アルテンプス宮殿 Palazzo Altemps
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- ポンテ
- 設計
- メロッツォ・ダ・フォルリ
- 施主
- ジローラモ・リアリオ
概要
アルテンプス宮殿は、ローマにある建物。
ジローラモ・リアリオがメロッツォ・ダ・フォルリに依頼して建設された。カテリーナ・スフォルツァがローマに嫁いだ1477年に間に合わず、完成は1480年以降だった。
1511年フランチェスコ・ソデリーニ枢機卿が購入し、アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオとバルダッサッレ・ペルッツィに増築、装飾させた。
1513年から1518年まではインノチェンツォ・チーボ枢機卿が所有。
ピアッタイアの間 Sala della Piattaia / Sala dei Notabili
所蔵品
外部リンク
Google Maps
RomArtGuide
Roma Città delle Meraviglie
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サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿 Palazzo di Santa Maria in Portico
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
概要
サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノ枢機卿が1483年に建てた建物。彼の教会の名を取って、この名前で呼ばれる。ヴァティカン宮殿に隣接、サン・ピエトロ大聖堂の階段の左にあり、異端審問所のほとんど向かいにあった。ヴァティカン宮殿入り口の左側に位置する通路は、両方の建物を繋いでいる。そして、サン・ピエトロ大聖堂内の私設礼拝堂を通り、システィーナ礼拝堂の戸口を経て、教会を抜けることによって行き来することもできた。2階に特別回廊がつけられ、15世紀末の館に似て、仕切り枠あるいは円型アーチのついた窓が並び、快く規則的な部屋の続く美しい館だった。1493年頃には、アドリアーナ・デル・ミラ、ジューリア・ファルネーゼ、ルクレツィア・ボルジアが暮らしていた。しかし、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの柱のためにその辺りの外観は変わっており、もはやそれと分からなくなっている。
別表記
サンタ・マリア・イン・ポルティコの館
外部リンク
スフォルツァ・チェザリーニ宮殿 Palazzo Sforza Cesarini
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- ポンテ
概要
スフォルツァ・チェザリーニ宮殿は、ローマにある建物。ロドリゴ・ボルジア枢機卿が建てた宮殿だが、現存するのは中庭の開廊のみである。
1458年2月23日、レクタ通りにある教皇庁会計院の土地、廃墟になっていたおそらく元造幣局をロドリゴ・ボルジア枢機卿が2千ドゥカートで購入。レクタ通りとは現在のバンキ・ヴェッキ通りのことであり、当時のペレグリーノ通りの一部で、北のサンタンジェロ橋まで続いている。
ピウス2世が『回想録』で言及があることから、宮殿建設は1462年には完了していたはずである。1462年4月12日、ローマにもたらされた聖アンデレの聖遺物の行列が行われた時、頭部の聖骨の運ばれる道筋は全て贅沢に飾り付けられたが、ロドリゴ・ボルジアの宮殿は「豪華、創意、熱意」の3点で、他を圧倒した。高くそびえるその堂々とした建物は、綴れ織りで覆われ、前面の広場は巧妙な仕掛けで溢れていたから、あたかも「甘美な音色に満ちた大庭園、世に伝え聞くネロの黄金の館」のようだとピウス2世に評される。
宮殿の主が副尚書院長であったため、当時はカンチェッレーリア宮殿と呼ばれていた。イタリアで最も壮麗な宮殿の1つとされ、ボルジア家の赤と黄色の服を着た約2百人の使用人が住んでいたという。
シクストゥス4世はローマの都市構造に大きな変革をもたらす決定を下す。貴族たちが公道を封鎖し、要塞化された拠点を築くのを禁止し、その解体を命じたのである。この政策により、古い要塞化された居住地が撤去され、新しい様式の貴族の邸宅が建設されることとなった。特に老朽化した建物が立ち並んでいたバンキ地域の再開発を推進した。そして、1480年に住宅の拡張を希望する者が荒廃地域を購入できる制度を導入。
この制度を利用して、北東方面、つまり現ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世通りに向かって隣接した土地も段階的に取得。この宮殿に隣接し、ピッツォ・ディ・メルロ広場に面していたというヴァノッツァ・デイ・カッタネイの屋敷もこの時購入したのではないだろうか。
