転ぶと、すぐ後から来た女官がその上に重なるようにして転ぶ。気を失い、館に連れ帰され、「夜の9時、彼女は流産した。男子であったから女子であったか分からない」。

1499年

アレクサンデル6世に強要され、アルフォンソ・ダラゴーナ宛てに、帰ってきて欲しいという内容の手紙をしたためる。

1499年8月8日

アレクサンデル6世により、スポレートとフォリーニョの知事に任命され、朝、ローマを出発。ホフレ・ボルジアファビオ・オルシーニが付き添い、大勢の随行員と弓兵が従う。43台の荷車の大半がルクレツィア・ボルジアのものだった。馬に乗ってヴァティカン宮殿を出発し、ローマ市長、ナポリ大使、その他紳士たちが外までついていく。アレクサンデル6世ヴァティカン宮殿の門にかかる柱廊に立ち、ホフレ・ボルジアと共にその下に行き、大きなソンブレロを脱ぎ、服従の姿勢で身体をかがめる。教皇は彼らを祝福するために3度手を上げ、姿が見えなくなるまで見送る。サンタンジェロ橋までは、ナポリ大使に付き添われる。

1499年8月

時に乗馬で時に輿に乗って旅をする。輿の中には、花の刺繍を施された真紅のサテンの布団、白のダマスカ織のクッション2つ、天蓋が配されていた。椅子にかけて旅を続けることを望んだ場合にと、刺し縫いをされ、飾りがつけられていて、鞍に巧みに結び付けられた肘掛椅子と足載せも加えられていた。ウンブリアのポルカリア(現ポルタリア)で昼食を取り、知事へのスポレートの表敬文書を携えた4人の隊長に率いられた4百名ほどの兵士に出迎えられ、スポレートまで供をする。

1499年8月15日

スポレートに到着(1499年8月14日午後早く)。夕方近く、民衆の歓呼の中を入城。修道院長たちに接見。教皇の任命書を提示し、彼らは忠誠を誓う。市がルクレツィア・ボルジアを祝って宴を開く。アルボルノツィアーナ要塞に滞在。

1499年10月14日

アルフォンソ・ダラゴーナと共に、ローマに到着。

1499年11月1日

1499年10月31日夜から11月1日にかけて、ロドリゴ・ダラゴーナを出産。

1499年11月11日

ロドリゴ・ダラゴーナの洗礼が行われる。

1500年1月1日

聖年(五十年祭)。ローマの教会を巡る巡礼を行う。総勢2百名の貴族の男女からなる随行者と共に、豪華な馬衣を着せたスペイン産の小馬に乗る。ルクレツィア・ボルジアの前を50名の騎士が行き、左にはアルフォンソ・ダラゴーナが、右には女官の1人が、後ろには教皇親衛隊長ロデリク・リャンソル・イ・モンカーダが従う。その後ろにカリノーラ司教、カリノーラ司教右手にローマの一男爵、左手には、オルシーノ・ミリオラーティがついていた。サンタンジェロ城の橋を渡る時、アレクサンデル6世が城の柱廊にて見送る。巡った教会の中にはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂がある。

1500年2月12日

セルモネータ、バッシアーノ、ニンファ、ノルマ、ティヴェラ、チステルナ、サン・フェリーチェ、サン・ドナートをを教皇庁から8万5千ドゥカート(8万ドゥカート)で購入(1500年2月11日~1500年2月15日)。

1500年6月29日

ペテロの祝日。ヴァティカン宮殿に落雷があり、アレクサンデル6世が軽傷を負う(1500年6月27日)。

アレクサンデル6世の看護のためヴァティカン宮殿で寝泊まり。

1500年7月15日

23時頃(夕刻、夜半過ぎ)、アルフォンソ・ダラゴーナチェーザレ・ボルジアと配下の者に襲われ、頭と腕と腿を切り付けられて重傷を負う。

恐怖による熱を発しつつも、サンチャ・ダラゴーナと共に看病にあたる。自分たちで食事を作り、アレクサンデル6世が護衛をつける。

1500年8月18日

夕方、夫アルフォンソ・ダラゴーナ死。

1500年8月30日

息子ロドリゴ・ダラゴーナと6百の騎手の随行員と共にネピに向かってローマを出発。

カッシア街道を辿って、イゾーラ、フェルネーゼ、モンテロージを通り、モンテロージの近くでアメリーナ街道に入る。

1500年8月31日

ネピの要塞到着。

1500年9月15日

ネピにて、ローマにいる信頼する使用人ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ宛てに手紙をしたためる。

1500年10月24日

ネピにて、ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ宛てに手紙をしたためる。

1500年10月28日

ネピにて、ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ宛てに手紙をしたためる。全ての女子修道院で「私の新たな悲しみのために」祈る祈祷者を立てるよう命じる。

