Niccolò Piccinino

ニッコロ・ピッチニーノ

生没:1386年~1444年10月15日
在位:教会の旗手 1442年~?
子:ヤコポ・ピッチニーノ
  フランチェスコ・ピッチニーノ

概要

 ニッコロ・ピッチニーノはイタリアの傭兵隊長。

年表

1425年2月1日
新たにロマーニャ地方に着いた傭兵隊長オッド・ディ・アンドレア・フォルテブラッチとフィレンツェ軍を率いていたが、ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの軍にVal di Lamoneで大敗を喫し、捕虜となる。
1425年10月17日
この日以降?、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍から釈放され、その後の処遇に不満を抱いてフィレンツェとの傭兵契約を打ち切る。
1426年春
自軍を率いてフィレンツェを離れ、間もなくフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと傭兵契約を結んでその旗下に入る。「裏切り者」として、フィレンツェ共和国で憤激と憎悪が強まる。
1427年10月12日
フランチェスコ1世・スフォルツァら歴戦の傭兵隊長と共にフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を率いるが、そのため統制が取れないことも手伝い、フランチェスコ・ブッソーネ総指揮のヴェネツィア軍に、この日ブレッシャ領内Maclodioで惨敗。
1430年10月
パオロ・グイニジの専制支配から解放されたルッカは、使節をフィレンツェに送り、暴君パオロ・グイニジが排除されたルッカ領から撤兵し和を結ぶよう要請。しかし支配領の拡大、強化を目指すフィレンツェは、ルッカが再び暴君に支配されてフィレンツェに損害をもたらすことがないと確認できない限り和を結べないとして、撤兵を拒否したのみならず増兵してルッカ包囲を強める。
ルッカは、急ぎフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに支援を要請。フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティニッコロ・ピッチニーノ指揮の大軍を、自身からの援軍ではなくルッカと同盟関係にあるジェノヴァからの援軍であるとの口実を装い、急ぎ送る。
1430年12月2日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を指揮してルッカの領内に入り、ルッカ市内と呼応してフィレンツェ軍を攻撃し、容易に大破。(1430年12月3日)
フィレンツェ共和国は、惨敗を喫して狼狽しながらも急ぎ新十人委員会を編成するなど対策を講じようとするが、折から蔓延するペストのため、具体策を策定するに至らず。
1431年5月22日~1431年5月23日
クレモーナ近郊のポー川で、フランチェスコ1世・スフォルツァらとフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を指揮し、ヴェネツィア軍と大激戦、大勝する。
ヴェネツィア軍総指揮官フランチェスコ・ブッソーネは近くに陣を敷いていながらこの戦闘に駆けつけず、ヴェネツィアで、フランチェスコ・ブッソーネフランチェスコ1世・スフォルツァと通謀しているのではないかとの疑念と不信広まる。
1434年6月前半
ボローニャでまた教会支配に対する反乱発生。これを助長したいフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの軍を指揮しボローニャに向かうが、逆にこれを抑えて教会支配を持続させたいヴェネツィア・フィレンツェ同盟も軍をボローニャ周辺に送る。両軍、それぞれ各地を占領しながら、対決の様相を深める。
1434年8月28日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を指揮し、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍とイーモラ近郊で大激戦、大勝する。
1436年10月3日
この日頃、ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、トスカーナに進撃し、ルッカ領に入る。
1437年頭
依然としてニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍がルッカ領に留まっている事態に対処すべく、フィレンツェは新十人委員会を編成。
1437年2月
フランチェスコ1世・スフォルツァ指揮のフィレンツェ軍、ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍をルッカ領内Bargaで破る。
1437年3月20日
ヴェネツィアの攻勢に対すべくフランチェスコ1世・スフォルツァにトスカーナからロンバルディアに呼び戻されたニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍、この日ベルガマスコ近くのアッダ川でヴェネツィア軍を大破。
1437年9月20日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、ロンバルディアでまたヴェネツィア軍を大破。
