Mary Tudor

メアリー1世

生没:1516年2月18日~1558年11月7日
在位:イングランド王 1553年~1558年
父:ヘンリー8世
母:カテリーナ・ダラゴーナ
夫:フェリペ2世

概要

 メアリー1世は、16世紀のイングランドの女性、イングランド王。

年表

1518年10月2日
ロンドン協定:1518年8月のフランソワ1世主導の協定を見たイングランドの大法官・枢機卿トマス・ウルジーヘンリー8世フランソワ1世の間に平和協定を成立させ、ヘンリー8世の幼い娘メアリー1世(1516年~1558年:イングランド王1553年~1558年)とフランソワ1世の王太子フランソワ(1518年~1536年)の結婚を取り決めると共に、この協定へのマクシミリアン1世カール5世の加入の道を開く。これによりトマス・ウルジーは、レオ10世主導ではないヘンリー8世ないし自分主導のキリスト教諸国、諸権力者糾合をも視野に置く。
1521年8月25日
カール5世ヘンリー8世Brugesカール5世ヘンリー8世の娘メアリー1世と結婚すること、1523年3月に共にフランソワ1世に宣戦を布告すること、を盟約。
1527年4月30日
この日?、ヘンリー8世フランソワ1世、娘メアリーフランソワ1世ないしはフランソワ1世の第二子アンリとの結婚、ヘンリー8世のコニャック同盟及びフランソワ1世が7月に予定している対カール5世戦への加入、カール5世に対するフランソワ1世の子息の釈放要求などをロンドン・ウェストミンスターで協定。
1534年3月23日
「宗教改革議会」、ヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。
1547年11月4日
この日、召集・開会されたイングランド議会、異端者を火刑に処すとの罰則を含む「六か条」(1539年)を廃止し、両種陪餐の導入、聖職者の結婚の公認などを決議。イングランド国教会のプロテスタント化、さらに進む。
1553年7月6日
Edward VI死(1537年~:在位1547年~)。
1553年7月9日
メアリー1世、枢密院に自分こそ王位の正統後継者であると抗議し、これを認めるなら枢密院に大赦を与えると宣言した文書を送付。
1553年7月10日
枢密院、Lady Jane Greyのイングランド王即位を宣言。彼女自身も即位を宣言。しかしKingの称号を求める夫Guildford Dudleyに対してはこれを拒絶。
1553年7月11日
J. Dudleyら21名の枢密院メンバー、メアリー1世にイングランド王はLady Jane Greyだと回答し、「庶子」メアリー1世はこの新体制に従うよう勧告。
1553年7月19日
イングランド各地にメアリー1世こそ正統王だとする宣言が続出し、東部にはメアリー1世擁立軍が結集する中、枢密院もメアリー1世のイングランド王即位(メアリー1世)を宣言(在位~1558年)。
一旦はメアリー1世擁立軍攻撃に向かったJ. Dudley、1553年7月20日ケンブリッジで捕らえられ、敗北を認める。九日天下に終わったLady Jane Greyと夫Guildford Dudleyはロンドン塔に幽閉される。
1553年
熱心なカトリック信徒メアリー1世のイングランド王即位を伝えられたユリウス3世、即日、枢機卿会議を開き、彼女の従兄弟・枢機卿Reginald Poleを自身の全権特使として彼女のもとに送ることを決める。
1553年8月3日
イングランド女王としてロンドンに入ったメアリー1世、ロンドン塔に直行し、T. Cranmer主導のプロテスタント改革に反抗して投獄されていた(1548年~)S. Gardinerらを釈放。
1553年8月13日
Reginald Poleメアリー1世に書簡を送り、イングランド国教会のローマ教会への復帰を提唱。
1553年8月23日
メアリー1世S. Gardinerを大法官に任命(在位~1555年)。
1553年8月27日
Reginald Pole、再びメアリー1世に書簡を送り、イングランド王が用いてきた教会の首長の称号をローマ教皇に返還するよう期待していると述べる。
1553年10月1日
女王メアリー1世の戴冠式、大法官S. Gardinerの指揮の下ウェストミンスター大聖堂で挙行される。
1553年10月5日
メアリー1世治下の第1回イングランド議会、開会。
この議会にメアリー1世、(1)母カテリーナ・ダラゴーナヘンリー8世の結婚の合法化、(2)イングランド国教会のローマ教会の下への再帰属、を狙ってこれらに関するヘンリー8世及びEdward VI治下の全立法を一括して無効とする法案を提出させる。しかし、ローマ教皇の支配の復活と取得した教会財産・修道院財産の没収を恐れる階層が占める庶民院、(2)に強く反対。