1500年10月30日

ネピの要塞にて、ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ宛てに手紙をしたためる。

 ヴィンチェンツォへ。すでに決めたように、輝ける聖人のような公爵、私の夫の魂に捧げる追悼式を実施するにあたって、この任に指名しているジョルジョ・コスタ枢機卿を訪ね、枢機卿がお命じになられることなら何でも、ミサとその執り行いの費用について枢機卿の指示を遂行しなさい。それから、所持している5百を何に使ったのか明確にしておきなさい。後で私が返金されたのか確認するのに必要です。

1500年10月31日

ネピにて、ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ宛てに手紙をしたためる。

1500年11月2日

ネピにて、ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ宛てに手紙をしたためる。

1500年11月

ネピにて、ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ宛てに手紙をしたためる。

 ほんの少ししか書くことができないローマへの帰還について、心配と不安でいっぱいです。ただ泣くことしかできません。これまでにファリーナ(おそらくアレッサンドロ・ファルネーゼ)は答えても手紙を寄こしてもくれないことに気づいた時、食べることも眠ることもできず、泣き続けました。神よ、ファリーナをお許しください。彼女は全てを良くすることができたでしょうに、そうはしませんでした。出立する前にローブレを彼のもとへ送ることができるかどうか見てみましょう。差し当たっては以上です。重ねて、このことについて注意しているように、それからこの手紙を決してレクシア(おそらくアレクサンデル6世)に見せてはなりません。

1500年12月

降誕祭前にアレクサンデル6世に呼び戻され、ローマに到着。サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿に住む。

1501年7月27日

アレクサンデル6世が5日間不在の間教皇代行を任される。

1501年8月16日

ヴァティカンにて、アルフォンソ1世・デステとの結婚契約が結ばれる。

持参金は、10万ドゥカートボローニャ司教区から取り上げる、ほぼ等価の、チェントとピエーヴェの城、7万5千ドゥカートに相当する宝石、衣類、銀器、絨毯、錦、壁掛け及び貴重品、当人が受け取る贈り物全て、フェッラーラから教皇への年貢4千ドゥカートを百ドゥカートに削減、ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世・デステの男系の全ての子孫にフェッラーラ所有権の譲渡、公爵の第2子イッポーリト・デステへのサン・ピエトロの司祭長の地位、その他細々した特権。

1501年9月1日

フェッラーラベルフィオーレの別荘で代理人を立ててアルフォンソ1世・デステとの結婚契約。

1501年9月5日

3百の騎士と2百名の貴婦人を従え、金銀をちりばめ、貴金属を織り込んだ重い衣服を纏い、列の前後には4名の司教らを配し、左右にはフランスとスペインの使節らを置いて、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会へ向かい、感謝の祈りを捧げる。帰路は行きよりもさらに盛大で、街路の両側には群衆ひしめき、カンピドリオの大鐘が打ち鳴らされ、宮廷道化師が「フェッラーラ公爵夫人万歳。教皇アレクサンデル6世万歳」と叫ぶ。

1501年9月18日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。

1501年10月18日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を自筆で書く。エルコーレ1世・デステが病気だと知っての見舞いの手紙。

1501年11月11日

朝、2人の樵が薪を背に積んだ2頭の牝馬をヴィリダリア門の方へ引いているところを、ヴァティカン宮殿の近くで教皇の下僕たちが取り囲み、馬の背の荷を降ろし、2頭を共にヴァティカン宮殿の最初の中庭へ引き入れ、厩舎から4頭の種馬を引き出す。アレクサンデル6世と共に、ヴァティカン宮殿の窓からその馬の交尾の光景を「声を上げて笑いながら楽しげに」眺める。

1501年12月25日

ローマで最後の降誕祭。

1501年12月26日

サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿で宴を催す。「当時の流行に従って」盛装し、「頭上に布を載せた」ローマの貴婦人50余名と侍女たち、アンジェラ・ボルジアが出席。フルートとヴィオラが奏でられる中、お気に入りのシエナ出のニコラが、ヴァレンシア貴族を相手にまず踊る。金糸を織り込まれた黒いサテンの縞のドレスを纏い、首から胸に垂れる宝石の首飾りとルビーをはめ込まれたティアラをつけたルクレツィア・ボルジアが、フェッランテ・デステと踊る。カタルーニャの踊りもされる。

1501年12月30日

夜、フェッランテ・デステを花婿の代理人とし、サン・ピエトロ大聖堂アルフォンソ1世・デステとの結婚式が執り行われる。衣装は、真紅のビロードとオコジョの毛皮の裏のついた錦。その袖は床に届く長さで、侍女たちが裾を持つ。金髪は黒いリボンで纏められ、首にはエメラルドとルビーと大きな真珠のペンダントのついた真珠のネックレスを着けていた。ラッパとトランペットを先導に、50名のローマ貴婦人を後ろに従えて、代理人フェッランテ・デステとその弟シジスモンド・デステの間に席に着く。参加者は、枢機卿13人、フランスとスペインとヴェネツィアの大使。ドイツの大使は欠席。

