Ludovico il Moro

ルドヴィーコ・イル・モーロ

生没
1452年7月27日~1508年5月27日
出身
ミラノ
没地
ロシェ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
ベアトリーチェ・デステ
ベルナルディーナ・デ・コッラディス
チェチーリア・ガッレラーニ
ルクレツィア・クリヴェッリ
マッダレーナ・スフォルツァ
ビアンカ・スフォルツァ
レオーネ・スフォルツァ
チェーザレ・スフォルツァ
マッシミリアーノ・スフォルツァ
フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ
ボーナ・スフォルツァ
ジャンパオロ1世・スフォルツァ

概要

 ルドヴィーコ・スフォルツァは、15世紀~16世紀のミラノの男性。
 甥ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの後見人となり、これが亡くなった後、ミラノ公位に就いた。
 フランス王シャルル8世のイタリア南下を、私権拡大のため促した。後、フランス王ルイ12世ミラノを攻略され、一度回復するも、捕らえられ、フランスで獄死する。

在位

 バーリ公 1479年~1494年
 第7代ミラノ公 1494年~1499年、1500年

年表

1452年7月27日
ミラノのアレンゴ宮殿にて、生(1451年8月19日ヴィジェヴァーノ)。
1459年
キリスト教君主会議のためマントヴァに来た教皇ピウス2世を、母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティと兄弟たちと共に表敬。
1463年12月25日
自ら作文したラテン語の演説を両親の前で発表し、識字学習の成果を示す。
1464年6月2日
ピウス2世が提唱する対オスマン・トルコ聖戦のための軍、騎兵2千と歩兵1千の指揮官に、フランチェスコ1世・スフォルツァから名目上任命される。
1464年11月
狩りで仕留めた大きな鹿を父フランチェスコ1世・スフォルツァに贈る。
1466年3月8日
フランチェスコ1世・スフォルツァ、死。
1466年3月18日
コッミッサーリオのトンマーゾ・テバルディと共にクレモーナ到着。
1466年9月
高熱に冒される。
1467年5月20日
クレモーナにて、母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ宛に手紙をしたためる。
1467年秋
ジェノヴァで姉イッポーリタ・スフォルツァと会う。
1467年末
ミラノ到着。
1471年3月上旬
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァメディチ家との誓約の確認という名目の下、妻ボーナ・ディ・サヴォイアや2人の弟ルドヴィーコ・イル・モーロ、スフォルツァ・マリーア・スフォルツァらを率い絢爛豪華な隊列をなしてフィレンツェを訪問。ロレンツォ・イル・マニーフィコジュリアーノ・デ・メディチ(1453年~1478年)兄弟主導の豪奢で壮麗な大歓迎、接遇を受けてその邸宅メディチ宮に逗留。フィレンツェの文化、芸術の先進性に瞠目させられる。
1476年4月19日
ミラノにて、ジョヴァンニ・アルチンボルディ枢機卿宛に手紙をしたためる。パヴィアで洗礼を行う兄ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァルチア・マルリアーニの子オッタヴィアーノ・スフォルツァの代父を頼む。
1476年12月21日
スフォルツァ・マリーア・スフォルツァと共に、フランスのトゥール到着。
1476年12月25日
フランス王ルイ11世に謁見。
1476年12月26日(木)
サント・ステファノの日。兄ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが暗殺される。
1477年1月初め
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ没の報を受け、フランスを発つ。
1477年1月下旬
ミラノに到着。
1477年1月28日
ミラノジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ、摂政ボーナ・ディ・サヴォイア、補佐チッコ・シモネッタミラノ新政権に忠誠を誓う。
1477年
ヴィジェヴァーノにて、ルチア・マルリアーニ宛に手紙をしたためる。彼女の健勝を喜び、聖ゲオルギウスの日(4月23日)の祭りの後に会うのを楽しみにしていると書く。
1477年5月25日
ミラノで故ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの弟スフォルツァ・マリーア・スフォルツァ、ルドヴィーコ・イル・モーロおよびアスカーニオ・マリーア・スフォルツァによる、幼公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと摂政ボーナ・ディ・サヴォイアを排してスフォルツァ・マリーア・スフォルツァミラノ公とする企み露見。ルドヴィーコ・イル・モーロはピサに追放される。
1477年6月
追放先であるピサへの途上、フェッラーラ到着。エルコーレ1世・デステスキファノイア宮殿で歓待される。
1477年7月14日
バーリにて、チッコ・シモネッタ宛てに手紙をしたためる。「私もそなたがよく仕えたフランチェスコ1世・スフォルツァの息子であることを忘れるでない。」
147?年
ラ・スペツィアで兄スフォルツァ・マリーア・スフォルツァロベルト・サンセヴェリーノと合流。
ロンバルディアに入るため、ジェノヴァトスカーナ領境界の一部を襲撃。
1479年1月27日
ミラノにて、マントヴァの外交官宛に手紙をしたためる。「監禁から脱出し、ピエトラサンタに行った」。
1479年2月22日
ルドヴィーコ・イル・モーロとスフォルツァ・マリーア・スフォルツァは反逆者と宣告される。
1479年8月10日
教皇軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の陣営でフィレンツェを攻撃していたルドヴィーコ・イル・モーロ、この日、突如ミラノ領トルトーナに入る。間もなくこの地を制圧、占領。
この事態にボーナ・ディ・サヴォイアは、エルコーレ1世・デステに支援を求め、エルコーレ1世・デステはフィレンツェの陣の指揮を弟シジスモンド・デステ(1433年?~1507年)に任せてトルトーナに向かう。
エルコーレ1世・デステの突如の戦線離脱にフィレンツェ陣営が愕然としている中、教会軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の猛進撃が始まる。
1479年8月14日
ナポリフェッランテ・ダラゴーナにより、バーリ公に叙される。
1479年8月20日
ルドヴィーコ・イル・モーロとロベルト・サンセヴェリーノは、ヴァレーゼ・リーグレ出発。
1479年8月23日
トルトーナ占領。
1479年9月7日
夜、スフォルツァ城の裏手にある大きな公園を経由して、密かに城内に入り込む。ボーナ・ディ・サヴォイアの歓迎を受け、美しい部屋を寝室として提供される。
1479年9月10日
チッコ・シモネッタを逮捕させパヴィアの獄に投じさせる(1479年9月11日)。
以後ルドヴィーコ・イル・モーロ、次第にミラノの実権を掌握。
