生没 1452年7月27日~1508年5月27日
出身 ミラノ
没地 ロシェ
父 フランチェスコ1世・スフォルツァ
母 ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
妻 ベアトリーチェ・デステ
女 ベルナルディーナ・デ・コッラディス
チェチーリア・ガッレラーニ
ルクレツィア・クリヴェッリ
子 マッダレーナ・スフォルツァ
ビアンカ・スフォルツァ
レオーネ・スフォルツァ
チェーザレ・スフォルツァ
マッシミリアーノ・スフォルツァ
フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ
ボーナ・スフォルツァ
ジャンパオロ1世・スフォルツァ
概要
ルドヴィーコ・スフォルツァは、15世紀~16世紀のミラノ の男性。
甥ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ の後見人となり、これが亡くなった後、ミラノ 公位に就いた。
フランス王シャルル8世 のイタリア南下を、私権拡大のため促した。後、フランス王ルイ12世 にミラノ を攻略され、一度回復するも、捕らえられ、フランスで獄死する。
在位
バーリ 公 1479年~1494年
第7代ミラノ 公 1494年~1499年、1500年
年表
1452年7月27日
1459年
1463年12月25日
自ら作文したラテン語の演説を両親の前で発表し、識字学習の成果を示す。
1464年6月2日
1464年11月
1466年3月8日
1466年3月18日
1466年9月
高熱に冒される。
1467年5月20日
1467年秋
1467年末
1471年3月上旬
1476年4月19日
1476年12月21日
1476年12月25日
1476年12月26日(木)
1477年1月初め
1477年1月下旬
1477年1月28日
1477年
1477年5月25日
1477年6月
1477年7月14日
147?年
1479年1月27日
ミラノ にて、
マントヴァ の外交官宛に手紙をしたためる。「監禁から脱出し、ピエトラサンタに行った」。
1479年2月22日
1479年8月10日
教皇軍・
フェッランテ・ダラゴーナ 軍の陣営でフィレンツェを攻撃していたルドヴィーコ・イル・モーロ、この日、突如
ミラノ 領トルトーナに入る。間もなくこの地を制圧、占領。
1479年8月14日
1479年8月20日
1479年8月23日
トルトーナ占領。
1479年9月7日
1479年9月10日
以後ルドヴィーコ・イル・モーロ、次第に
ミラノ の実権を掌握。
1480年7月25日
1480年10月7日
1480年10月30日
1481年5月24日
1481年7月13日
1482年5月3日
1482年7月8日
1482年12月12日
ヴェネツィアと同盟して他のイタリア諸国と戦うことがヴェネツィアを強大化する結果に終わることを懸念するに至った
シクストゥス4世 、
ローマ で
フェッランテ・ダラゴーナ 、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェと20年間の講和を結ぶ。2週間後のクリスマスを期してこれを公表。
これへのヴェネツィアの加入はその意思に任せられたがヴェネツィアはこれを無視し、フェッラーラに対する戦闘を続行。
1482年
1484年8月7日
バニョーロの和:
シクストゥス4世 を除く反ヴェネツィア同盟陣営とヴェネツィアは、反ヴェネツィア側の、とりわけルドヴィーコ・イル・モーロの状況と戦意喪失に押されて、軍事面では不利に陥っているヴェネツィア側に圧倒的に有利な和をブレッシャ近郊バニョーロで結ぶ。バニョーロの和。
これを知った病臥中の
シクストゥス4世 は、ほぼ手中にしたはずの勝利を逃したと激怒し、ルドヴィーコ・イル・モーロを激しく非難するが行動に移れず。
1485年10月14日
1486年7月
ミラノ 領内でペスト大流行。死者は5万人を超えるとも言われる。
1486年8月9/11日
1486年11月
1488年4月24日
1488年4月27日
1488年5月13日
1489年2月17日
1489年9月11日
1490年10月24日
1490年10月25日
