Odet de Foix

オデ・ド・フォワ

生没:1485年~1528年8月15日
没地:ナポリ
在位:ロートレック子爵

概要

 オデ・ド・フォワは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1521年8月1日
第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ候フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グィッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世カール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。
1521年8月29日~9月2日
プロスペロ・コロンナ総指揮の同盟軍(教会軍、フィレンツェ軍、カール5世軍)は、パルマを攻撃し一時、支配するが、新たにフェッラーラ軍の支援を受けたミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍を前にして後退。
1521年11月19日
プロスペロ・コロンナやペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらに指揮され、教皇特使ジューリオ・デ・メディチを加えた同盟軍の進撃を前に、ミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍及びTeodoro Trivulzio(1474年~1551年)ら指揮のヴェネツィア軍は、城塞に守備隊を残してミラノを撤退。同盟軍は、ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの名でミラノを制圧。
以後、同盟軍は、ナヴァーラ、アスティ、アレッサンドリア、パヴィア、ローディ、クレモーナ、パルマ、ピアチェンツァを相次いで占領し、パルマ、ピアチェンツァを教会領に併合。
1521年12月上旬~下旬
レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グィッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニ(1491年~1531年)、オラーツィオ・バリオーニ(1493年頃~1528年)と共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。
1522年3月初旬
本国から援軍を得たロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、ヴェネツィア軍をも加えて、ミラノを奪還すべくロンバルディアに出撃。プロスペロ・コロンナ総指揮の同盟軍(主力はカール5世軍)と各地で激戦を展開。
1527年5月18日
ヘンリー8世フランソワ1世は、クレメンス7世の救出、解放を目指すことで合意し、ヘンリー8世は以後6ヶ月間フランソワ1世に軍資金を提供することを約定。フランソワ1世は間もなくオデ・ド・フォワ指揮の大軍(フランス人、スイス人、イタリア人兵)をアスティに結集。
1527年6月末/7月
オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍が、イタリアに侵攻。
1527年8月19日~下旬
この日頃から?、オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍、陸からチェーザレ・フレゴーソ(1502年?~1541年)らが、海からジェノヴァの海将アンドレア・ドーリア(1466年~1560年)がジェノヴァを攻撃し占領。アントニオット・アドルノはドージェの座を追われ(在位1522年~)、代わってTeodoro Trivulzioオデ・ド・フォワにより総督に任命されてジェノヴァはまたフランスの配下に陥る(~1528年)。
1527年8~9月
オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、アレッサンドリア、ノヴァーラなどを攻撃し制圧。
1527年9月末~10月初頭
オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、パヴィアを攻撃し占領。全市に渡って略奪の限りを尽くす。
1527年11月15日
アルフォンソ1世・デステオデ・ド・フォワ及び枢機卿インノチェンツォ・チーボの勧奨に従い、同盟軍による所領防衛、子エルコーレ2世・デステと故ルイ12世の娘ルネ・ド・フランス(1515年~1575年頃)との結婚など、提示された多くの名誉ある条項を受諾してカール5世陣営を離れ、同盟陣営に加わる。しかし当の条項はエルコーレ2世・デステルネ・ド・フランスの結婚以外ほとんど守られずに終わる。
1527年12月7日
フェデリーコ2世・ゴンザーガオデ・ド・フォワの勧奨に従い、カール5世陣営を離れてコニャック同盟陣営に加わる。
1528年2月10日
オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、トロント河に着き、ナポリ領アブルッツォに入る。Chietiアクイラなど各地を次々に占領、略奪しながら進撃。
1528年3月半ば
この頃、Lucera近くでフィレンツェ軍を配下に加えるなど威勢を増したオデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、トロイアでフィリベルト・デ・シャロン指揮のカール5世軍と対峙。後者は前者の威力を見て戦わずに退却。
1528年3月下旬~4月
オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、分隊を派遣して各地を占領するなど目覚しい進撃を続け、Puglia及びカラブリアの大部分を制圧。ウーゴ・デ・モンカーダ指揮のカール5世軍はナポリ城下まで撤退し、ナポリ防衛を図らざるを得なくなる。
1528年4月下旬
オデ・ド・フォワ配下のアンドレア・ドーリア及びその甥Filippo (Filippino) Doria(1470~1480年~1548~1558年)指揮のジェノヴァ艦隊は、海からナポリを包囲すると共にスペインからの補給物資輸送船のナポリ入港を阻止。これに対してウーゴ・デ・モンカーダ指揮のナポリ守備軍が出撃し激戦を交わすが、1528年4月28日、Capo d'Orsoの戦に敗れ、ウーゴ・デ・モンカーダ自身は戦死。輸送船はアンドレア・ドーリアに捕獲される。
1528年4月末~5月初旬
オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、ナポリに接近、市街直前ポッジョ・レアーレに布陣し包囲態勢を取り始める。フィレンツェ軍、マントヴァ軍、フェッラーラ軍は共に小軍ながら包囲陣に加わる。
1528年8月16日
疲労で病気がちだったオデ・ド・フォワ死(1485年~)。ナポリ包囲軍の指揮はMichele Antonioが代わってとるが、ペストの猛威と食糧不足が続く中、兵士の士気・規律低下し、陸上の包囲態勢も崩れる。
1528年
この頃?、フィレンツェは、前年6月の協定に従い援軍を派遣せよとのオデ・ド・フォワの求めに応じて、そのナポリ攻撃にオラーツィオ・バリオーニ指揮の小軍(Bande Nere)を派遣することに決める。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

記載日

 2011年8月12日