1480年7月25日
ミラノ公国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国が同盟を締結。
1480年10月7日
ルドヴィーコ・イル・モーロ、さまざまの奸計を重ねてこの日、ボーナ・ディ・サヴォイアミラノ宮廷から追放。自ら公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの摂政となりミラノを事実上支配。
1480年10月30日
チッコ・シモネッタを斬首刑に処す。
1481年5月24日
ミラノ公がカテリーナ・スフォルツァに贈り物をするため、顧問ブランダ・カスティリオーネローマに送る。
1481年7月13日
ミラノ公がボローニャ駐在ミラノ大使フランチェスコ・カザーティ宛てに手紙をしたためる。来ないことは知りつつ、ジローラモ・リアリオを招待したこと。
1482年5月3日
ヴェネツィアがフェッラーラに宣戦。ヴェネツィアにシクストゥス4世、リーミニのロベルト・マラテスタ、ジェノヴァなどが、フェッラーラにナポリフェッランテ・ダラゴーナミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びフィレンツェが加勢し、ほぼイタリア全土に戦線が拡大する。
1482年7月8日
ミラノ公がウルビーノフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと同盟の大使たち宛に手紙をしたためる。教皇シクストゥス4世ジローラモ・リアリオは和平に傾いている。カテリーナ・スフォルツァミラノ宮廷に招待すべき。
1482年12月12日
ヴェネツィアと同盟して他のイタリア諸国と戦うことがヴェネツィアを強大化する結果に終わることを懸念するに至ったシクストゥス4世ローマフェッランテ・ダラゴーナ、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェと20年間の講和を結ぶ。2週間後のクリスマスを期してこれを公表。
これへのヴェネツィアの加入はその意思に任せられたがヴェネツィアはこれを無視し、フェッラーラに対する戦闘を続行。
1482年
この年頃レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルドヴィーコ・イル・モーロに仕えるべくフィレンツェを離れてミラノに行く(1482年頃~1499年)。
1484年8月7日
バニョーロの和:シクストゥス4世を除く反ヴェネツィア同盟陣営とヴェネツィアは、反ヴェネツィア側の、とりわけルドヴィーコ・イル・モーロの状況と戦意喪失に押されて、軍事面では不利に陥っているヴェネツィア側に圧倒的に有利な和をブレッシャ近郊バニョーロで結ぶ。バニョーロの和。
これを知った病臥中のシクストゥス4世は、ほぼ手中にしたはずの勝利を逃したと激怒し、ルドヴィーコ・イル・モーロを激しく非難するが行動に移れず。
1485年10月14日
フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナに宣戦布告する勅書を発す。
ルドヴィーコ・イル・モーロとフィレンツェは躊躇いながらフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナに与し、ヴェネツィアは積極的に教皇に与して傭兵隊長ロベルト・サンセヴェリーノローマに派遣。両陣営、ローマ周辺で戦闘を始め、間もなくローマフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ陣営の軍に包囲される。
1486年7月
ミラノ領内でペスト大流行。死者は5万人を超えるとも言われる。
1486年8月9/11日
アクイラで教会支配への反乱を生じさせ、自軍をローマに迫らせるなど戦闘で優位に立ちながら、一方では密かにインノケンティウス8世との和を策してきたフェッランテ・ダラゴーナは、この日、インノケンティウス8世と、アクイラの統合はその住民の選ぶ方式に従うこと、フェッランテ・ダラゴーナは至高の存在たるインノケンティウス8世に服すること、フェッランテ・ダラゴーナに反抗した諸侯は再び彼に服すれば罪を問われないこと、など不利な状況に置かれていたインノケンティウス8世に全面的に有利な内容の和を、スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャ、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェのそれぞれの使節を証人として締結。
1486年11月
封建領主の反乱においてフェッランテ・ダラゴーナを支援し、アーミン勲章が授与される。
1488年4月24日
フォルリ発フランチェスコ・ヴィスコンティからの手紙。カテリーナ・スフォルツァフォルリを掌握するよう隠密行動。できなければミラノ公国が獲得するよう計らう。
1488年4月27日
ヴィジェヴァーノにて、フランチェスコ・ヴィスコンティ宛てに手紙をしたためる。フォルリの事件について返信。
1488年5月13日
ミラノ公がブランダ・カスティリオーネ宛てに手紙をしたためる。「子息が成人するまで、今我々がフォルリを統治しなければならない。」
1489年2月17日
ミラノジャン・ガレアッツォ・スフォルツァナポリフェッランテ・ダラゴーナの孫、アルフォンソ2世・ダラゴーナの娘イザベッラ・ダラゴーナ(1470年~1524年)との結婚が決まり、この日、イザベッラ・ダラゴーナナポリから海路ジェノヴァに到着。間もなくミラノに向かう。
この結婚を取りまとめるなど甥ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァに忠節を尽くしているとの表見の下でルドヴィーコ・イル・モーロは、ミラノ領内での自分の支配権を軍事、政治両面でさらに強める。
1489年9月11日
ミラノ公がブランダ・カスティリオーネ宛てに手紙をしたためる。アントーニオ・マリーア・オルデラッフィと頻繁に会っているカテリーナ・スフォルツァを心配。教皇インノケンティウス8世が「カテリーナの乱れた生活」と懸念を示した。
1490年10月24日
フランス王シャルル8世からジェノヴァの領有認可をもらうよう、秘書エラスモ・ブラスカに指示。
1490年10月25日
エラスモ・ブラスカに指示。
1491年1月
エラスモ・ブラスカがミラノ公の名においてシャルル8世に封建誓約。
1491年1月17日(月)
パヴィアのヴィスコンティ城にて、ベアトリーチェ・デステと結婚。
1491年1月18日(火)
朝、ミラノへ戻る。
1491年
ミラノにて、パヴィア修道院宛てに手紙をしたためる。
 フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナに敬意を表したが、さらに我が領地における最も注目に値するものをお見せしたい。当教会と修道院をその最良のものと考えているため、公妃が次の水曜日に帰国の途上でパヴィア修道院にご訪問されることを知らせる手紙である。公妃と4百名余りの随行員のために相応しい歓待と格式のある宴を準備して欲しいのである。これが我が決断であり歓心であるからには、拒否することは許されない。そして何より、たくさんの八目鰻の用意がある。そうでなければあなた方の不利益になることをせざるを得なくなるのだから、公妃に敬意を表するよう最善を尽くすと確信しているし、娯楽を提供するための侍従を派遣した。