エラスモ・ブラスカに指示。
1491年1月
1491年1月17日(月)
1491年1月18日(火)
1491年
ミラノ にて、
パヴィア修道院 宛てに手紙をしたためる。
フェッラーラ 公妃
エレオノーラ・ダラゴーナ に敬意を表したが、さらに我が領地における最も注目に値するものをお見せしたい。当教会と修道院をその最良のものと考えているため、公妃が次の水曜日に帰国の途上で
パヴィア修道院 にご訪問されることを知らせる手紙である。公妃と4百名余りの随行員のために相応しい歓待と格式のある宴を準備して欲しいのである。これが我が決断であり歓心であるからには、拒否することは許されない。そして何より、たくさんの八目鰻の用意がある。そうでなければあなた方の不利益になることをせざるを得なくなるのだから、公妃に敬意を表するよう最善を尽くすと確信しているし、娯楽を提供するための侍従を派遣した。
1491年2月26日(土)
ミラノ にて、
マントヴァ 候妃
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
妻と月曜日に
ヴィジェヴァーノ へ行きたいと思っています。ここにおいでになった時によりお楽しみいただけるよう、新たな狩猟団の大規模な準備をするつもりです。あなた様が去られてから妻は1日も欠かさず馬に乗っています。
1491年3月
1491年4月12日
義姉
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
ここでは楽しみや愉快なことが文字通り尽きません。
ミラノ 公妃
イザベッラ・ダラゴーナ と妻が耽溺するいたずらや遊びの千分の1でも伝えることはできそうにありません。田舎では乗馬で競い合って、女官たちを落馬させるよう最速を出して追い抜くなどして過ごしています。今ここ
ミラノ では、必ず何か新しい娯楽を発明します。彼女たちは昨日雨の中5、6人の女官と徒歩で出発し、服や手ぬぐいを頭にかけて買い物に街を歩きました。ここでは女性が頭を覆う習慣がないため、路上の女性たちに笑われて無礼なことを言われ、妻は怒って同じように言い返し、危うく殴り合いの喧嘩になるところでした。終いには泥だらけのめちゃくちゃで帰ってきまして、その光景たるや。殿下がいらっしゃった時にはとても大胆で快活なあなた様という仲間が加わるのですから、公妃たちはもっと勇気いっぱいで出かけるでしょう。そして、あなた様に失礼を働く者がいれば、同じくらいやり返すでしょう。
あなた様の愛情深い弟より、
ルドヴィーコ
1491年4月21日
ヴィジェヴァーノ にて、
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
・・・・総距離30マイルはありましたが、帰り道を馬で競争するために公妃も我々と一緒に残りました。殿下もここにいらっしゃったなら、挑戦され運試しをされたことと思います。そして、もうすぐお越しになるでしょうし、じりじりとお待ち申し上げておりますのでお勧めいたしますが、誉れ高い
マントヴァ 候の厩舎で飼われている見事なバルバリア種の駿馬を連れてこられたなら、容易く他を負かしておしまいになるでしょう。
1491年4月23日
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
妻と公妃が頭に布を被って
ミラノ を歩いた話へのご返信は、私に喜びをもたらしました。無礼を許すようなご気性ではないと確信しており、お手紙を読めば、怒りの炎が灯った目が浮かび、侮辱する者に対して即座に憤慨した返事をお返しになるのが聞こえます。
1491年5月16日
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
5日の直筆のお手紙で仰っていたように、狼狩りにご参加になれず私も残念です。きっと情熱と勇気をご証明されたでしょうに。しかしながら、あなた様がここにおいでになって以降とりわけ乗馬と狩り両方の技術がすこぶる上達しましたので、大胆さにおいては妹君にかなわないのではないかと言わずにはいられません。それでも、お2人が会って互いに度胸を競うところを見たくて待ちきれず、あなた様のご来訪まで千年にも感じます。
1491年6月12日
