Niccolò Capponi

ニッコロ・カッポーニ

生没
1472年9月10日~1529年10月28日
ピエロ・カッポーニ
コーザ・グイッチャルディーニ
アレッサンドラ・ストロッツィ
ピエロ・カッポーニ
フィリッポ・カッポーニ

概要

 ニッコロ・カッポーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1526年7月~8月、1527年6月~1528年6月
       1528年6月~1529年4月

年表

1472年9月10日

生(1473年)。

1508年5月5日

ニッコロ・カッポーニ(1473年~1529年)指揮の市民軍をピサ攻略に派遣。

1527年

この頃、クレメンス7世の命にのみ従うシルヴィオ・パッセリーニの統治に不満、反感を強めていたニッコロ・カッポーニら貴族及び市民、特にその青年層が、カール5世軍の侵攻に対処するため市民に武器を貸与し市民軍を復活するよう要求。シルヴィオ・パッセリーニは暴動、反乱の発生を恐れてこの要求を拒否。

1527年4月26日

「金曜日の騒乱」

午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グイッチャルディーニの兄ルイジ・グイッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。

コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。

正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。

午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。

ニッコロ・カッポーニやピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。

夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グイッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。

フランチェスコ・グイッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。

シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。

1527年5月31日

コンシーリオ・マッジョーレは、1年任期(但し今回に限って1年1ヶ月任期)で再選可能な新正義の旗手にニッコロ・カッポーニを選出。

貴族、有力市民を選出基盤とするニッコロ・カッポーニ、相互に対立しながらも彼には共に反対の態度を取るピアニョーニ(サヴォナローラ派)、アッラビアーティ(共和政急進派)、パッレスキ(メディチ派)の間で執政に難渋。

1527年6月22日

フィレンツェは、ピアニョーニを中心とするフランス支持派がニッコロ・カッポーニを代表とするカール5世支持派を圧したことにより、フランスとの新協定を結び軍の派遣を約定。

1528年2月9日

ニッコロ・カッポーニ、サン・マルコの修道士たちやピアニョーニの助言、勧奨を受け、故ジローラモ・サヴォナローラの説教に従ってキリストをフィレンツェの王とするようコンシーリオ・マッジョーレに提案。1100名の評議員の内1082名の賛成を得て採択される。

ピアニョーニの若者ら、教会や家々のメディチ家紋章、クレメンス7世の像などを撤去、破壊。

クレメンス7世ローマ逃亡(1527年12月)の頃よりすでにメディチ派との融和策をとり始めていたニッコロ・カッポーニ、市内のこれら反メディチの動向に不満を高めているクレメンス7世を慰撫するための特使を派遣することなどを考えるが、強い反メディチ感情に押されて実行できずに終わる。Baldassarre Carducciを指導者とするアッラビアーティなどからクレメンス7世と内通しているとのニッコロ・カッポーニ批判が市内で高まり、広がる。

1528年6月10日

ニッコロ・カッポーニ、アッラビアーティの過激な動向に反発して連合した貴族、有力市民、メディチ派、共和政穏健派などの支持を得、一般の予測に反して、アッラビアーティのBaldassarre Carducciなどを破り正義の旗手に再選される。

再選後もクレメンス7世の反フィレンツェ感情を和らげるため彼及び彼の側近との接触、文通を続けたニッコロ・カッポーニは、市内の根強い反メディチ感情の反発を受け、十人委員会の了承を受けずにそれらを行うことを禁止される。但しニッコロ・カッポーニはなお密かに側近との文通を続ける。

1528年8月18~19日

かねてからくすぶっていた正義の旗手の権限は過大だとする不満がニッコロ・カッポーニのクレメンス7世慰撫策への反発と結びついて正義の旗手の権限縮小の動きが活発化し、コンシーリオ・マッジョーレの選出する2年任期の20名の補佐官と過去及び現在の十人委員会とからなるプラティカを設置してこれが通常の政務を担当することに決まる。これによりニッコロ・カッポーニは政治的に対立する者たちからさらに大きく制約される。

1528年

クレメンス7世側近との文通によってクレメンス7世カール5世の接近の動きを知ったニッコロ・カッポーニ、両者の同盟がフィレンツェに極めて大きな危険をもたらすと深く憂慮し、クレメンス7世自身と和解できないまでも彼が同盟しようとしているカール5世とは和解すべしとプラティカなどで力説するが受け入れられず、依然フランソワ1世との同盟策が大勢の支持を得る。ニッコロ・カッポーニ、落胆。

1528年

市民の期待を担っていたBande Nereナポリ奪還戦で名実共に壊滅したことにより、改めて防衛軍、とりわけ市民自身からなる防衛軍を持つ必要があるとの意識が強まり、その努力が始まる。