1491年2月26日(土)
ミラノにて、マントヴァ候妃イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 妻と月曜日にヴィジェヴァーノへ行きたいと思っています。ここにおいでになった時によりお楽しみいただけるよう、新たな狩猟団の大規模な準備をするつもりです。あなた様が去られてから妻は1日も欠かさず馬に乗っています。
1491年3月
ヴィジェヴァーノにて、バルトロメオ・カルコ宛てに手紙をしたためる。ミラノスフォルツァ城にフランス特使のための部屋の準備を指示。
1491年4月12日
義姉イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 ここでは楽しみや愉快なことが文字通り尽きません。ミラノ公妃イザベッラ・ダラゴーナと妻が耽溺するいたずらや遊びの千分の1でも伝えることはできそうにありません。田舎では乗馬で競い合って、女官たちを落馬させるよう最速を出して追い抜くなどして過ごしています。今ここミラノでは、必ず何か新しい娯楽を発明します。彼女たちは昨日雨の中5、6人の女官と徒歩で出発し、服や手ぬぐいを頭にかけて買い物に街を歩きました。ここでは女性が頭を覆う習慣がないため、路上の女性たちに笑われて無礼なことを言われ、妻は怒って同じように言い返し、危うく殴り合いの喧嘩になるところでした。終いには泥だらけのめちゃくちゃで帰ってきまして、その光景たるや。殿下がいらっしゃった時にはとても大胆で快活なあなた様という仲間が加わるのですから、公妃たちはもっと勇気いっぱいで出かけるでしょう。そして、あなた様に失礼を働く者がいれば、同じくらいやり返すでしょう。
あなた様の愛情深い弟より、
ルドヴィーコ
1491年4月21日
ヴィジェヴァーノにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 ・・・・総距離30マイルはありましたが、帰り道を馬で競争するために公妃も我々と一緒に残りました。殿下もここにいらっしゃったなら、挑戦され運試しをされたことと思います。そして、もうすぐお越しになるでしょうし、じりじりとお待ち申し上げておりますのでお勧めいたしますが、誉れ高いマントヴァ候の厩舎で飼われている見事なバルバリア種の駿馬を連れてこられたなら、容易く他を負かしておしまいになるでしょう。
1491年4月23日
イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 妻と公妃が頭に布を被ってミラノを歩いた話へのご返信は、私に喜びをもたらしました。無礼を許すようなご気性ではないと確信しており、お手紙を読めば、怒りの炎が灯った目が浮かび、侮辱する者に対して即座に憤慨した返事をお返しになるのが聞こえます。
1491年5月16日
イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 5日の直筆のお手紙で仰っていたように、狼狩りにご参加になれず私も残念です。きっと情熱と勇気をご証明されたでしょうに。しかしながら、あなた様がここにおいでになって以降とりわけ乗馬と狩り両方の技術がすこぶる上達しましたので、大胆さにおいては妹君にかなわないのではないかと言わずにはいられません。それでも、お2人が会って互いに度胸を競うところを見たくて待ちきれず、あなた様のご来訪まで千年にも感じます。
1491年6月12日
パヴィアのヴィスコンティ城にて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 殿下が以前ご訪問されたチェルトーザ・ディ・パヴィアにここ何日か滞在していました。パヴィア修道院の聖歌隊席が建物に相応しくも美しくもないと思えましたので、一昨日行って取り壊し、新しい設計を命じました。私が帰ってくるところを、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ公とイザベッラ・ダラゴーナ公妃と妻ベアトリーチェ・デステが出迎えて、いきなり攻撃してきました。防御のため騾馬に乗る家臣を3隊に分け、順番に敵にかかり、それで取っ組み合いになりました。帰って、槍を手にした若者による競争を観て、その後晩餐にしました。公妃たちはチェルトーザ・ディ・パヴィアに戻る予定でしたので昨日の朝向かわれ、お帰りになられる頃に私が出迎えに行きましたところ、両公妃と女官たち全員がトルコの服装をお召しになっていました。この変装は妻が考案し、一晩の内に服を仕立てたのです。昨日お昼くらいから作業を始めていたようで、老女と同じくらいの熱意と勢いで縫物をする妻を見て、ミラノ公妃は驚きを隠せないようでした。戯れでも真面目なことでも本気で全力でやりたいと、妻は彼女に話していました。確かに今回彼女は完全に成功しましたし、構想を実現させたその技術と洗練には言い表しようのない喜びと満足を感じました。
1491年7月8日
イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 傷ついた雄鹿の鳴き声が聞こえた刹那、妻の乗る馬を襲い、次の瞬間地面から槍の高さほど彼女が浮き上がるのを見ました。しかしその間乗馬の姿勢を崩さずにいたのです。ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ公とイザベッラ・ダラゴーナ公妃と私は助けるために一斉に駆け付け、怪我をしなかったか尋ねましたが、彼女は笑っただけで、全く怖がりさえしていなかったのです。
1491年7月15日
パヴィアにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。「ジャン・クリストフォロ・ロマーノ氏は今頃もうマントヴァへ向かう途上でしょう。」
1491年夏
イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。「妻は鷹狩が得意になり、彼女が大好きなこの遊猟では私よりも秀でています。」
1491年9月25日
イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。「殿下の私への愛情より私の殿下への愛情の方が勝っていることは確かです。殿下が私のことを考えるより私が殿下のことを考えることの方が多いですし、殿下がお書きになるよりも私の方が多くの手紙を送っています。」
1491年10月4日
イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。「昨日、殿下の妹君がパヴィアから6、7マイルで行った猪狩りにを見に来ました。二輪馬車の後ろに高くした座席に乗ってきて、まるで修道士の説教壇のようでした。そこに立ち上がって、危険なところは避けつつ、とても楽しみました。高みから見物したので、誰よりも狩りをよく見ることができたのです。」
1491年10月
明日、妻がお忍びでジェノヴァへ向け出発いたします。第1に快適さと健康のため、第2に殿下がここにいらっしゃる時のお膳立てをするためです。」
1492年1月
フランス特使Jean Roux de VisquePierre de Courthardiミラノに到着。スフォルツァ城にて自ら彼らを歓待。
1492年1月13日