打ち続く敗戦でヴェネツィアの各層に総指揮官ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガの忠誠を疑う声、高まり、Senato(元老院)でその解任を求める声が出、フィレンツェフランチェスコ1世・スフォルツァの移籍を求める。
1438年5月21日
1438年3月24日フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティミラノから送ったニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍、この日ボローニャを襲撃し制圧。これを機に間もなくフォルリイーモラも教会支配に反乱。
1440年3月4日
1440年2月フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが派遣したニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍が、ボローニャに到着。間もなくトスカーナに入る。
この軍の接近の報にフィレンツェは、急ぎ軍を整えると共にヴェネツィアにはフランチェスコ1世・スフォルツァのフィレンツェ軍への復帰を、エウゲニウス4世には支援を求める。前者には無視され、後者には受託される。
1440年6月29日
トスカーナの東端サン・セポルクロ周辺を占領していたニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、アンギアリに集結していたフィレンツェ軍を攻撃し、4時間の戦闘の後敗れる(アンギアリの戦)。
1442年1月
フランチェスコ1世・スフォルツァアルフォンソ5世・デ・アラゴンに占領された自領を奪還し、さらにナポリを制圧すべくフィレンツェとヴェネツィアから資金を得て進軍態勢を整える。
この進軍を止めたいアルフォンソ5世・デ・アラゴンと、フランチェスコ1世・スフォルツァの勢力のこれ以上の増大を止めたいフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、エウゲニウス4世フランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪うよう働きかけ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍を提供。
1442年3月3日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍は、ボローニャに到着。さらに南下し、フランチェスコ1世・スフォルツァの領有するトーディを占領。
エウゲニウス4世は、間もなくニッコロ・ピッチニーノ教会の旗手に任命し、アルフォンソ5世・デ・アラゴンの側に立つ。
フランチェスコ1世・スフォルツァは、ナポリ遠征を断念。
1442年11月30日
この日?、アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ及びニッコロ・ピッチニーノ、反フランチェスコ1世・スフォルツァ・ヴェネツィア・フィレンツェの同盟を締結。
1443年2月26日
ナポリ全土を制圧したアルフォンソ5世・デ・アラゴン、配下の主な領主たちを従え、改めてナポリ市に凱旋。
間もなく、アルフォンソ5世・デ・アラゴンニッコロ・ピッチニーノフランチェスコ1世・スフォルツァの領国マルケの攻略を目指して共に戦うことで合意。
1443年6月上旬
ニッコロ・ピッチニーノによりパルマに拘禁されていた(1442年10月~)が1443年6月5日に脱出してボローニャに入ったアンニーバレ1世・ベンティヴォーリオ(1413年~1445年)らによるフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ支配に対する反乱が生じ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を追放。
1443年8月~1443年9月
ナポリ王アルフォンソ5世・デ・アラゴンの軍とニッコロ・ピッチニーノ指揮の教会軍、マルケを攻撃し、フランチェスコ1世・スフォルツァを圧倒してフェルモ、アスコリ、Rocca Contrada(現アルチェーヴィア)などを除くほぼ全域を制圧。
1443年11月8日
ヴェネツィア及びフィレンツェからの援軍で増強されたフランチェスコ1世・スフォルツァ軍は、ペーザロとリーミニの間にあったニッコロ・ピッチニーノ指揮の教皇軍を襲撃して大破。間もなくマルケに進撃。
1444年8月半ば
エウゲニウス4世自身とアルフォンソ5世・デ・アラゴンから兵と資金を得て増強されながらも指揮官ニッコロ・ピッチニーノフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティによりミラノに呼び戻されたため、その子フランチェスコ・ピッチニーノ(?~1449年)が指揮を執る教会軍、モントルモでフランチェスコ1世・スフォルツァ軍の攻撃を受け、完敗。
フランチェスコ1世・スフォルツァ軍の反撃、続く。
1444年10月15/16日
ニッコロ・ピッチニーノ、子フランチェスコ・ピッチニーノが自分の宿敵フランチェスコ1世・スフォルツァに完敗との報に接した後、ミラノ近郊クザーゴで死(1386年~)。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネッサンス夜話』

記載日

 2005年5月29日以前