Ludovico il Moro

ルドヴィーコ・イル・モーロ

生没:1452年7月27日~1508年5月27日
出身:ミラノ
没地:ロシェ
父:フランチェスコ1世・スフォルツァ
母:ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
妻:ベアトリーチェ・ディ・エルコーレ・デステ
女:ベルナルディーナ・デ・コッラディス
  チェチーリア・ガッレラーニ
  ルクレツィア・クリヴェッリ
子:マッダレーナ・スフォルツァ
  ビアンカ・スフォルツァ
  レオーネ・スフォルツァ
  チェーザレ・スフォルツァ
  フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ
  マッシミリアーノ・スフォルツァ
  ボーナ・スフォルツァ
  ジャンパオロ1世・スフォルツァ

概要

 ルドヴィーコ・スフォルツァは、15世紀~16世紀のミラノの男性。
 甥ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの後見人となり、これが亡くなった後、ミラノ公位に就いた。
 フランス王シャルル8世のイタリア南下を、私権拡大のため促した。後、フランス王ルイ12世ミラノを攻略され、一度回復するも、捕らえられ、フランスで獄死する。

在位

 バーリ公 1479年~1494年
 第7代ミラノ公 1494年~1499年、1500年

年表

1452年7月27日
ミラノのアレンゴ宮殿にて、生(1451年8月19日ヴィジェヴァーノ)。
1459年
キリスト教君主会議のためマントヴァに来た教皇ピウス2世を、母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティと兄弟たちと共に表敬。
1463年12月25日
自ら作文したラテン語の演説を両親の前で発表し、識字学習の成果を示す。
1464年6月2日
ピウス2世が提唱する対オスマン・トルコ聖戦のための軍、騎兵2千と歩兵1千の指揮官に、フランチェスコ1世・スフォルツァから名目上任命される。
1464年11月
狩りで仕留めた大きな鹿を父フランチェスコ1世・スフォルツァに贈る。
1466年3月8日
フランチェスコ1世・スフォルツァ、死。
1466年3月18日
コッミッサーリオのトンマーゾ・テバルディと共にクレモーナ到着。
1466年9月
高熱に冒される。
1467年5月20日
クレモーナにて、母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ宛に手紙をしたためる。
1467年秋
ジェノヴァで姉イッポーリタ・ディ・フランチェスコ・スフォルツァと会う。
1467年末
ミラノ到着。
1471年3月上旬
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァメディチ家との誓約の確認という名目の下、妻ボーナ・ディ・サヴォイアや2人の弟ルドヴィーコ・イル・モーロ、スフォルツァ・マリーア・スフォルツァらを率いて絢爛豪華な隊列をなしてフィレンツェを訪問。ロレンツォ・イル・マニーフィコジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ(1453年~1478年)兄弟主導の豪奢で壮麗な大歓迎、接遇を受けてその邸宅メディチ宮に逗留。フィレンツェの文化、芸術の先進性に瞠目させられる。
1476年4月19日
ミラノにて、ジョヴァンニ・アルチンボルド枢機卿宛に手紙をしたためる。パヴィアで洗礼を行う兄ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァルチア・マルリアーニの子オッタヴィアーノ・スフォルツァの代父を頼む。
1476年12月21日
フランスのトゥール到着。
1476年12月25日
フランス王ルイ11世に謁見。
1476年12月26日(木)
サント・ステファノの日。兄ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが暗殺される。
1477年1月初め
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ没の報を受け、フランスを発つ。
1477年1月下旬
ミラノに到着。
1477年1月28日
ミラノジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ、摂政ボーナ・ディ・サヴォイア、補佐チッコ・シモネッタミラノ新政権に忠誠を誓う。
1477年
ヴィジェヴァーノにて、ルチア・マルリアーニ宛に手紙をしたためる。彼女の健勝を喜び、聖ゲオルギウスの日(4月23日)の祭りの後に会うのを楽しみにしていると書く。
1477年5月25日
ミラノで故ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの弟スフォルツァ・マリーア・スフォルツァ、ルドヴィーコ・イル・モーロおよびアスカーニオ・マリーア・スフォルツァによる、幼公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと摂政ボーナ・ディ・サヴォイアを排してスフォルツァ・マリーア・スフォルツァミラノ公とする企み露見。ルドヴィーコ・イル・モーロはピサに追放される。