パヴィアのヴィスコンティ城 にて、
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
殿下が以前ご訪問された
チェルトーザ・ディ・パヴィア にここ何日か滞在していました。
パヴィア修道院 の聖歌隊席が建物に相応しくも美しくもないと思えましたので、一昨日行って取り壊し、新しい設計を命じました。私が帰ってくるところを、
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ 公と
イザベッラ・ダラゴーナ 公妃と妻
ベアトリーチェ・デステ が出迎えて、いきなり攻撃してきました。防御のため騾馬に乗る家臣を3隊に分け、順番に敵にかかり、それで取っ組み合いになりました。帰って、槍を手にした若者による競争を観て、その後晩餐にしました。公妃たちは
チェルトーザ・ディ・パヴィア に戻る予定でしたので昨日の朝向かわれ、お帰りになられる頃に私が出迎えに行きましたところ、両公妃と女官たち全員がトルコの服装をお召しになっていました。この変装は妻が考案し、一晩の内に服を仕立てたのです。昨日お昼くらいから作業を始めていたようで、老女と同じくらいの熱意と勢いで縫物をする妻を見て、
ミラノ 公妃は驚きを隠せないようでした。戯れでも真面目なことでも本気で全力でやりたいと、妻は彼女に話していました。確かに今回彼女は完全に成功しましたし、構想を実現させたその技術と洗練には言い表しようのない喜びと満足を感じました。
1491年7月8日
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
傷ついた雄鹿の鳴き声が聞こえた刹那、妻の乗る馬を襲い、次の瞬間地面から槍の高さほど彼女が浮き上がるのを見ました。しかしその間乗馬の姿勢を崩さずにいたのです。
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ 公と
イザベッラ・ダラゴーナ 公妃と私は助けるために一斉に駆け付け、怪我をしなかったか尋ねましたが、彼女は笑っただけで、全く怖がりさえしていなかったのです。
1491年7月15日
1491年夏
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。「妻は鷹狩が得意になり、彼女が大好きなこの遊猟では私よりも秀でています。」
1491年9月25日
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。「殿下の私への愛情より私の殿下への愛情の方が勝っていることは確かです。殿下が私のことを考えるより私が殿下のことを考えることの方が多いですし、殿下がお書きになるよりも私の方が多くの手紙を送っています。」
1491年10月4日
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。「昨日、殿下の妹君が
パヴィア から6、7マイルで行った猪狩りにを見に来ました。二輪馬車の後ろに高くした座席に乗ってきて、まるで修道士の説教壇のようでした。そこに立ち上がって、危険なところは避けつつ、とても楽しみました。高みから見物したので、誰よりも狩りをよく見ることができたのです。」
1491年10月
明日、妻がお忍びで
ジェノヴァ へ向け出発いたします。第1に快適さと健康のため、第2に殿下がここにいらっしゃる時のお膳立てをするためです。」
1492年1月
フランス特使
Jean Roux de Visque と
Pierre de Courthardi が
ミラノ に到着。
スフォルツァ城 にて自ら彼らを歓待。
1492年1月13日
1492年1月19日
フランス特使
Jean Roux de Visque と
Pierre de Courthardi が
ミラノ 出発。
1492年4月8日
1492年8月10/11日
この各国代表団を一団にまとめてその中心に位置しようと企図していたルドヴィーコ・イル・モーロは、
ピエロ・イル・ファトゥオ に無視され、先を越され、フィレンツェに警戒心を抱く。
1492年10月6日
何も新しいお知らせはありません。愛する妻の枕辺に終日付きっきりで、病身の妻の気をそらし、楽しませるよう最善を尽くしております。