シャルル8世と防衛同盟を結ぶ。シャルル8世ミラノ公による主張全てを認めることに同意し、攻守同盟においてバーリ公ルドヴィーコ・イル・モーロをミラノ公の後見人として認める。ルドヴィーコ・イル・モーロはシャルル8世ナポリ王位継承のためイタリアに進撃する際は中立を保つことを保証。
ミラノ内部では公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとその妻でフェッランテ・ダラゴーナの孫イザベッラ・ダラゴーナが摂政としての自分の地位、権力に不満を強め、外部ではイザベッラ・ダラゴーナの訴えを受けたフェッランテ・ダラゴーナとの関係が緊迫化する傾向が生じ、ロレンツォ・イル・マニーフィコの仲介によるフェッランテ・ダラゴーナインノケンティウス8世の関係好転にも直面したルドヴィーコ・イル・モーロ、シャルル8世とのこの同盟を背景として局面打開を狙う。
1492年1月19日
フランス特使Jean Roux de VisquePierre de Courthardiミラノ出発。
1492年4月8日
ヴィジェヴァーノにて、手紙をしたためる。「ここミラノにて同じ服飾が採用されるかもしれないので」フランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュの衣装の素描を送るよう、アントーニオ・カルコに命じる。ルドヴィーコ・イル・モーロとミラノ公はルイ2世・ドルレアンを親族と捉えており、自分たちの間の友情は兄弟愛だと伝えるよう、カイアッツォ伯ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノに命じる。
1492年8月10/11日
教皇アレクサンデル6世が即位。
この過程でアレクサンデル6世選出の主動因の役を果たした枢機卿でルドヴィーコ・イル・モーロの弟アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは、以後、教皇庁内部で教皇に匹敵する力を持ち続ける。
ピエロ・イル・ファトゥオフィレンツェ代表団がローマに赴いて教皇即位を祝し、恭順の意を表したのを初め、イタリア諸国の代表団、アレクサンデル6世の即位に不満のジェノヴァのそれをも含めて陸続とローマに赴き、新教皇に祝意と恭順の意を表する。
この各国代表団を一団にまとめてその中心に位置しようと企図していたルドヴィーコ・イル・モーロは、ピエロ・イル・ファトゥオに無視され、先を越され、フィレンツェに警戒心を抱く。
1492年10月6日
 何も新しいお知らせはありません。愛する妻の枕辺に終日付きっきりで、病身の妻の気をそらし、楽しませるよう最善を尽くしております。
1492年12月6日
ヴィジェヴァーノにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 親愛なる妹、最も誉れ高い気高い貴婦人へ
 昨年の夏、あなた様がこちらにいらっしゃった時に猪狩りでいい獲物を捕まえましたね。覚えておいででしょう、かわいそうなマリオーロは初めはミラノで臥せっていたため不在で、その後は病んでいた私の妻に付き添わなければならず、フランス王の大使たちでさえ1頭の猪に傷を負わせたと聞いた時、狩りに出かけることができずにとても落ち込んでいました。そして、参加さえしていればやったであろう偉業を私たちに聞かせました。愛する妻が回復し外出できるようになり始めた今、彼をだしに楽しめるだろうと考えました。ラ・ペコラーラ近くの森に狼と野生の山羊が追い込まれています。ご存知のようにここからラ・スフォルツェスカ方面に約1マイル離れているところで、フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿は同じ囲いの中に共同農場の豚を閉じ込めており、翌日マリオーロを連れて狩りに出かけました。狼と野生の山羊を狩る間彼には豚を任せると、猪だと勘違いして、雄たけびを上げながら森に沿って追跡しました。豚の後を追う彼を殿下が見たならば死ぬほどお笑いになったことでしょう。勇敢に3度突き刺そうとし、1度だけ側面に触れることに成功しただけなのですからなおさらでございます。そして、腕前にどれほど自信を持っているか見て、「分からないのか、マリオーロ。お前は飼育の豚を狩っていたのだよ」と言ってやりました。彼はびっくりして棒立ちになり、言っている意味が分かりかねるかのように凝視していたので、私たちは無限に面白がって帰り、誰もがマリオーロに猪と飼育の豚を見分けられないのかと聞きました。
1493年3月初旬
ベアトリーチェ・デステ、義母エレオノーラ・ダラゴーナ、義姪イザベッラ・ダラゴーナやその他客人を連れて、ミラノからヴィジェヴァーノへ行く。
1493年4月25日
アレクサンデル6世、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1493年5月25日(土)
ベルリグアルドの別荘にて、妻ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 この場所を絶対に見逃すことはないでしょう。本当に、かつてこれほど大きく素晴らしくて、非常にうまく設計され、見事な絵画で飾られた邸宅を見たことがありません。全世界においても匹敵するものがあるとは思えず、広大でとても快適かつ巧妙に配置された離宮を一時に目にすることが可能とは考えられませんでした。実を言うと、ヴィジェヴァーノスフォルツァ城パヴィアのヴィスコンティ城か当地のどれが最も素晴らしい宮殿かを尋ねられたならば、城には許してもらわなければならないが、間違いなくベルリグアルドの別荘を選ぶでしょう。
1493年5月26日(日)
ベルリグアルドの別荘にて、妻ベアトリーチェ・デステ宛てに手紙をしたためる。
 最愛の妻へ。
 あなたからの直近の手紙で、お仲間のお金を勝ち取っていることを聞いて、とてもうれしく思っています。ブッティーノをしているのでしょうから、ご自身でお金を保有しておけるよう、勝った額を数えるのを忘れないように。けれども、買った場合にのみ言っているので、負けたなら私は聞かなくて結構です。私たちのお母様エレオノーラ・ダラゴーナアルフォンソ1世・デステアンナ・マリーア・スフォルツァにもよろしくお伝えください。全ての人士に私に代わって敬意を表しておいてください。
1493年
義父エルコーレ1世・デステと共に、ミランドラ、カルピ、モデナに行き、もう1度ベルリグアルドの別荘を訪れたところで息子マッシミリアーノ・スフォルツァを残してエルコーレ1世・デステと別れ、途中パルマに寄って、ミラノへ帰る。
1493年6月12日
従甥ジョヴァンニ・スフォルツァと教皇の娘ルクレツィア・ボルジアが結婚。ルドヴィーコ・イル・モーロのアレクサンデル6世との連携が強まる。
1493年7月下旬
アレクサンデル6世ヴィルジーニオ・オルシーニ及びジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとの和解に成功。続いて、この両者の背後にいるフェッランテ・ダラゴーナからの1493年6月の提案及びフェルナンド2世・デ・アラゴンからの同時期の提案を入れるなど、自己防衛を着々と進める。
これらにより、1493年4月のアレクサンデル6世、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィアなどの対ナポリフェッランテ・ダラゴーナ同盟、空に帰し、ルドヴィーコ・イル・モーロはさらにシャルル8世に傾斜。
