Mary Stuart

メアリー・スチュアート

生没:1542年12月8日~1587年2月8日
在位:スコットランド王 1542年~1567年
父:スコットランド王ジェームズ5世
母:メアリー
夫:フランソワ2世
  ダーンリー卿ヘンリー・スチュアート
  ボズウェル伯
子:ジェイムス1世

概要

 メアリー・スチュアートは、16世紀のスコットランドの女性、スコットランド女王。

年表

1542年12月7/8日
失意の病床にあるJames Vに長女メアリー・スチュアート誕生(1542年~1587年:スコットランド女王在位1542年~1567年)。
1542年12月14日
ジェイムス5世死(1512年~:在位1513年~)——生まれたばかりの娘メアリー・スチュアート、スコットランド女王となる。
1543年3月
スコットランドの併合・吸収を企図しその貴族に資金を提供するなど工作を続けてきたヘンリー8世の最初の策、イングランド王太子Edward(1537年~)とメアリー・スチュアートの結婚がスコットランド議会で承認される。
しかし以後ヘンリー8世、本来の企図を露わにし、スコットランド内部に反発、高まる。
1543年7月1日
スコットランドにおける独立・自由への志向の強さに押されてヘンリー8世Edwardメアリー・スチュアートの結婚はイングランドによるスコットランドの併合・吸収を意味せず、スコットランドは以後も個別の独立した王国として留まることなどを認めた上、メアリー・スチュアートが10歳になる以前に結婚契約を結び10歳になった時点で彼女がイングランドに赴くこと、などをメアリー・スチュアートの後見人・摂政ArranJames Hamilton(1515年?~1575年:摂政在位1543年1月~1554年)と協定(グリニッジ協定)。これを屈辱的協定とする不満・怒り、スコットランド内部に募る。
1547年9月10日
ヘンリー8世にもましてスコットランド支配の野望を抱くEdward VIの摂政Edward SeymourEdward VIメアリー・スチュアートの結婚を迫るべく大軍を指揮して領境を越え、この日Pinkieでスコットランド軍を大破。
1548年7月7日
結婚縁組によるイングランドとスコットランドの合体を妨げたいアンリ2世と、軍による攻撃など強硬策を続けるイングランドへの反発・憎悪を強めるスコットランド、スコットランドの独立と安全を保障するとのアンリ2世の提言を機に接近し、アンリ2世の長子フランソワ2世(1544年~1560年:フランス王1559年~1560年)とスコットランドの女王メアリー・スチュアートの結婚協定を、エディンバラ近郊ハディントンで締結。メアリー・スチュアートは1548年7月末、スコットランドを発ってフランスに向かう。
1558年4月24日
アンリ2世の王太子フランソワ2世とスコットランド女王メアリー・スチュアート、結婚協定(1548年)に従い、パリのノートル=ダム大聖堂で結婚式を挙げる。これによりフランソワ2世、スコットランドの協同統治権(婚姻による王冠)を獲得。
1558年11月17日
メアリー1世死(1516年~:在位1553年~)。
エリザベス、イングランド王に即位しエリザベス1世を名乗る(在位~1603年)。
これに対しアンリ2世、庶子エリザベス1世の王位継承にが疑義があるとし、自身の王太子フランソワ2世の妻メアリー・スチュアートこそ正統なイングランド王位継承権を有すると主張。以後フランソワ2世メアリー・スチュアート、「イングランド・スコットランド・アイルランド王及び女王」の称号を用い続ける。
1558年11月29日
スコットランド議会、メアリー・スチュアートの夫フランソワ2世に配偶者王位継承権を認める。
1559年6月30日
アンリ2世、自家の2つの婚礼の祝賀のため1559年6月28日から開始した宮廷騎馬試合の最終日のこの日、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアHenri de Lorraine及びスコットランド近衛隊長・LorgeGabriel de Montgomeryとこの馬上槍試合の最中、カトリーヌ・メディシスElisabeth de Franceメアリー・スチュアートらの目前で、Gabriel de Montgomeryの折れた槍が頭部を貫通し、重傷を負う。
1559年7月10日
アンリ2世死(1519年~:在位1547年~)——王太子フランソワ2世(1544年~)、フランス王に即位しフランソワ2世を名乗る(在位~1560年)。
15歳の幼王の即位後間もなく、王妃メアリー・スチュアートの外戚で熱狂的なカトリック信徒ギーズ一門、実権を掌握。
1560年12月5日
フランソワ2世死(1544年~:在位1559年~)——シャルル9世(1550年~1574年)、フランス王に即位し、シャルル9世を名乗る(在位1560年~1574年)。母后カトリーヌ・メディシス、10歳の幼王の事実上の摂政として実権を掌握。
これにより、前王妃メアリー・スチュアートの外戚ギーズ一門の権勢、崩壊。
1561年8月19日
フランスで前王妃の名称以外全ての地位・実力を失い、スコットランド女王の地位を残すのみとなったメアリー・スチュアート、去り難いフランスを去り、この日リースに上陸しスコットランドに帰る。
1566年6月19日
従弟で旧教徒ダーンリー卿Henry StewartStuart:1545年~1567年)と結婚していた(1565年7月~)メアリー・スチュアート、男子ジェイムス1世を出産(1566年~1625年)。
1568年5月2日
夕刻メアリー・スチュアート、幽閉されていた(1567年~)Lochleven城塞から監視人を含む数名を従者として逃亡。
1568年5月13日
逃亡中のメアリー・スチュアート、グラスゴー近郊ラングサイドで、急ぎ結集した新教徒派政府軍を破り活路を開こうとするが完敗。2日後エリザベス1世に書簡を送って保護を求め、その翌1568年5月16日西部領国境界の川を釣りボートで越えてイングランドに入る。
1568年5月19日
1568年5月18日メアリー・スチュアートをイングランド中部カーライル城に移させたエリザベス1世、この日、彼女を満腔の敬意を込めて、しかし決して逃亡されぬよう遇せよと指令。メアリー・スチュアートの軟禁・幽閉生活、始まる(~1587年:1587年3月8日エリザベス1世暗殺を謀ったAnthony Babington——メアリー・スチュアートの近習、1561年~1586年)——陰謀事件への参画により処刑される)。

別表記

 メアリースチュアート、メアリー・ステュアート、メアリーステュアート、スコットランド女王メアリー

外部リンク

 ウィキペディア
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 Genealogy.EU

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『服飾の中世』
 『魔女狩り』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの歴史』

記載日

 2005年5月29日以前