1484年10月22日にロドリゴ・ボルジアは枢機卿たちに晩餐を振る舞い、招待されたアスカーニオ・マリーア・スフォルツァは「巨大な綴れ織には狩猟の場面が描かれ、絨毯は家具に調和し、天蓋のついた長椅子は真紅の繻子で覆われ、陳列棚には金の箱や銀の皿が並べられていた」と、兄ルドヴィーコ・イル・モーロへの手紙に内部の詳細を記述している。
また星の間という大層豪華な部屋があり、そこで1489年5月21日、ジューリア・ファルネーゼとオルシーノ・ミリオラーティの結婚式が執り行われた。
ロドリゴ・ボルジアが教皇として即位すると、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの所有になる。彼の死後、宮殿を含む全ての資産は教皇ユリウス2世に没収され、ガレオット・フランチオッティの手に渡る。
ガレオット・フランチオッティの時代に修復され、特に壁の階層帯や中庭の開廊に装飾が加えられた。18世紀の柱廊1階にあるドアの大理石の枠にGAL VICEANCELと彫刻されている。
現スフォルツァ・チェザリーニ通り側の角にあるロドリゴ・ボルジア時代の塔は、時代と共に部分的に改変されてきたが基礎構造は15世紀に遡る。バンキ・ヴェッキ通り側の塔には18世紀に追加された大階段が設置されている。時代毎に改築されているにもかかわらず、連続する円天井、角塔の存在、中庭を中心とした配置といったルネサンス宮殿に重要な類型要素は残されている。
当初、この宮殿は副尚書院長の邸宅として設計されており、広い応接室に加え、図書室や書庫室も備えていた。1517年に亡くなったシスト・ガラを最後に本来の尚書院宮殿としての機能を失ったが、1階部分には引き続き教皇庁掌璽院が置かれていた。副尚書院長ジューリオ・デ・メディチが居を構えたリアーリオ宮殿がカンチェッレーリア宮殿と呼ばれるようになると、こちらはカンチェッレーリア・ヴェッキア宮殿として知られるようになる。
ところで、シスト・ガラ所有期間である1512年に、マッシミリアーノ・スフォルツァが、おそらく自分にはそうする権限があると信じて、従兄のローディ司教オッタヴィアーノ・スフォルツァに宮殿を贈与したことになっている。1522年にはミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァがロレンツォ・プッチ枢機卿に宮殿を貸しているため、レオ10世がフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに与えたのではないかと言われている。いずれにせよ、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァは1535年10月に死去するまで所有していたわけではないにしても、管理権を持っていたらしい。同年、教皇庁会計院はミラノ公に預けていた2万ドゥカートの借金と引き換えに宮殿を入手。教皇パウルス3世により、グイド・アスカーニオ・スフォルツァ枢機卿とその兄弟たちに与えられた。
1541年5月23日にローマで公証人アゴスティーノ・ボンヴィチーニが作成した証書により、オッタヴィアーノ・スフォルツァがグイド・アスカーニオ・スフォルツァに宮殿を寄贈し、その際に、彼がマッシミリアーノ・スフォルツァから受けた権利も同時に譲渡した。
グイド・アスカーニオ・スフォルツァからは、サンタ・フィオーラ系スフォルツァ家の枢機卿の恒久的な居住地となるものの、都市の最も重要な邸宅としての地位は失われていくことになる。バンキ・ヴェッキ通り側の状態が悪化し、構造的な問題により使用が困難になるとその部分は放棄され、賃貸目的に利用されるようになった。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世通り開通のため、1888年に大部分が取り壊され、全面改装して正面が逆になり、現在に至る。
別表記
palazzo della Cancelleria、palazzo della Cancelleria Vecchia
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
ボルジア解体新書
Els Borja
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J-Stage
Palazzo Sforza Cesarini
Rome in the footsteps of a 1750 traveller
RomaSegreta
ジューリオ・デステの宮殿 Il Palazzo Giulio d'Este
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
- 設計
- ビアージオ・ロッセッティ?
