Ludovico di Savoia

ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア

生没:1413年2月21日~1465年1月29日
出身:ジュネーヴ
没地:リヨン
在位:第2代サヴォイア公 1440年~1465年
    先代:アメーデオ8世・ディ・サヴォイア
    次代:アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
父:アメーデオ8世・ディ・サヴォイア
妻:アンナ・ディ・チプロ
子:アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
  ルドヴィーコ・ディ・ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
  フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
  ボーナ・ディ・サヴォイア
  カルロッタ・ディ・サヴォイア
  マリーア・ディ・サヴォイア

概要

 ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

年表

1440年1月6日
1439年11月フェリクス5世として対立教皇に即位したアメーデオ8世・ディ・サヴォイア、サヴォイア公位を退く(在位1416年~)——ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア(1413年~)、サヴォイア公となる(在位1465年)。
1447年8月18日
内部で君主政維持派と共和政樹立派の対立していたミラノ臨時政府は、後者の優勢下でアンブロジアーナ共和国の樹立を宣言(~1450年)。
しかしこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死の報が広まるに連れ、領内のコモ、アレッサンドリア、ノヴァーラ、パルマ、トルトーナなどの都市がミラノへの服属を拒否して独立の動きを見せ、領国解体の兆しが見え始める。
この混乱を好機としてヴェネツィアはローディ、ピアチェンツァなどを配下に入れ、さらに広くミラノ領を制圧する気配を見せる。
フランチェスコ1世・スフォルツァは無論アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから後継者として指名するとの遺言を得ていたとしてミラノの制圧を狙い、加えてサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの寡婦マリーア・ディ・サヴォイアが自分の妹であることを、シャルル1世・ド・ヴァロワ(1394年~1465年:オルレアン公在位1407年~1465年)は自分の母ヴァレンティーナ・ディ・ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1366年~1408年)がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの姉であることを、モンフェッラート候ジョヴァンニ(?~1465年:在位1445年~1465年)はサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアの娘マルゲリータ・ディ・サヴォイア(1439年~1483年)が妻であることを理由にそれぞれミラノの継承権を主張。
1449年12月末
フランチェスコ1世・スフォルツァ、ミラノ継承請求者の一人ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアと和をもって後方の安全を確保した上でミラノ包囲、兵糧攻め態勢を固め狭めようと図る。
1450年1月20日
この日までにフランチェスコ1世・スフォルツァ、ミラノの包囲、兵糧攻めをますます狭める一方、ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアと、パヴィア、アレッサンドリア及びノヴァーラの城塞を譲ることなどを約して協定し、後方の安全を確保。
1451年3月6日
この日?、ヴェネツィアとナポリアルフォンソ5世・デ・アラゴンは、同盟を結び、反ミラノ、反フィレンツェの方針をさらに進め、それぞれの領国からのフィレンツェ商人の追放も決める。間もなくこの同盟にサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア、モンフェッラート候ジョヴァンニ及びシエナが加入。
1465年1月29日
サヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア死(1413年~:在位1440年~)——長子アメーデオ9世・ディ・サヴォイア(1435年~)、サヴォイア公となる(在位~1472年)。

別表記

 第2代サヴォイア公ロドヴィーコ、サヴォイ公ルイ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2006年5月7日以前