1477年6月
追放先であるピサへの途上、フェッラーラ到着。エルコーレ1世・デステスキファノイア宮殿で歓待される。
147?年
ラ・スペツィアで兄スフォルツァ・マリーア・スフォルツァロベルト・サンセヴェリーノと合流。
ロンバルディアに入るため、ジェノヴァトスカーナ領境界の一部を襲撃。
1479年1月27日
ミラノにて、マントヴァの外交官宛に手紙をしたためる。「監禁から脱出し、ピエトラサンタに行った」。
1479年2月22日
ルドヴィーコ・イル・モーロとスフォルツァ・マリーア・スフォルツァは反逆者と宣告される。
1479年8月10日
教皇軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の陣営でフィレンツェを攻撃していたルドヴィーコ・イル・モーロ、この日、突如ミラノ領トルトーナに入る。間もなくこの地を制圧、占領。
この事態にボーナ・ディ・サヴォイアは、エルコーレ1世・デステに支援を求め、エルコーレ1世・デステはフィレンツェの陣の指揮を弟シギスモンド・ディ・ニッコロ・デステ(1433年?~1507年)に任せてトルトーナに向かう。
エルコーレ1世・デステの突如の戦線離脱にフィレンツェ陣営が愕然としている中、教会軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の猛進撃が始まる。
1479年8月14日
ナポリフェッランテ・ダラゴーナにより、バーリ公に叙される。
1479年8月20日
ルドヴィーコ・イル・モーロとロベルト・サンセヴェリーノは、ヴァレーゼ・リーグレ出発。
1479年8月23日
トルトーナ占領。
1479年9月7日
夜、スフォルツァ城の裏手にある大きな公園を経由して、密かに城内に入り込む。ボーナ・ディ・サヴォイアの歓迎を受け、美しい部屋を寝室として提供される。
1479年9月10日
チッコ・シモネッタを逮捕させパヴィアの獄に投じさせる(1479年9月11日)。
以後ルドヴィーコ・イル・モーロ、次第にミラノの実権を掌握。
1480年10月7日
ルドヴィーコ・イル・モーロ、さまざまの奸計を重ねてこの日、ボーナ・ディ・サヴォイアミラノ宮廷から追放。自ら公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの摂政となりミラノを事実上支配(1480年~1499年)。
1480年10月30日
ルドヴィーコ・イル・モーロによりパヴィアで投獄されていた(1479年~1480年)チッコ・シモネッタ、斬首される。
1482年5月3日
ヴェネツィアがフェッラーラに宣戦。ヴェネツィアにシクストゥス4世、リーミニのロベルト・マラテスタ、ジェノヴァなどが、フェッラーラにナポリフェッランテ・ダラゴーナミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びフィレンツェが加勢し、ほぼイタリア全土に戦線が拡大する。
1482年12月12日
ヴェネツィアと同盟して他のイタリア諸国と戦うことがヴェネツィアを強大化する結果に終わることを懸念するに至ったシクストゥス4世ローマフェッランテ・ダラゴーナ、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェと20年間の講和を結ぶ。2週間後のクリスマスを期してこれを公表。
これへのヴェネツィアの加入はその意思に任せられたがヴェネツィアはこれを無視し、フェッラーラに対する戦闘を続行。
1482年
この年頃レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルドヴィーコ・イル・モーロに仕えるべくフィレンツェを離れてミラノに行く(1482年頃~1499年)。
1484年8月7日
バニョーロの和:シクストゥス4世を除く反ヴェネツィア同盟陣営とヴェネツィアは、反ヴェネツィア側の、とりわけルドヴィーコ・イル・モーロの状況と戦意喪失に押されて、軍事面では不利に陥っているヴェネツィア側に圧倒的に有利な和をブレッシャ近郊バニョーロで結ぶ。バニョーロの和。
これを知った病臥中のシクストゥス4世は、ほぼ手中にしたはずの勝利を逃したと激怒し、ルドヴィーコ・イル・モーロを激しく非難するが行動に移れず。
1485年10月14日
フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナに宣戦布告する勅書を発す。
ルドヴィーコ・イル・モーロとフィレンツェは躊躇いながらフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナに与し、ヴェネツィアは積極的に教皇に与して傭兵隊長ロベルト・サンセヴェリーノローマに派遣。両陣営、ローマ周辺で戦闘を始め、間もなくローマフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ陣営の軍に包囲される。
1486年7月