1492年12月6日
ヴィジェヴァーノ にて、
イザベッラ・デステ 宛てに手紙をしたためる。
親愛なる妹、最も誉れ高い気高い貴婦人へ
昨年の夏、あなた様がこちらにいらっしゃった時に猪狩りでいい獲物を捕まえましたね。覚えておいででしょう、かわいそうなマリオーロは初めは
ミラノ で臥せっていたため不在で、その後は病んでいた私の妻に付き添わなければならず、フランス王の大使たちでさえ1頭の猪に傷を負わせたと聞いた時、狩りに出かけることができずにとても落ち込んでいました。そして、参加さえしていればやったであろう偉業を私たちに聞かせました。愛する妻が回復し外出できるようになり始めた今、彼をだしに楽しめるだろうと考えました。ラ・ペコラーラ近くの森に狼と野生の山羊が追い込まれています。ご存知のようにここからラ・スフォルツェスカ方面に約1マイル離れているところで、
フェデリーコ・サンセヴェリーノ 枢機卿は同じ囲いの中に共同農場の豚を閉じ込めており、翌日マリオーロを連れて狩りに出かけました。狼と野生の山羊を狩る間彼には豚を任せると、猪だと勘違いして、雄たけびを上げながら森に沿って追跡しました。豚の後を追う彼を殿下が見たならば死ぬほどお笑いになったことでしょう。勇敢に3度突き刺そうとし、1度だけ側面に触れることに成功しただけなのですからなおさらでございます。そして、腕前にどれほど自信を持っているか見て、「分からないのか、マリオーロ。お前は飼育の豚を狩っていたのだよ」と言ってやりました。彼はびっくりして棒立ちになり、言っている意味が分かりかねるかのように凝視していたので、私たちは無限に面白がって帰り、誰もがマリオーロに猪と飼育の豚を見分けられないのかと聞きました。
1493年3月初旬
1493年4月25日
1493年5月25日(土)
1493年5月26日(日)
1493年
1493年6月12日
1493年7月下旬
1493年11月30日
この結婚の成立に尽力したルドヴィーコ・イル・モーロは、
マクシミリアン1世 との関係を緊密化し、
ミラノ 公位簒奪の企図を強める。
1494年2月6日
1494年2月15日
1494年3月10日
弟
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ 宛てに手紙をしたためる。
全体の動きが私から進んでいるというのは間違いです。フランス王が自発的にしたことであり、それは王が
ナポリ 授与を故教皇
インノケンティウス8世 に訴えたことや、このことについての我々自身の手紙が証明しています。サンリス条約が調印された時、
イタリア に侵入するつもりだったと王は使節を派遣して私にお知らせくださいました。その時、
ナポリ 王が教皇に対してどれほどひどい振る舞いをしたかを見て、聖下に味方することを悪いとは思いませんでした。軍事行動を思いとどまらせるようフランス王を説得することをやめました。王の決意に賛同し、現在王はリヨンにいらっしゃいます。
1494年3月18日
ヴィジェヴァーノ にて、
ローマ にいる
ジローラモ・トゥッタヴィッラ 宛てに手紙をしたためる。
弟
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ の狩りの様子を楽しくお知らせくださったことに感謝しなければなりませんが、弟がこちらの狩りに参加できていたならばより喜んだだろうと思います。・・・・他に何も言うことはありませんが、
ローマ 王陛下並びにフランス王陛下の温かい友情に加えて聖下による愛のおかげで、あなたを大いに喜ばせるいい知らせを近々伝えたいと思っていることは話しておきましょう。
1494年4月15日
1494年5月11日
マルケジーノ・スタンガ 宛てに手紙をしたためる。
マルケジーノよ、庭側に増設する部屋は同封の一覧に従って家具を設置するよう命じており、特別基金に請求してグアルテーロ氏に経費1百27
ドゥカート 半を支給してもらいたい。
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ の宮殿と、ジアルディナートと隣接する洗面所に水を引くための導管と、使用に適するようにと妻の侍従が担当する広間と食堂の絵画のために、手配された通り、割り当てたお金を同じ方法で支援してくれ給え。