- 発注
- エルコーレ1世・デステ
- 建設
- 1496~1499年
概要
ジューリオ・デステの宮殿は、フェッラーラにある建物。
エルコーレ1世・デステがビアージオ・ロッセッティに作らせたこの宮殿は、庶子ジューリオ・デステに与えられたが、彼は1506年に謀反の罪で投獄され、イッポーリト・デステ枢機卿の手に渡る。その後カルピ領主が所有し、ピオ家の資産となる。
外部リンク
EL BLOG PRINCIPAL DE DALIANEGRA.
FEdetails.net
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MuseoFerrara
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ヴェスコヴィーレ宮殿 Palazzo Vescovile
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州シエナ県ピエンツァ
概要
ヴェスコヴィーレ宮殿は、ピエンツァにある建物。
外部リンク
カルマニョーラ宮殿 Palazzo Carmagnola
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州ミラノ県ミラノ
概要
カルマニョーラ宮殿は、ミラノにある建物。15世紀初めにヴィスコンティ家によって別荘として建てられた。
1415年ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティによって、フランチェスコ・ブッソーネに提供され、1420年から1425年の間に抜本的な建て替えが行われる。1432年にフランチェスコ・ブッソーネがヴェネツィアで処刑されると、娘が相続する。ルキナ・ブッソーネから相続したピエトロ・ダル・ヴェルメが1485年に死に、ルドヴィーコ・イル・モーロが没収。1492年頃にチェチーリア・ガッレラーニに与えられ、ブラマンテやレオナルド・ダ・ヴィンチが装飾を施す。
別表記
Palazzo del Verme
外部リンク
カピターノ宮殿 Palazzo del Capitano di Mantova
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県マントヴァ
概要
カピターノ宮殿は、マントヴァにある建物。マントヴァ公宮殿の建物群の1つ。
ピサネッロの間 Sala del Pisanello
所蔵品
別表記
Corte Vecchia
外部リンク
サン・セバスティアーノ宮殿 Palazzo di San Sebastiano
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県マントヴァ
- 施主
- フランチェスコ2世・ゴンザーガ
- 建設
- 1506年~1508年
概要
サン・セバスティアーノ宮殿は、マントヴァにある建物。
マントヴァ公宮殿にあったアンドレア・マンテーニャ作「カエサルの凱旋」が上階の広間に飾られていた。1519年にフランチェスコ2世・ゴンザーガが亡くなると、主な芸術作品は親族のところへ移される。
坩堝の間 Camera del Crogiolo
保存状態の良い1階にある部屋で、正式な歓待に使われていた。天井の中央に描かれている坩堝はフランチェスコ2世・ゴンザーガに関連しており、1495年のフォルノーヴォの戦いの後に起こった出来事を指す。勝利にもかかわらず、フランチェスコ2世・ゴンザーガは逃亡中のフランス軍を追撃せず完勝に導かなかったとして、ヴェネツィア元老院から反逆罪で告発された。自己の行動を弁護したものの解任されて投獄。裁判の後無罪となった。この苦悩の時を記憶するために、彼は個人的な記章として、炎で舐められる壺の中に入っている金の棒の束を採用した。これには、「主よ、あなたは私を探り、私を知り尽くされました(詩篇139:1)」という銘句が伴う。