1528年11月6日

18歳から40歳までの全男子市民からなる市民軍(Milizia)を設置する法案が、コンシーリオ・マッジョーレで可決される。

1528年12月初旬

画策して最大の政敵Baldassarre Carducciフランソワ1世宮廷駐在大使に棚上げし、言わば国外に追放。

1529年2月18日

クレメンス7世カール5世の和解、提携が進む中、フィレンツェも両者の和解、提携することが最善とするニッコロ・カッポーニの見解が、市内の反メディチ意識、伝統的親フランス感情によって排斥され、この日コンシーリオ・マッジョーレ正義の旗手辞任を申し出るが、受理されず。しかし、彼への信望、弱まる。

1529年4月16日

クレメンス7世との秘密折衝の進展を報告するローマ教皇庁からの密書を紛失。これがアッラビアーティなど反ニッコロ・カッポーニ派の手に入り、前年に禁じられたクレメンス7世との折衝を行っていたニッコロ・カッポーニを追及する声、一気に高まる。ニッコロ・カッポーニ支持、反対の両派、それぞれ集会を開いて気勢を上げる。

1529年4月17日

コンシーリオ・デリ・オッタンタは、クレメンス7世との秘密折衝の件でニッコロ・カッポーニを召喚、審問。反ニッコロ・カッポーニ派は最大の反逆罪の嫌疑でニッコロ・カッポーニを拷問にかけるよう主張し、ニッコロ・カッポーニは辛うじて無実を主張。審議中、Ottimatiを中心とするピエロ・サルヴィアーティ指導のニッコロ・カッポーニ支持者は、武装してシニョーリア広場に集合。Ottoは武装した者の広場からの退出を命令。

ニッコロ・カッポーニ処刑の声が挙がる中、彼の支持者たち、民衆暴動の発生を恐れて彼の正義の旗手辞任を了承。コンシーリオ・デリ・オッタンタは、新正義の旗手を翌18日に選出すると市内に布告。

1529年4月18日

コンシーリオ・マッジョーレ正義の旗手の任期を8ヶ月に短縮すること、ニッコロ・カッポーニの事例の再発防止のため外交権をほとんど奪うなど正義の旗手の権限を大幅に縮小すること、を決めた後、アッラビアーティの指導者の1人でニッコロ・カッポーニの政敵Baldassarre Carducciの同族Francesco Carducci(1465年~1530年)を正義の旗手に選出。

以後、新正義の旗手の下、フィレンツェクレメンス7世との対決姿勢、強まる。

1529年4月20日

コンシーリオ・デリ・オッタンタは、ニッコロ・カッポーニの弁明を聞いた上、彼の反逆罪の嫌疑を否認し、クレメンス7世との折衝禁止令に反した罪についてのみ保釈金を課すと共に5年間のフィレンツェ領内禁足を命ずる。

1529年5月4日

プラティカは、ニッコロ・カッポーニの罪について再審議し、無罪と判定。

1529年6月29日

バルセロナ協定:フィレンツェにおけるニッコロ・カッポーニの失脚、反メディチ家感情の高揚に直面してフィレンツェとの和解を断念し、メディチ家の復辟のために彼の力を必要とすると判断したクレメンス7世と、北欧における権益とイタリアにおける優位を確保するためにクレメンス7世の支持、商人を得るのが有利と判断したカール5世は、バルセロナで、クレメンス7世は彼の軍の教会領通過に当たって安全を保証すること、クレメンス7世メディチ家をフィレンツェに復辟させること、アレッサンドロ・デ・メディチを庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)と結婚させること、クレメンス7世Cervia、ラヴェンナ、モデナ、レッジョ、Rubieraを教会領として占有すること、カール5世クレメンス7世のフェッラーラ獲得に協力することなどを協定。

1529年6月30日

この頃、親カール5世派では親フランス政策の変更を要求する議論が公然となされ、親フランス派・反ニッコロ・カッポーニ派のトンマーゾ・ソデリーニプラティカカール5世への使節派遣を主張。

1529年8月17日

プラティカは、ジェノヴァのカール5世のもとに使節団、前正義の旗手で親カール5世派のニッコロ・カッポーニ、親フランソワ1世派のトンマーゾ・ソデリーニラッファエーレ・ジローラミ、マッテオ・ストロッツィを送ることを決める。

1529年10月28日

ジェノヴァのカール5世のもとへの使節の役が失敗に終わって虚しく帰国する途上、激しい熱病に襲われ、死(1473年~)。

別表記

 カポーニ、ニッコロ・ディ・ピエロ・カッポーニ

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前