ミラノ領内でペスト大流行。死者は5万人を超えるとも言われる。
1486年8月9/11日
アクイラで教会支配への反乱を生じさせ、自軍をローマに迫らせるなど戦闘で優位に立ちながら、一方では密かにインノケンティウス8世との和を策してきたフェッランテ・ダラゴーナは、この日、インノケンティウス8世と、アクイラの統合はその住民の選ぶ方式に従うこと、フェッランテ・ダラゴーナは至高の存在たるインノケンティウス8世に服すること、フェッランテ・ダラゴーナに反抗した諸侯は再び彼に服すれば罪を問われないこと、など不利な状況に置かれていたインノケンティウス8世に全面的に有利な内容の和を、スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャ、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェのそれぞれの使節を証人として締結。
1486年
封建領主の反乱においてフェッランテ・ダラゴーナを支援し、アーミン勲章が授与される。
1489年2月17日
ミラノジャン・ガレアッツォ・スフォルツァナポリフェッランテ・ダラゴーナの孫、アルフォンソ2世・ダラゴーナの娘イザベッラ・ダラゴーナ(1470年~1524年)との結婚が決まり、この日、イザベッラ・ダラゴーナナポリから海路ジェノヴァに到着。間もなくミラノに向かう。
この結婚を取りまとめるなど甥ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァに忠節を尽くしているとの表見の下でルドヴィーコ・イル・モーロは、ミラノ領内での自分の支配権を軍事、政治両面でさらに強める。
1491年1月17日(月)
ヴィスコンティ城にて、ベアトリーチェ・ディ・エルコーレ・デステと結婚。
1492年1月
ルドヴィーコ・イル・モーロ、シャルル8世と防衛同盟を結ぶ。
同盟の中でルドヴィーコ・イル・モーロ、シャルル8世ナポリ王位継承のためイタリアに進撃する際は中立を保つことを保証。
ミラノ内部では公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとその妻でフェッランテ・ダラゴーナの孫イザベッラ・ダラゴーナが摂政としての自分の地位、権力に不満を強め、外部ではイザベッラ・ダラゴーナの訴えを受けたフェッランテ・ダラゴーナとの関係が緊迫化する傾向が生じ、ロレンツォ・イル・マニーフィコの仲介によるフェッランテ・ダラゴーナインノケンティウス8世の関係好転にも直面したルドヴィーコ・イル・モーロ、シャルル8世とのこの同盟を背景として局面打開を狙う。
1492年8月10/11日
すでに大きな財を貯え複数の女婿との間で複数の子をなすなど世俗的頽廃を一身に備える名うての枢機卿ロドリゴ・ボルジア空前絶後と言われる激しい贈収賄と聖職売買により、ほとんどの者の予測を超えて教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗って8月26日、戴冠(教皇在位1492年~1503年)。
この過程でアレクサンデル6世選出の主動因の役を果たした枢機卿でルドヴィーコ・イル・モーロの弟アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは、以後、教皇庁内部で教皇に匹敵する力を持ち続ける。
ピエロ・イル・ファトゥオらフィレンツェ代表団がローマに赴いて教皇即位を祝し、恭順の意を表したのを初め、イタリア諸国の代表団、アレクサンデル6世の即位に不満のジェノヴァのそれをも含めて陸続とローマに赴き、新教皇に祝意と恭順の意を表する。
この各国代表団を一団にまとめてその中心に位置しようと企図していたルドヴィーコ・イル・モーロは、ピエロ・イル・ファトゥオに無視され、先を越され、フィレンツェに警戒心を抱く。
1492年9月3日
インノケンティウス8世の死後、フィレンツェの義兄ピエロ・イル・ファトゥオのもとに身を寄せていたフランチェスケット・チーボ、父から与えられた教会領の戦略上の拠点ローマ近郊AnguillaraとCervetriを、ピエロ・イル・ファトゥオフェッランテ・ダラゴーナの仲介と尽力により、フェッランテ・ダラゴーナの隊長でローマの反アレクサンデル6世勢力の中心であるオルシーニ一族のヴィルジーニオ・オルシーニ(?~1496年)に売却。この費用を受け持ったフェッランテ・ダラゴーナは教会領の拠点を押さえ、自分への包囲網を敷かれたと感じたアレクサンデル6世は強く警戒。
この後、ピエロ・イル・ファトゥオは、父ロレンツォ・イル・マニーフィコの方針(=フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子とスフォルツァ家を仲介し両者の均衡を保持する)を転換し、オルシーニ家を介してフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子の側に立つ。これに対しルドヴィーコ・イル・モーロは、一掃シャルル8世に期待し傾斜。
1493年4月25日
アレクサンデル6世、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1493年6月12日
