Niccolò di Piero Ridolfi

ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィ

生没:1501年~1550年
在位:枢機卿 1517年7月1日~1550年
父:ピエロ・ディ・ニッコロ・リドルフィ
母:コンテッシナ・デ・メディチ

概要

 ニッコロ・リドルフィは、16世紀の男性、聖職者。

年表

1517年7月1日
レオ10世、ウルビーノ争奪戦の費用などを調達すると共に教皇庁内における自己の立場を固めるため、自らの甥ジョヴァンニ・サルヴィアーティ(1490年~1553年:枢機卿在位1517年~1553年)、ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィ及び高名な人士ないし学者ロレンツォ・カンペッジオ(1474年~1539年)、J. Cajetanusエジーディオ・ダ・ヴィテルボF. Ximénez de Cisnerosらを含む31名の枢機卿を任命し、かつ多くの聖職を新たに設けて競売に付す。これにより巨額の資金を得る。
1527年
同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニ、ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グィッチャルディーニの兄ルイジ・グィッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グィッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グィッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディFilippo ParentiGaleotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィとジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1537年1月
フィレンツェ出身の3名の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィ、ジョヴァンニ・サルヴィアーティIacopo Gaddiローマ滞在亡命者たち、兵を集めて軍の編成を開始。
情報の収集に努めながら対策を論じていたボローニャ滞在の亡命者たち、コジモ1世・デ・メディチ擁立の報を得て挙兵・反抗の意を固め、ボローニャとミランドラで募兵を開始。ロレンツィーノ・デ・メディチはミランドラでこの動きに加わる。
1531年10月18日
ニッコロ・マキアヴェッリDiscorsi、枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィ所有のニッコロ・マキアヴェッリ自筆原本を底本としてローマAntonio Blado書房より、店主から教皇庁財務院の顕官Giovanni Gaddi(1493年~1542年)に宛てたこの日付の献辞を付されて刊。
以後この版ないしこの版を底本とする他の版がDiscorsi刊行の主要な底本とされる。

在位

 枢機卿 1517年7月1日~1550年
       任命した教皇:レオ10世
 フィレンツェ大司教 1524年1月11日~1532年10月11日
           1543年1月8日~1548年5月25日

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前