結婚証書の朗読と、アレクサンデル6世のしぐさで短くされた挨拶に耳を傾け、フェッランテ・デステが差し出した結婚指輪を受け取り、その同意を唱える。アドリア司教ニッコロ・マリーア・デステが祝辞を述べる。

緋の衣を着て、姉イザベッラ・デステから贈られた象牙の櫛でとかした長い髪を垂らし、宝石箱を捧げ持つジョヴァンニ・ジリオーロを従えたイッポーリト・デステ枢機卿が、証書の内容が記録されるとすぐ前に進み出て挨拶をし、宝石箱を開ける。宝石は財務係の手から教皇とルクレツィア・ボルジアの手に渡される。それについて、イッポーリト・デステ枢機卿、フェッランテ・デステジャンルカ・カステッリーニから注釈と説明が加えられる。全ての挨拶が終わり、7万ドゥカート相当の贈り物を評価し終えると、ルクレツィア・ボルジアは宝石の見事さを賞賛し、「その装飾と、石をはめ込む技巧」を称えた。

枢機卿たちが結婚の贈り物を差し出している間に、サン・ピエトロ広場ではお祭り騒ぎで、人々はけが人が出るほどの激しさで模造の城に突撃をした。

広場の見世物が終わると、ヴァティカン宮殿チェーザレ・ボルジアと踊る。ルクレツィア・ボルジアの侍女たちが舞踏の技法通りに2人ずつ組になってそれに加わる。それが1時間ほど続いた後、招待客が引き上げ、エステ家ボルジア家の者だけで晩餐。

1502年1月1日

ローマの13の区の区長たちが、古風な帽子を被り、白い指揮棒を手にし、戦闘用の服装をした2千名の歩兵と、市の13の区を象徴する13台の凱旋車を従えて、サン・ピエトロ広場に着く。窓からそれらを侍女たちと眺めた後、鸚鵡の間に移り、それから教皇の間に移って、舞踏を楽しんだり、出し物に興じたりする。

1502年1月6日(木)

僅かに降雪。サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿で朝食後、簡素な毛の服を纏って、ヴァティカン宮殿鸚鵡の間アレクサンデル6世に謁見。2人だけで会談していたが、約1時間後、教皇に呼ばれたチェーザレ・ボルジアが入室。その後、教皇の侍従たちや、イッポーリト・デステ枢機卿、フェッランテ・デステシジスモンド・デステ、その他数人のフェッラーラの顕官たちが入室。

15時、ローマを出発。服装は、金と真紅色をちりばめた絹とオコジョの毛皮を裏地にした乗馬服、羽で縁取られた帽子。金色の馬衣を着たスペイン産の白い小馬に乗る。同伴は、教皇特使フランセスク・デ・ボルジャ枢機卿、カルニオーラ(スロベニア)司教、ヴェノーザ司教ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニチヴィタ・カステッラーナ・オルテ司教ルドヴィーコ、パレストリーナのフランチェスコ・コロンナ、ジュリアーノ・コロンナ、ジュリアーノ・デッラングイッラーラ、アングイッラーラ伯カルロ・オルシーニ、マテリーカのラヌッチョ・ファルネーゼ、教皇警備隊長でアレクサンデル6世の甥ギリェム・ラモン・デ・ボルジャ、ステファノ・デル・ブファーロ、アントーニオ・パオルッツォ、ヤコポ・フランジパーネ、ドメニコ・マッシーミ。護衛は、チェーザレ・ボルジアが自分の金で雇った2百名の騎兵で、スペイン人、フランス人、ローマ人と様々な地域のイタリア人で構成されており、後にイヴ・ダレーグルウーゴ・デ・モンカーダの配下となる。そのローマ人の中には、オルシーニ家の騎兵、ピエロ・サンタ・クローチェ、ジャン・ジョルジョ・チェザリーニ、アルベリーニ、サングイーニ、クレシェンツィ、マンチーニ家の者たちを含む。その前を荷馬車が行き、「金と豪華なラシャ地を張られた木製の部屋」のような駕籠、さらに頭は金の錦の馬衣を打ちかけられ、他の1頭は真紅色の錦を羽織った新婦の牡馬と牝馬の乗用馬、ルクレツィア・ボルジアが通る。ルクレツィア・ボルジアの随行員は180名で、第1侍女アンジェラ・ボルジア、その姉妹ジェロニマ・リャンソル、その母ジョアナ・デ・モンカーダアドリアーナ・デル・ミラオルシーニ家の女性たち、ジューリア・ファルネーゼを含む。フェッランテ・デステシジスモンド・デステフランセスク・デ・ボルジャがそばに並ぶ。ポポロ門まで枢機卿や外交官や市の長官などがついていく。行列はテヴェレ川に沿って進み、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会の前を通過してミルヴィオ橋の方へ向かう。チェーザレ・ボルジアは少しの間同行するが、イッポーリト・デステと共にヴァティカンに戻る。

