オッタヴィオ・ファルネーゼ

Ottavio Farnese

オッタヴィオ・ファルネーゼ

生没年:1524年~1586年
在位:カメリーノ公 1540年~1545年
    先代:エルコーレ・ダ・ヴァラーノ
    次代:教皇領
   パルマ公 1547年11月9日~1586年9月15日
    先代:ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
    次代:アレッサンドロ・ファルネーゼ
   ピアチェンツァ公 1547年~1586年
   教会の旗手 1547年~1551年、1566年~?
父:ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
母:ジローラマ・ディ・ルドヴィーコ・オルシーニ
妻:マルゲリータ・ディ・パルマ
子:アレッサンドロ・ファルネーゼ

概要

 オッタヴィオ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性。

年表

1537年1月
ウルビーノフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの子・後継相続者グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514年~)とカメリーノの正統継承資格者の1人ジューリア・ダ・ヴァラーノ(1523年~?)、ジューリア・ダ・ヴァラーノを自分の孫オッタヴィオ・ファルネーゼ(1524年~1586年)と結婚させ、カメリーノを自家領としてウルビーノ公を押さえたいパウルス3世の妨害——(破門(1535年2月)、カメリーノでの聖務禁止(1535年3月)、カメリーノの封与(1535年5月))——に対してウルビーノ公の承認の下で結婚し、カメリーノを事実上、領有。
1537年9月30日
カール5世パウルス3世を自陣に引き入れるべく、その申し出を受け入れて彼の孫オッタヴィオ・ファルネーゼマルゲリータ・ディ・パルマを与えることを内心で決めると共に、かねてから彼女との結婚を求めていたコジモ1世・デ・メディチも自陣に確保しておくべく、慰撫策として彼にDuca(公)の称号を認める。(以後コジモ1世・デ・メディチフィレンツェコジモ1世・デ・メディチとなる)。
1538年6月22日
パウルス3世カール5世、ニースから同道でジェノヴァに到着。この地に滞在中、両者は、公会議の1539年4月6日までの延期、パウルス3世の孫オッタヴィオ・ファルネーゼカール5世の庶出の娘、故アレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマの結婚、スペインにおける教会収入5年分のカール5世への付与について正式に合意。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年11月4日
3日前にパウルス3世からローマの総督に任命されたばかりのオッタヴィオ・ファルネーゼマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式が、コジモ1世・デ・メディチとの結婚を希望し続けるマルゲリータ・ディ・パルマの意を抑えて、ローマで盛大華麗に行われる。
1540年11月5日
パウルス3世、カメリーノをオッタヴィオ・ファルネーゼに封与。但しこの報、カメリーノには翌1541年7月12日に届く。
1543年6月22/23~24/25日
パウルス3世カール5世パウルス3世の申し込みによりパルマ近郊ブッセートで会見し、(1)ミラノ領有問題、(2)トレント公会議開催問題、などについて討議。しかし(1)についてはパウルス3世は自家ファルネーゼ家の威勢拡大を企図しながら自身の孫・カール5世の娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへの封与を提案し、カール5世は自身の子フェリペ2世による領有の現状維持を目論み、カール5世(2)についてパウルス3世カール5世フランソワ1世戦の終結までの延期を図り、カール5世は自身とフランソワ1世の間で中立を装うパウルス3世に不満を抱きながら自派の枢機卿の増員・トレントでの早期開催を主張するなど、懸案のいずれについても合意できずに終わる。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1546年8月7日
カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。
1547年9月16日
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。
1549年11月29日
教皇選出枢機卿会議、開催。新教皇にオッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ委譲と教会改革のための公会議の開催を義務付ける選挙協定を採択した後、教皇選出に入るが、それぞれ自派から新教皇を送りたいカール5世アンリ2世両派の対立、激化。
1550年2月17日
ユリウス3世、教皇選出枢機卿会議における選挙協約に従い、オッタヴィオ・ファルネーゼパルマを封与。1550年2月25日オッタヴィオ・ファルネーゼパルマに入る。
1551年5月22日