1493年11月30日
マクシミリアン1世は、ミラノで前ミラノガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘ビアンカ・マリーア・スフォルツァと結婚式を挙げる(1493年12月1日)。
この結婚の成立に尽力したルドヴィーコ・イル・モーロは、マクシミリアン1世との関係を緊密化し、ミラノ公位簒奪の企図を強める。
1494年2月6日
再びガレアッツォ・サンセヴェリーノをフランスに送ることを拒否。シャルル8世の軍事行動を促進していると受け取られかねなく、シャルル8世イタリア遠征の正当性を失うだろうとの理由。
1494年2月15日
イーモラカテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。フィレンツェのカストロカーロ駐在コッミッサーリオに対する苦情を聞き、フィレンツェ駐在外交官に書き送るよう申し付けた。
1494年3月10日
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。
 全体の動きが私から進んでいるというのは間違いです。フランス王が自発的にしたことであり、それは王がナポリ授与を故教皇インノケンティウス8世に訴えたことや、このことについての我々自身の手紙が証明しています。サンリス条約が調印された時、イタリアに侵入するつもりだったと王は使節を派遣して私にお知らせくださいました。その時、ナポリ王が教皇に対してどれほどひどい振る舞いをしたかを見て、聖下に味方することを悪いとは思いませんでした。軍事行動を思いとどまらせるようフランス王を説得することをやめました。王の決意に賛同し、現在王はリヨンにいらっしゃいます。
1494年3月18日
ヴィジェヴァーノにて、ローマにいるジローラモ・トゥッタヴィッラ宛てに手紙をしたためる。
 弟アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの狩りの様子を楽しくお知らせくださったことに感謝しなければなりませんが、弟がこちらの狩りに参加できていたならばより喜んだだろうと思います。・・・・他に何も言うことはありませんが、ローマ王陛下並びにフランス王陛下の温かい友情に加えて聖下による愛のおかげで、あなたを大いに喜ばせるいい知らせを近々伝えたいと思っていることは話しておきましょう。
1494年4月15日
ヴィジェヴァーノにて、イーモラカテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。ナポリアルフォンソ2世・ダラゴーナに対しフランスが来て、ナポリ王は進路に派兵する。イーモラ伯がナポリの領内通行を許可し、食糧を提供するのかどうか知りたい。
1494年5月11日
マルケジーノ・スタンガ宛てに手紙をしたためる。
 マルケジーノよ、庭側に増設する部屋は同封の一覧に従って家具を設置するよう命じており、特別基金に請求してグアルテーロ氏に経費1百27ドゥカート半を支給してもらいたい。ガレアッツォ・サンセヴェリーノの宮殿と、ジアルディナートと隣接する洗面所に水を引くための導管と、使用に適するようにと妻の侍従が担当する広間と食堂の絵画のために、手配された通り、割り当てたお金を同じ方法で支援してくれ給え。
1494年6月3日
ヴィジェヴァーノにて、フォルリカテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。ナポリアルフォンソ2世・ダラゴーナが来ると噂されている。自分が伯を守る。数日後にいい知らせがある。
1494年7月13日
アレッサンドリアに行き、ルイ2世・ドルレアンと会い、軍事会議を開く。ジェノヴァで準備中の海軍のことが主な議題で、ルイ2世・ドルレアンに6千ドゥカートを貸すよう要求され、手配を引き受ける。
1494年9月5日
ベルナルディーノ・コリオによれば、この日アントワープにてルドヴィーコ・イル・モーロのミラノ公位を認める証書が作成される。現存せず。
1494年9月9日
義父エルコーレ1世・デステと共に、アスティに到着したシャルル8世を城門で出迎える。
1494年10月21日
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ、死。
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの死を親族や同盟者に知らせる。
1494年10月22日
朝、スフォルツァ城ロッチェッタにて会議を開き、ミラノ公を名乗り、異議なしで受け入れられる。
午後、金色の錦を着て2時間かけて街中を馬で回る。店は閉められ、3日間鐘が鳴らされる。
ミラノにて、マッフェオ・ピロヴァーノ宛てに手紙をしたためる。
 マッフェオよ。ローママクシミリアン1世陛下に甥の公爵の死をお伝えするため、今晩ドイツへ手紙を書いた。皇帝によってなされるべきだった帝権の容認を得ず公国を所有していた父と兄による不正の結果、甥にはついに与えられなかった公爵の権利を有効化してくださるように直接陛下に口頭で訴えかけるため、君を今派遣しなくてはならなかったのだ。したがって、王はこの過ちについて無実であり、母方の子孫であるという理由で称号を主張しているとして、これらの権利をお認めくださったが、聖マルティヌスの日(11月11日)より前に公表されないこと、またその日以前に時間と場所を定めないことをお望みだ。死が継承を余儀なくさせたという事実があっての今回の申し入れにおいて、王に使節を送るべきで、この目的が故に緊急事態の重みに適った忠実さ賢明さを持ち合わせる君を選んだ。最速で出発し、陛下並びに評議員で大使のエラスモ・ブラスカ氏に会うまで休んではならない。大使に君が来た理由を説明し、彼を通じて陛下に謁見できるようにし、十分に敬意を払いなさい。信任状を渡した後、死後どんなに早くに国の長官たちと市民たちが慣習に倣って私にお悔やみを述べ、継承に関して恐れと不安を表明したことを伝えてくれ給え。国家と言えば、皆が私以外を主と仰ぐつもりはないと宣言し、爵位を受け入れるよう熱心に懇願し、もし拒否するなら認めず何らかの行動を起こすことを考えていると言った。これを王に説明した後、一方では権利を重んじる陛下が課した条件に違反するつもりはないが、他方で発布の日時が決められるまで国家が主君不在になることで起こり得る危険性についてご考慮下されるようお伝えせよ。ミラノの人々が模範を示し、それを国中に行き渡らせたことに気づき、私は責任を被ることを選び、人々の願いに沿うよう街を馬に乗って回ったのだと。称号も紋章も獲得せず、最後の公爵の後継者について国と街が疑念を持つままにしておかないために、高名な父と同じ非難を招かぬように、私はしたのだ。したがって、国家が君主不在にならないことを証明するだけでなく、同時に権利に付随する条件を侵害しないために公爵の名を使用し、聖マルティヌスの日以前に公表するなという陛下に課された命令を遵守するため領地を明記することなく、手紙や書類にLudovicus Duxと署名するつもりである。聖マルティヌスの日の祭りの後完全な署名を採用する予定で、ご命令に沿いDux Mediolaniとするつもりである。陛下の承認が得られるまで公表は慎むが、定められた期間の終了後すぐさま取得したいと考えている。