天井の中心から小さな炎の大雨が降り注ぎ、壁に沿って途切れることなく続いている。ルネットの、アンドレア・マンテーニャのような果物と花からなる2本の花綱の間のリボンにぶら下がる盾は、侯妃イザベッラ・デステに結びつく。音楽の象徴、熱烈な愛(アモーレ)という意味の燃えるA、燭台。テネブラエの際に用いるものと似通った三角状の枝付き燭台は、1525年に侯妃が採用したもので、息子のフェデリーコ2世・ゴンザーガが廷臣らと共に愛人イザベッラ・ボスケッティのもとへ走ったため、マントヴァ宮廷ですっかり孤立してしまった彼女自身の境遇を示している。
所蔵品
外部リンク
テ宮殿 Palazzo Te
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県マントヴァ
概要
テ宮殿は、マントヴァにある建物。
所蔵品
外部リンク
ドムス・ノヴァ Domus Nova
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県マントヴァ
概要
ドムス・ノヴァは、マントヴァにある建物。マントヴァ公宮殿の建物群の1つ。
坩堝の間 Sala del Crogiuolo
外部リンク
マントヴァ公宮殿 Palazzo Ducale di Mantova
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県マントヴァ
概要
マントヴァ公宮殿は、マントヴァにある建物群。カピターノ宮殿(コルテ・ヴェッキア)、ドムス・ノヴァ、コルテ・ヌオーヴァ、パラティーナ・ディ・サンタ・バルバーラ聖堂、サン・ジョルジョ城で構成されている。
外部リンク
ディアマンティ宮殿 Palazzo dei Diamanti
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
- 設計
- ビアージオ・ロッセッティ
- 施主
- シジスモンド・デステ
- 建設
- 1493年~1503年
概要
ディアマンティ宮殿は、フェッラーラにある建物。1492年にビアージオ・ロッセッティが設計。
所蔵品
別表記
パラッツォ・デイ・ディアマンテ、フェッラーラ国立絵画館
外部リンク
Diario del Viajero
Google Maps
Matthew Felix Sun
Wikipedia
Wikipedia
バルベリーニ宮殿 Palazzo Barberini
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- トレヴィ
概要
バルベリーニ宮殿は、ローマにある建物。
所蔵品
外部リンク
ペーザロ・ドゥカーレ宮殿 Palazzo Ducale di Pesaro
- 所在地
- イタリア共和国マルケ州ペーザロ・エ・ウルビーノ県ペーザロ
概要
ペーザロ・ドゥカーレ宮殿は、ペーザロにある建物。
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
Google Maps
Pesaro Cultura
Provincia di Pesaro e Urbino
Wikipedia
ペニテンツィエリ宮殿 Palazzo dei Penitenzieri
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- ボルゴ
- 設計
- バッチョ・ポンテッリ?
- 建設
- 1480~1490年
- 施主
- ドメニコ・デッラ・ローヴェレ
概要
ペニテンツィエリ宮殿は、コンチリアツィオーネ通りにある建物。サン・ピエトロ広場とサンタンジェロ城の中間辺りに位置する。
ドメニコ・デッラ・ローヴェレ枢機卿が1480年頃に建設を開始。ジョルジョ・ヴァザーリによれば設計はバッチョ・ポンテッリだが、現在ではメオ・デイ・カプリーナやヤコポ・ダ・ピエトラサンタと言われている。
ローヴェレ宮殿と呼ばれていたが、教皇アレクサンデル7世の時代に内赦院をここに移したため、現在の呼称が用いられるようになる。
