- 生没
- 1478年9月3日~1522年3月頃
- 没地
- ミラノ
- 父
- ピエトロ・アントーニオ・コロンナ
- 妻
- ルクレツィア・ガラ
- 子
- ポルツィア・コロンナ
オルテンシア・コロンナ
アルテミシア・コロンナ
リヴィア・コロンナ
概要
マルカントーニオ・コロンナは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。
在位
パリアーノの君主 1485年~1522年
先代:オドアルド・コロンナ
次代:ヴェスパシアーノ・コロンナ
年表
1505年6月
この頃?、ムツィオ・コロンナと共に、フィレンツェ共和国に傭兵隊長として雇われる。
1505年8月17日
バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のフィレンツェ攻撃軍は、Antonio Giacomini Tebalducciを前線総監としエルコーレ・ベンティヴォーリオ(1459年~?)、マルカントーニオ・コロンナ、ヤコポ・サヴェッリら傭兵隊長を指揮官とするフィレンツェ軍にサン・ヴィンチェンツォで撃破される。バルトロメオ・ダルヴィアーノはシエナに敗走。
1506年8月
ユリウス2世から、マルカントーニオ・コロンナ指揮のフィレンツェ傭兵軍が教会国家再建のためのペルージア、ボローニャ征討を支援するよう求められる。これに対して時間を稼ぎ引き延ばしをするためニッコロ・マキアヴェッリをユリウス2世のもとに派遣。
1507年1月2日
ローマでルクレツィア・ガラと結婚。
1510年7月
ユリウス2世、すでにフィレンツェの傭兵隊長の任を離れたマルカントーニオ・コロンナの指揮する陸軍をフィレンツェ領経由で送り、ヴェネツィアの水軍と協同でジェノヴァを攻撃。しかし、期待した市内での市民の反乱生じず、ルイ12世軍により撃退される。
ユリウス2世、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの指揮する自己の大軍にフェッラーラ攻撃の、スイス連邦軍にミラノ攻撃の態勢をそれぞれ整えさせる。
1510年12月23日
1508年にピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチを妻としたフィリッポ・ストロッツィ、熱烈なメディチ派で教皇庁に使えている青年Prinzivalle della Stufa(1484年~1561年)からユリウス2世の傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナの兵10名を得てピエロ・ソデリーニ殺害の機を窺っていると打ち明けられ、同族に相談の上これをピエロ・ソデリーニに通報。Prinzivalle della Stufaはシエナに逃亡。
1512年1月26日
ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍(フェルナンド2世・デ・アラゴン軍及び教皇代理ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿と傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナ(1450~1460年~1520年)、ファブリツィオ・コロンナらを含むユリウス2世軍)、ボローニャを包囲。
1512年4月11日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。
完敗した同盟軍はライモンド・ディ・カルドーナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。
1512年7月4日
アルフォンソ1世・デステ、ローマ着。ユリウス2世に拝謁を許され、ルイ12世との同盟について許しを乞う。後、ユリウス2世からフェッラーラの放棄、譲渡を求められるがこれを拒絶して怒りを買い、ファブリツィオ・コロンナ、マルカントーニオ・コロンナ兄弟らの協力により変装して、1512年7月19日ローマを逃亡、フェッラーラに向かう。
ユリウス2世は、すでにアルフォンソ1世・デステの領国の一つレッジョを占領。
1516年3月初旬
マクシミリアン1世、マルカントーニオ・コロンナ指揮の自軍が守るヴェローナ、ブレッシャなどを支援、確保するため、スイス人傭兵を含む小軍を率いてイタリアに侵攻し、トレントに到着。
1516年3月25日
1516年春~10月半ば
ヴェローナ、ブレッシャを巡ってフランソワ1世軍及びヴェネツィア軍、とりわけヴェローナ奪回を急ぐヴェネツィア軍と、マルカントーニオ・コロンナ指揮のマクシミリアン1世軍及びカルロス1世軍との間に戦闘続く。
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lucretia Borgia』
記載日
2010年12月17日