マリン・サヌードによれば、総勢753名、馬4百26頭、騾馬2百34頭。

1502年1月

カステルノーヴォ、おそらくネピチヴィタ・カステッラーナ、ナルニ、テルニ、スポレートを通過。

1502年1月13日(木)

フォリーニョ到着。

1502年1月14日(金)

ノチェーラ到着。

1502年1月15日(土)

グァルド到着。

1502年1月16日(日)

グッビオ到着。およそ2マイル手前でエリザベッタ・ゴンザーガに出迎えられ、2人で椅子籠に乗って宮殿まで同行。フランセスク・デ・ボルジャローマに戻る。

1502年1月17日(月)

カーリ到着。

1502年1月18日(火)

ウルビーノ近くでグイドバルド・ダ・モンテフェルトロとその宮廷人全員に迎えられ、ウルビーノ公宮殿フェッランテ・デステシジスモンド・デステと共に滞在。護衛軍はウルビーノや領地の見えやすいところに宿営。

1502年1月20日

ウルビーノを出発。少しの間グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが伴って、ペーザロへ向かう。

夜遅く、ペーザロ到着。かつての臣下、今はチェーザレ・ボルジアの臣下に迎えられる。門のところで、チェーザレ・ボルジアの色である黄色と赤を着てオリーヴの枝を手にした百人の子供たちに迎えられ、「公爵、公爵。ルクレツィア、ルクレツィア」と叫ばれる。市の役人たちに伴われて、かつての居城へ向かう。元侍女で今はジャンフランチェスコ・アルディーツィの妻であるルクレツィア・ロペスとも再会。

1502年1月22日

リーミニ到着。

1502年1月

チェゼーナ到着。ラミロ・デ・ロルカが同行。

1502年1月25日(火)

フォルリ到着。

1502年1月

ファエンツァにて、謝肉祭が終わるまでその機会を持てないため、1502年1月28日金曜日イーモラで髪を洗わなければならないと発言。

1502年1月

カステル・ボロニェーゼ到着。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに捨てられ、市壁は破壊され、掘りは埋められ、チェザリーナという呼称になっている。

1502年1月28日(金)

イーモラからボローニャへ出発。ボローニャの境で、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの息子たち、妻ジネヴラ・スフォルツァが随行員たちと共に待っており、ボローニャの門から2マイルのところで、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに迎えられる。7百の騎馬隊と共に入城。ボルジア家チェーザレ・ボルジア、教皇、ルクレツィア・ボルジア、フランス、エステ家の旗が見られた。ジョヴァンニ・スフォルツァの叔母でもあるジネヴラ・スフォルツァが貴族の女性たちと共に、宮殿の入り口で出迎える。

1502年1月30日(日)

歓迎式典が催され、夜はベンティヴォーリオ家主催の宴が開かれる。

1502年1月31日(月)

ボローニャ出発。ベンティヴォーリオ家の者たちがしばらく同行。

夕刻、ベンティヴォーリオの城に到着。到着後すぐにアルフォンソ1世・デステが突然現れ、2時間ほど過ごした後フェッラーラに戻る。

1502年2月1日(火)

ポー川を舟で移動し、マラルベルゴ近くでイザベッラ・デステに迎えられ、同行。トッレ・デッサ・フォッサで、エルコーレ1世・デステアルフォンソ1世・デステと宮廷人たちに迎えられ、舟を下りる。見事な装飾を施された小舟に皆乗り、ボルゴ・サン・ルカで下りる。アルベルト・デステの邸宅(現存せず)で、ルクレツィア・デステと貴族の女性たちに迎えられ、ここに1泊。エルコーレ1世・デステの執事長が、テオドーラ・アンジェリーニ他12人の若い侍女たちを連れてくる。エルコーレ1世・デステから、5台のそれぞれ4頭の馬に引かれた四輪馬車が贈られる。

1502年2月2日(水)

聖燭祭エルコーレ1世・デステに招待された者たちや、単に好奇心で来た数千の見物客が訪れる。モンテフェルトロ家ゴンザーガ家はその家族の女性たちが、アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオローマヴェネツィアフィレンツェルッカシエナ、フランスからは外交官たち、チェーザレ・ボルジアの代理人などが参列。