 叙位と公国を預かる喜びと共にこれら特権が発表されることをお伝えし、そしてそれ故、私の代理人として、全ての敬意と服従を示して叙任を請わなくてはならない。非公表ではすでになされたことを世界に向けて発信するべく、公国の所有者を私としたことを宣言するため大使をお送りくださるようお願い申し上げなさい。陛下に保証を請うことは私と私の子孫の永続的な義務を保証し、あらゆる不測の事態と何よりもイタリアの情勢において、イタリアのどの国より素晴らしく最も重要であり、陛下がドイツに対し発揮するのと同様の影響力をイタリアに持つ我が国の忠義を頼りにされるだろう。今年夏に叙位証書がブルゴーニュの財務官に渡されているので、エラスモ・ブラスカ氏を通して入手することができるし、君が手配するであろう帝国の命令書を後で送るつもりである。世俗的所有物の引き渡しの形式ついては、かつての公爵の時に採用されたものに従いたいと考えていて、それは探し出して君に届けるつもりだ。この趣旨で、私が考えた方法で権利を得ることができるよう、エラスモ・ブラスカ氏の助言を役立て、ローマ王と交渉せよ。
 姪のローマ王妃ビアンカ・マリーア・スフォルツァも訪ね、私に代わって共通の悲しみである公爵の死について哀悼を述べてくれ給え。そして事情を伝えて、助けていただけるよう、温かみと熱意でご主人様である陛下に働きかけてもらえるようお願い申し上げなさい。
1494年10月23日
パヴィア到着。歓呼をもって迎えられる。
1494年10月27日
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの葬儀が行われる。
1494年10月31日
サルザーナ到着。シャルル8世と合流。
1494年11月
シャルル8世により、ジェノヴァを3万ドゥカートで授与される。
1494年11月3日
ミラノへ向け出発。
1494年11月6日
ミラノ到着。ヴィジェヴァーノの妻ベアトリーチェ・デステのもとに帰る。
1494年11月初め
この頃、シャルル8世の破竹の進撃を見て彼との同盟の危険性を感じたルドヴィーコ・イル・モーロは、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァアレクサンデル6世のもとに送り、シャルル8世から離れて彼に対するアレクサンデル6世の抵抗を支持すると伝える。
ヴェネツィアもシャルル8世への対抗策を考慮し始める。
1495年4月
ルイ2世・ドルレアンにアスティ降伏とミラノ公位の請求を取り下げることを要求。
1495年4月14日
イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。アスティを攻撃する意図があることを伝える。
1495年5月26日
ミラノ大聖堂にて、マクシミリアン1世により、ミラノ公、パヴィアとアンジェーラ伯に叙任される。
1495年6月11日
この日?、初代ミラノジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの娘ヴァレンティーナ・ヴィスコンティの孫としてミラノ公位を要求するルイ2世・ドルレアン、ルドヴィーコ・イル・モーロの対フランス神聖同盟への加盟を契機に彼に対する反攻を開始し、ミラノ近郊ノヴァーラを占領。しかし直ちに同盟軍に包囲される。
1495年6月
ヴィジェヴァーノからアッビアーテグラッソに行き、ミラノに戻る。
1495年7月初め
アレクサンデル6世とルドヴィーコ・イル・モーロ、フィレンツェを対シャルル8世、対フランス同盟に引き入れるべく新たな策動を開始。
1495年8月3日
ノヴァーラの同盟軍野営地に、妻ベアトリーチェ・デステと共に到着。
1495年8月5日
閲兵。
1495年8月
ヴィジェヴァーノ到着。
1495年8月31日
カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。ヤコポ・フェオ暗殺事件の知らせに対する返信。
1495年9月
フィレンツェに抵抗するピサを支援するため、ガスパーレ・サンセヴェリーノを派遣。
1495年9月21日
同盟軍野営地に、妻ベアトリーチェ・デステと共に到着。カメリアーノに滞在。
1495年10月5日
カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。オッタヴィアーノ・リアリオヴェネツィア共和国に雇われたことを喜ぶ。
1495年10月9日
ヴェルチェッリ条約:対フランス神聖同盟を脱退してシャルル8世とヴェルチェッリで協定を結び、ルイ2世・ドルレアンのノヴァーラからの撤退の安全保障、シャルル8世の次回のイタリア侵攻への支持を約束し、代わりにノヴァーラを返還され、ジェノヴァとサヴォーナに対する所有権を認められる(1495年10月10日)。
1495年11月18日
フランチェスコ・トランケディーニ宛てに手紙をしたためる。カテリーナ・スフォルツァがカステルヌオーヴォをヴェネツィア共和国に返還したことを喜ぶ。
1496年1月2日
フォルリ司教トンマーゾ・アスティ宛てに手紙をしたためる。
1496年7月5日
ベアトリーチェ・デステと共に、ガレアッツォ・サンセヴェリーノガレアッツォ・スフォルツァを伴って出発し、コモ湖を北上してボルミオへ向かう。
1496年7月17日
マッレス・ヴェノスタに到着し、マリエンベルク修道院に滞在。
1496年7月20日
朝、マクシミリアン1世が到着。
1496年8月10日
ミラノにて、聖ラウレンティウスの日を祝う。
1496年12月6日
体調を崩している妻ベアトリーチェ・デステを連れて、ミラノへ帰る。
1496年12月
マクシミリアン1世に会うため、ヴェネツィア特使フランチェスコ・フォスカリと共にクザーゴのヴィスコンティ城に到着。
1497年1月3日
6刻、ミラノにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛に手紙をしたためる。妻ベアトリーチェ・デステの死を知らせる。昨日8刻に痛みを訴え、息子を死産し、12刻半に死亡。
1497年1月17日
指揮杖をガレアッツォ・サンセヴェリーノに渡し、ルイ2世・ドルレアン軍に対しアレッサンドリアの防衛に向かわせる。
1497年6月30日
マルケジーノ・スタンガ宛てに手紙をしたためる。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の内装の指示。
1498年5月
フィレンツェはルイ12世に書簡を送り、その友好国ヴェネツィアのカゼンティーノ地区侵攻を押し留めてくれるよう依頼。
フィレンツェは、ルドヴィーコ・イル・モーロに多額の軍資金の借款を申し入れる。フィレンツェをルイ12世から引き離してルイ12世を孤立させようと目論むルドヴィーコ・イル・モーロはこれを受諾。
1498年6月27日
イッポーリト・デステ枢機卿、ドイツ、スペイン、フィレンツェナポリ大使、随行員1千名を連れ、マントヴァ到着。
1498年6月29日
ミラノへ向け、マントヴァ出発。
1498年10月初旬
ヴェネツィア軍がマッラディを占領しロマーニャからフィレンツェに迫る。これを、ルドヴィーコ・イル・モーロの援軍によって補強されたフィレンツェ傭兵軍が撃退。ヴェネツィア軍は一時退却し、改めてカゼンティーノ地区に侵攻。
1498年11月
マルケジーノ・スタンガガスパーレ・サンセヴェリーノマントヴァへ派遣。
1498年12月3日
ベアトリーチェ・デステが埋葬されたサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に農園付きの別荘を譲渡。