1553年10月28日
メアリー1世Reginald Poleに書簡を送り、庶民院は王が教会の首長の称号を放棄することに強く反対しているが自分はこの称号を用いないと伝えると共に、Reginald Poleに速やかに自分のもとを訪ねるよう催促。
1553年11月8日
イングランド議会、カテリーナ・ダラゴーナヘンリー8世の婚姻の合法性を承認すると共に、前王Edward VI治下で制定した教会のプロテスタント的改革を規定する8つの法を全て廃棄することを議決(第1次廃棄令)。
ヘンリー8世治下以降の教会改革に関する全ての法を一気に廃棄し、イングランド国教会をローマ教会の下に再帰属させようとするメアリー1世の意図は庶民院の反対により実現されなかったものの、イングランド国教会はヘンリー8世治下の際の年代の状態に戻り、イングランド国教会のカトリック反動、具体的に始動。
1553年11月15日
メアリー1世、再びReginald Poleに書簡を送り、第1次廃棄令の議決に至る動きを伝えると共に、彼に自分のもとを訪ねるよう督促。
1553年12月
ネーデルラント支配の安定化、イングランドにおけるカトリックの復活及びイングランドのスペイン=ハプスブルク帝国への併呑を狙うカール5世の主導の下、フェリペ2世メアリー1世、婚約。
従兄弟フェリペ2世は同信カトリック教徒で良き相談相手である上、そのフェリペ2世にイングランドにとって経済的に重要なネーデルラントをドイツから分離して委ねるとの好餌を与えられたメアリー1世カール5世のこの政略に喜んで服従。
しかしこの婚約成立過程ですでに、これをスペイン=ハプスブルク帝国への屈服とみる貴族及び民衆の間に広まり深まった反スペイン感情、反ローマ教会感情、及び両者の重畳する中で生じたナショナリズムの感情を背景として、婚約阻止を目指す反乱の動き顕在化する。この1つの首謀者・デヴォンシャーの軍人Peter Carew(1514年~1575年)、計画が発覚しヴェネツィアに逃亡。
1553年末
1553年9月デヴォンシャー伯に任じられたばかりの故Edward IVの曾孫・好男子Edward Coutenay(1526年頃~1556年)と彼に気をひかれているエリザベスを結婚させ、2人をメアリー1世フェリペ2世に代えて王位に就けようとする陰謀、固まる。
1554年1月14/15日
メアリー1世フェリペ2世の婚約、正式に調印され、公表される。
1554年2月1日
メアリー1世Thomas Wyattを叛徒と宣告し、ロンドン市民に彼のもたらす危難に急ぎ立ち向かうようアピール。
1554年2月3日
メアリー1世Thomas Wyattを捕らえた者に報奨として封土を与えると公示。
1554年2月3日
Thomas Wyatt、軍と共にロンドンのCityThomas川対岸に進出するがロンドン塔からの砲撃に晒され、退却。
1554年2月7日~2月8日
ロンドンのCityに入ったThomas Wyattとその軍、一時は応急に迫ろうとするが、王軍に簡単に敗北。Thomas Wyattは逮捕され、ロンドン塔に投獄される。
Wyattの乱を鎮圧したメアリー1世、この乱の関与者の処断、プロテスタントのさらに非妥協的な排斥、イングランド国教会のカトリックへの回帰、を追求。
1554年3月18日
メアリー1世、逮捕したWyattの乱の指導者たちからエリザベスの乱への加担の証拠を得ようとして得られなかったものの、加担は明らかだとしてエリザベスをロンドン塔に幽閉。しかし、大法官S. Gardinerエリザベス処刑論は斥ける。
1554年4月22日
メアリー1世、初めてフェリペ2世に手紙を書き、1554年4月2日以後開会されている議会(~1554年5月5日)で両者の結婚は承認されたと伝える。
この承認の過程でS. Gardiner、議会に対し、スペイン=ハプスブルク帝国によるイングランド支配を可能ならしめないためのあらゆる対策が講じられたと懸命に説明。
1554年5月19日
メアリー1世エリザベスをロンドン塔からウッドストック城に移す。
1554年7月25日
メアリー1世フェリペ2世の結婚式、ウィンチェスターの大聖堂で挙行される。
挙式直前、カール5世の特使Suárez de Figueroa(1500年代初頭?~1571年)、カール5世フェリペ2世ナポリを委譲したと公表。
1554年11月25日
1554年11月20日フェリペ2世メアリー1世両王の差し向けた多数の貴族や聖職者に迎えられてドーヴァーに上陸しイングランドに入ったユリウス3世の全権特使Reginald Pole、イングランド議会が行うべきローマ教会との和解の方法についてS. Gardinerと協議。1554年11月26日これについて両王と約定。
1554年11月28日