14時、エルコーレ1世・デステと外交官全員がアルベルト・デステの邸宅に向かいに来て、町へ出る。行進はポー川の橋を渡り、テバルド要塞(現存せず)の門を通る。先頭は、80の喇叭奏者と若干の横笛奏者を伴ったエステ家の白と赤のお仕着せを着た75の馬に乗った弓兵、フェッラーラの貴族たち、本人は宮殿に残っているイザベッラ・デステの宮廷人たち、エリザベッタ・ゴンザーガの宮廷人たち、8人の小姓を伴ったアルフォンソ1世・デステ、その隣に義兄アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオアルフォンソ1世・デステの服装は、フランスの流行の型の赤のビロードを着て、錬金した装飾品が上についた黒いビロードのビレッタを被り、小さな赤い長靴と黒いビロードの脚半を履く。その後ろに、ルクレツィア・ボルジアの護衛、小姓、スペイン人騎士を含む宮廷人、5人の司教、大使、長い絹織物の外套を着て黒いビレッタを被り馬に乗った4人のローマの代理人、6人のタンバリン奏者、お気に入りの2人の道化師。その後ろに、主馬に連れられた、金色の馬衣を着たスペイン産の白い小馬に乗るルクレツィア・ボルジア。服装は、金で細く縁取られた黒いビロードの緩い袖のカモッラを着て、オコジョの毛皮で縁取られた金の絹織物のケープを羽織り、エルコーレ1世・デステからの贈り物であるダイヤモンドと金が光るネットで頭を覆い、髪は纏めず肩を流れ、エレオノーラ・ダラゴーナの所持品であった真珠とルビーが数珠繋がりになった首飾りをつける。頭上の紫の天蓋はフェッラーラの大学の法律、医学、数学の博士たちが交互に支える。天蓋の外の左隣にフランス大使フィリッポ・デッラ・ロッカ・ベルティ。その後ろに、エルコーレ1世・デステ、その左隣にエリザベッタ・ゴンザーガ。その後ろに、貴族、小姓、エステ家の他の有力者たちが1人1人ルクレツィア・ボルジアの侍女を伴う。3人のローマの女性、ジェロニマ・リャンソルアドリアーナ・デル・ミラが馬に乗る。その後ろに、フェッラーラの貴族女性たちと、真紅の絹のガウンと黒い子羊の裏地が付いた黒いベルベットのマントを着た12人の花嫁の付添人が乗る14の台車。ビロードと錦と高価な金の馬具で飾られた、2頭の白い驢馬と2頭の白馬。嫁入り衣装や宝石を積んだ輸送車列を引く86頭の驢馬。

テバルド要塞の門の近くで、ルクレツィア・ボルジアの馬が祝砲に驚き投げ出されたが、手助けなく立ち上がり、他の馬に乗り換え、行進は再開。

フェッラーラ大聖堂前の広場まで来た時、2人の綱渡りが塔を下りてきて、賛辞を贈られる。

囚人たちに恩赦が与えられ、釈放される。

夜、コルティーレ・ドゥカーレに到着。入って右側にある階段の下で下馬。イザベッラ・デステルクレツィア・デステルクレツィア・デステディアーナ・デステビアンカ・デステに迎えられる。結婚披露宴が開かれる。ルドヴィーコ・アリオストも出席。

1502年2月3日(木)

結婚祝賀行事が始められ、謝肉祭の間6日間続けられる。

夜、舞踏会。プラウトゥスEpidicus』が上演される。幕間には音楽が奏でられたり、モレスカが踊られたりした。

1502年2月4日(金)

昼になるまで姿を現さず。エステンセ城大広間に大使たちを伴っていき、18時まで舞踏会、プラウトゥスの『Bacchides』が5時間上演される。

1502年2月5日(土)

公の場には姿を現さず、手紙をしたためたり、洗髪したりする。

フランス王ルイ12世の名代として、フランス大使フィリッポ・デッラ・ロッカ・ベルティから、麝香の香りのする金の玉が繋がれたものを贈られる。

1502年2月6日(日)

昼、部屋に迎えが来て、大広間で舞踏会が2時間催され、プラウトゥスの『Miles Gloriosus』が上演される。

1502年2月7日(月)

フェッラーラ大聖堂前の広場で、ボローニャ人とイーモラ人の馬上試合が行われ、負傷者はなし。

夜、プラウトゥス の『Asinaria』が上演される。

1502年2月8日(火)

告解火曜日謝肉祭最終日。出発前のヴェネツィア大使、ニッコロ・ドルフィーニとアンドレア・フォスコロから32ヤードと29ヤードのビロードのドレスを贈られる。

夜、ロンボンツィーノ作曲の音楽が演奏され、プラウトゥスの『Casina』が上演される。

1502年2月9日(水)

灰の水曜日四旬節初日。

1502年2月22日

フェッラーラにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 貴き淑女、お義姉様、そして最も誉れあるお姉様へ。私にお与えくださいましたあなたの好意の証を期待しているべきだったのでしょうけれども、そうしなかったことは、よりいっそう私を感謝の気持ちで満たします。あなたがマントヴァにご無事で辿り着かれ、あなたの夫もお元気であられたと知った喜びと安堵は、表現しようもありません。閣下とあなたが、全ての幸福を満喫し、思うがままに良きことが増えるように、神のご加護がありますように。忠誠と、また私自身の希望のために、あなたにとてもよく報いることができますように。

1502年3月27日(日)

復活祭

1502年9月5日

女児を死産し、ルクレツィア・ボルジア自身も重態(1502年9月4日)。アルフォンソ1世・デステは片時もそばを離れず。

1502年9月7日

チェーザレ・ボルジアが見舞いに来る。16時(20刻)、チェーザレ・ボルジアが押さえながら、右足から瀉血。2時間ほど過ごし、笑ったりして彼に元気づけられる。アルフォンソ1世・デステは同席を許されず。