1494年6月3日
1494年7月13日
1494年9月5日
1494年9月9日
1494年10月21日
1494年10月22日
午後、金色の錦を着て2時間かけて街中を馬で回る。店は閉められ、3日間鐘が鳴らされる。
ミラノ にて、マッフェオ・ピロヴァーノ宛てに手紙をしたためる。
マッフェオよ。
ローマ 王
マクシミリアン1世 陛下に甥の公爵の死をお伝えするため、今晩ドイツへ手紙を書いた。皇帝によってなされるべきだった帝権の容認を得ず公国を所有していた父と兄による不正の結果、甥にはついに与えられなかった公爵の権利を有効化してくださるように直接陛下に口頭で訴えかけるため、君を今派遣しなくてはならなかったのだ。したがって、王はこの過ちについて無実であり、母方の子孫であるという理由で称号を主張しているとして、これらの権利をお認めくださったが、聖マルティヌスの日(11月11日)より前に公表されないこと、またその日以前に時間と場所を定めないことをお望みだ。死が継承を余儀なくさせたという事実があっての今回の申し入れにおいて、王に使節を送るべきで、この目的が故に緊急事態の重みに適った忠実さ賢明さを持ち合わせる君を選んだ。最速で出発し、陛下並びに評議員で大使のエラスモ・ブラスカ氏に会うまで休んではならない。大使に君が来た理由を説明し、彼を通じて陛下に謁見できるようにし、十分に敬意を払いなさい。信任状を渡した後、死後どんなに早くに国の長官たちと市民たちが慣習に倣って私にお悔やみを述べ、継承に関して恐れと不安を表明したことを伝えてくれ給え。国家と言えば、皆が私以外を主と仰ぐつもりはないと宣言し、爵位を受け入れるよう熱心に懇願し、もし拒否するなら認めず何らかの行動を起こすことを考えていると言った。これを王に説明した後、一方では権利を重んじる陛下が課した条件に違反するつもりはないが、他方で発布の日時が決められるまで国家が主君不在になることで起こり得る危険性についてご考慮下されるようお伝えせよ。
ミラノ の人々が模範を示し、それを国中に行き渡らせたことに気づき、私は責任を被ることを選び、人々の願いに沿うよう街を馬に乗って回ったのだと。称号も紋章も獲得せず、最後の公爵の後継者について国と街が疑念を持つままにしておかないために、高名な父と同じ非難を招かぬように、私はしたのだ。したがって、国家が君主不在にならないことを証明するだけでなく、同時に権利に付随する条件を侵害しないために公爵の名を使用し、聖マルティヌスの日以前に公表するなという陛下に課された命令を遵守するため領地を明記することなく、手紙や書類に
Ludovicus Dux と署名するつもりである。聖マルティヌスの日の祭りの後完全な署名を採用する予定で、ご命令に沿い
Dux Mediolani とするつもりである。陛下の承認が得られるまで公表は慎むが、定められた期間の終了後すぐさま取得したいと考えている。
叙位と公国を預かる喜びと共にこれら特権が発表されることをお伝えし、そしてそれ故、私の代理人として、全ての敬意と服従を示して叙任を請わなくてはならない。非公表ではすでになされたことを世界に向けて発信するべく、公国の所有者を私としたことを宣言するため大使をお送りくださるようお願い申し上げなさい。陛下に保証を請うことは私と私の子孫の永続的な義務を保証し、あらゆる不測の事態と何よりも
イタリア の情勢において、
イタリア のどの国より素晴らしく最も重要であり、陛下がドイツに対し発揮するのと同様の影響力を
イタリア に持つ我が国の忠義を頼りにされるだろう。今年夏に叙位証書がブルゴーニュの財務官に渡されているので、エラスモ・ブラスカ氏を通して入手することができるし、君が手配するであろう帝国の命令書を後で送るつもりである。世俗的所有物の引き渡しの形式ついては、かつての公爵の時に採用されたものに従いたいと考えていて、それは探し出して君に届けるつもりだ。この趣旨で、私が考えた方法で権利を得ることができるよう、エラスモ・ブラスカ氏の助言を役立て、
ローマ 王と交渉せよ。
姪の
ローマ 王妃
ビアンカ・マリーア・スフォルツァ も訪ね、私に代わって共通の悲しみである公爵の死について哀悼を述べてくれ給え。そして事情を伝えて、助けていただけるよう、温かみと熱意でご主人様である陛下に働きかけてもらえるようお願い申し上げなさい。