2023年、フォーシーズンズのホテルに改修時に実施された発掘で、皇帝ネロの劇場の遺跡が宮殿の中庭の下で発見された。
外部リンク
マッテイ・カエターニ宮殿 Palazzo Mattei Caetani
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 建設
- 1564年
- 設計
- バルトロメオ・アンマンナーティ又はナンニ・ディ・バッチョ・ビージオ
- 発注
- アレッサンドロ・マッテイ
概要
マッテイ・カエターニ宮殿は、ローマにある建物。現在はカミッロ・カエターニ財団の本部で、イタリア百科事典の本部。
1564年頃パガーニカ公アレッサンドロ・マッテイのためにバルトロメオ・アンマンナーティ又はナンニ・ディ・バッチョ・ビージオの設計に従って建造されたもの。その後ネグローニ家が取得し最終的にはカエターニ家の手に渡る。
マッテイ・カエターニ宮殿はボッテーゲ・オスクーレ通りにあり、この辺りにはルドヴィーコ・マッテイのために建てられたマッテイ・パガニーニ宮殿、マデルノが1596年から1611年にかけて建てたマッテイ・ディ・ジョーヴェ宮殿と3つのマッテイ家の館がある。
所蔵品
別表記
パラッツォ・カエターニ、カーサ・ガエターニ、Casa Caetani、Casa Gaetani
外部リンク
ラテラノ宮殿 Palazzo del Laterano
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- エスクイリーノ
概要
ラテラノ宮殿は、ローマにある建物。サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂が隣接する。
ローマ帝国時代に建設され、4世紀初めから約1千年にわたって教皇の住居だった。
1586年以前
外部リンク
ウィキペディア
Google Maps
Rome in the footsteps of a 1750 traveller
ベンティヴォーリオ宮殿 Palazzo Bentivoglio
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州ボローニャ県ボローニャ
概要
ベンティヴォーリオ宮殿は、ボローニャにかつてあった建物。1507年春に市民の暴動により破壊される。
別表記
ベンティヴォリオ城
外部リンク
Google Maps
JSTOR: Mitteilungen des Kunsthistorischen Institutes in Florenz
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アックルシオ宮殿 Palazzo d'Accursio
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州ボローニャ県ボローニャ
概要
アックルシオ宮殿は、ボローニャのマッジョーレ広場にある建物。13世紀から存在し、増改築を繰り返して現在の姿に至る。
ウルバーナの間 Sala Urbana
ウルバーナの間、又は紋章の間は教皇特使ベルナルディーノ・スパーダによって1630年に建設され、彼を枢機卿に任命した教皇ウルバヌス8世に捧げられた。1327年から1744年までの教皇使節、統治者、行政官の紋章が、4面の壁に4行で188点描かれている。各紋章の上にはその地位の象徴が付けられ、下には人物の名前と任期が記されている。
ルイス・ジョアン・デル・ミラの紋章
南壁、右側の1行5列に位置する、リュイス・ジョアン・デル・ミラの紋章。上は黒地に鳥(鳶?)、下は金地に赤獅子。紋章盾は金色の三つ葉十字と紐の付いた枢機卿の帽子で飾られている。
IO LVD MILANVS HYSP / EP SEG GV DEIN CAR ET L / 1455
Giovanni Ludovico Milà Spagnolo. Vescovo di Segorbe. Governatore poi Cardinale e Legato 1455.