1502年9月9日

チェーザレ・ボルジアフェッラーラ出発。

1502年9月13日

さらに病状悪化。

1502年9月20日

アレクサンデル6世の最も優秀な医師ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニに看護され、峠を越す。

1502年10月8日

療養のため、エステンセ城からコルプス・ドミニ修道院へ移る(1502年10月9日)。

1502年10月22日

回復し、エステンセ城に戻る。

1504年

エルコーレ・デイ・フェデーリに装身具を発注。

1505年8月18日

レッジョにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ピエトロ・イスアレスをスペイン宮廷に派遣してチェーザレ・ボルジアの釈放に尽力してもらえるよう、ユリウス2世に嘆願した。枢機卿にその任務を課すよう、フランチェスコ2世・ゴンザーガからも教皇にお願いしてもらえないか。

1506年1月

チェーザレ・ボルジアの家令ハイメ・デ・レクェゼンツがフェッラーラに滞在している。

1506年5月

フェッラーラの摂政を任される。フェッラーラにおいてユダヤ人は虐げられていたが、彼らを守る法律を設け、これに反した者は厳しく処罰されることになる。

1506年7月31日

フェッラーラにいたチェーザレ・ボルジアの秘書フェデリーコをスペインへ送り返す。

1506年11月20日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。チェーザレ・ボルジアがスペインから脱走した。

1506年11月27日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

1506年12月31日

チェーザレ・ボルジアの秘書フェデリーコがフェッラーラに到着。

1507年1月15日

フェッラーラにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 お義兄様、お兄様へ。兄の秘書フェデリーコが教皇ユリウス2世によってボローニャで捕らえられたことをたった今知りました。聖下に逆らうなどという危険を冒す又は容認するはずもなく、聖下の気分を害したり傷つけたりするようなことをしたり言ったりする目的でここにやって来たのではないのですから、このような報いを受けなければならないような悪いことを彼はしていないと考えます。フェデリーコがこの手の命令を受けていたならば私にまず知らせたでしょうし、夫と同じく私は教皇に献身的で忠実なのですから、不満を述べることを彼に許すはずもありません。公の脱出を伝えるため以外の理由でやって来たのではないことを存じています。それ故、彼の無実に疑いはないものと考えます。この外交特使の逮捕は、私の兄、公を傷つけ、教皇の味方ではないかのように兄ばかりでなく私も思われてしまって、特に不愉快なことです。このため、もちろん閣下がよろしければの話ですが、使者をすぐ釈放するようあらゆる手段を用いて聖下を説得してくださるよう、早急にお願い申し上げます。聖下が、ご自身の良心と閣下の仲裁によって、そうなさることと信じております。そのようにしていただければこれ以上の喜びはなく、私自身の名誉と他全ての考慮をもってしてこれ以上の恩義はございませんでしょう。そのような次第で心の底からあなたに忠義を捧げます。閣下の妹、僕より。

1507年4月

アルフォンソ1世・デステ不在中のフェッラーラチェーザレ・ボルジアの死の知らせが届くが、出産間近のため、イッポーリト・デステらから知らされず、戦闘中負傷したと聞かされる。ひどく動揺し、2日間修道院で祈りを捧げた後、エステンセ城に戻る。チェーザレ・ボルジアの死の噂を聞くと直ちに使用人のトゥッリオをナヴァーラへ送るが、途中で埋葬地を聞いてフェッラーラに引き返す。グラシカ又はガルシアというチェーザレ・ボルジアの家臣のスペイン人騎士がフェッラーラに到着して、パンプローナに埋葬された彼の死の詳細を全て話す。そこでイッポーリト・デステは真実を話すことに決め、チェーザレ・ボルジアの死について書かれたアルフォンソ1世・デステの手紙を渡す。

1508年4月4日

エルコーレ2世・デステを出産(1508年4月5日)。

1509年8月25日

イッポーリト・デステを出産。

1509年12月頃

戦争のため宝飾品を質入れ。

1509年

姪のカミッラ・ルクレツィア・ボルジアのために、建設中のサン・ベルナルディーノ修道院の土地を購入(1510年)。

1510年6月頃

戦争のため宝飾品を質入れ。

1510年10月8日

アルフォンソ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。

1512年8月28日

ロドリゴ・ダラゴーナ死。

1512年10月1日

宛先不明の手紙をしたためる。「愛する息子、ビシェーリエロドリゴ・ダラゴーナの死のため、苦しみと涙にすっかり身を浸しています。詳細についてはこの手紙を持参する者が話すでしょう」