遺言書を作成。ベアトリーチェ・デステの右隣に埋葬されることを希望。
1499年1月1日
イザベッラ・デステに葡萄酒2樽と檸檬2箱を贈る。
1499年2月9日
ルイ12世とヴェネツィアは、ルドヴィーコ・イル・モーロからミラノを奪取することをブロワで盟約。1499年3月25日これを公表。
1499年4月半ば
ヴェネツィアは、エルコーレ1世・デステの仲裁に従いピサ領及びカセンティーノ地区から撤兵し、ピサ支援を事実上中止。
間近に予想されるルイ12世のイタリア侵攻、ミラノ攻撃にそれぞれ対処すべくヴェネツィアやミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロがトスカーナから手を引いたため、ピサとフィレンツェはそれぞれ独自に、ピサは防衛の、フィレンツェは再攻撃の態勢を整える。
1499年4月26日
レオナルド・ダ・ヴィンチにヴェルチェッリーナ門の外にある葡萄畑を贈る。おそらく給与未払いの埋め合わせとして。
1499年5月1日
カルトジオ会修道士宛に手紙をしたためる。パヴィア修道院の装飾に多大な労力と費用を費やし完成間近だが、3年が経過しても「パヴィア修道院の祭壇画」を描き上げていないペルジーノに急がせるよう、仕上げないなら返金を求めるよう要請。
1499年夏~10月
ルドヴィーコ・イル・モーロ、ヴェネツィアを牽制するためオスマン・トルコのスルタンバヤジット2世にヴェネツィア攻撃を勧奨。バヤジット2世軍は、ヴェネツィア領を攻撃し(~1503年)、1499年8月下旬レパントを、1499年10月フリウーリを占領。
1499年8月13日
ヴェネツィア軍が領内に侵入し、アッダ川に向かって進軍。
1499年8月14日
ビアンカ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。夫マクシミリアン1世に援軍を至急送ってもらえるよう働きかけてほしいと頼む。
1499年8月29日
アレッサンドリアがフランス軍に降伏。
1499年8月31日(土)
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿とフェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿とカミッラ・スフォルツァに子供を預け、コモに向かわせる。宝石や24万金ドゥカートを積んだ騾馬が後を追う。
夕方、財務官アントーニオ・ランドリアーニがミラノの大聖堂広場で暴徒に襲われ、致命傷を負う。
1499年9月2日(月)
朝、ガレアッツォ・サンセヴェリーノエルメス・スフォルツァ、メルツォ伯ガレアッツォ・スフォルツァイッポーリト・デステらと共にミラノ出発。
コモ到着。
1499年9月
ボルミオでドイツ軍2千と合流し、インスブルックへ向かう。
インスブルック到着。姪ビアンカ・マリーア・スフォルツァに迎え入れられる。
1499年9月11日
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオルイ12世の名においてミラノに入る。ルドヴィーコ・イル・モーロは、マクシミリアン1世を頼ってティロルへ敗走。ルイ12世軍はミラノを制圧し、ヴェネツィアも盟約によりクレモーナ、Ghiara d'Addaを獲得。
1499年12月
ブレッサノーネ(ブリクセン)到着。兵を集める。
1500年1月24日
軍を率い、ブレッサノーネ出発。
1500年2月3日(月)
ムッソ城を占有後、朝、コモ到着。湖畔の町に歓迎され、有力市民たちが表敬に訪れる。市門にて民衆に歓呼をもって迎えられる。
1500年2月4日(火)
ミラベッロのランドリアーニ邸に宿泊。
1500年2月5日(水)
ミラノ奪還:
日の出、ミラベッロ出発。
占星術師が示唆した時間にポルタ・ノーヴァ周辺に入り、ジャンフランチェスコ・ダ・ヴィメルカートの庭で少し時間を潰してから、ミラノに入る。
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿、フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿が出迎え、ガレアッツォ・サンセヴェリーノや軍を伴ってミラノ大聖堂に向かって行進。民衆が歓呼をもって迎える。ミラノ公宮殿に居住。
この時点で、ローディ、ピアチェンツァパヴィア、トルトーナ、アレッサンドリアもフランス軍を追い出し、ルドヴィーコ・イル・モーロに忠誠を誓う。トレッツォ城降伏。クッサーノはマルケジーノ・スタンガが守りを固める。ヴェネツィア共和国国境の都市も恭順を宣言。
スフォルツァ城は依然としてフランス兵3百が占拠しているが、食糧と燃料が不足。硝石はあるが木炭がなく、火薬を作ることができない状況。
ミラノにて、イザベッラ・デステ宛に手紙をしたためる。ミラノ奪還について。
ミラノにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛に手紙をしたためる。フランス軍残党掃討のための援軍を要望。
1500年2月6日(木)
ミラノ出発。
1500年2月
パヴィア到着。パヴィアのヴィスコンティ城を砲撃。
ヴィジェヴァーノ到着。スフォルツァ城からフランス駐留軍を退去させる。
ローディ、ピアチェンツァヴェネツィア軍に占領される。
インスブルックから送られた大砲50門も使い、ノヴァーラを攻城。ジョヴァンニ・ゴンザーガが騎兵を率いて参戦。
1500年3月21日
ノヴァーラ、ミラノ軍に降伏。
1500年
ノヴァーラ到着、籠城。
ガレアッツォ・ヴィスコンティをベルンに派遣し、スイス議会にスイス傭兵が同士討ちを禁ずることを命ずるよう要請。しかし、使者がアントワーヌ・ド・ビュシーに買収され、ミラノ軍側のスイス傭兵にだけ命令が届く。
スイス人傭兵は戦闘を拒否し、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオと秘密裏に協定を結び、母国に帰還できるよう約束。
1500年4月5日(日)
ノヴァーラの戦いでルイ12世軍に敗れる。
1500年4月10日(金)
スイス人傭兵を装い、軍に混じって逃亡を図るが、イタリア人からソプラサッソと呼ばれているスイス人傭兵に露呈され、捕らえられる(水曜日)。
夕方、ノヴァーラ城に幽閉される。
1500年4月17日
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユに連行され、スーザに向かう。
1500年
スーザにて病を得て、数日滞在。
1500年5月2日
リヨン到着。ローヌ川のほとりに沿って、グランデ通りを通り、ピエール・シーズ城に幽閉される。まだ体調はしておらず。
1500年
リス・サン・ジョルジュに移される。城の敷地内での運動や、堀での釣り、文通などは許されていた。
1501年夏
ルドヴィーコ・イル・モーロが体調を崩し、近くで狩りをしていたルイ12世が医師を派遣。白髪になり、目の下には隈ができていて、精神的にも病んでいたという。
1504年2月
ドイツ大使がルドヴィーコ・イル・モーロの釈放を懇願。
ロシェ城に移送される。
1508年春
看守を買収し脱走を試みるが、森で迷い、翌日発見されてしまう。それまでの厚遇はなくなり、書物や文通を禁じられ、城の塔に監禁されるようになる。
1508年5月27日
フランスのトゥール近郊ロシェで客死(1508年5月17日)。
埋葬地は不明。

