Luigi Guicciardini

ルイジ・グィッチャルディーニ

生没:1478年7月5日~1551年
出身:フィレンツェ
在位:正義の旗手 1527年3月~4月
父:ピエロ・ディ・ヤコポ・ディ・ピエロ・グィッチャルディーニ
母:シモーナ・ジャンフィリアッツィ
妻:イザベッラ・サッケッティ
子:シモーナ・グィッチャルディーニ
  ニッコロ・グィッチャルディーニ
  ロレンツォ・グィッチャルディーニ
  ピエロ・グィッチャルディーニ
  マルゲリータ・グィッチャルディーニ

概要

 ルイジ・グィッチャルディーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

年表

1478年
政治家、政論家、ニッコロ・マキアヴェッリの友人ルイジ・グィッチャルディーニ、フィレンツェに生(1478年~1551年)。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グィッチャルディーニの兄ルイジ・グィッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グィッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グィッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1534年6月27日
アレッサンドロ・デ・メディチルイジ・グイッチャルディーニフランチェスコ・グィッチャルディーニ兄弟にクレメンス7世亡き後のフィレンツェ支配体制の保全策を諮問。
1534年
アレッサンドロ・デ・メディチクレメンス7世死後の支配体制を固めるためルイジ・グイッチャルディーニフランチェスコ・グィッチャルディーニ兄弟、ロベルト・アッチャイウオリフランチェスコ・ヴェットーリを側近としてフィレンツェに集める。

外部リンク

 Treccani.it

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『メディチ家の人々』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lost Girls

記載日

 2005年5月29日以前