アレクサンデル6世フェッランテ・ダラゴーナに抗してルドヴィーコ・イル・モーロとの連携を強めるべく、娘ルクレツィア・ボルジア(1480年~1519年)とルドヴィーコ・イル・モーロの親族でペーザロの君主ジョヴァンニ・スフォルツァ(1466年~1510年:ペーザロの君主在位1483年~1500年、1503年~1510年)との結婚をまとめ、この日、ヴァティカン宮殿で自分や枢機卿たちの出席のもとで豪奢な式典を挙げ、夜を徹して頽廃の限りを尽くした享楽の宴を繰り広げる。
1493年7月下旬
アレクサンデル6世ヴィルジーニオ・オルシーニ及びジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとの和解に成功。続いて、この両者の背後にいるフェッランテ・ダラゴーナからの1493年6月の提案及びフェルナンド2世・デ・アラゴンからの同時期の提案を入れるなど、自己防衛を着々と進める。
これらにより、1493年4月のアレクサンデル6世、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィアなどの対ナポリフェッランテ・ダラゴーナ同盟、空に帰し、ルドヴィーコ・イル・モーロはさらにシャルル8世に傾斜。
1493年12月1日
マクシミリアン1世は、ミラノで前ミラノガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘ビアンカ・マリーア・スフォルツァ(1472年~1510年)と結婚式を挙げる。
この結婚の成立に尽力したルドヴィーコ・イル・モーロは、マクシミリアン1世との関係を緊密化し、ミラノ公位簒奪の企図を強める。
1494年8~9月
シャルル8世は、アンジュー家ナポリ王位請求権を継承した(1480年、1481年)としてナポリ王位を請求してイタリア侵攻を開始。——1494年8月22日グルノーヴルを出発。アルプスを越えて1494年9月9日、ルドヴィーコ・イル・モーロ、彼の義父フェッラーラ公エルコーレ1世・デステアレクサンデル6世の宿敵、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレらを伴ってアスティに入る。この頃、シャルル・ドルレアン指揮のフランス艦隊、ラパッロの戦でナポリ艦隊を破って制海権を奪う。
イタリア戦争:イタリアは以後、国際的な戦乱の舞台と化す(第1次、~1516年:第2次、1521年~1559年)。
1494年10月22日頃
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ死。——ルドヴィーコ・イル・モーロ(1452年~)、ミラノ公を名乗る(在位1494年~1499年)。
1494年11月初め
この頃、シャルル8世の破竹の進撃を見て彼との同盟の危険性を感じたルドヴィーコ・イル・モーロは、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァアレクサンデル6世のもとに送り、シャルル8世から離れて彼に対するアレクサンデル6世の抵抗を支持すると伝える。
ヴェネツィアもシャルル8世への対抗策を考慮し始める。
1495年6月11日
この日?、初代ミラノジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351年~1402年:ミラノの君主在位1378年~95年:ミラノ公在位1395年~1402年)の娘ヴァレンティーナ・ディ・ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの孫としてミラノ公位を要求するルイ・ドルレアン、ルドヴィーコ・イル・モーロの対フランス神聖同盟への加盟を契機に彼に対する反攻を開始し、ミラノ近郊ノヴァーラを占領。しかし直ちに同盟軍に包囲される。
1495年7月初め
アレクサンデル6世とルドヴィーコ・イル・モーロ、フィレンツェを対シャルル8世、対フランス同盟に引き入れるべく新たな策動を開始。
1495年10月10日
ルイ・ドルレアンミラノ公位奪還を目指しての決起を見て、対シャルル8世、対フランス神聖同盟を脱退してシャルル8世とヴェルチェッリで協定を結び、ルイ・ドルレアンのノヴァーラからの撤退の安全保障、シャルル8世の次回のイタリア侵攻への支持を約束し、代わりにノヴァーラを返還される。
1496年秋
マクシミリアン1世、ルドヴィーコ・イル・モーロやこの年ピサ支援を決めたヴェネツィアの要請と勧奨に応じてピサ獲得のためイタリアに侵攻。軍と共にミラノ領に入り、ルドヴィーコ・イル・モーロの歓迎を受ける。
1497年1月3日
6刻、ミラノにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛に手紙をしたためる。妻ベアトリーチェ・ディ・エルコーレ・デステの死を知らせる。昨晩8刻に痛みを訴え、息子を死産し、12刻半に死亡。
1498年5月
フィレンツェはルイ12世に書簡を送り、その友好国ヴェネツィアのカゼンティーノ地区侵攻を押し留めてくれるよう依頼。