1494年10月23日
1494年10月27日
1494年10月31日
1494年11月
1494年11月3日
1494年11月6日
1494年11月初め
1495年4月
1495年4月14日
1495年5月26日
1495年6月11日
1495年6月
1495年7月初め
1495年8月3日
1495年8月5日
閲兵。
1495年8月
1495年8月31日
1495年9月
1495年9月21日
1495年10月5日
1495年10月9日
1495年11月18日
1496年1月2日
フォルリ 司教トンマーゾ・アスティ宛てに手紙をしたためる。
1496年7月5日
1496年7月17日
マッレス・ヴェノスタに到着し、マリエンベルク修道院に滞在。
1496年7月20日
1496年8月10日
1496年12月6日
1496年12月
1497年1月3日
1497年1月17日
1497年6月30日
1498年5月
フィレンツェは
ルイ12世 に書簡を送り、その友好国ヴェネツィアのカゼンティーノ地区侵攻を押し留めてくれるよう依頼。
フィレンツェは、ルドヴィーコ・イル・モーロに多額の軍資金の借款を申し入れる。フィレンツェを
ルイ12世 から引き離して
ルイ12世 を孤立させようと目論むルドヴィーコ・イル・モーロはこれを受諾。
1498年6月27日
1498年6月29日
1498年10月初旬
ヴェネツィア軍がマッラディを占領しロマーニャからフィレンツェに迫る。これを、ルドヴィーコ・イル・モーロの援軍によって補強されたフィレンツェ傭兵軍が撃退。ヴェネツィア軍は一時退却し、改めてカゼンティーノ地区に侵攻。
1498年11月
1498年12月3日
1499年1月1日
1499年2月9日
ルイ12世 とヴェネツィアは、ルドヴィーコ・イル・モーロから
ミラノ を奪取することをブロワで盟約。1499年3月25日これを公表。
1499年4月半ば
ヴェネツィアは、
エルコーレ1世・デステ の仲裁に従いピサ領及びカセンティーノ地区から撤兵し、ピサ支援を事実上中止。
間近に予想される
ルイ12世 のイタリア侵攻、
ミラノ 攻撃にそれぞれ対処すべくヴェネツィアや
ミラノ 公ルドヴィーコ・イル・モーロがトスカーナから手を引いたため、ピサとフィレンツェはそれぞれ独自に、ピサは防衛の、フィレンツェは再攻撃の態勢を整える。
1499年4月26日
1499年5月1日
1499年夏~10月
ルドヴィーコ・イル・モーロ、ヴェネツィアを牽制するためオスマン・トルコのスルタン
バヤジット2世 にヴェネツィア攻撃を勧奨。
バヤジット2世 軍は、ヴェネツィア領を攻撃し(~1503年)、1499年8月下旬レパントを、1499年10月フリウーリを占領。
1499年8月13日
1499年8月14日
1499年8月29日
1499年8月31日(土)
夕方、財務官アントーニオ・ランドリアーニが
ミラノ の大聖堂広場で暴徒に襲われ、致命傷を負う。
1499年9月2日(月)
1499年9月
ボルミオでドイツ軍2千と合流し、インスブルックへ向かう。
1499年9月11日
1499年12月
ブレッサノーネ(ブリクセン)到着。兵を集める。
1500年1月24日
軍を率い、ブレッサノーネ出発。
1500年2月3日(月)
ムッソ城を占有後、朝、
コモ 到着。湖畔の町に歓迎され、有力市民たちが表敬に訪れる。市門にて民衆に歓呼をもって迎えられる。
1500年2月4日(火)
ミラベッロのランドリアーニ邸に宿泊。
1500年2月5日(水)
日の出、ミラベッロ出発。
占星術師が示唆した時間にポルタ・ノーヴァ周辺に入り、ジャンフランチェスコ・ダ・ヴィメルカートの庭で少し時間を潰してから、
ミラノ に入る。
スフォルツァ城 は依然としてフランス兵3百が占拠しているが、食糧と燃料が不足。硝石はあるが木炭がなく、火薬を作ることができない状況。
1500年2月6日(木)
1500年2月
1500年3月21日
1500年
ノヴァーラ到着、籠城。
ガレアッツォ・ヴィスコンティ をベルンに派遣し、スイス議会にスイス傭兵が同士討ちを禁ずることを命ずるよう要請。しかし、使者がアントワーヌ・ド・ビュシーに買収され、
ミラノ 軍側のスイス傭兵にだけ命令が届く。
1500年4月5日(日)
1500年4月10日(金)
スイス人傭兵を装い、軍に混じって逃亡を図るが、
イタリア 人からソプラサッソと呼ばれているスイス人傭兵に露呈され、捕らえられる(水曜日)。
夕方、ノヴァーラ城に幽閉される。
1500年4月17日
1500年
スーザにて病を得て、数日滞在。
1500年5月2日
リヨン到着。ローヌ川のほとりに沿って、グランデ通りを通り、ピエール・シーズ城に幽閉される。まだ体調はしておらず。
1500年
リス・サン・ジョルジュに移される。城の敷地内での運動や、堀での釣り、文通などは許されていた。
1501年夏
ルドヴィーコ・イル・モーロが体調を崩し、近くで狩りをしていた
ルイ12世 が医師を派遣。白髪になり、目の下には隈ができていて、精神的にも病んでいたという。
1504年2月
ドイツ大使がルドヴィーコ・イル・モーロの釈放を懇願。
ロシェ城に移送される。
1508年春
看守を買収し脱走を試みるが、森で迷い、翌日発見されてしまう。それまでの厚遇はなくなり、書物や文通を禁じられ、城の塔に監禁されるようになる。
1508年5月27日
フランスのトゥール近郊ロシェで客死(1508年5月17日)。
埋葬地は不明。
肖像
注文
埋葬地
2019年5月、ロシェのサン・トゥルス教会にて、ルドヴィーコ・イル・モーロのものではないかと思われる遺骨が発見される。州の許可を得て、4月から仮説に基づく発掘調査が開始される。Pierre Papin 氏ら考古学者は4体の遺骨を発見し、その内の1体が大学教会のスフォルツァの墓の非常に古い記述に一致するという。現在、慎重な検証が行われている模様。
墓
渾名イル・モーロ Il Moro
ジャナンドレア・プラートとフランチェスコ・グィッチャルディーニ とジャン・パオロ・ロマッツォ説:暗い肌色と黒髪であるため。
パオロ・ジョヴィオ とベネデット・ヴァルキ 説:桑の実の意であり、冬に芽吹き早くに咲く様子から、慎重さと迅速さで機会を逃さないことの符号として渾名す。
Julia Cartwright 説:セカンド・ネームが初めマウロ(Mauro )とつけられたため。
別表記
ルドヴィコ・スフォルツァ、ルドヴィーコ・マリーア、ロドヴィーコ、ロドヴィコ・スフォルツァ、ロドヴィゴ スフォルツァ、Lodovico 、Lodovico Maria Sfortia
関連項目
The Borgias: 103 , 104 , 105 , 107
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
Google Books
Google Books - Caterina Sforza Volume III
JDA's Family Tree
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
THE BORGIAS wiki
Treccani
遺骨発見?
Corriere.it
France Culture
La Nouvelle République
YouTube - Fin des fouilles dans la collégiale Saint-Ours
Wikipédia — Église Saint-Ours de Loches
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ハプスブルク家』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家の黄金の血』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ルネッサンス百科事典』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『At the Court of the Borgia 』
『Lucretia Borgia 』
『The Life of Cesare Borgia 』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2021年2月13日