ユリウス3世、他の王侯を奉じあるいはその軍を招くことを1551年2月以来しばしば禁じてきたにもかかわらず、パルマミラノに併合しようと狙うカール5世に抗すべくアンリ2世と同盟締結の協議を続けるオッタヴィオ・ファルネーゼに関し、この日の枢機卿会議で、叛徒とみなして教会の旗手の任を解き(1548年~)、封土パルマでの全権を剥奪することを決める。
1551年5月27日
オッタヴィオ・ファルネーゼアンリ2世と同盟を結んで軍資金と武器の援助を約束される。
これに憤激したカール5世、直ちにオッタヴィオ・ファルネーゼから、自らがその父ピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与した(1538年)ノヴァーラなどを取り上げ、ユリウス3世の甥Giovan Battista del Monteに封与。
1551年6月12日
オッタヴィオ・ファルネーゼ軍とフェッランテ・ゴンザーガ指揮のユリウス3世軍、戦闘を開始。ユリウス3世軍はすぐパルマを包囲するが、後ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍に解かれる。
1552年2月5日
アンリ2世の特使・枢機卿François de Tournonローマに入り、直ちにユリウス3世に和平条件——(1)パルマオッタヴィオ・ファルネーゼのもとに残す、(2)2年間休戦する、(3)休戦期間経過後の協定についてはオッタヴィオ・ファルネーゼに一任する、など——を提示。
1552年4月29日
ユリウス3世、1552年2月に提示された条件を飲み、アンリ2世と休戦協定を結ぶ。両者、カール5世のこの協定への加入については彼自身の判断に任せる。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼパルマ領有、再確認される。
1556年6月27日
パウルス4世フェリペ2世ナポリ王廃位を宣言する理由を探し始める。
これを察知したフェリペ2世コジモ1世・デ・メディチオッタヴィオ・ファルネーゼの支持を確保すべく工作を開始。
1556年9月15日
フェリペ2世オッタヴィオ・ファルネーゼにピアチェンツァを返還。後ノヴァーラも返還。但し両地の城塞はなおスペイン軍の配下に置く。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼパウルス4世アンリ2世に対抗するフェリペ2世支持に大きく傾く。
1556年10月
オッタヴィオ・ファルネーゼフェリペ2世支持を明確化する。
1557年10月初旬
フェリペ2世パウルス4世アンリ2世同盟軍の総指揮官として敵対してきたエルコーレ2世・デステに復讐すべくオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮の軍を差し向ける。「Caveの和」から漏れた形のエルコーレ2世・デステ、孤立。
コジモ1世・デ・メディチなどからの援軍よりなるオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮のフェリペ2世軍、モンテッキオ、サン・ポーロ、カノッサ、スカンディアーノなどを次々と占領。これに対しエルコーレ2世・デステ軍も反撃し、パルマの市の城門にまで迫る。
1558年初旬
この頃?、エルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステ(1533年~1597年:フェッラーラ・モデナ・レッジョ公1559年~1597年)指揮の軍、1557年秋オッタヴィオ・ファルネーゼ軍に占領されたサン・ポーロ、カノッサ、グァルダゾーネとその城塞、などを奪回すると共に繰り返しパルマの市の城門に迫る。
これに対しオッタヴィオ・ファルネーゼ軍、ミラノフェリペ2世陣営から軍を、コジモ1世・デ・メディチから戦費を得て反撃し、グァルダゾーネの城塞を取り戻す。
1559年8月20日
カール5世からのネーデルラント委譲の式典(1555年)以降ネーデルラントにあったフェリペ2世、ヨーロッパにおける覇権を目指すべくスペインに向かう。
ネーデルラントについてはフェリペ2世、異母姉マルゲリータ・ディ・パルマパルマ公・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼの妃)を摂政に任じ(在位~1567年)、警察・裁判、財務、国務の3顧問会議と王室顧問会議を設けて統治の実務に当たらせる。以後、王室顧問会議の最高顧問A. P. de Granvelle(在位~1564年)の過酷なプロテスタント弾圧に対する政治的・宗教的不満、高じ、反抗運動、芽生える。
1571年5月20日
対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィアフェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。
この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアパルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼウルビーノグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Treccani.it

参考文献

 『ルネサンスの歴史』
 『銀色のフィレンツェ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前
ファルネーゼ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで