Mehmet II

マホメッド2世

生没:1430/32年~1481年5月3日
在位:スルタン 1444年~1446年
        1451年~1481年
    次代:バヤジット2世
子:バヤジット2世
  ジェーム

概要

 マホメッド2世は、15世紀のオスマン・トルコの男性、スルタン。

年表

1444年6月12日
ポーランド王、ハンガリー王Władysław IIIは、前年11月~12月の対オスマン・トルコ軍の勝利を基に、スルタンMurat (Murad) IIに譲歩を強いてEdirne(アドリアーノポリス)で10年の和約を結ぶ。
この後Murat II退位、子マホメッド2世(1430/1432年~1481年)、オスマン・トルコのスルタンとなる(在位1444年~1446年、1451年~1481年)。
1446年
Murat II、外交危機に対応すべくオスマン・トルコのスルタンに復位(在位~1451年)——マホメッド2世は、スルタンを退位(在位1444年~)。
1451年2月3日
Murat II死。子マホメッド2世、オスマン・トルコのスルタンに再即位(在位~1481年)。
1451年秋~1451年冬
オスマン・トルコのスルタンマホメッド2世、コンスタンティノポリス城門から数キロの海峡の地に堅固な城塞の構築準備に取り掛かる。ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世・パレオロゴスは、直ちに抗議の使節を彼に送るが退けられる。
1452年6月
1452年初めにボスポラス海峡に城塞建築を始めたマホメッド2世、コンスタンティノス11世・パレオロゴスの使節を斬首の刑に処し、皇帝コンスタンティノス11世・パレオロゴスに宣戦布告。
1453年5月29日
マホメッド2世、コンスタンティノポリスを制圧。コンスタンティノス11世・パレオロゴスは戦死(1404年~:在位1448年~)し、ビザンツ帝国滅亡。直ちに、コンスタンティノポリスをオスマン・トルコ帝国の首都とする。以後この首都はイスタンブールと通称される。
1454年4月18日
ヴェネツィアは、使節を送って協定締結を申し入れていたマホメッド2世と、この日、相互不戦、友好などを協定し、ニコラウス5世の提唱する対オスマン・トルコ十字軍への不参加を明確化する。
1456年7月14日~7月21/22日
ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節フランシスコ会修道士、説教師、神学者ジョヴァンニ・カピストラーノ(1386年~1456年)らの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍、フンヤディ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。
しかしフンヤディ(1387年頃又は1407年頃~)は1456年8月11日、ジョヴァンニ・カピストラーノは1456年10月23日、それぞれペストで死。
1460年4月半ば
マホメッド2世指揮のオスマン・トルコ軍、モレア(ペロポネソス半島、ヴェネツィア語ではモレア Morea)制圧を目指して出陣。この年内にこの地をほぼ制圧、占領。
1470年6月半ば
オスマン・トルコの大水軍、マホメッド2世が陣頭に立って出撃し航海中との報、ローマに届く。
1470年6月
オスマン・トルコの大軍、エーゲ海の最大の島の一つでヴェネツィアの支配する(1366年~)エウボイア(ネグロポンテ)の主要地点を包囲。
1470年7月12日
オスマン・トルコ軍、エウボイアを征服。
1478年6月15日
1478年1月以来、平和を求め続けるヴェネツィアに対しその提示する条件を拒否しながらフリウーリや上部イタリアのヴェネツィア領及びレパント、イオニア諸島のLeukadia(現Levkas)、アルバニアにおける植民都市など、ヴェネツィアの植民地を激しく攻撃してきたマホメッド2世、この日、アルバニアにおけるヴェネツィアの主要拠点Krujë(Croia)を制圧。以後も各地の攻撃、制圧を続ける。
1479年1月25/26日
1478年以来マホメッド2世に和を求めながらその条件について同意を得られなかったヴェネツィアは、フィレンツェを巡るトスカーナでの戦闘により教皇及びイタリア諸国のオスマン・トルコへの反抗ないし同盟諸国により自国への支援は期待できないことを考慮し、マホメッド2世の意に沿う条件の和平協定をコンスタンティノープルで結ぶ。
これによりヴェネツィアは、クルヤ、シュコドラ(スクタリ)を初めとするアルバニアにおける拠点、エウボイア島、リムノス島など東方の植民地を放棄し、黒海貿易のみを貢納金の支払いを約すことによって辛うじて確保。当方におけるヴェネツィアの勢力と特権は決定的に後退。
1479年1月
ヴェネツィアとの和約後マホメッド2世、ヴェネツィアに画家派遣を要請。これに応じて、1479年8月1日、ジェンティーレ・ベッリーニが派遣され、コンスタンティノポリスで「スルタン・メフメト2世の肖像」を描く。1480年頃完成。
1481年5月3日
マホメッド2世、死。子バヤジット2世(1447年頃~1512年)、オスマン・トルコのスルタンとなる(在位1481年~1512年)。
バヤジット2世と弟ジェーム(1459年~1495年)との激しい後継争いのため弱体化したオトラントのオスマン・トルコ陣営を、未だその原因を知らぬカラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ軍・教皇軍、ジェノヴァ軍、激しく攻撃し始める。

肖像

 スルタン・メフメト2世の肖像

関連項目

 対オスマン・トルコ共同防衛同盟

別表記

 モハメッド、メフメト、メフメトゥ、Mahomet II

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『サイレント・マイノリティ』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの歴史』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『ローマ教皇検死録』

記載日

 2005年5月29日以前