Reginald Pole、イングランド議会で、イングランドのローマ教会の下への再帰属の条件は、議会がこれまでの過ちを認め教皇の権威に反する法を全て廃棄することだ、との勧告演説を行う。
1554年11月29日
イングランド議会、1554年11月28日のReginald Poleの勧告を全面的に受容し、ヘンリー8世治下1529年11月以降のイングランド教会改革に関する法の全てを廃棄(第2次廃棄令)。
但しこの法令の議決・教会のローマ教会への再帰属承認の最大の障害を除去するため、ローマ教会の事前の了解の下でこれに、この間に教会財産・修道院財産を取得した者にはその所有権を、創設された司教区にはその存続を、叙任された聖職者にはその地位を認めるとの付帯条項が付される。
1554年11月30日
イングランド議会、王宮大広間に召集される。その場でフェリペ2世メアリー1世両王、教会分離をもたらしたことについてReginald Poleに赦免を願い出、Reginald Poleは教皇全権特使としてイングランドの教会のローマカトリック教会の下への再帰属を神に感謝する演説を行い、両王初め出席者全員、跪いて赦免を拝受。
議会の議決を通じてローマ教会からの分離を実現してきたイングランド教会、また議会の議決によりローマ教会への再帰属を実現。ローマ教会も同じく、イングランド議会の議決により失ったイングランドにおける権力を当の議会の議決により回復。
1554年12月25日
メアリー1世フェリペ2世、クリスマスの祝いの席にエリザベスを招待。
1554年12月
1554年12月末頃?、イングランド議会、異端火刑法(De haeretico comburendo、1401年)を翌1551年1月20日から150余年ぶりに復活させることを議決。数日後からプロテスタントに対する弾圧が強まり「血まみれのメアリー」(Bloody Mary)の別称、生じる。
1555年1月20日
イングランドで異端火刑法復活。
1555年10月25日
ネーデルラントに半ば引退(1553年)後もフェリペ2世メアリー1世の結婚を実現させて(1554年)普遍的帝国実現の希望を蘇らせたカール5世、その結婚から期待した子を得られずに希望が潰え、アンリ2世パウルス4世の接近(1555年8月~)を知り、宗教問題もフェルディナンドに委ねて敗北し(1555年9月)、ついにブリュッセルで譲位式を挙げ、ネーデルラント及びイタリアを列席のフェリペ2世に正式に委譲。
1555年12月25日
アンリ2世フェリペ2世、カンブレーの南方Vaucellesの修道院で休戦交渉を開始。
この交渉にあたってReginald Poleメアリー1世の承認を得た上、書簡などでアンリ2世フェリペ2世に和平を強く働きかけた他、特使・ベネディクト会修道士Vincenzo Parpaglioに和平実現のために尽力させる。
1557年6月7日
メアリー1世フェリペ2世の要請をいれ、Reginald Poleの制止勧告を無視してアンリ2世に宣戦布告。10日後ペンブルック伯William Herbert(1501年?~1570年:在位1551年~1570年)指揮の軍を、フェリペ2世がサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアの指揮のネーデルラントに結集した大軍に合流させる。
1557年8月10日
フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。
1558年1月7日
François I de Lorraine指揮のアンリ2世軍、メアリー1世フェリペ2世軍を破りカレーを制圧。1558年1月8日François I de Lorraine、カレーに入る。イングランドは大陸における拠点を失う(1347年~)。
1558年11月17日
メアリー1世死(1516年~:在位1553年~)。
エリザベス、イングランド王に即位しエリザベス1世を名乗る(在位~1603年)。
これに対しアンリ2世、庶子エリザベス1世の王位継承にが疑義があるとし、自身の王太子フランソワ2世の妻メアリー・スチュアートこそ正統なイングランド王位継承権を有すると主張。以後フランソワ2世メアリー・スチュアート、「イングランド・スコットランド・アイルランド王及び女王」の称号を用い続ける。

別表記

 メアリ1世、メアリー・チューダー

外部リンク

 Find A Grave
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 The Medici Archive Project

参考文献

 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『西洋拷問刑罰史』

記載日

 2005年5月29日以前