カタルーニャ語でMilàは鳶を意味するが、イタリア支流のミラ家の紋章には鳶は入っていないという。
別表記
Palazzo Comunale
外部リンク
メディチ宮殿 Palazzo Medici
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
- 設計
- ミケロッツォ
- 建設
- 1444~1462年
- 施主
- コジモ・イル・ヴェッキオ
概要
メディチ宮殿は、フィレンツェの旧ラルガ通り、現カミッロ・カヴール通りにある建物。
コジモ・イル・ヴェッキオが追放先のヴェネツィアから戻った後、1444年から1462年にかけて建造される。当初はフィリッポ・ブルネッレスキに委託されたものだったが、最終的にはこの有名作家の作品を退けて、ミケロッツォを起用。というのは、豪奢な建物を建てることでいっそう市民の反感を買わないようにとの配慮だったと言われる。
しかしながら、メディチ宮殿はその後のルネサンス宮殿建築の規範となる。3階建ての1階ごとの壁面装飾(ブニャート)にその特徴がある。1階の壁面はごつごつした石が突き出るルスティカ積みとし、2階は少し凸凹が緩和されたリショ積みで、3階をピアット積みと言ってさらに平たくする。これによって下から見上げた時に一種の遠近法効果が生じ、建物がさらに高く感じられるのである。
ミケロッツォはこのメディチ宮殿以前にすでにサン・マルコ修道院の改築に成功しており、メディチ家の人々の絶大な信用を勝ち得ていた。さらにこの宮殿を造るにあたっても、万全の体制で臨んだ。彼はピエトラ・フォルテの石切場まで出かけて行き、宮殿に使用する材料に印をつけて回った。それは時には直径5センチほどの丸であったり、ドリルで開けられた簡単な穴だったりした。よく見ると現在でもこれらの刻印は、宮殿の壁面に残されている。
1459年にはほぼ完成し、メディチ家の私邸兼、メディチ銀行の本社として使われた。ピッティ宮殿、ストロッツィ宮殿、ルチェッライ宮殿と並ぶ、フィレンツェ建築の四大傑作の一つ。
所蔵品
かつて所蔵していた作品
別表記
メディチ・リッカルディ宮殿、パラッツォ・メディチ・リッカルディ、Palazzo Medici Riccardi
外部リンク
ラジオーネ宮殿 Palazzo della Ragione
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
概要
フェッラーラ大聖堂の右側面の通りの向かい側にある建物。1315年から1326年に建てられ、第二次世界大戦後の火事でほぼ倒壊しかけたが、現在では元の見事な姿に戻っている。Google Mapsのストリートビューで見る限り、1階にマクドナルドが入っている。
外部リンク
リドルフィ邸 Palazzo Ridolfi
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
概要
リドルフィ邸は、フィレンツェにある建物。
入口
表札
外部リンク
バルジェッロ宮殿 Palazzo del Bargello
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
概要
バルジェッロ宮殿は、フィレンツェにある建物。
高い塔のある城塞風の建物で、1255年、塔のある中核部分が建設された。最初はポデスタの官邸兼役所だったが、その後検察長官の官邸、牢獄などに使用された。
所蔵品
旧名
ポデスタ宮殿、Palazzo del Podestà
別表記
バルジェロ宮、バルジェッロ国立美術館、国立パルジェッロ博物館、Museo Nazionale del Bargello
外部リンク
ドージェ宮殿 Palazzo Dogale
- 所在地
- イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県ヴェネツィア
概要
ドージェ宮殿は、ヴェネツィアにある建物。
コッレージョの間 Sala del Collegio
武器庫 Armeria di palazzo
所蔵品
別表記
ドゥカーレ宮殿、Palazzo Ducale
外部リンク
ミラノ公宮殿 Palazzo Ducale di Milano
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州ミラノ県ミラノ
概要
ミラノ公宮殿は、ミラノにあった建物。現在はミラノ王宮が建っている。
別表記
Palazzo Reale di Milano、Corte Vecchia、Corte dell'Arengo、Palazzo del Broletto Vecchio
外部リンク
Google Books
Google Maps
Lombardia Beni Culturali – Palazzo Reale
Storia di Milano - L'evoluzione urbanistica della piazza
Wikipedia - Palazzo Reale
フォルリ市庁舎 Palazzo Comunale di Forlì
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フォルリ・チェゼーナ県フォルリ