1512年10月

後見人であったイザベッラ・ダラゴーナから、ロドリゴ・ダラゴーナの財産を主張し、数千ドゥカートを受け取る。

1514年4月

アレッサンドロ・デステを出産。2歳で死。

1514年7月3日

教皇レオ10世により、キアラ会の指導の下サン・ベルナルディーノ修道院の所有を認められる。

1514年頃

サン・ベルナルディーノ修道院の増築が完了し、2つ目の回廊ができる。

サン・ベルナルディーノ修道院長にラウラ・ボイアルドを据える。

1515年7月4日

エレオノーラ・デステを出産。

1516年11月1日

フランチェスコ・デステを出産。

1518年2月

エルコーレ1世・デステミラノ大使を務め、芸術作品の調達に携わっていたジョヴァンニ・ヴァッラの娘で、ルクレツィア・ボルジアの侍女であるアンジェラ・ヴァッラが、謝肉祭のお祭り期間中に結婚。ルクレツィア・ボルジアが花嫁衣裳を用意し、エルコーレ・デイ・フェデーリに宝石類を依頼していた。

1518年3月

ロドリゴ・ダラゴーナの財産をめぐって長い訴訟を起こさなければならず、ヤコポ・ナゼッリをローマナポリに送る。

1519年1月15日

ジューリア・ファルネーゼ宛てに手紙をしたためる。

1519年3月31日

フェッラーラにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 淑女様、義理のお姉様、誉れ高いお姉様へ。あなた様の夫フランチェスコ2世・ゴンザーガのご逝去による大きな損失は深い悲しみをもたらし、慰めを提供できる代わりに私自身がそれを必要としています。あなた様にご同情いたします。私がいかばかり悲嘆に暮れ、憂鬱になっているかを伝えられません。しかし、それは起こってしまい、閣下が喜ぶように、遺言に従うべきでしょう。そのため、お立場に相応しくご不幸に耐えられますことを懇願し、お勧めしますし、そうなされることは私には分かっております。今は、いつでもあなた様のお役に立ちますとだけ付け加えておきます。

1519年6月14日

早朝、女児を死産。

1519年6月22日

14時、フェッラーラにて、教皇レオ10世宛てに手紙をしたためる。

 教皇様、ご主人様。尊敬をもって聖下の足に接吻し、全ての謙遜をもって聖なるご慈悲にすがります。2か月以上もの苦しみを経た後、14日現在の朝早く、神が満足されたかのように、娘を出産しました。苦痛から解放されることを期待していましたが、そのようにならず、自然へ負債を返さなければなりません。創造主が私に示してくれたご慈悲はとても素晴らしく、人生の最期の時を喜びをもって迎え、数時間の内に、教会の聖なる秘跡を受けた後、私は現世から離れるでしょう。この時を迎え、キリスト者として、罪人ではありますが、聖下にご慈悲をもって可能な限りの魂の安らぎをお与えくださいますようお願い申し上げたい。それ故、謙虚に、私や私の夫や子供たち他あなた様の僕全ての者に、聖下のご慈悲がありますよう。

1519年6月24日

夜、アルフォンソ1世・デステが見守る中、死。

署名


1519年3月義姉イザベッラ・デステ宛て手紙

肖像

その他

ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世・デステのメダル Medaglia in bronzo per Lucrezia Borgia e Alfonso I d’Este

制作
1502年
寸法
直径58 mm
媒体
青銅
所蔵
ボローニャ市立考古学博物館

概要

 「ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世・デステのメダル」は、青銅製のメダル。

対象

 アルフォンソ1世・デステ
 ルクレツィア・ボルジア

外部リンク

 Museo Civico Archeologico

参考文献

 『ルネッサンスの光と闇』

盲目のクピドのメダル Medaglia dell'Amorino Bendato

作者
Scuola mantovana
制作
1505年以降
媒体
ブロンズ
直径
5.8 cm
所蔵
Ferrara, Musei Civici d'Arte Antica

概要

 「盲目のクピドのメダル」は、マントヴァ派の作者によるメダル。

ルクレツィア・ボルジアの肖像

備考

 2002年フェッラーラ「ルクレツィア・ボルジア展」出品作品。

別表記

 アモリーノ・ベンダート、目隠しされたキューピッド

外部リンク

 Associazioni online
 Ferrara mostra su Lucrezia Borgia
 IL MONDO DI ORSOSOGNANTE
 Studio Esseci
 Wikipedia

ルクレツィア・ボルジアの手紙 Lettere di Lucrezia Borgia

送主
ルクレツィア・ボルジア
宛先
アレクサンデル6世
日付
1494年6月10日、ペーザロ

概要

 1494年6月10日にルクレツィア・ボルジアが父親のアレクサンデル6世に嫁ぎ先のペーザロから宛てた手紙。ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚してペーザロに無事到着したこと、その地においての歓迎振りをアレクサンデル6世に報告している。また、シャルル8世がイタリア南下を始めたという知らせを聞いたルクレツィア・ボルジアアレクサンデル6世の身を案じている様子もうかがえる内容。この手紙はヴァティカン美術館のお土産屋さんで買えるらしい。