フィレンツェは、ルドヴィーコ・イル・モーロに多額の軍資金の借款を申し入れる。フィレンツェをルイ12世から引き離してルイ12世を孤立させようと目論むルドヴィーコ・イル・モーロはこれを受諾。
1498年5月
ルドヴィーコ・イル・モーロの勧めに従い、かつルイ12世の同意を得、フランスに滞在中のパオロ・ヴィテッリ(?~1499年)、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ(?~1502年)兄弟を傭兵隊長として雇うことを決定。
1498年6月9日
ルドヴィーコ・イル・モーロの意を繋ぎ留めておくため、その姪カテリーナ・スフォルツァの子オッタヴィアーノ・リアリオをも傭兵隊長として雇う。
1498年10月初旬
ヴェネツィア軍がマッラディを占領しロマーニャからフィレンツェに迫る。これを、ルドヴィーコ・イル・モーロの援軍によって補強されたフィレンツェ傭兵軍が撃退。ヴェネツィア軍は一時退却し、改めてカゼンティーノ地区に侵攻。
1499年2月9日
ルイ12世とヴェネツィアは、ルドヴィーコ・イル・モーロからミラノを奪取することをブロワで盟約。1499年3月25日これを公表。
1499年4月半ば
ヴェネツィアは、エルコーレ1世・デステの仲裁に従いピサ領及びカセンティーノ地区から撤兵し、ピサ支援を事実上中止。
間近に予想されるルイ12世のイタリア侵攻、ミラノ攻撃にそれぞれ対処すべくヴェネツィアやミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロがトスカーナから手を引いたため、ピサとフィレンツェはそれぞれ独自に、ピサは防衛の、フィレンツェは再攻撃の態勢を整える。
1499年夏~10月
ルドヴィーコ・イル・モーロ、ヴェネツィアを牽制するためオスマン・トルコのスルタンバヤジット2世にヴェネツィア攻撃を勧奨。バヤジット2世軍は、ヴェネツィア領を攻撃し(~1503年)、1499年8月下旬レパントを、1499年10月フリウーリを占領。
1499年9月11日
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオルイ12世の名においてミラノに入る。ルドヴィーコ・イル・モーロは、マクシミリアン1世を頼ってティロルへ敗走。ルイ12世軍はミラノを制圧し、ヴェネツィアも盟約によりクレモーナ、Ghiara d'Addaを獲得。
1500年1月
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿と共に、ドイツ人、スイス人傭兵を率いてミラノを攻撃。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァミラノに入って市民の歓迎を受ける。
1500年2月5日
ミラノを奪還。
1500年4月5日
スイス人傭兵に戦闘を拒否されて、ノヴァーラの戦いでルイ12世軍に敗れる。
1500年4月10日
捕らえられる。
15??年
リヨンのピエール・シーズ城に幽閉される。
リス・サン・ジョルジュに移される。
1504年
ロシェ城に移送される。
1508年
脱走を試み失敗。それまでの厚遇はなくなり、城の塔に監禁されるようになる。
1508年5月27日
フランスのトゥール近郊ロシェで客死。
埋葬地は不明。

肖像


作者不明
スフォルツァ家の祭壇画

ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ
ルドヴィーコ・イル・モーロの肖像

注文


スフォルツァ家の祭壇画

埋葬地

 不明。


ルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ・デステの霊廟

渾名イル・モーロ Il Moro

 ジャナンドレア・プラートとフランチェスコ・グィッチャルディーニとジャン・パオロ・ロマッツォ説:暗い肌色と黒髪であるため。
 パオロ・ジョヴィオベネデット・ヴァルキ説:桑の実の意であり、冬に芽吹き早くに咲く様子から、慎重さと迅速さで機会を逃さないことの符号として渾名す。
 Julia Cartwright説:セカンド・ネームが初めマウロ(Mauro)とつけられたため。

別表記

 ルドヴィコ・スフォルツァ、ルドヴィーコ・マリーア、ロドヴィーコ、ロドヴィコ・スフォルツァ、ロドヴィゴ スフォルツァ、Lodovico

関連項目

 The Borgias: 103, 104, 105, 107

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Google Books
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 THE BORGIAS wiki
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ハプスブルク家』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『At the Court of the Borgia
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前