概要
フォルリ市庁舎は、フォルリにある建物。
ここにシニョーリア宮殿があり、ジローラモ・リアリオ一家の住まいだったが、1496年にカテリーナ・スフォルツァが取り壊し、その建築資材をラヴァルディーノ要塞の増築に流用した。
15世紀の年代記者によれば、3階建ての宮殿には、外階段、ピアノ・ノビーレに沿ったビフォラ(開口部が2つの窓)があり、厩舎のある中庭を囲む柱廊があった。1459年にフランチェスコ4世・オルデラッフィとピーノ3世・オルデラッフィによって新しい柱廊玄関で更新された。オルデラッフィ家は幾つかの部屋も改装しており、ジローラモ・リアリオはあまり手を加えなかったようである。
ピアノ・ノビーレ(大きな邸宅の主階)には応接室が少なくとも2室あり、緑がかったフレスコ画で描かれていることからそう呼ばれているヴェルデの間にて、地元の統治機関であるアンツィアーニとクアランティを迎えた。1485年12月、税務問題について話し合うための会議が少なくとも1回は開催されている。
寝室であるニンフェの間は、貴族の間で流行した人文主義の主題である神々の愛の場面を伴う、古典的な想起で装飾されていたことにちなんで、おそらく名付けられたのだろう。続く控えの間で、彼は食事したり、廷臣や高官を迎えた。広場を見下ろせるこの部屋で、1488年4月14日に殺害されることになる。
カテリーナ・スフォルツァの居住空間もピアノ・ノビーレにあり、子供たちの部屋はおそらくその近くにあった。ジローラモ・リアリオ暗殺事件の報告によると、夫への襲撃を知った後、子供たちと共に部屋に閉じこもった、彼女が殺人について知らされる必要があるという事実は、妻の居室がニンフェの間から幾らか離れていたことを意味している。
厨房や倉庫や使用人の部屋は、地階や地下や3階に各々散らばってあったと思われる。
外部リンク
スキファノイア宮殿 Palazzo Schifanoia
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
概要
スキファノイア宮殿は、フェッラーラにある建物。
月暦の間 Salone dei Mesi
所蔵品 月暦の間
別表記
パラッツォ・スキファノイア、スキファノイア離宮、スキファノーヤ宮殿、Schifanoja
外部リンク
Google Maps
mariateresalupohomepage
Storie & ArcheoStorie
Wikipedia
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カプラローラのファルネーゼ宮殿 Palazzo Farnese di Caprarola
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ヴィテルボ県カプラローラ
概要
カプラローラのファルネーゼ宮殿は、カプラローラにある建物。
当初は要塞として、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿がアントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネに設計を依頼。1530年頃建設が開始されるが、1534年に枢機卿が教皇パウルス3世として即位して興味を失い、基礎工事と外壁までできていたものの中断されてしまう。孫のアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿がヴィニョーラに委嘱し、1559年に工事が再開され、1573年にヴィニョーラが没するものの、1575年ようやくこのマニエリスム建築は完成された。
宮殿としては珍しい五角形であるのは、星型要塞として計画されていたものをヴィニョーラが利用したことに起因していると考えられる。ウフィッツィ美術館にはアントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネの設計草案が2点(inv. A 500, 506)、助手のバルダッサーレ・ペルッツィの設計図が1点(inv. A 775, del C)が保存されている。
正面
左右に稜堡が見える。
アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネによる設計図案
バルダッサーレ・ペルッツィによる設計図
間取り図
公式サイト
外部リンク
ウィキペディア
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Canino Info
Dalla Realtà al Progetto - Dal Progetto alla Realtà
ボルハ宮殿 Palau dels Borja
- 所在地
- スペイン王国バレンシア州バレンシア県ヴァレンシア
概要
ボルハ宮殿は、ヴァレンシアにある建物。1485年にボルハ家が購入し、1520年にかけて既存の建物を利用して建設し、18世紀半ばまでガンディア公が所有していた。
外部リンク
アルノルフォ宮殿 Palazzo d'Arnolfo