 Beatissime Pater, post pedum oscula beatorum, aviso Vostra Santita como per gratia de Nostro Signore Idio simo arrivate sane e salve qua in Pesaro, donde anchora chel piovere ce desturbasse, puro fummo recepunte con grandissima festa e sopratuto demonstratione de amore de tuto e populo, donde travammo una bella e comada casa; deli aparechiamenti e dele feste son sequite.
 Io me remetero al referire de messer Francescho, el qual cosa so certa informara Vostra Beatitudine del tuto.
 Noi avemo inteso che al presente Roma passa molto male; dela qual cosa tute ne avemo pilglato grandissimo dispiacere e malinconia per starce Vostra Santita dentro, siche quanto posso suplicho Vostra Beatitudine escha fora; e quando no li fussi comodo lo partire, ce facia una grandissima guardia e delligentia. E questo Vostra Beatitudine non lo imputi prosumitine, ma alo grandissimo e cordiale amore li porto. E sia certa Vostra Sntita che mai starro de bona volgla se non quando sentiro spesso nove de vostra Beatitudine.
 Non altro se non che suplicho Vostra Beatitudine se recordi del Signor mio e de me,li quali simo perpetui schiavi de Vostra Santita, ala quale baso umilmente li piedi.
 Pisauri, X junij 1494
Da Vostra Beatitudine indengna schiav[a]
Lucretia Borgia Sf[ortia] manu propria

ルクレツィア・ボルジアの手紙 Lettera di Lucrezia Borgia a Ercole I d'Este

送主
ルクレツィア・ボルジア
宛先
エルコーレ1世・デステ
日付
1501年9月18日
所蔵
モデナ公文書館

外部リンク

 Arte Magazine

ルクレツィア・ボルジアの手紙 Lettere manoscritte di Lucrezia Borgia a Pietro Bembo

送主
ルクレツィア・ボルジア
宛先
ピエトロ・ベンボー
時期
1503~1504年
寸法
350 mm × 240 mm
所蔵
アンブロジアーナ図書館

概要

 「ルクレツィア・ボルジアの手紙」は、ルクレツィア・ボルジアピエトロ・ベンボー宛に書いた書簡。

備考

 2002年フェッラーラ「ルクレツィア・ボルジア展」出品作品。

外部リンク

 Veneranda Biblioteca Ambrosiana

ルクレツィア・ボルジアの手紙 Lettera di Lucrezia Borgia a Alfonso I d'Este

送主
ルクレツィア・ボルジア
宛先
アルフォンソ1世・デステ
日付
1510年10月8日
所蔵
モデナ公文書館

外部リンク

 Arte Magazine

ルクレツィア・ボルジアの手紙 Lettera di Lucrezia Borgia a Leone X

送主
ルクレツィア・ボルジア
宛先
レオ10世
日付
1519年6月22日
所蔵
モデナ公文書館

外部リンク

 Arte Magazine

1519年の死亡録 Registro della Compagnia della Morte, 1519

媒体
手書き目録
寸法
315 mm × 225 mm
所蔵
Ferrara, Archivio Storico Diocesano

 Il registro contabile, stilato dal massaro Giacomo Beltramini, contiene la notizia della sepoltura di Lucrezia Borgia al Corpus Domini. Il 25 giugno 1519, ad un giorno dalla morte della duchessa, dal Castello al monastero delle Clarisse si snod・la processione con a capo un crocefisso ed i gonfaloni con l'emblema del teschio della congregazione.

備考

 2002年フェッラーラ「ルクレツィア・ボルジア展」出品作品。

所持していた本

 『De Coppelle a la Spagnola
 カテリーナ・ダ・シエナの書簡集 印刷本
 ドメニコ・ロペスの格言を含むスペイン語のカンツォーネ集 写本
 『Aquilla Volante』印刷本
 『Supplement of Chronicles』イタリア語
 『the Mirror of Faith』イタリア語
 『神曲』注釈付、印刷本
 『the Legend of the Saints』イタリア語
 『De Ventura
 『Donatus
 『a Life of Christ』スペイン語
 フランチェスコ・ペトラルカ『カンツォニエーレ』 赤皮で製本され、留め金がつき、銅の装飾を施された羊皮紙の写本、四六判本

 黄色と暗い茶色。

別表記

 ルクレツィア・ボルジャ、ルクレーツィア・ボルジャ、ルクレッツィア、Lucrècia Borja

関連項目

 The Borgias

外部リンク

 ウィキペディア
 エステ大辞典
 世界帝王事典
 そらのお城
 チェーザレ・ボルジアに守護された楽園ローマ
 ボルジア解体新書 - ユーゴーの戯曲
 ボルジア解体新書 - ボルジア映画一覧
 Appollonia
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 Geronimo Web
 Google Books
 Makara.us
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 THE BORGIAS wiki
 Treccani

参考文献

 『愛の年代記』
 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『性病の世界史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2023年9月16日