肖像

注文

埋葬地

 2019年5月、ロシェのサン・トゥルス教会にて、ルドヴィーコ・イル・モーロのものではないかと思われる遺骨が発見される。州の許可を得て、4月から仮説に基づく発掘調査が開始される。Pierre Papin氏ら考古学者は4体の遺骨を発見し、その内の1体が大学教会のスフォルツァの墓の非常に古い記述に一致するという。現在、慎重な検証が行われている模様。





渾名イル・モーロ Il Moro

 ジャナンドレア・プラートとフランチェスコ・グィッチャルディーニとジャン・パオロ・ロマッツォ説:暗い肌色と黒髪であるため。
 パオロ・ジョヴィオベネデット・ヴァルキ説:桑の実の意であり、冬に芽吹き早くに咲く様子から、慎重さと迅速さで機会を逃さないことの符号として渾名す。
 Julia Cartwright説:セカンド・ネームが初めマウロ(Mauro)とつけられたため。

別表記

 ルドヴィコ・スフォルツァ、ルドヴィーコ・マリーア、ロドヴィーコ、ロドヴィコ・スフォルツァ、ロドヴィゴ スフォルツァ、LodovicoLodovico Maria Sfortia

関連項目

 The Borgias: 103, 104, 105, 107

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Google Books
 Google Books - Caterina Sforza Volume III
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 THE BORGIAS wiki
 Treccani

遺骨発見?

 Corriere.it
 France Culture
 La Nouvelle République
 YouTube - Fin des fouilles dans la collégiale Saint-Ours
 Wikipédia — Église Saint-Ours de Loches

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ハプスブルク家』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『At the Court of the Borgia
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2021年2月13日