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州アレッツォ県サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ
- 設計
- アルノルフォ・ディ・カンビオ
概要
アルノルフォ宮殿は、サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノにある建物。13世紀にアルノルフォ・ディ・カンビオの設計で、さらにサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの町の設計も行った。15世紀に改築され、年月と共に増築されたため、今日の宮殿の構造は当時のものとは異なる。
トルナブオーニ家の紋章
外部リンク
リアリオ宮殿 Palazzo Riario
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州ボローニャ県イーモラ
概要
リアリオ宮殿は、イーモラにある建物。
別表記
Palazzo Sersanti
外部リンク
コンソーリ宮殿 Palazzo dei Consoli
- 所在地
- イタリア共和国ウンブリア州ペルージア県グッビオ
概要
コンソーリ宮殿は、グッビオにある建物。
所蔵品
外部リンク
グッビオ公宮殿 Palazzo Ducale di Gubbio
- 所在地
- イタリア共和国ウンブリア州ペルージア県グッビオ
- 建設
- 1474~1482年
- 設計
- ルチアーノ・ラウラーナ
- 施工
- フランチェスコ・マルティーニ
- 施主
- フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ
概要
グッビオ公宮殿は、グッビオにある建物。夏の離宮として利用されていたルネサンス様式の宮殿。
フランチェスコ・マルティーニによって建設された2棟の建物で構成され、一方は谷に面し、もう一方は山に面して配置されており、美しい中庭で結ばれている。ルネサンス建築の典型で、建築の細部へのこだわりと装飾の精巧さで際立っている。特に、中庭の柱頭、門扉、暖炉の飾りには、ベルナルディーノ・ディ・ナンニによって制作された彫刻が施されている。元の装飾要素がいくつか現存し、玄関の扉と窓の扉にモンテフェルトロ家の紋章が見られ、音楽を奏でる天使たちの一連の装飾がある。
建設時期はフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがウルビーノ公となった1474年から、亡くなった年の1482年までの間と推測される。8年未満と短期間で、多くの職人が雇用されていたにも拘らず見事に統一されている。フランチェスコ・マルティーニの巧みな指揮によるものであり、彼が全ての装飾の詳細な計画を提供したのである。
元の家具が一部残されており、13世紀から18世紀にかけてのグッビオの絵画の進化の過程を示す興味深い作品群が展示されている。庭の下に掘られた地下には、中世以前の構造の遺跡がある。
バッティスタ・スフォルツァはここで亡くなった。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと妻エリザベッタ・ゴンザーガはしばしばここに滞在し、居館を建設した。最後のウルビーノ公フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレは居館に屋上庭園を作らせた。
扉に象嵌されたガーター勲章
グッビオの公爵宮殿小書斎
現在、羽目板はメトロポリタン美術館が所蔵しているが、ここにあった部屋である。2009年に、グッビオのミネッリ工房によって再現された。
所蔵品
外部リンク
ガンディア公宮殿 Palacio Ducal de Gandía
- 所在地
- スペイン王国バレンシア州バレンシア県ガンディア
概要
ガンディア公宮殿は、ガンディアにある建物。
ボルハ家の二重王冠の陶器 Taulells amb la doble corona dels Borja
公式サイト
外部リンク
アルバイダ宮殿 Palau dels marquesos d'Albaida
- 所在地
- スペイン王国バレンシア州バレンシア県アルバイダ
概要
アルバイダ宮殿は、アルバイダにある建物。リュイス・ジョアン・デル・ミラによって購入後、かつての城壁の一部であった塔と城壁を利用して、1471年から1477年に建設された。L字型平面で、中庭、堅固な門、及び西に大きな塔があり、そこにはミラ家の紋章が残されている。町の城郭の最も脆弱な部分を補強することにも資した。
外部リンク
アスパ宮殿 Castell-Palau d'Aspa
- 所在地
- スペイン王国カタルーニャ州リェイダ県アスパ
概要
アスパ宮殿は、アスパにある建物。13世紀初頭に建設され、19世紀まで司教は定期的に居住する司教宮殿として使われていた。古い井戸のある石畳の中庭、礼拝堂などがあった。
リェイダ司教のリュイス・ジョアン・デル・ミラ枢機卿が晩年を過ごしたところである。
外部リンク
記載日
2008年12月14日
更新日
2024年6月13日